忙しい人のためのジュディス・バトラー

 ジュディス・バトラーというアメリカのジェンダー理論家がいます。最近来日して講演があり、それのまとめも兼ねられた『現代思想』の特集も組まれています。

 

 

 人気な人ですが、その思想の難解さでも知られています。
 僕はバトラーの本では『ジェンダー・トラブル』と『触発する言葉』の一部だけは読みました。また、『ジュディス・バトラー――生と哲学を賭けた闘い』(藤高和輝)という解説書を読みました。難解だとされている人の本をせっかく読み、解説書も読んだのですから、僕なりに紹介しようと思います。ただ、これは僕なりの理解ですし、忘れてる部分もあるのでちょっと間違ってる部分もあると思います。
 ただ、僕が思うにバトラーは運動の方法論として大事なことを言っている(要するに「使える」)と思うので、そういうところを単純にでも紹介しておくことに価値はあると思っています。ということで、正確さについては目をつぶっていただいて、バトラーの運動戦略の部分を知っていただければなと思います。

 

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ジェンダー」概念の刷新

 ジェンダーは「社会的性」とも呼ばれ、セックス(「生物学的性」)と区別されて語られてきた。バトラーが問題にしているのは、この「セックス/ジェンダー」の二分法を「先天的/後天的」だとか「生まれつき/学習」だとか「自然/文化」だとかの二分法に還元されてきたことである。
 この「セックス/ジェンダー」に二分法によって、あらかじめセックスがあり、そこに事後的にジェンダーが付け加わっていくと考えられがちである。そして、セックスは「変えられないもの」であるのに対し、ジェンダーは「変えられるもの」であるという理解を生む。例えば、「性別役割分業」を説明するために「生物学的」な説明と「社会的」な説明のどちらについても考えてみよう。「男性は外で仕事、女性は家で家事・子育て」という違いが存在するのは、古来「男性は狩りに行き、女性は家を守る」ということが行われていたことからも分かるように、それが生存に有利だからだ、という「生物学的」な説明があるとする。
 これに対する「社会的」な説明は例えば、マスメディアや教育、法制度などの様々な「社会的なもの」が個々人に内面化され、結果として男女が違う行動を取らざるを得なくなった、という説明である。そして、この社会的なものの内面化を自覚していれば、「性別役割分業」を今ある形から変更することができる、ということになる。

 

 以上のような説明も確かに重要ではある。しかし、このような説明には限界がある。その限界は大きく二つ。一つは、あらかじめ「生物学的/社会的」という区別を前提としてしまっていること。もう一つは「発達論」とでも言えばよいのか、過去から未来への直線的な因果関係によって物事を理解してしまっていること。
 これらの限界を突破するために、「ジェンダー」という言葉にはもう一つの意味があることを指摘できる。
 バトラーは「セックスはつねにすでにジェンダーである」と述べた。これを(やや不正確ではあるとは思うが)僕なりに説明するなら、セックスは「『生物学的性』にまつわる現象」、ジェンダーは「『性』全般にまつわる現象についての言語」と考える、ということである。すると、「生物学的/社会的」という区別をあらかじめ持ち込む必要はなく(男/女という区別を持ち込む必要もなく)、あらゆる「性」にまつわる現象は「ジェンダー」という言語を用いて理解できることになる。
 ここで、あらゆる「性」にまつわる現象は「ジェンダー」が原因となって生じている、などと考えてはならない。そうではなくて、これは、僕らは何かを理解するときにはなんらかの「言語」を用いて記述しなければならない(絵や身ぶりなども使えるが、それらもまとめて「記号」と置き換えてもよい)ということである。よって、あらゆる「性」にまつわる現象は「ジェンダー」という言語を用いて理解される。だから、「生物学的性」なるものや、科学的だとされている物事も「ジェンダー」という言語を用いた記述によって理解することになる。
 この記述のあり方は様々である。例えば、「性同一性障害」という言葉があるが、最近では同じ現象が「性別違和」と呼ばれるようになった。このように記述が変わることで、「病気」として理解されていたものが「病気」として理解されなくなったということである。このことによって、「障害」として治療の対象とされたり、「異常」なものとして理解されたりする可能性は減ったと言えよう。

 

 よって、このもう一つの「ジェンダー」概念は「性にまつわる現象において、『変えられる部分』を変えること」を志向しているのではなく、性にまつわる現象について「どのように解釈するか」を変えていくことを志向している。だから、一見、言語を操るだけでは世界は何も変わらないように見えるかもしれないが、このもう一つの「ジェンダー」(言わば「解釈可能性」としてのジェンダー)の変化次第では歴史や過去さえも書き換えることができるのである。例えば、「これからの社会では男性・女性に対してこういう理解をしていこう」というだけでなく、「男性・女性はそもそも昔からこうだったのだ」という新たな解釈を創り出せる可能性がある(それは“悪用”も可能である。例えば、核家族による性別役割分業を「古代から男女の役割分担とはこういうものだったのだ」と解釈することも可能なのだから。しかし、歴史的な知識を用いれば、日本で核家族がちゃんと成立したのは1960年頃ぐらいからのことに過ぎない、と言うこともできる)。

 

「自然」なるものの社会構築性

 バトラーはこのようにジェンダー概念を刷新した。そして、「自然な生物学的性」なるものがジェンダー(ここでは、社会における性についての言説や解釈)によって事後的・遡及的に作り上げられていることを指摘し、その様を描き出している。

 例えば、これはバトラーの出した例ではないが、同性愛の歴史などが分かりやすいと思う。細かいことは省略するが、ある時期までは「同性愛者」は存在せず、「同性愛」という行為が法的な処罰の対象になっていたという程度である(国によって違う)。それが19世紀に「同性愛者」となり、医学的な病気として扱われるようになった。同時に「異性愛者」が「自然」なものであるということに“なった”わけである。ただし、現代では「同性愛者」は医学的な病気としては扱われていない。

 この話の元ネタはフーコーというフランスの思想家である。フーコーは『性の歴史1 知への意志』という本で、フロイトの「抑圧仮説」を批判している。フロイトによれば、人間の性は抑圧され、社会的にも隠されたものとなっている。だからその抑圧から「解放」しなければならないのだというのが基本線である。フロイトに影響を受けたライヒやマルクーゼのような思想家もこの「解放」を志向している。

 しかし、フーコーからすれば「抑圧があるぞ」と強調することがむしろ「抑圧以前」の「解放」を事後的・遡及的に作り上げているということになる。これによって、(例えば教会で懺悔として)自らの性について語ることがある種の「真理」を語っている、ということになっていった。「真理」は性科学や精神分析などの知とも結びつき、性に関する言説はむしろ生み出されたのである。従来の抑圧する権力に対してフーコーはこのような生み出す権力を「生産的権力」と呼んでいる。

 ジェンダー概念の説明で述べたように、バトラーは「セックス」において以上のようなフーコーの考え方を真似たわけである。

(ただし、バトラーはフーコーから一歩進んで、「抑圧/解放」の二分法の生まれた後に、その二分法を相対化する運動戦略を提示している。例えば、先ほどの同性愛者の病理化の話で言えば、図式的には「抑圧された同性愛者/解放された異性愛者」の対立ということになるが、「生産的権力」によってなされたこの対立の激化はむしろ「同性愛者」についての言説を増大させた、とバトラーなら考える。そして、「同性愛者」というカテゴリーを当事者たちが転用する社会運動が生まれた、と考えられる。それにより「抑圧された同性愛者/解放された異性愛者」という二分法は撹乱される。

つまり、ここでは「同性愛者」カテゴリーを病人とは違う意味にズラしながら反復使用していることになるが、その運動論的意味については下の方で述べる「バトラーの運動戦略:引用と反復」を参照)。

 

主語と述語

 「同性愛」という行為がなぜ「同性愛者」という主体になるのか、ということについては様々なことが言えるが、とりわけバトラーの論において面白いのは文法構造に注目し、主語と述語の関係について論じているところである。詳しくは僕も理解していないが、要するに述語(動詞)の前に主語が存在するということが暗黙に前提されているということである。ジェンダー論の世界ではDoing genderという言葉やgendering(動詞としてのジェンダー)という言葉があるが、これは、ジェンダー化された主体が動詞によって作られていることを指摘する批判的な言葉である。
 バトラーはこの「暗黙の前提」論法が大好きである。バトラーの主要な論はだいたいこれで説明できるので、以下で紹介していこう。

 

「構成的外部」

 バトラーが「構成的外部」という概念を使っているわけではないが、この言葉が分かりやすいと僕は思っている。
 一般的に言えば、「Aが社会において存在できるのは、Bが暗黙に非Aとして、構成的外部となっているからである」という主張である。
 例えば、男と女という性別二元論があるが、「女」が「男ではないもの」として構成的外部として存在するからこそ男が存在する、という感じである。異性愛者/同性愛者についてもこの論法が使われていたはず。

 また、上で述べたように、フーコーは「抑圧からの解放」の社会構築性を指摘していた。フーコーがやったことは、性に関する「抑圧/解放」の二分法がいかにして生み出されたかという系譜を解き明かすことである。バトラーはこの「構成的外部」論法を使うことで、法的権力が抑圧を生み出すと同時に、その抑圧を「構成的外部」として「解放的主体」が生み出されるという論理展開でフーコーを批判的に継承している。

 

「一枚岩の主体」批判

 そして、上記の「抑圧された主体/解放的主体」のような二元論をバトラーは問題視している。例えば、『ジェンダー・トラブル』ではフェミニズムが「女」という固定した一枚岩の(解放的)主体を元に運動することの限界を指摘している。なぜなら、その「女」というカテゴリーにみんなが包摂されるわけではないからである。それまでのフェミニズムが白人の異性愛者によるものであり、黒人の女性やレズビアンがないがしろにされてきたことを指摘している。
 また、フェミニズムが採用する「家父長制」という概念は、「男性による女性の支配」という図式を普遍化することになるが、それはかえって男/女の二元論を強化することに繋がってしまう。
 まあ、そんなこと言うからバトラーはそれまで運動してきたフェミニズムの人たちに批判されることにもなるわけですが。

 

バトラーの運動戦略:引用と反復

 では、バトラー的にはどのように社会運動すればいいのだろうか。「黒人のフェミニスト」などの様々な細分化されたカテゴリーを作って、それらを元にそれぞれが運動するということがまず考えられるが、それではみんなバラバラに細分化されてしまい、分断が起きてしまう。
 それでは、新しく革命的な主体を作り上げるのはどうか。「女」というカテゴリーではなく「レズビアン」というカテゴリーで戦ってみるとか(ウィティッグ)。あるいは「両性具有」に可能性を見出してみるとか(フーコー)。しかし、それもバトラーは批判する。現状の社会の「外部」に新たな主体を設定することによって、結局「内部/外部」という二元論が強化され、既存の構造は温存されてしまうというのが(おそらく)バトラーの見立てである。なので、「社会にある言語は全部『男性的』なものだ! だから、身体やリズムなどを重視した『女性の言語』を生み出そう!」みたいな実践もバトラーからすると批判対象である。

 それではどうすればいいのか。バトラーは歴史的な文脈から運動を切り離すのは基本的に不可能だと考えている。あらゆる言語活動は何らかの先行する文脈の引用であり、反復であるのだと。そこで、バトラーはむしろ積極的に反復することを推奨する。しかし、ただ単に反復するだけだったら既存の構造を再生産するだけである。既存のカテゴリー(例えば、「男」や「女」)を批判的に問い直し、言わば「引用元」をズラしながら反復するという戦略になってくる。

 

パロディ

 ではどういう風に反復すればいいのか。先ほどのバトラーが男女二元論を批判していることを述べたが、バトラーによれば二元論は「生まれたときに男だったら、社会的にも男であり、愛する相手は女」という、セックス・ジェンダーセクシュアリティの一貫性を生み出してしまうのだという(強制的異性愛だとか、異性愛マトリクス(基盤)だとか言われる)(おそらくもっと言えば、白人・健常者などの一貫性も生み出しているだろう)。
 そこで、バトラーはドラァグクイーンをバトラー的運動戦略の例として挙げる。ドラァグクイーンはセックス・ジェンダーセクシュアリティのそれぞれについて、男・女などを言わばバラバラに付け替えることが可能である。このドラァグの実践はバトラーに言わせれば「パロディ」なのだという。パロディとは何かの模倣ということだが、それはオリジナルのない模倣である。ドラァグの実践から、われわれは「男」や「女」というカテゴリーはそもそも最初からパロディでしかないということを知る。ドラァグは言わば、パロディのパロディなのである。確かにこれは先ほど述べたような「引用元をズラす」という実践になっている。
 更に指摘しておくと、ドラァグは装う実践であるため、身体が用いられる。バトラーによれば、身体はなんらかの実践をするための前提となるが(身体には習慣とかも根付いている)、それと同時に言葉を超えていく過剰なものでもある。この過剰性によって言わば引用は「失敗」するわけで、この引用の失敗を保証してくれるのが身体、ということになる。

 

言葉狩り表現の自由

 最後に応用問題。バトラーはどちらかと言えば表現の自由推進派である。ポルノの規制が進む昨今、バトラーはポルノの中にもここまで述べてきたような効果的な引用・反復実践があるのではないかということを述べるわけである。逆に表現規制や「言葉狩り」には慎重である。ポリコレ的にアウトな言葉があったとして、そういう言葉が規制されたとしよう。すると、その言葉の意味はそれで固定化されてしまうことになる。それよりもむしろバトラーは言葉を(批判的に)用いることによって意味がズレていくことを狙っているわけである。

 バトラーはこんな例も挙げている。性暴力を受けた人がいたとして、その人が原告として裁判が起こったとしよう。その際、その性暴力を受けたということをやはり引用しながら喋ることとなってしまう。この際、むしろ司法側の権力が被害者に対して言葉の使用を強いているわけである。つまり、バトラーは言葉狩り表現規制は権力の横暴(権力による言葉の引用・反復)を招くというようなことを主張しているのである。この意味では例えば、「ヘイトスピーチ規制法」は権力側による規制となるため、あまりよろしくない。

 

 

 

  

ジュディス・バトラー 生と哲学を賭けた闘い

ジュディス・バトラー 生と哲学を賭けた闘い