すもも「男性社会の幸福な女性たち」というnote記事への疑問

要約すると、問題を個人の意識に還元しすぎじゃない? 「男女の機会は平等」っていう割にその証明がないのでは? もっと社会的な変数も考えてみては? みたいな話。

 

note.mu

 

 すもも氏のこの記事について、統計の読み方に問題があるということを指摘している人を見た。僕もいくつか疑問があるので、ここに記しておく。あまり細かいところを指摘しすぎるとあまりに読みにくいので、できるだけ議論を主要な部分のみに絞った。

 

漫然とした不満 という見出しの部分

 まず、多くの女性が日本を「男性社会」だと感じているという話。それはいい。

 その後、「社会において男性が優遇されている原因」について、「男女共同参画社会に関する世論調査」(http://www.gender.go.jp/research/yoron/index.html)の2000年(平成12年)のものから分析している。年代が古いという批判もできるだろうけど、そもそも「多くの女性が日本を「男性社会」だと感じている」という主張の根拠となる統計では2000年以降の時系列データ参照しているので、これもまあそこまで問題ではないと僕は思う(「日本は男性社会である」ということが2000年からずっと言われているのであれば、なぜ”最近になって”フェミニズム言説が盛り上がっているのかの説明にはなっていないが)。

 

 僕が問題としたいのはその後である。引用しよう。

 

さらに詳しく分析すると、内閣府男女共同参画社会に関する世論調査」(2000年2月調査)の「男性が優遇されている原因」をみると、「日本の社会は仕事優先,企業中心の考え方が強く,それを支えているのは男性だという意識が強い」「社会通念や慣習やしきたりなどの中には,男性優位にはたらいているものが多い」「女性の能力を発揮できる環境や機会が十分ではない」が上位にきている。

〔……〕

つまり、多くの女性の「男性優遇」だと思っているものは、「女性という属性を理由に本人の意思に反して不当な扱いを受けた」という「差別」や「優遇・冷遇」の類ではなく「男性目線で動いているように見える社会」に対する漠然とした不満であると理解できる。

  

 この記述に対して、僕は三つ疑問がある。

①この記述は「差別」や「優遇・冷遇」を「女性という属性を理由に本人の意思に反して不当な扱いを受けた」ということに還元している。そんなに狭く定義してしまっていいのだろうか。

 一見「本人の意思」に反していなかったとしても、不当な扱いを受けることを構造的に選択させられている(ことに納得させられていまっている)というのはありうるように思われる。

 例えば、「男性が優遇されている原因」として「能力を発揮している女性を適正に評価する仕組みが十分ではない」の項目を女性たちが挙げなかったとしても、「日本には適正評価の仕組みが存在する」とは言えないだろう。アンケート調査で明らかになるような個人の意識とは独立して、差別的な仕組みが社会に存在することはありうる。むしろ、個人の気づかないところで差別構造が温存されているとしたら、その方が問題とすら言えるのではないだろうか。

 

②仮に上記の定義に従ったとして、「多くの女性の『男性優遇』だと思っているものは、『女性という属性を理由に本人の意思に反して不当な扱いを受けた』という『差別』や『優遇・冷遇』の類ではな」い、「漠然とした不満である」とまで統計から読み取れるだろうか。この定義で言うところの「差別」や「優遇・冷遇」も起こっている可能性はないだろうか。

 この統計データは複数回答で10個の項目について問われているのだが、そもそもれを選べば「漠然とした不満」なのか、どれを選べば「具体的な(漠然としていない)不満」なのかを区別する基準をすもも氏は設けていない。

 しかも、「育児、介護などを男女が共に担うための体制やサービスが充実していない」の項目が上位3位にきている。これは「漠然とした不満」ではなく「具体的な不満」ではないだろうか。しかも、元のデータを確認すると、この項目は女性回答者では3位だったのに、全体では4位に落ちている。つまり、「男性よりも女性の方がより具体的な不満を持っている」と言える可能性すらあるのである。

 

③また、すもも氏は「『差別』や『優遇・冷遇』が起こっていたら問題だけど、起こっていないから問題ではない」ということを言いたいのだろう。では、「『男性目線で動いているように見える社会』に対する漠然とした不満」は問題ではないのだろうか?

 

 以上を構造的に言い直せば、すもも氏の記述は「Aが差別や優遇・冷遇である」と定義した上で、社会で起こっていることはAではなくBであると言っている。

 それに対して僕の疑問は、①「差別や優遇・冷遇の類」をAと定義していいのか? ②そう定義したとして、Aも実際には起こっている可能性はないだろうか? ③Bに問題はないのだろうか? ということである。

 次の部分に移ろう。 

 

”結果の平等”に怒る女性たち という見出しの部分

 この部分は要するに、女性は機会の平等は得ているのに、その機会を行使しないから結果的に不平等が生じているだけだ、という主張である。

 だが、統計データはその主張を根拠づけているだろうか? まず、すもも氏はジェンダーギャップ指数によって、(特に政治分野において)結果としては「男性社会」になっていることは認めている。

 問題はそのプロセスにおいて、男女間の「機会の平等」が存在するかどうか、である。

 ここですもも氏が提示しているのは、「世界価値観調査」による、「男性は女性よりも政治指導者として優れている」という意見への賛否である。「世界価値観調査」の中から先進12か国におけるデータを抽出し、女性回答者において、日本は賛成が上から4位、反対がワースト1位、なのだという。

 問題はデータから引き出されている解釈である。引用しよう。

 

「男性は女性よりも政治指導者として優れている」という意見に対して、日本の女性は「賛成計」が上位4位、「反対計」がワースト1位であり、「政治家は男性がするもの」という意識が強いことが示唆される。

〔……〕

もし、「政治家になりたい」という女性が非常に少ないのであれば、「ジェンダー・ギャップ指数」を「女性差別」「男性優遇」を主張するエビデンスにはならないのではなかろうか。

政治家における男女比のみならず、管理職の男女比、賃金の格差など、機会は平等だが、結果的に男女差が生じているものに対して「差別」や「優遇・冷遇」の類と混同する議論をよくみかける。

 
この解釈はさすがに飛躍があるように僕は感じた。すもも氏の思考を順番に追っていくと、

 

「男性は女性よりも政治指導者として優れている」という意見への賛成が多く反対が少ない

「政治家は男性がするもの」という意識が強い

「政治家になりたい」という女性が非常に少ない

結果的に政治家の男女比に偏りはあるが、機会は平等である

管理職の男女差や賃金格差においても同じことが言える

男女差はあくまで結果であり、機会は平等なので「差別」や「優遇・冷遇」の類は生じていない

 

と考えていることになる。

   この論理展開に関しては、大きく4つの疑問がある。

 

①統計データの解釈に問題はないだろうか? 「男性は女性よりも政治指導者として優れている」という意見への賛否のデータを見ると、日本は他国と比べて圧倒的に「わからない」の割合が高い。これは、「中央化傾向」と呼ばれる、日本人が人事評価などで「真ん中」を選択する傾向を表しているのだろう。これでは、反対の合計がワースト1位になるのも当然である。
(とはいえ確かに、「わからない」がもし全員反対側に流れたとしても、この12か国の平均より賛成の割合は高いので、他国と比較してこの意見への賛成が多いとは言えるだろう。一応元の統計を見てみたので、詳しくは下の画像を参照)

 


②統計から引き出せる解釈に問題はないだろうか? まず、統計から「政治家は男性がするもの」という意識が強いことを引き出しているが、男性が政治指導者として優れているからといって「政治家は男性がするもの」となるのだろうか? また、仮にそうだとしても、あくまで“他国と比べて”そういう意識が強いというだけであり、そもそも「政治家は男性がするもの」ということに賛成の人が絶対的に多いというわけではない。
 そして、「もし、『政治家になりたい』という女性が非常に少ないのであれば」という書き方にはなっているものの、そもそも「政治家になりたい」という女性が非常に少ないというエビデンスは示されていない。せいぜい「『政治家は男性がするもの』という意識があるとしたら、『政治家になりたい』という女性も少ないのではないか」という推論が成り立つ可能性があるという程度である。ここは「政治家になりたい女性は少ない」というデータを別個に示さないと根拠が薄いように思われる。


③機会は平等だろうか? すもも氏は意識と機会を混同してはいないだろうか? たとえば、「政治家になるための機会」ということを考えてみると、確かに女性は議員として立候補できるし、制度上機会を保障されている。しかし、選挙で勝とうと思えば、票を集めるための手段(地域における地盤固めなど)が必要になってくるだろう。その際にはたして男性と女性は機会が平等だろうか? これは意識の問題ではなく社会構造上の問題である。
 また、仮に意識の上で何かを選択したとしても、「選ばされている」というパターンは無視できない。これは、アンケートを取って「あなたの現状は自分で選択したものですか?」ということを聞いて「はい、自分で選択しました」と答えたとしても言える話である。アンケート回答者が自覚していないところで社会構造によって「選ばされている」ことはありうるからだ。

 このテの「女性は『主体的に〇〇を選んでいる』のか? それとも、『社会構造によって〇〇を選ばされている』のか?」という問いについては先行研究の蓄積がある。
  例えば、「主体的選択か社会構造か」という問いについて、ケア労働の分野において以下の本がある。

 

なぜ女性はケア労働をするのか―性別分業の再生産を超えて

なぜ女性はケア労働をするのか―性別分業の再生産を超えて

 

 

 

④「結果の不平等・機会の平等」は他領域にも一般化できるだろうか? すもも氏は政治についての話を管理職の男女差や賃金格差にも拡張して論じている。しかし、政治の話と労働の話は異なるので、機会が平等だというのならデータが必要だろう。
 むしろ、管理職の男女差や賃金格差においては、「性別職域分離gender segregation」が起こっていると言われており、女性の昇進や賃金上昇の機会は構造的に制限されている(例えば、

CiNii 論文 -  性別職域分離が賃金に与える影響とそのメカニズムに関する実証研究 : 技能に注目して

を参照)。


以上、いろんな疑問を抱いたが、僕がここで最も問題に感じるのは、「男女の機会が平等である」ということが証明されていないことである。

 


日本の女性の幸福度を高めているのは専業主婦 という見出しの部分

 ここでは幸福度の男女差の原因を測るために、個々の属性ごとの幸福度を見ている。

 

  • 女性は「10代」(90年代生)「20代」(80年代生)の幸福度が高い。
  • 女性は「学生」「主婦」「退職」の幸福度が高い。
  • 男性は「未婚」「離婚」の幸福度が低い。
  • 男性は「収入階層意識が高い層」の幸福度が高い。

 

という傾向を見出しており(なお、女性は「自営業」の幸福度も高いようだ)、これ自体は面白い結果である。
(ただし、幸福度が平均より高い/低いと言えるのか、どの程度高い/低いと言えるのかみたいな議論をするのであれば、有意検定をしたり、相関係数を出したりといった操作が必要になるように思われる)

 

 すもも氏はここから、専業主婦について議論していく。まず、日本の女性においては、専業主婦の幸福度が高い。そして、他の国と比べると専業主婦の割合が高い。更に、他の国と比べて「家庭の主婦であることはお金のために働くのと同じくらい充実している」という意見に賛成している割合も高いとデータから分かる。
 そこから、日本の「女性が男性の経済力に依存することが肯定される文化」を見出し、一方で、男性の方は収入階層意識が高い場合に幸福度が高いというところから「男性は経済力をつけなければ幸福になれない」ということを見出している。


 ここまではよくできている。しかし、疑問があるのは次の記述である。

 

恋愛・結婚における力関係では女性が選ぶ側であり、女性の意識が変わっていかない限り、男性の幸福度の向上も男女平等も遠のくだろう。

 

 この記述には二つ疑問がある。

 

①「恋愛・結婚における力関係では女性が選ぶ側」というのは唐突に出てきたが、どういう根拠でそう述べているのだろうか?
 確かに、全体としてはそういう傾向はあるかもしれないが、男性の中にも選ぶ側はいるだろうし、女性の中にも選ばれる側はいるだろうし、そもそも恋愛・結婚市場に参入してこない男性・女性もいるだろう。そのあたりの細かい区別がここからは見えてこない。
 そうなると、続く「女性の意識が変わっていかない限り」という記述にも疑問が出てくる。どういう女性の話をしているのだろうか?

 

②「女性の意識」に還元できる問題だろうか? 記事内の統計データでは意識が扱われているが、意識とは独立したところで恋愛・結婚の環境が決まっている側面はあるだろう。また、女性の意識(や男性の意識)にも文化や制度は強く影響していることだろう。なので、文化や制度の方を変えることで、(「女性の意識の変化」を経由するかどうかは分からないが)男性の幸福度の向上や男女平等に向かうことも可能なはずである(具体例を最後に述べる)。


日本の未婚男性は怒っていい という見出しの部分

 ここでは、未婚男性の幸福度の低さが問題視されている。そのことには強く頷ける側面がある。
 ただし、そもそもの疑問を挙げておくと、この「幸福度」とは何を測っていることになるのだろうか? 元の統計データを見ると、「全体的にいって、現在、あなたは幸せだと思いますか、それともそうは思いませんか」に非常に幸せ・やや幸せ・あまり幸せではない・全く幸せではない・わからないの5件法で答えるものとなっている。
 確かに、こうやって主観的な幸福感を測ることには一定の意義がある。しかし、「満足な豚よりも不満足なソクラテスであれ」という言葉もあるように、必ずしも「私は幸福です」と答えている人が、より質の高い幸福に浴しているとは言いきれないだろう。

(何が幸福と言えるのかについて議論した僕のブログ記事を一応貼っておきます

満足することが嫌いです - 落ち着けMONOLOG

社会学に触れ始めたぐらいの時期に書いた記事なので、拙くて恥ずかしいですが)


 そのため、最後の部分にある「近年のフェミニズムは、幸福度の高い女性に対する『過剰サービス』になっているのではないか」という部分については、なんとも言えないところがあるように思う。
 ただ、未婚男性に関して、社会階層と健康状態、人生における家族・友人の重要性のデータも出しているのは良い方向性だと思う。多角的に見ても未婚男性が苦しんでいるということは確かにもっと強調されてよい。

(男性はいろんな観点から見てしんどい部分があるよ、的な議論については例えば以下の本がある)

 

 

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問

 

 


まとめと個人的な意見

 すもも氏の主張をまとめると、
主張A:「日本は『男性社会』だと思われているが、それはそう見えるだけで『差別』や『優遇・冷遇』の類ではない」
主張B:「しかも、実際には女性は幸福である」
主張C:「専業主婦と経済力のある男性が幸福で、未婚男性は不幸であるので、怒るべきは未婚男性である」
 といったところだろうか。

 幸福度についての分析はそこそこ的確だと思ったが、前半で個人の選択(意識)の問題に還元し、後半で幸福度の問題に還元していることを合わせて考えると、一種の心理主義に陥っているきらいがあるように思われる。そんなに男性個人と女性個人を対立的に描かなくてもよいのではないだろうか。(女性とは独立して)未婚男性には未婚男性の苦しみがあるのだ、ということだけで十分だと思った。


 僕が社会学の人間だからそう見えるだけかもしれないが、もっと社会的な変数も考慮に入れていいのではないだろうか。すると、ある種のフェミニズム的な発想から男性の幸福度を高めることも、たとえば次のように可能なのではないだろうか。

 「子育て支援」の制度が充実していれば、女性が働き続けたり昇進したりできるので女性の賃金も上がる。すると、専業主婦を選ぶメリットは下がる。結果として、「女性が男性の経済力に依存することが肯定される文化」は衰退し、未婚男性は経済力がなくても結婚できるようになったり、経済力以外の幸福の道を見出せるようになったりする……みたいな話である。

  これは空想的なたとえ話に過ぎないので、実際にはデータに即して考えるべきだろうが(たとえば以下の本みたいに)

 

 

子育て支援と経済成長 (朝日新書)

子育て支援と経済成長 (朝日新書)

 

 


 ……なんにせよ、統計的な分析をする人が出てきたのは歓迎すべきことだと思う。統計的な話をしてくれるおかげで、まともに議論することも可能になる。考えるためのキッカケを提供してくれたすもも氏には感謝します。
 「フェミニズムv.s.アンチフェミニズム」のような対立がTwitter上で起こっているように見える。そもそもTwitter上での対立は現実からは乖離しているのかもしれないが、仮にそのような対立があったとしよう。そもそも不毛な対立はしない方がいいとは思うが、敢えて対立するのだとしたら、どちらの議論の質も高まっていってほしいというのが、僕の素朴な願いである。