忙しい人のためのジュディス・バトラー

 ジュディス・バトラーというアメリカのジェンダー理論家がいます。最近来日して講演があり、それのまとめも兼ねられた『現代思想』の特集も組まれています。

 

 

 人気のある人ですが、その思想の難解さによっても知られています。
 僕はバトラーの本では『ジェンダー・トラブル』と、『触発する言葉』の一部だけは読みました。また、『ジュディス・バトラー――生と哲学を賭けた闘い』(藤高和輝)という解説書を読みました。難解だとされている人の本をせっかく読み、解説書も読んだのですから、僕なりに紹介しようと思いこの記事を書きます。ただ、これは僕なりの理解ですし、忘れてる部分もあるのでややズレた理解をしている部分もあるかもしれません。

 とはいえ、僕が思うにバトラーは運動の方法論として大事なことを言っている(要するに“使える”)と思うので、そういうところを単純にであっても紹介しておくことに価値があると思っています。

 ということで、正確さについては目をつぶっていただいて、バトラーの“運動戦略”の部分を知っていただければと思います。

 

*** 

 

ジェンダー」概念の刷新

 ジェンダーは「社会的性」とも呼ばれ、セックス(「生物学的性」)と区別して語られてきた。バトラーが問題にしているのは、この「セックス/ジェンダー」の二分法が「先天的/後天的」や「生まれつき/学習」、「自然/文化」といった二分法に還元されてきたことである。

 この「セックス/ジェンダー」の二分法のせいで、人間にはあらかじめセックスが備わっており、そこに事後的にジェンダーが付け加わっていく、というふうに考えられがちである。そして、セックスは“変えられないもの”であるのに対し、ジェンダーは“変えられるもの”であるという理解すらも生んでしまう。

 

 たとえば、「性別役割分業」という事態を説明するために「生物学的」な説明と「社会的」な説明の両方について考えてみよう。

 「男性は外で仕事、女性は家で家事・子育て」という違いが存在する理由は、古来より「男性は狩りに行き、女性は家を守る」ということが行われていたことで、それらの男女の差異が“生存”に有利な性質として進化してきたからである……このような「生物学的」な説明があるとしよう。
 それに対する「社会的」な説明はたとえば、マスメディアや教育、法制度などの様々な“社会的なもの”が個々人に内面化され、結果として男女が違う行動を取らざるを得なくなった、という説明である。

 前者の「生物学的」な性質は“変えられない”のに対し、後者の“社会的なものの内面化”については私たちが自覚するようになれば、「性別役割分業」を今あるかたちから変更することができる、ということになるだろう。

 

 ……以上のような説明もたしかに意味はあるし、しばしば重要でもある。しかし、このような説明には限界がある。その限界は大きく二つある。一つは、あらかじめ「生物学的/社会的」という区別を前提としてしまっていることである。もう一つは過去から未来への直線的な因果関係によって物事を説明してしまっていることである(「進化論的」や「進歩史観」とでも言えばよいだろうか)。
 これらの限界を突破するために、「ジェンダー」という言葉にはもう一つの意味があることを指摘できる。バトラーはこのことを強調しているので以下で説明しよう。

 

 バトラーは「セックスはつねにすでにジェンダーである」と述べた。これを(やや不正確ではあるとは思うが)僕なりに説明するなら、セックスは「『生物学的性』にまつわる現象についての知識」、ジェンダーは「『性』全般にまつわる現象についての知識」と考える、ということである。敢えて集合関係で言えば、セックスはジェンダーに含まれる(セックス⊂ジェンダー)ということになるだろう。

 すると、「生物学的/社会的」という区別をあらかじめ持ち込む必要はなく(男/女という区別を持ち込む必要もなく)、あらゆる「性」にまつわる現象は「ジェンダー」という知識を用いて理解できることになる。
 ここで、あらゆる「性」にまつわる現象は「ジェンダー」が“原因”となって生じている、と考えてはならない。そうではなくて、ここでは、僕らが何かを理解するときにはなんらかの「言語」を用いて記述せざるをえない(厳密に言えば、絵や身ぶりなども使えるので、それらもまとめて「言語」を「記号」と置き換えてもよい)ということを強調しているのである。

 すなわちこれは、あらゆる「性」にまつわる現象は「ジェンダー」という言語を用いて理解されるという考え方である。すると、“生物学的”や“科学的”だとされている「性」にまつわる記述も「ジェンダー」という言語を用いた記述によって私たちは理解しているのだ、と考えることができる。
 ここでの記述のあり方は様々である。たとえば、「性同一性障害」という言葉があるが、最近では同じ現象が「性別違和」と呼ばれるようになった。このように記述が変わることで、「病気」として理解されていたものが「病気」として理解されなくなったということである。このことによってたとえば、「障害」として治療の対象とされたり、「異常」なものとして理解されたりする可能性はおそらく減っていくことだろう。

 

 よって、このもう一つの「ジェンダー」概念は「性にまつわる現象において、『変えられる部分』を変えること」を志向しているのではない。むしろ、性にまつわる現象について「どのように解釈するか」を変えていくことを志向している。

 言語の使い方を変えるだけでは世界は何も変わらないように思う人もいるかもしれないが、このもう一つの「ジェンダー」(言わば「解釈可能性」としてのジェンダー)の変化次第では、歴史や過去(に対する解釈)さえも書き換えることができるのである。

 よってこの意味での「ジェンダー」を再検討していくことで、「これからの社会では男性・女性に対してこういう理解をしていこう」と主張していくことができる。また、「男性・女性はそもそも昔からこうだったのだ」という新たな解釈を創り出せる可能性すらもある。

(それは“悪用”も可能である。たとえば、核家族による性別役割分業は、歴史的な知識で考えれば、日本で核家族がちゃんと成立したのは1960年頃ぐらいからのことにすぎない。にもかかわらず、「古代から男女の役割分担とはこういうものだったのだ」という解釈が社会に浸透させられてしまえば、性別役割分業の正当性が高まってしまうだろう)

 

 

「自然」なるものの社会構築性

 バトラーは以上のようにジェンダー概念を刷新した。そして、「自然な生物学的性」なるものがジェンダー(ここでは、社会における性についての言説や解釈)によって事後的・遡及的に作り上げられていることを指摘し、その様を描き出している。

 たとえば、これはバトラーの出した例ではないが、同性愛の歴史などが分かりやすいと思う。細かいことは省略するが、ある時期までは「同性愛者」は存在せず、「同性愛」という行為が法的な処罰の対象になっていたという程度である(国によって違う)。それが19世紀に「同性愛者」となり、医学的な病気として扱われるようになった。同時に「異性愛者」が「自然」なものであるということに“なった”わけである(ただし、現代では「同性愛者」が医学的な病気として扱われることは基本的にはない)。

 

 以上の話の元ネタはフーコーというフランスの思想家であるが、バトラーはフーコーから強い影響を受けている。

 フーコーは『性の歴史Ⅰ 知への意志』という著書において、フロイトの「抑圧仮説」を批判している。フロイトによれば、人間の性は抑圧され、社会的にも隠されたものとなっている。だからその抑圧から「解放」しなければならないのだ、というのが基本線である。フロイトに影響を受けたライヒやマルクーゼのような思想家もこの「解放」を志向している。

 しかし、フーコーからすれば「抑圧があるぞ」と強調することがむしろ「抑圧以前」の「解放」を事後的・遡及的に作り上げているということになる。これによって、(たとえば教会での「懺悔」として)自らの性について語ることがある種の「真理」を語っている、ということになっていった。

 「真理」は性科学や精神分析などの知とも結びつく。そして、性に関する言説は(抑圧によってなくなったのではなく)むしろ生み出されたのである。従来の“抑圧する権力”に対してフーコーはこのような”生み出す権力”を「生産的権力」と呼んでいる。

 上のジェンダー概念の説明で述べてきたように、バトラーは「セックス」において以上のようなフーコーの考え方を真似た。すなわち、「ジェンダー=社会的性別」と定義して、その問題を強調すると、かえって「セックス=“自然”な生物学的性別」が事後的に作り出されてしまう、という事態をバトラーは指摘した。

(ただし、バトラーはフーコーから一歩進んで、「抑圧/解放」すなわち「“自然”からは逸脱したもの/“自然”なもの」のような二分法が浸透した後に、その二分法を相対化する運動戦略を提示している。

 たとえば、先ほどの同性愛者の病理化の話で言えば、図式的には「同性愛者は病気/異性愛者は自然・正常」の二分法ということになるが、「生産的権力」によってなされたこの対立の激化はむしろ「同性愛者」についての言説を増大させた、とバトラーならば考える。

 それはつまり、「同性愛者」というカテゴリーが生まれた“おかげで”、(当事者たちなどが)そのカテゴリーを転用する社会運動が生まれたということである。その社会運動によって、結局のところ「同性愛者は病気/異性愛者は自然・正常」という二分法は撹乱されることになる。

 つまり、ここでは「同性愛者」カテゴリーを病気とは違う意味にズラしながら反復使用していることになる。その「反復」の運動論的意味については、下の方で述べる「バトラーの運動戦略:引用と反復」を参照)。

 

主語と述語

 「同性愛」という行為がなぜ「同性愛者」という主体の問題になってしまうのか、ということについては様々なことが言えるが、とりわけバトラーの論において面白いのは“文法構造”に注目し、主語と述語の関係について論じているところである。(詳しくは僕も理解していないが、)要するに「述語(動詞)の前に主語が存在する」ということが多くの言語において暗黙に前提されているということである。

 ジェンダー論の世界ではDoing genderという言葉やgendering(動詞としてのジェンダー)という言葉があるが、これは、ジェンダー化された主体が動詞によって作られていることを指摘する批判的な言葉である。
 バトラーは「暗黙の前提」を指摘する論法が大好きである。バトラーの主要な論にはだいたいこれが含まれている。続けて以下で紹介していこう。

 

「構成的外部」

 バトラーが「構成的外部」という概念を使っているわけではなかったように思うが、この言葉が分かりやすい(と僕は思う)ので、ここでは使おう。
 まず一般的に書けば、「Aが社会において存在できるのは、Bが暗黙に『非A』として、構成的外部となっているからである」という主張になる。
 たとえば、男と女という性別二元論があるが、「女」(B)が「男(A)ではないもの」(非A)という構成的外部として存在しているからこそ男が存在できる、という感じである。異性愛者(A)/同性愛者(B)についてもバトラーはこの論法を使っている(はず)。

 

 また、上で述べたように、フーコーは「抑圧からの解放」の社会構築性を指摘していた。フーコーがやったことは、性に関する「抑圧/解放」の二分法がいかにして生み出されたかという系譜を解き明かすことであった。

 それに対してバトラーはこの「構成的外部」論法を応用した。法的権力が抑圧を生み出すと同時に、その抑圧(B)を「構成的外部」(非A)とするような「解放的主体」(A)が生み出されてしまうという論理展開でフーコーを継承している、というわけである。

 

「一枚岩の主体」批判

 そして、上記の「抑圧された主体/解放的主体」のような二元論をバトラーは問題視している。

 たとえば、『ジェンダー・トラブル』ではフェミニズムが「女」という固定された一枚岩の(解放的)主体を元に運動することの限界を指摘している。なぜなら、その「女」というカテゴリーにみんなが包摂されるわけではないからである。それまでのフェミニズムが白人の異性愛者によるものであり、黒人の女性やレズビアンがないがしろにされてきたことをバトラーは指摘している。
 さらに、フェミニズムが採用する「家父長制」という概念は、「男性による女性の支配」という図式を普遍化することになるが、それはかえって男/女の二元論のみを強化することに繋がってしまう(女性内部での多元性を隠蔽してしまう)。
 まあ、そんなこと言うからバトラーはそれまで運動してきたフェミニズムの人たちに批判されることにもなるわけだけども。

 

バトラーの運動戦略:引用と反復

 では、バトラー的にはどのように社会運動すればいいのだろうか。「黒人のフェミニスト」などの様々な細分化されたカテゴリーを作って、それらを元にそれぞれが運動するということがまず考えられるが、それではみんなバラバラに細分化されてしまい、分断が起きてしまう。
 それでは、新しく革命的な主体を作り上げるのはどうか。「女」というカテゴリーではなく「レズビアン」というカテゴリーで戦ってみるとか(ウィティッグ)。あるいは「両性具有」に可能性を見出してみるとか(フーコー)。

 しかし、それらについてもバトラーは批判する。現状の社会の「外部」に新たな主体を設定してしまうと、結局「内部/外部」という二元論が強化され、既存の構造は温存されてしまうというのが(おそらく)バトラーの見立てである。

 ゆえに、「社会にある言語は全部『男性的』なものだ! だから、身体やリズムなどを重視した『女性の言語』を生み出そう!」みたいな実践もバトラーからすると批判対象である。

 

 それではどうすればいいのか。バトラーは、歴史的な文脈から運動を切り離すのは基本的に不可能だと考えている。あらゆる言語活動は何らかの先行する文脈の引用であり、反復であるのだと。

 そこで、バトラーはむしろ積極的に反復することを推奨する。しかし、ただ単に反復するだけだったら既存の構造を再生産するだけである。既存のカテゴリー(たとえば、「男」や「女」)を批判的に問い直し、言わば「引用元」をズラしながら反復するという戦略になってくる。

 

パロディ

 ではどういう風に反復すればいいのか。先ほどのバトラーが男女二元論を批判していることを述べたが、バトラーによれば二元論は「生まれたときに男だったら、社会的にも男であり、愛する相手は女」という、「セックス・ジェンダーセクシュアリティの一貫性」を生み出してしまうのだという(このことについてバトラーは、「強制的異性愛アドリエンヌ・リッチの言葉)」や「異性愛基盤マトリクス」といった言葉で指摘している)(おそらくもっと言えば、これらに加えて白人・健常者などの一貫性も生み出してしまっているだろう)
 そこで、バトラーは「ドラァグクイーン」をバトラー的運動戦略の例として挙げる。ドラァグクイーンはセックス・ジェンダーセクシュアリティのそれぞれについて、男・女の性別カテゴリーを言わば“バラバラに付け替える”ことが可能な存在である。

 このドラァグの実践はバトラーに言わせれば「パロディ」なのだという。パロディとは何かの模倣ということだが、それはオリジナルのない模倣である。ドラァグの実践から、われわれは「男」や「女」というカテゴリーはそもそも最初からパロディでしかないということを知る。ドラァグは言わば、パロディのパロディなのである。たしかにこれは先ほど述べたような「引用元をズラす」という実践になっている。

 更に指摘しておくと、ドラァグは装う実践であるため、身体が用いられる。バトラーによれば、身体はなんらかの実践をするための前提となるが(たとえば身体には日々の習慣などが根付いている)、それと同時に“言葉を超えていく過剰なもの”でもある。この過剰性によって引用は「失敗」する。逆に言えば、この引用の「失敗」(=ズラし)を保証してくれるのが身体、ということになる。雑に言ってしまえば、バトラー的には「引用」は失敗してくれた方が、既存の構造を揺らがせられるので、ありがたいのである。

 

言葉狩り表現の自由

 最後に応用問題。バトラーはどちらかと言えば表現の自由推進派である。ポルノの規制が進む昨今、バトラーはポルノの中にもここまで述べてきたような効果的な引用・反復実践があるのではないか、ということを述べるわけである。

 逆に表現規制や「言葉狩り」には慎重である。ポリコレ的にアウトな言葉遣いがあり、そういう言葉が規制されたとしよう。すると、その言葉の意味はそれで固定化されてしまうことになる。それよりもむしろバトラーは言葉を(批判的に)用いていくことによって意味がズレていくことの方に賭けているわけである。

 バトラーはこんな例も挙げている。性暴力を受けた人がいたとして、その人が原告となって裁判が起きたとしよう。その際、裁判所では「性暴力を受けた」という経験をやはり引用しながら喋ることとなってしまう。ここではむしろ、司法側の権力が被害者に対して言葉の使用を強いているわけである。

 つまり、バトラーは言葉狩り表現規制は権力の横暴(権力側による言葉の引用・反復)を招くというようなことを主張しているのである。この意味ではたとえば、「ヘイトスピーチ規制法」は権力側による規制となるためにあまりよろしくない、ということになるかもしれない。

 

(2022/7/14追記:自分の文章表現がヘタだと感じたので、ある程度改稿しました)

 

 

  

ジュディス・バトラー 生と哲学を賭けた闘い

ジュディス・バトラー 生と哲学を賭けた闘い