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人間とのコミュニケーション以外には興味がないことについて

僕のもはやアイデンティティとなってしまった「サークルクラッシュ同好会」だが、実は今年で4年目(まともな新歓は3年目)だ。そんなわけで、もうずいぶんと「新歓」なるものも(良い意味で)ルーティーン化されてきた。

そんなわけで、大体毎年、「こいつはヤバイ」みたいな人が何人かは来るのは分かりきっていたのだけれども、新歓初日に来た1回生(悪い意味で意欲的だ)の一人と話し、なぜサークラ同好会に来たのかを尋ねた。すると、「人間が、好きだからです」(要約)という答えが返ってきた。僕はその言葉にビビっときたものがあり、意気投合していろいろと濃密なコミュニケーションを取った(その人は今やサークラ同好会の一員だ)。

 

「人間が好き」について

「人間が好き」にビビっときたというのはけっこう根深い話で、ホリィ・センのプロフィールなんかにもそういうところは出ている。趣味の欄で「人間に直接関わってくる学問(心理学(特に精神分析)、社会学、哲学など)」と書いている。もはや社会学は専攻なので、「趣味」ではないだろうが。

で、プロフィールだけじゃない。僕が本質的に人間が好きなんだなというのは中学生のときから伺える。僕は中学生のときからホームページを作ったりブログを書いたりしていたのだけど、そのホームページやブログの名前は「(前略)人間と(ry」というものだった。

中学生らしい気取ったタイトルで、この「略す」というものに変な魅力を覚えていたのだろう。正式名称は、今見たところ「管理人ホリィ・センのハイクオリティでネガティブな主観と人間とキャラと萌えと燃えと妄想と夢と理想と名言と本当の幸せを追求するブログページ(の予定。理想は高く現実は虚しく」らしい。中二病だ。ちなみに「理想は高く現実は虚しく」の部分は『フルメタル・パニック!』シリーズの短編、「音程は哀しく、射程は遠く」から取ってる。普通の人からしたらいわゆる「黒歴史」なので、消してもいいんだけど、いかんせん自己同一性への固執が強いので、中学時代のブログは敢えて未だに残してある。閑話休題

この「人間と」の部分を残したのに端的に現れているように、僕は「人間」に、それこそ中学生のときから、強い興味が惹かれていたのだと思う。

 

興味がないものについて

「人間」に興味がある。では逆に、何に興味がないのだろうか。それも、ホリィ・センのプロフィールに書いている。コピペ。

インポ:
音楽
人間以外の自然物や生物や人工物(自然、風景、動物、建築、絵など)
旅行
食べ物

タバコ
コーヒー
ペット
読書そのもの
ミステリ小説
小説等における風景描写

「インポ」、つまり男性器が反応しない程度に興味がないっていうまた気取った書き方で申し訳ないんだけど、ここに見られるように、やはり人間には関わってこないところなのだと思う。「人間が好き」、そのまさに反対として「人間以外に興味がない」ということが大体成り立っている。

ホリィ・センは自意識の強い人間なので、幾度となく自己分析を繰り返しているのだけど、改めて「人間が好き」という根本的な点が真っ先に口に出る人間と出会うと衝撃があった。そこで、僕は更に考えを深める。

 

「人間とのコミュニケーション」ということ

そうして、考えてみて気づいたのだけど、僕は本当は、

ということなんじゃないかということだ。このことには1ヶ月前にぐらいに気づいたんだけど、ふと耐え切れずツイートしてしまった(あまり考えずにツイートした)ので、せっかくだしもう少し整理してブログに書こうと思った。

そして、思ったことはこうだ。学問でも趣味でも何でもいいのだけど、「人間とのコミュニケーション」が含まれない行為は実際のところほとんどない。多少、「人間とのコミュニケーション」の要素は混じってくることは多い。

例えば、読書をするにしても「作者が書いた文字を読む」という点ではコミュニケーションだし、アニメを観ていても、作者の思考がそこに現れている。また、直接的には、声優がキャラクターの口を通じて視聴者に語りかけてくる。

つまり、人間とのコミュニケーションそのものを100%純粋な「人間とのコミュニケーション」だとすると、50%のものもあれば、20%のものもあり、2%のものもあれば、0%のものもあるだろうということだ。だから、「コミュニケーション純度」の高いものを僕は好きで、ほとんどコミュニケーションの含まれていないものにはなかなか興味が湧かない傾向にあるのだと思う。

その中でもやはり僕は100%純粋な人間とのコミュニケーションがとても好きだということに気づいた。僕は去年無職で、だいぶ暇な時間があったのだけど、思えば毎日のようにSkypeで誰かと喋っていた。そしてTwitterをしまくっていた。それほどにコミュニケーションばかりしていた。そこには、「恋愛」も含まれている。

院生となって忙しくなった今でも実はコミュニケーションから離れたわけではない。実家は出たものの一人暮らしは嫌で、シェアハウスに住み始めた。それも、外部から人の来るオープンシェアハウスだ。僕はどうにもこうにも、人とのコミュニケーションが好きすぎてしょうがないのだと思う。

逆に言えば、それ以外は何もかも根本的には苦痛なのだと思う。

そういうわけでごめんなさい、僕にとってはアニメを観るのも漫画を読むのも読書をするのもゲームをするのも、原理的には苦痛なんです。

 

その他細かい補足と蛇足

「ある選択した行為それ自体(「読書をする」とか「アニメを観る」とか「人とコミュニケーションをする」)にどれだけコミュニケーションが含まれているか」という尺度を先ほど挙げたが、ツイートでも示唆されていたように、「ある選択した行為がどれだけコミュニケーションの役に立つか」という尺度も自分の中では重要である。

さまざまな知識や経験を積み重ねることによって、コミュニケーションはかなり豊かになる。僕が(読書するのが苦手なのにもかかわらず)半ば強迫的に読書を重視するのは、そういうところに原因がある。

中学生のとき、名作アニメを観ることを「消化」などとよく言っていた。この「消化」という言葉にはネガティヴな響きがある。そのときそういう言葉遣いをしていたのは、今にして思えば、名作アニメを観ること自体に楽しみを覚えていたのではなく、その先にあるコミュニケーションがメインディッシュだったからではないか。つまり、アニメは単なる手段であって、コミュニケーションという至上目的のための道具でしかない、だから「消化」するものなのだということだ。

 

もう一つ、付け加えておこう。これは今回の話とは少しばかりズレるのかもしれないが、関係のある話のように思うので。それは「行為を始めることの面倒くささ」だ。誰しも経験があると思うが、学校に行ったり習い事に行ったりするのが億劫で、面倒くさいことは今までの人生で経験してきた。

僕は小中学校の頃に野球をやっていたのだが、その練習などは端的な例だった。僕は練習に行くのが億劫で、好きで始めたはずの野球も、練習が休みになると喜んでいた。

このパラドックスの答えは、『おおきく振りかぶって』という野球漫画にあった。その漫画においては、ご飯を食べる際に

①食べる前に「うまそう!」と言う

②食べてるときは「うまい」

③食べた後は「うまかった」と言う

ことが重要視されていた。これは、野球の練習のためだ。普段から何事に対しても「(やる前から)楽しそう→(やっているとき)楽しい→(やった後)楽しかった、またやりたい」というサイクルを作るのが重要で、野球の練習は単調になりがちだし、このサイクルが重要だという考え方だ。

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(意識的に「うまそう!」って言ってるシーン)

僕は正直言って何事も面倒くさい。「楽しそう!」という回路がどうも働かない。普段やってない勉強とかゲームとかも久々にやり始めてみるとめっちゃハマるものなのだが、どうも一歩目が踏み出せない。

そして、これはなんと「人間とのコミュニケーション」にも当てはまる。僕は人に話しかけるのがはっきり言って面倒くさい。いつもいつも、誰か話しかけてきてくれた人とコミュニケーションをとっている。

人間とのコミュニケーションはさっきも書いたようにやっているときは楽しい。でも、話しかけるのが面倒なのだ。もっと言えば、話題がないと話しかけられない。僕は実のところ、話題なんてなくても人と話したい、それ自体が楽しいといつも思っているのだけど、話題がないとどうにもこうにも話しかけられない。

僕はけっこう「何もないけど、話したい」と思っているのだけれども、気がついたら自分からは誰にも話しかけることなく一日は終わっているなんてことは、よくある。話したい人ともっと話したいなあ。