ヒズミくんに対する印象操作への批判と、ヒズミシェアハウスへの賛意

ヒズミ(TwitterIDは@make_me_sad)という友人がいる。

僕はかつて、彼と一緒にシェアハウスで住んでいた。彼はあるときシェアハウスから出ていき、その後に自身のシェアハウスを作った。

その彼がインターネット上で強い悪意に晒されているため、この記事を書くことにした。

インターネット上の誹謗中傷に対しては「スルー」することもひとつの有力な手段ではあるが、事実とは異なる情報が広められ、ヒズミくん自身が深く傷ついているのを放置する方がデメリットが大きいと考えた。

そこで、スルーするのではなく、この記事を書くことによってヒズミくんについての歪められた情報を正しておきたい。

 

先に結論を書いておくと、正気正気(しょうきまさき)(TwitterIDは@masaki_sanity)という人がヒズミくんについての、事実の歪められた情報を軽率に広めている。その情報は非常にセンシティブであり、そのためにヒズミくんは深く傷ついている(ように僕には見える)。そのような広め方をすることは非常に問題があると僕は思う。

よって、正気正気氏は、その情報の拡散を止め、発言内容を撤回し、ヒズミくんに対して謝罪すべきだと僕は思う。

正気正気氏からヒズミくんへの個人的な怨恨等があることは想像されるが、そうだとしても、撤回し謝罪すべきであることに変わりはない。

 

*** 

 

ヒズミくんについて拡散されている情報について、身近にいた僕が知っている限りでの本当の情報を以下に書く(僕がヒズミくんやAさんとの関わりから見たり聞いたりした話である)。

 

①僕(ホリィ・セン)が住んでいたシェアハウスにある女性(Aさんとしよう)がいた。Aさんは僕から見て、精神的に病んでいた。自傷行為オーバードーズ、自殺企図も何度かしていた。彼女の中でそれらを止めるのは難しかったようである。病院にも通っていたが、なかなか快方には向かわなかった

 

②あるときAさんはヒズミくんと知り合い、付き合い始め、シェアハウス内でヒズミくんと共に生活を始めた。何か月か後、ヒズミくんとAさんは二人で家を出ていき、同棲を始めた。

しかし、関係は2人きりで閉じてしまい、難しい関係性だったようである。たとえば、Aさんが関係の悪かった親に対してよく嘘をついていたのを僕は見ている。彼との関係においても、その「虚言癖」のようなものが逆に彼との関係を難しくしていたようだ

③ヒズミくんはAさんのことを家賃の分は養うという約束で暮らしていたが、バイトをしても自由に使えるお金が少ないことに不満を抱いたAさんは、風俗で働く、とヒズミくんに言った

 

④ただでさえ関係が閉じてしんどい状態だったのに加えて、ヒズミくん自身の性嫌悪的な性格もあったのだろう。ヒズミくんは耐えられずに、止めても聞かないAさんを止めるために殴ってしまった。しかし、そこですぐに彼はAさんと共に警察署に行き、警察に相談している。彼自身、暴力を問題視しているからだ。結果、継続的に暴力が振るわれたわけではなかった

 

⑤しかし、そのことも一因となったのか、Aさんは家から失踪し、一人暮らしを始めた。そして、一人暮らし中にAさんは自殺した。ヒズミくんはこのことに後悔をしているし、ヒズミくんが立場の弱い人間に対してまともに暴力を振るったのは、これ以外では聞いたことがない

 

***

 

以上のことを、正気正気氏が誰からどのように聞いたのかは知らない。しかし、正気正気氏は「ヒズミは彼女にDVをして、そのことが死なせたことの遠因になった」と触れ回っているようである(少なくとも1人に対してこのような言い方をしていることを確認した)。

 

これはきわめて問題のある印象操作だと思う。確かに、彼がAさんに対して手を出してしまったことは彼自身認めるように事実である。そのことにはもちろん罪がある。

しかし、彼は継続的に暴力を振るったわけでも、強制的に逃げ道を与えなかったわけでもない。これを「DV」と一言で片づけるのはいかがなものか。

 

閉じた二者関係や日々の生活でストレスが溜まり、自身の彼女が風俗で働くと言って聞かない、そのような立場に立たされたときに、はたして殴らないことを選択できるだろうか(誰も助けてくれない育児において、赤子に対して暴力を振るってしまいそうになる親のことを考えてみてもいいかもしれない)。

もちろん殴らないという人もいるだろうが、ヒズミくんの置かれた状況を鑑みずに一方的にヒズミくんを非難するのはおかしいだろう。

 

そして、その暴力が死なせたことの遠因となったというのであれば、Aさんがどういう人物だったのか、彼とAさんとの関係がどういうものであったのか、Aさんがいかなる事情から自殺に至ったのかといった情報がせめて必要だろう。そういったことも鑑みずにヒズミくんを「人殺し」かのように読める情報を広めるのはきわめて悪質なことだと僕は考える。

 

そして、上で述べた経緯を鑑みると、必ずしもヒズミくんがAさんを殴ったことが彼女の死の原因とは言い難いように思われる。どうすれば彼女は死なずに済んだのか、究極的には僕にも分からないところである。

 

以上より、「ヒズミは彼女にDVをして、そのことが死なせたことの遠因になった」というのは事実を歪めた情報である。正気正気氏は、このような情報の拡散を止め、発言内容を撤回し、ヒズミくんに対して謝罪すべきだと僕は考える。

 

***

 

僕自身、身近な大事な友人の自殺を契機に、二度と同じことが起こってほしくないと思い「メサコン」(メサイア・コンプレックス、救世主になりたいコンプレックス)活動、要するに生きづらい人を支援する活動を始めた。その活動によって実際のところ人を助けられているのかどうか、評価することは難しい。

とはいえ、助けてほしいというサインを出している人間を助けるために、できる範囲でその手助けをする、ということを僕はあまり間違っていないと思っている。そういう活動をうまいことやっていく人間が一人でも多く増えればよいと僕は思っている。

ヒズミくんがシェアハウスによって、そのような活動をおこなっていることに僕は敬意を表したいし、今後もその活動が続く限りで応援・手助けしていこうと思っている。

だからこそ、そのヒズミくんに対して正当な批判ではなく、彼を陥れるような印象操作が行われていることに対しては厳しく批判しなければならないと感じた。

 

この批判は正気正気氏に対するものだけではない。正当な批判、たとえば、ヒズミくんの活動の改善や修正を目的とするような批判ならまだしも、そうでない「批判もどき」によってヒズミくんを傷つけることは端的に間違っているし、卑劣でダサいとも思う。

この「批判もどき」がどれだけ行われたとしても、ヒズミくんは聞く耳を持つ必要がないと思う。

メンヘラ当事者研究会関西第3回~居場所があるってどういうこと?~ レポート

ホリィ・センです。7月14日(日)のお昼に、京都でメンヘラ当事者研究会関西をおこないました。記憶が鮮明なうちにレポートしておこうと思います。

 

テーマは「居場所があるってどういうこと?」ということで、今までに自分にとっての居場所と言える場所があったかどうかを話していくところから始まりました。

 

「場に応じて自分を出す」ということについて

序盤では、「自分が出せる」ということが居場所の条件として主に語られていたように思います。その意味で、ある種の「寛容さ」を集団に求めるという人は複数いました。

しかし、どこかの場所Aでは出せている自分が、他の場所Bでは出せない、という人もいました。過激だと思われるのではないか、逸脱していると思われるのではないか、ここの集団には合わない話ではないか、などの理由から出さない話があるのだとか。

そのように「棲み分け」をするというのも一つのやり方で、それぞれに「居場所感」を感じることができる人もいるようです(Twitterのアカウント使い分けの話も出ていました)。ただし、場所によって自分のキャラクターや性格なども変わってしまったり、「合わせている感」があると居場所感を感じられなかったり、という話も出ていました。

棲み分けも可能な一方で、違う場所で出していた自分を他の場所でも出したい、という欲求を覚えるという人もいました。しかし、そうなってくると、各集団ごとの相容れない部分が問題になってきます。ある集団では、自分たちと「違う」存在である人々を軽視する場合がどうしても生じてきます(例えば、京大のようなアカデミック(だと思われている)場が、別の集団からは軽視される、など)。

その他の例では、家族に対して自分が出せるか、というところでつまずいている人がいるようでした。子どもにとって親は世代の違いもあり、どうしても異質性を持ってしまうというところでしょうか。

また、初対面の人が多すぎるといちいち関係を作っていかなきゃいけないのがしんどいという話や、あまりにいつもと同じ人ばかりだと外の風が入ってこない、などの話も出ていました。

いずれにせよ、異質性や多様性がありすぎると「居場所」感を持ちにくくなる一方、寛容さがなさすぎるのも問題だ、というジレンマが起こっていると考えられます。

では、どういうところが違うと居場所感がなくなるのか、逆にどういうところが同じでさえあれば居場所感を担保できるのかという問いが立つのかな、という話が出ていました。

 

帰属意識とサードプレイス

集団ごとの「棲み分け」とは別の考え方として、自分がはっきりと帰属意識を持って居れる集団、自分のアイデンティティを担保してくれるような集団を求めているのだという話もありました。その場合、「サークル」や「コミュニティ」のような、たまに出入りしたり自由に抜けたりするような集団では限界があるのではないか、という話にもなってきます。

そこで、キーワードとして「ファーストプレイス/セカンドプレイス/サードプレイス」という言葉が出てきました。ざっくり言えば、ファーストプレイスとは家庭のこと、セカンドプレイスとは学校や職場のこと、サードプレイスとはそれ以外のサークルやコミュニティなどを指すのだと思います。

歳を重ねる中で、ファーストプレイスを充実させる(結婚して家族を作る)ことや、セカンドプレイスを充実させる(会社への帰属意識を持った「会社人」になる)ことが社会から要請されることがあります。しかしそのプレッシャーにもかかわらず、家族を作ったり会社に馴染んだりできない人はどうすればいいのか、歳を重ねていくうちに「無」になっていく、という話が出ていました。

そこで、ファーストプレイス人間(「マイホームを持つ」、みたいな感じでしょうか)やセカンドプレイス人間(「社会人」という感じでしょうか)に対して、サードプレイス人間は成り立つのか、という問いについても検討されていました。あるいは、サードプレイスがファーストプレイスのように強固な場になりうる(帰属意識を持てる場になる)ことはありうるのか、ということも話されていました。

 

「いる」ことの可能性

そもそも居場所に入ること自体が苦手だという話もありました。自己主張が苦手で、特に何かをするわけでもなくそこにいるだけの人は、そのコミュニティに苦手意識を持っているのではないか、と。

アサーション(自己主張)トレーニングができるような場を設けるという案も出ていました。ただ、そもそも何かをしていなければそこに居てはいけない、ものなのでしょうか。

僕自身も会を主催する側として、何もせずにいるだけの人を見ると、あまり楽しめていないのではないか、手持ち無沙汰にさせてしまっているのではないか、と不安になってしまうことがあります。

しかし、その観点からすると「いる」ことに価値を見出している人の話は面白かったです。例えば、自己主張が苦手な人だけの集まり、というのもありうるはずです。みんなが「いる」だけ、ということもありうるのではないかと。また、そこにいるだけで「思い出の共有」はできるし、何か他の人が話していることを「吸収(インプット)」することはできるし、「雰囲気を楽しむ」だけもできるかもしれないのだと。

そのあたりの話を聞いて、僕自身がまさに「いる」だけというのを苦手としているのだなということを感じました。例えば僕は「ライブ」が苦手です。何をしていればいいのか分からないし、「ノる」こともできないからです。どこに身を置いておけばいいのか分からないがゆえに「居心地の悪さ」を感じることになります。「雰囲気を楽しむ」方法を僕も身につけたいなと思いました。

 

アンケート

Q1:全体の満足度

Q3:司会役の進行は快適だったか

Q5:テーマが話したいこと/知りたいことに合っていたか

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ア:初めのレジュメ説明の内容は理解できた

イ:話しやすい雰囲気だった

ウ:話すことを強制されていると感じた

エ:何を話せばいいのか分からなくて戸惑った

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オ:他の人の言葉に傷ついたことがあった

カ:言いたくないことを話してしまったことがあった

キ:(カで「はい」を選んだ人のみ)話したことを後悔している

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会計報告

収入 金額 合計
参加費 △9000 9000
     
支出    
会場費 ▼0 9000
印刷費 ▼0 9000
雑費 ▼600 8400
     
事務手当 ▼2100 6300
司会手当 ▼2100 4200
     
残金   13950

 

事務(会の日程決め&ツイプラ作り、レポートを書く)や司会(当日の運営・司会)をやってくれる人を募集しています。

来月こそホワイトボード買うぞ。

 

 

ホリィ・セン

メンヘラ当事者研究会関西第2回「『普通』ってなんだろう?」レポート

引き続いて、メンヘラ当事者研究会関西第二回「『普通』ってなんだろう?」のレポートを書きます。これは二週間前ぐらいに実施しましたので、まだ記憶に残っています。

 

 個人的感想というか、会が終わった後にも参加者の方と話していて出てきた話として、だいぶコミュニケーションや関係性や適応の話に偏っていたなと思います。集団における普通/普通じゃないとか、適応できるかできないかとかですね。

 以下、内容をつらつら書いていきます。

 ある人が「『普通』というのは『理解の努力を要さない』ということなのではないか」と言っていたのが印象に残っています。ある意味では、「普通」の人は理解し合うためのコストが小さい世界を生きているのかもしれませんね。

 また、普通/普通じゃないということにそれぞれ両義的な評価があるのだなというところも分かってきました。普通に価値を置くがゆえの「『普通』マウンティング」などという言葉も飛び出していました。一方で、異常であることに憧れるだとか、アウトローな方が馴染みやすいだとか、集団に普通の人が入ってくると困るかもしれないだとか、そういう話があったと記憶しています。

 その意味では普通性による序列化も起きていますね。人の選別においても「普通」という基準はしばしば用いられているようですし、確かに「普通」という基準を僕も用いざるを得なくなってしまうことはあるように思います。

 途中でセクシャリティの話になったのも面白かったです。セクシャリティにおいてはむしろ「普通」ということがあまりないのではないかという話も出ていましたが、ある人は自分が普通じゃないというところで悩んだこともあったそうです。このあたりは興味深いです。

 僕の場合、普通/普通じゃない、といったような境界線によって苦手意識を抱いている人たちがいます。そういう人たちに対してどうアプローチしていけばいいか、そういうことへのヒントをもらったような気がします。

 

アンケート

Q1:全体の満足度

Q3:司会役の進行は快適だったか

Q5:テーマが話したいこと/知りたいことに合っていたか

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ア:初めのレジュメ説明の内容は理解できた

イ:話しやすい雰囲気だった

ウ:話すことを強制されていると感じた

エ:何を話せばいいのか分からなくて戸惑った

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オ:他の人の言葉に傷ついたことがあった

カ:言いたくないことを話してしまったことがあった

キ:(カで「はい」を選んだ人のみ)話したことを後悔している

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 今回はそこそこちゃんと司会できたように思います。人数が多いのでなんとも難しくはありましたが。また、無理に話を振りすぎるのもどうかな、というのも司会としてはいつも悩むところです。

 「普通」というテーマは案外ドンピシャに響かないテーマなのかもなぁと感じました。「メンヘラ」という言葉と同様に、当事者研究の入口のための言葉の一つなのかなぁという感じはするものの、自分は普通ではない、という感じている人の方が圧倒的に多数派でしたので。ある社会学者が『〈普通〉という希望』という本を出していますが、「普通」ってのは敢えてやるものなのかもなぁ、とか思います。

 また、冒頭にも書きましたが、「普通」というテーマはコミュニケーション的な悩みに収束しがちなのかもなと。どうしても内面的なしんどさとか、漠然とした死にたさや自己否定感とか、そういうものにはアクセスしにくいテーマなのかもなとは思いました。

 あと、個人的にはそもそも今まで僕自身の悩みがコミュニケーションや人間関係に偏り過ぎていたんだなということを改めて思いました。

 

会計報告

     
収入 金額 合計
参加費 △11000 11000
     
支出    
会場費 ▼0 11000
印刷費 ▼0 11000
雑費 ▼1100 9900
     
事務手当 ▼2475 7425
司会手当 ▼2475 4950
     
残金   9750

 

今回、新しく無料で使える会場を用意できたのですが、椅子とかホワイトボードとか足りてないので余っているお金で買っていきたいなと思います。

 

ホリィ・セン

メンヘラ当事者研究会関西第一回「『生きづらさ』ってどんな感じ?」レポート

だいぶ前のことになってしまったのですが、漠然とした記憶とメモを頼りに、昨年9月に行われたメンヘラ当事者研究会第一回「『生きづらさ』ってどんな感じ?」のレポートを書いておきます。

 

個人的感想としては、多岐にわたる生きづらさをみなさん持っている感じでした。漠然とした自己肯定感の低さや死にたさ、職場や飲み会などの特定の場面、日常的なコミュニケーションの問題、家庭環境の問題、などなど。必ずしも同じタイプの生きづらさを抱えているわけではないので、分かり合う、共感し合うみたいな方向にいきすぎない方がいいのだろうなと感じました。


それなりに参加人数が多かったのもあり、途中から二手に分けてやっていきました。僕のグループではスクールカースト(教室上の地位)がその後の人生にも影響を与えている的な話が印象に残っています。

 

アンケート

Q1:全体の満足度

Q3:司会役の進行は快適だったか

Q5:テーマが話したいこと/知りたいことに合っていたか

f:id:holysen:20190703102344p:plain

 

 

ア:初めのレジュメ説明の内容は理解できた

イ:話しやすい雰囲気だった

ウ:話すことを強制されていると感じた

エ:何を話せばいいのか分からなくて戸惑った

f:id:holysen:20190703103116p:plain



 

オ:他の人の言葉に傷ついたことがあった

カ:言いたくないことを話してしまったことがあった

キ:(カで「はい」を選んだ人のみ)話したことを後悔している

f:id:holysen:20190703102420p:plain

 

という感じでした。

また、話してみたいテーマとして挙げられていたのは、コミュニケーションのことや死にたさなどが挙げられていました。

 

個人的には司会進行がうまくやれなかった部分がいくつかありました。具体的には、あまり和やかな雰囲気が作れなかったのと、一人一人の話をゆっくり聞いていくのができなかったことです。

「生きづらさ」ってどんな感じ?というテーマからうまく話を引き出せなかったな(コミュニケーションの話に引っ張られすぎたかも?)と思っています。

アンケートでも指摘がありましたが、ホワイトボードがあった方がいいですねやっぱり。

 

会計報告

収入 金額 合計
参加費 △10000 10000
     
支出    
会場費 ▼400 9600
印刷費 ▼0 9600
雑費 ▼0 9600
     
事務手当 ▼2400 7200
司会手当 ▼2400 4800
     
残金   4800

 

ホリィ・セン

すもも「男性社会の幸福な女性たち」というnote記事への疑問

要約すると、問題を個人の意識に還元しすぎじゃない? 「男女の機会は平等」っていう割にその証明がないのでは? もっと社会的な変数も考えてみては? みたいな話。

 

note.mu

 

 すもも氏のこの記事について、統計の読み方に問題があるということを指摘している人を見た。僕もいくつか疑問があるので、ここに記しておく。あまり細かいところを指摘しすぎるとあまりに読みにくいので、できるだけ議論を主要な部分のみに絞った。

 

漫然とした不満 という見出しの部分

 まず、多くの女性が日本を「男性社会」だと感じているという話。それはいい。

 その後、「社会において男性が優遇されている原因」について、「男女共同参画社会に関する世論調査」(http://www.gender.go.jp/research/yoron/index.html)の2000年(平成12年)のものから分析している。年代が古いという批判もできるだろうけど、そもそも「多くの女性が日本を「男性社会」だと感じている」という主張の根拠となる統計では2000年以降の時系列データ参照しているので、これもまあそこまで問題ではないと僕は思う(「日本は男性社会である」ということが2000年からずっと言われているのであれば、なぜ”最近になって”フェミニズム言説が盛り上がっているのかの説明にはなっていないが)。

 

 僕が問題としたいのはその後である。引用しよう。

 

さらに詳しく分析すると、内閣府男女共同参画社会に関する世論調査」(2000年2月調査)の「男性が優遇されている原因」をみると、「日本の社会は仕事優先,企業中心の考え方が強く,それを支えているのは男性だという意識が強い」「社会通念や慣習やしきたりなどの中には,男性優位にはたらいているものが多い」「女性の能力を発揮できる環境や機会が十分ではない」が上位にきている。

〔……〕

つまり、多くの女性の「男性優遇」だと思っているものは、「女性という属性を理由に本人の意思に反して不当な扱いを受けた」という「差別」や「優遇・冷遇」の類ではなく「男性目線で動いているように見える社会」に対する漠然とした不満であると理解できる。

  

 この記述に対して、僕は三つ疑問がある。

①この記述は「差別」や「優遇・冷遇」を「女性という属性を理由に本人の意思に反して不当な扱いを受けた」ということに還元している。そんなに狭く定義してしまっていいのだろうか。

 一見「本人の意思」に反していなかったとしても、不当な扱いを受けることを構造的に選択させられている(ことに納得させられていまっている)というのはありうるように思われる。

 例えば、「男性が優遇されている原因」として「能力を発揮している女性を適正に評価する仕組みが十分ではない」の項目を女性たちが挙げなかったとしても、「日本には適正評価の仕組みが存在する」とは言えないだろう。アンケート調査で明らかになるような個人の意識とは独立して、差別的な仕組みが社会に存在することはありうる。むしろ、個人の気づかないところで差別構造が温存されているとしたら、その方が問題とすら言えるのではないだろうか。

 

②仮に上記の定義に従ったとして、「多くの女性の『男性優遇』だと思っているものは、『女性という属性を理由に本人の意思に反して不当な扱いを受けた』という『差別』や『優遇・冷遇』の類ではな」い、「漠然とした不満である」とまで統計から読み取れるだろうか。この定義で言うところの「差別」や「優遇・冷遇」も起こっている可能性はないだろうか。

 この統計データは複数回答で10個の項目について問われているのだが、そもそもれを選べば「漠然とした不満」なのか、どれを選べば「具体的な(漠然としていない)不満」なのかを区別する基準をすもも氏は設けていない。

 しかも、「育児、介護などを男女が共に担うための体制やサービスが充実していない」の項目が上位3位にきている。これは「漠然とした不満」ではなく「具体的な不満」ではないだろうか。しかも、元のデータを確認すると、この項目は女性回答者では3位だったのに、全体では4位に落ちている。つまり、「男性よりも女性の方がより具体的な不満を持っている」と言える可能性すらあるのである。

 

③また、すもも氏は「『差別』や『優遇・冷遇』が起こっていたら問題だけど、起こっていないから問題ではない」ということを言いたいのだろう。では、「『男性目線で動いているように見える社会』に対する漠然とした不満」は問題ではないのだろうか?

 

 以上を構造的に言い直せば、すもも氏の記述は「Aが差別や優遇・冷遇である」と定義した上で、社会で起こっていることはAではなくBであると言っている。

 それに対して僕の疑問は、①「差別や優遇・冷遇の類」をAと定義していいのか? ②そう定義したとして、Aも実際には起こっている可能性はないだろうか? ③Bに問題はないのだろうか? ということである。

 次の部分に移ろう。 

 

”結果の平等”に怒る女性たち という見出しの部分

 この部分は要するに、女性は機会の平等は得ているのに、その機会を行使しないから結果的に不平等が生じているだけだ、という主張である。

 だが、統計データはその主張を根拠づけているだろうか? まず、すもも氏はジェンダーギャップ指数によって、(特に政治分野において)結果としては「男性社会」になっていることは認めている。

 問題はそのプロセスにおいて、男女間の「機会の平等」が存在するかどうか、である。

 ここですもも氏が提示しているのは、「世界価値観調査」による、「男性は女性よりも政治指導者として優れている」という意見への賛否である。「世界価値観調査」の中から先進12か国におけるデータを抽出し、女性回答者において、日本は賛成が上から4位、反対がワースト1位、なのだという。

 問題はデータから引き出されている解釈である。引用しよう。

 

「男性は女性よりも政治指導者として優れている」という意見に対して、日本の女性は「賛成計」が上位4位、「反対計」がワースト1位であり、「政治家は男性がするもの」という意識が強いことが示唆される。

〔……〕

もし、「政治家になりたい」という女性が非常に少ないのであれば、「ジェンダー・ギャップ指数」を「女性差別」「男性優遇」を主張するエビデンスにはならないのではなかろうか。

政治家における男女比のみならず、管理職の男女比、賃金の格差など、機会は平等だが、結果的に男女差が生じているものに対して「差別」や「優遇・冷遇」の類と混同する議論をよくみかける。

 
この解釈はさすがに飛躍があるように僕は感じた。すもも氏の思考を順番に追っていくと、

 

「男性は女性よりも政治指導者として優れている」という意見への賛成が多く反対が少ない

「政治家は男性がするもの」という意識が強い

「政治家になりたい」という女性が非常に少ない

結果的に政治家の男女比に偏りはあるが、機会は平等である

管理職の男女差や賃金格差においても同じことが言える

男女差はあくまで結果であり、機会は平等なので「差別」や「優遇・冷遇」の類は生じていない

 

と考えていることになる。

   この論理展開に関しては、大きく4つの疑問がある。

 

①統計データの解釈に問題はないだろうか? 「男性は女性よりも政治指導者として優れている」という意見への賛否のデータを見ると、日本は他国と比べて圧倒的に「わからない」の割合が高い。これは、「中央化傾向」と呼ばれる、日本人が人事評価などで「真ん中」を選択する傾向を表しているのだろう。これでは、反対の合計がワースト1位になるのも当然である。
(とはいえ確かに、「わからない」がもし全員反対側に流れたとしても、この12か国の平均より賛成の割合は高いので、他国と比較してこの意見への賛成が多いとは言えるだろう。一応元の統計を見てみたので、詳しくは下の画像を参照)

 


②統計から引き出せる解釈に問題はないだろうか? まず、統計から「政治家は男性がするもの」という意識が強いことを引き出しているが、男性が政治指導者として優れているからといって「政治家は男性がするもの」となるのだろうか? また、仮にそうだとしても、あくまで“他国と比べて”そういう意識が強いというだけであり、そもそも「政治家は男性がするもの」ということに賛成の人が絶対的に多いというわけではない。
 そして、「もし、『政治家になりたい』という女性が非常に少ないのであれば」という書き方にはなっているものの、そもそも「政治家になりたい」という女性が非常に少ないというエビデンスは示されていない。せいぜい「『政治家は男性がするもの』という意識があるとしたら、『政治家になりたい』という女性も少ないのではないか」という推論が成り立つ可能性があるという程度である。ここは「政治家になりたい女性は少ない」というデータを別個に示さないと根拠が薄いように思われる。


③機会は平等だろうか? すもも氏は意識と機会を混同してはいないだろうか? たとえば、「政治家になるための機会」ということを考えてみると、確かに女性は議員として立候補できるし、制度上機会を保障されている。しかし、選挙で勝とうと思えば、票を集めるための手段(地域における地盤固めなど)が必要になってくるだろう。その際にはたして男性と女性は機会が平等だろうか? これは意識の問題ではなく社会構造上の問題である。
 また、仮に意識の上で何かを選択したとしても、「選ばされている」というパターンは無視できない。これは、アンケートを取って「あなたの現状は自分で選択したものですか?」ということを聞いて「はい、自分で選択しました」と答えたとしても言える話である。アンケート回答者が自覚していないところで社会構造によって「選ばされている」ことはありうるからだ。

 このテの「女性は『主体的に〇〇を選んでいる』のか? それとも、『社会構造によって〇〇を選ばされている』のか?」という問いについては先行研究の蓄積がある。
  例えば、「主体的選択か社会構造か」という問いについて、ケア労働の分野において以下の本がある。

 

なぜ女性はケア労働をするのか―性別分業の再生産を超えて

なぜ女性はケア労働をするのか―性別分業の再生産を超えて

 

 

 

④「結果の不平等・機会の平等」は他領域にも一般化できるだろうか? すもも氏は政治についての話を管理職の男女差や賃金格差にも拡張して論じている。しかし、政治の話と労働の話は異なるので、機会が平等だというのならデータが必要だろう。
 むしろ、管理職の男女差や賃金格差においては、「性別職域分離gender segregation」が起こっていると言われており、女性の昇進や賃金上昇の機会は構造的に制限されている(例えば、

CiNii 論文 -  性別職域分離が賃金に与える影響とそのメカニズムに関する実証研究 : 技能に注目して

を参照)。


以上、いろんな疑問を抱いたが、僕がここで最も問題に感じるのは、「男女の機会が平等である」ということが証明されていないことである。

 


日本の女性の幸福度を高めているのは専業主婦 という見出しの部分

 ここでは幸福度の男女差の原因を測るために、個々の属性ごとの幸福度を見ている。

 

  • 女性は「10代」(90年代生)「20代」(80年代生)の幸福度が高い。
  • 女性は「学生」「主婦」「退職」の幸福度が高い。
  • 男性は「未婚」「離婚」の幸福度が低い。
  • 男性は「収入階層意識が高い層」の幸福度が高い。

 

という傾向を見出しており(なお、女性は「自営業」の幸福度も高いようだ)、これ自体は面白い結果である。
(ただし、幸福度が平均より高い/低いと言えるのか、どの程度高い/低いと言えるのかみたいな議論をするのであれば、有意検定をしたり、相関係数を出したりといった操作が必要になるように思われる)

 

 すもも氏はここから、専業主婦について議論していく。まず、日本の女性においては、専業主婦の幸福度が高い。そして、他の国と比べると専業主婦の割合が高い。更に、他の国と比べて「家庭の主婦であることはお金のために働くのと同じくらい充実している」という意見に賛成している割合も高いとデータから分かる。
 そこから、日本の「女性が男性の経済力に依存することが肯定される文化」を見出し、一方で、男性の方は収入階層意識が高い場合に幸福度が高いというところから「男性は経済力をつけなければ幸福になれない」ということを見出している。


 ここまではよくできている。しかし、疑問があるのは次の記述である。

 

恋愛・結婚における力関係では女性が選ぶ側であり、女性の意識が変わっていかない限り、男性の幸福度の向上も男女平等も遠のくだろう。

 

 この記述には二つ疑問がある。

 

①「恋愛・結婚における力関係では女性が選ぶ側」というのは唐突に出てきたが、どういう根拠でそう述べているのだろうか?
 確かに、全体としてはそういう傾向はあるかもしれないが、男性の中にも選ぶ側はいるだろうし、女性の中にも選ばれる側はいるだろうし、そもそも恋愛・結婚市場に参入してこない男性・女性もいるだろう。そのあたりの細かい区別がここからは見えてこない。
 そうなると、続く「女性の意識が変わっていかない限り」という記述にも疑問が出てくる。どういう女性の話をしているのだろうか?

 

②「女性の意識」に還元できる問題だろうか? 記事内の統計データでは意識が扱われているが、意識とは独立したところで恋愛・結婚の環境が決まっている側面はあるだろう。また、女性の意識(や男性の意識)にも文化や制度は強く影響していることだろう。なので、文化や制度の方を変えることで、(「女性の意識の変化」を経由するかどうかは分からないが)男性の幸福度の向上や男女平等に向かうことも可能なはずである(具体例を最後に述べる)。


日本の未婚男性は怒っていい という見出しの部分

 ここでは、未婚男性の幸福度の低さが問題視されている。そのことには強く頷ける側面がある。
 ただし、そもそもの疑問を挙げておくと、この「幸福度」とは何を測っていることになるのだろうか? 元の統計データを見ると、「全体的にいって、現在、あなたは幸せだと思いますか、それともそうは思いませんか」に非常に幸せ・やや幸せ・あまり幸せではない・全く幸せではない・わからないの5件法で答えるものとなっている。
 確かに、こうやって主観的な幸福感を測ることには一定の意義がある。しかし、「満足な豚よりも不満足なソクラテスであれ」という言葉もあるように、必ずしも「私は幸福です」と答えている人が、より質の高い幸福に浴しているとは言いきれないだろう。

(何が幸福と言えるのかについて議論した僕のブログ記事を一応貼っておきます

満足することが嫌いです - 落ち着けMONOLOG

社会学に触れ始めたぐらいの時期に書いた記事なので、拙くて恥ずかしいですが)


 そのため、最後の部分にある「近年のフェミニズムは、幸福度の高い女性に対する『過剰サービス』になっているのではないか」という部分については、なんとも言えないところがあるように思う。
 ただ、未婚男性に関して、社会階層と健康状態、人生における家族・友人の重要性のデータも出しているのは良い方向性だと思う。多角的に見ても未婚男性が苦しんでいるということは確かにもっと強調されてよい。

(男性はいろんな観点から見てしんどい部分があるよ、的な議論については例えば以下の本がある)

 

 

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問

 

 


まとめと個人的な意見

 すもも氏の主張をまとめると、
主張A:「日本は『男性社会』だと思われているが、それはそう見えるだけで『差別』や『優遇・冷遇』の類ではない」
主張B:「しかも、実際には女性は幸福である」
主張C:「専業主婦と経済力のある男性が幸福で、未婚男性は不幸であるので、怒るべきは未婚男性である」
 といったところだろうか。

 幸福度についての分析はそこそこ的確だと思ったが、前半で個人の選択(意識)の問題に還元し、後半で幸福度の問題に還元していることを合わせて考えると、一種の心理主義に陥っているきらいがあるように思われる。そんなに男性個人と女性個人を対立的に描かなくてもよいのではないだろうか。(女性とは独立して)未婚男性には未婚男性の苦しみがあるのだ、ということだけで十分だと思った。


 僕が社会学の人間だからそう見えるだけかもしれないが、もっと社会的な変数も考慮に入れていいのではないだろうか。すると、ある種のフェミニズム的な発想から男性の幸福度を高めることも、たとえば次のように可能なのではないだろうか。

 「子育て支援」の制度が充実していれば、女性が働き続けたり昇進したりできるので女性の賃金も上がる。すると、専業主婦を選ぶメリットは下がる。結果として、「女性が男性の経済力に依存することが肯定される文化」は衰退し、未婚男性は経済力がなくても結婚できるようになったり、経済力以外の幸福の道を見出せるようになったりする……みたいな話である。

  これは空想的なたとえ話に過ぎないので、実際にはデータに即して考えるべきだろうが(たとえば以下の本みたいに)

 

 

子育て支援と経済成長 (朝日新書)

子育て支援と経済成長 (朝日新書)

 

 


 ……なんにせよ、統計的な分析をする人が出てきたのは歓迎すべきことだと思う。統計的な話をしてくれるおかげで、まともに議論することも可能になる。考えるためのキッカケを提供してくれたすもも氏には感謝します。
 「フェミニズムv.s.アンチフェミニズム」のような対立がTwitter上で起こっているように見える。そもそもTwitter上での対立は現実からは乖離しているのかもしれないが、仮にそのような対立があったとしよう。そもそも不毛な対立はしない方がいいとは思うが、敢えて対立するのだとしたら、どちらの議論の質も高まっていってほしいというのが、僕の素朴な願いである。

文学フリマ(5月6日)「メンヘラ批評」出店情報

ホリィ・センです。
なんとか間に合いました。文学フリマ東京に出店します「メンヘラ批評」の告知をします!


第二十八回文学フリマ東京(https://bunfree.net/event/tokyo28/
日時:2019年5月6日(月) 11:00〜17:00
場所:東京流通センター 第一展示場

 

「メンヘラ批評」のスペースはオ-36です!
以下、「メンヘラ批評Vol.1」の表紙、目次、巻頭言を掲載します!

 


表紙

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ふみふみこさんに描いていただきました! 感謝!

 

目次

巻頭言:いくつもの声のなかで ホリィ・セン 2

 

■特集=獣道を生きる

社会的強者のメンヘラは、今日も生きづらいと叫びながらマシンガンを乱れ撃つ 雨宮美奈子 6

メンヘラ男子に女装とコスプレの勧め 永井冬星 13

記号としての「わたし」 A440 19

 


■特集=私ですけど、何か?

変わっていたいと不健全を夢見ることはとっても健全だ 南村杞憂 30

メンヘラ展とは何だったのか
障害者アートにおける技術・障害・個性 河野麻実(元あおいうに) 34

メンヘラビッチバーの始まりについて メンヘラビッチバー 40


■特集=物語の中の「メンヘラ」

HUNTER×HUNTERのキルアにおけるメンヘラ克服法 脱税レイヤー風呂屋さん 42

存在しない「メンヘラ」と、平成最後のガール・ミーツ・ガール じあん 52

人生の止まった時計が動き出す
毒親」語りとリバイバルブーム ホリィ・セン 60


コラム
メメント・モリ メンヘラ的に死を想う 小谷悠里 78


■特集=「メンヘラ」が問いかけてくるもの

インターネット社会における「メンヘラ」とまなざしの地獄について 北条かや 80

ダウナー系メンヘラを「待つ」こと レロ 85

オラつき行為の自然史
ジャイアニズムの展開過程について 西井開 90

メンタルヘルサーは夕暮れとともに飛びたつ 雪原まりも 96


■特集=カギカッコなしのメンヘラ

「メンヘラ」はなぜ決まって女ばかりに言われるのか
~「ニシノユキヒコの恋と冒険」から読み解く~ ばしこ 106

 

―――

 総勢15人が執筆しています!

本当に様々な角度からみなさん書いていただきました。

せっかくなので、内容の紹介をしております巻頭言もこの記事に掲載しておきます!

 

 

巻頭言:いくつもの声のなかで

  「メンヘラ批評」は、さまざまなことについて「メンヘラ」という切り口から見たものです。「メンヘラ」を出発点に、いろんな人がいろんな視点から文章を書いています。
 「批評」といっても、「メンヘラ」を外側から評価して、好き勝手なことを言うわけではありません。批評は「評論」よりも「否定」の意味合いが強い言葉ですが、今生きているこの社会の生きづらさを、私たちは否定したいのです。この社会で生きづらさを感じている人にとってこの本が突破口になってくれれば。そういう思いを込めて、敢えて「メンヘラ批評」と名づけました。
 この本のコンセプトは、この社会についての新たな「見方」を読者に提示すること、そして、その見方によって「メンヘラ」に力を与えることです。だから、ごく一部の人にしか読めないような内容では意味がありません。批評というと難しい話を想像する読者もいるかもしれませんが、実際には具体的でイメージしやすい話が集まっています。
 より読みやすくなるように、以下では各記事の簡単な道案内をしておきます。読者はどこから読んでも構いませんし、興味のありそうな記事から読むのも一つの手でしょう。

***

 第一特集「獣道を生きる」では、「あたりまえ」の、「普通」の道を生きてこなかった三人の記事が収録されている。
 雨宮美奈子は自身が「社会的強者」になるに至った過程と自傷行為との関係を語っており、そのドラマティックな生き様の背景にある信念が伝わってくる。
 永井冬星は驚くほど一直線に、自らの「メンヘラ」問題の定義→「女装」や「コスプレ」という解決策、というワンセットを示し、そのまま読者に勧める。
 A440は自らの病気のキッカケとなった壮絶な人間関係を回想しており、今なお「ふつう」や「社会」に対する距離感に戸惑い続けている様子が見て取れる。
 この三人の記事についてはそれぞれの文体にも注目してほしい。それぞれの語り口のクセの強さが、いかなる性質や人生経験から現れてきているのか。そのあたりを想像することで、書き手の世界観に対するより深い理解や共感に達しうることだろう。
 第二特集「私ですけど、何か?」では、それぞれのユニークな実践の振り返りと共に、信念のこもった主張がなされている。
 南村杞憂は真摯に自分のことを語り、葛藤を隠さない。様々な言葉や経験が紡ぎ合わされていくその様は、「メンヘラ」という言葉の多義性とも響き合う。
 河野麻実(元あおいうに)は「メンヘラ展とは何だったのか」と題して、その三年間の活動を振り返る。そして、相変わらずの切れ味で障害や個性というテーマを切り捌いていく。
 メンヘラビッチバーはそのまま活動の紹介だが、バーで話されたことがそのまま紹介されている。特集の締めにふさわしい、バーでのひとときの会話のような読み味となっている。
 第二特集までは具体的な生の現実に根ざした記事が集まっているが、第三特集以降は、「メンヘラ」にまつわる様々な事態が、やや俯瞰的な視点から論じられていく。
 第三特集「物語の中の『メンヘラ』」では、作品の分析を通して、「メンヘラ」にまつわる問題が鮮やかに整理されていく。
 脱税レイヤー風呂屋さんは有名なジャンプ漫画『HUNTER×HUNTER』のキルアの動向を「毒親」の観点から精緻に読み解いており、原作ファンにはたまらない内容である。原作を知らなくてもよく理解できる構成になっている。
 じあんは「わたし」にとっての様々な「(広義の)他者」Aと「わたし」がどのように関係しているのかを問い、■(Aに斜線)という記号によって表される関係から「メンヘラ」を特徴づける。そして、その様相をいわゆる「百合」系の作品群から見出していく。
 ホリィ・センは「アダルトチルドレン」が「毒親」へと言葉が移り変わったことを指摘し、その背景を探る。そこで、『SSSS.GRIDMAN』や『君の名は。』といった作品を補助線とすることで、現代的な「トラウマ語り」の意義について分析している。
 「死にたい」という言葉についての小谷悠里のコラムが間に挟まり、第四特集「『メンヘラ』が問いかけてくるもの」では社会科学的な志向をもった記事が収録されている。
 北条かやはインターネットにおいて「メンヘラ」に対して向けられているまなざしについて、自身の炎上経験も交えた上で分析し、「まなざし」の時代的な変遷についても考察を加えている。
 レロはアッパー系メンヘラ/ダウナー系メンヘラという二分法を様々な観点から考察し、その区別が具体的にイメージできるところまで落とし込んでいる。そして、実践上は「待つ」ことの意義を論じている。
 西井開は他者に攻撃的な言葉を浴びせて威圧する行為(「オラつき」、「ジャイアニズム」)を取り上げ、その無意識的な学習過程や、周囲との関係性が固定されていく「自然史」を描いている。そのうえで、相手を支配せずに関係性を良好に築く方法を模索している。
 雪原まりもは「夜の仕事はメンタルヘルスに『優しい』のか」という問いから出発し、日本において昼職/夜職という二領域がどのように形成され、どのようなバランスの元で成り立っているのかといったことを説得的に論じている。
 第五特集「カギカッコなしのメンヘラ」には、ばしこの「『メンヘラ』はなぜ決まって女ばかりに言われるのか~『ニシノユキヒコの恋と冒険』から読み解く~」が掲載されている。この記事は世間に流通している「メンヘラ」のステレオタイプなイメージに則ったものであり、「素朴な実感に基づいた内側からの視点」という意味で、他の記事とは異なる位置づけが与えられている。

 

―――


以上です!

5月6日(月)、ぜひぜひブースにお越しください! よろしくお願いします!(ちなみに価格は1500円です)

「メンヘラ批評」表紙絵発表

ホリィ・センです。「メンヘラ批評」の編集もいよいよ佳境に入ってまいりました。
とても面白く、読み応えのある内容になっておりますんで、自信を持ってオススメできます。


さて、今回は表紙絵を描いてくださる人を発表します。ふみふみこ さんにお願いしております!

 

 

ふみふみこ (@fumifumiko23235)
漫画家。『キューティーミューティー(作画担当)』『愛と呪い』連載中。既刊『ぼくらのへんたい』『女の穴』など。

 

 

いやー、非常にありがたいことです。僕の原稿も現在連載中の『愛と呪い』にインスパイヤされている部分が大いにありますのでお願いした次第です。
少年少女の心の機微を独特のタッチで描く、素晴らしい作家さんです。ふみふみこさんの漫画を読んだことない方には、ぜひ(既刊も新刊も)読んでほしいところです。
ではでは。

 

 

 

愛と呪い 1巻: バンチコミックス

愛と呪い 1巻: バンチコミックス

 

 

 

 

ぼくらのへんたい(1) (RYU COMICS)

ぼくらのへんたい(1) (RYU COMICS)

 

 

 

女の穴 (RYU COMICS)

女の穴 (RYU COMICS)