草食系男子とホモソーシャルを超えて――ナンパとセックスをめぐる三人の対話

 

この文章は、webマガジン「高電寺」の創刊号「特集:フリーセックス」に寄稿したものです。

そのため、最終的にはフリーセックスについて考えています。

 

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登場人物

イド:精神分析が好き。無意識の衝動を大事にしている。

超自我ジェンダー論が好き。世の中の男性中心主義を憂いている。

わたし:イドさんと超自我さんが折衷できる点を探る。フリーセックスについて現実主義的に考えている。

 

AVを教材にセックスする時代の帰結

わたし インターネットで手軽にAV(アダルトビデオ)を目にする現代の私たちは、AVを観ることでセックスを学びます。そのままAVというフィクションが現実の――AVの多くは男性向けに作られているため、多くの場合男性の――セックスを規定することにもなります。そのセックスの実態はいかがなものでしょうか。

超自我 よく言われることですが、AVにおけるセックスは、性暴力が伴っていたり、男に都合が良いように女性が快楽を覚えていたり、ガシガシと手マンをしていたり、といった感じで、現実の性関係におけるセックスと深刻なズレをきたしかねないものが多いんですね。

イド たしかに、AVが性癖の型を決めちゃうみたいなところありますよね。私たちはオナニーのオカズを渉猟する中で、好みの女優やシチュエーション、性的嗜好フェティシズムを掘り下げ、開発していきます。それと同時に、その欲望のあり方はなんらかの形に収束し、画定され、閉じてもいく場合も多いでしょうね。

 たとえば私はマゾヒストです。女性優位のシチュエーションのオカズでないと抜く気が起きません。高校時代に催眠オナニー(「催眠音声」によって自身を催眠にかけながらするオナニー)を実践していたことによって、たまたま乳首が開発されたこともあり、基本的に自身の乳首を触りながら射精することにしています。このようなルーティーンは、長年の絶えざる反復によって培われてきたと言えるでしょう。

超自我 そういうオナニー等によって閉じていった理想のイメージがそのままセックスへと投影されることも多いわけです。その帰結は、「他人の身体を使ってオナニーをする」という事態です。これは、2人でセックスしている場合の双方に起こっていることもあるでしょう。

 そこで起こっているのはおそらく、「相手をモノのように扱う」ということです。オナニーにのみ習熟してきた人は、相手が意志を持った人間である、ということに堪えられず、罪悪感をおぼえたり、逆におぞましさを感じたりすることになるわけです。だからそこから逃げて相手をモノ扱いしてしまう。

 

幻想は本能を超える

わたし そんな「2人オナニー」とも呼べる事態において、それでもセックスがある程度成り立っているのは、セックスの「ゴール」が明確に定まっているからでしょうね。そのゴールとは陰茎の膣への挿入、そしてオーガズム(“イく”こと)です。挿入する前のやり取りを「前戯」と呼ぶように、それは「本番」と対置されています。この社会では多くの場合、男性の射精によって幕を閉じることになっています。

 このように――異性愛の男女がするものである、という前提も含め――セックスのイメージが固定されていることで、多くのセックスが齟齬なく成り立っています。たとえその内実は「2人オナニー」であったとしても。これは、祝福すべきことでしょうか。

イド なるほどたしかに、生殖を目的としているのであれば、そうなのかもしれません。

 しかし、「唯幻論」で知られる岸田秀も言うように、人間は本能の壊れた動物です。生殖行為をせずに一生を終えることも珍しいことではありませんし、自殺だってする生き物です。

 岸田の考えの元となったフロイトは、生殖へと至る、性器中心主義的な性欲の発達モデルを描いたために、フェミニズムの立場からは批判されてきました。しかし、むしろフロイトは「多形倒錯」という言葉で、幼児の性欲のあり方が未分化であり、どうとでも発達しうることを示唆した点にそのラディカルさがあるのです。

 たしかに、文化・社会的な学習の中で、人の欲望は①現実性愛中心主義、②異性愛中心主義、③二者関係中心主義、④性行為中心主義、⑤挿入中心主義、⑥オーガズム中心主義へと導かれる傾向があります。それぞれにおいて打ち捨てられているのは、①フィクションの性愛、②異性愛以外の性愛、③三者以上の性愛関係、④性行為以外の性愛、⑤⑥挿入・オーガズム以外の性行為です。

 とはいえ、もはや人間が生殖と性的欲望とを区別して、別々に享受しているということは世界の常識でしょう。

超自我 その背景には、避妊具の発明がありますね。生殖を目的としたセックスが、そうでないセックスよりもヒエラルキー的に上にある、ということはもはやないでしょう。

イド そのとおりです。となれば、先に述べた6つの「中心主義」は、今後の人類の歴史の中で解体されていく可能性もあるでしょう。

 このように考えると、そもそも私たちの「欲望」一般は、生殖を至上目的とする一元的な欲望から、分化してきたものだと見ることもできるでしょう。もともと生殖=性欲として一つの結晶体だったものが、自身の出自を忘れて様々な欲望へと変化していったのではないでしょうか。フロイトはあらゆるものに性的な意味を見出そうとすることから「汎性欲説」であると批判されてきましたが、このような分化の過程を想定してみると、実はすべてが性から始まっている、と考えるのもゆえなきことではありません。

 人間の欲望がこのように分化していったのは、「幻想(ファンタジー)」の作用です。もはや人間には身体的・本能的基盤はなく、すべて幻である、という極論が生まれるのも理解できないことではありません。

 

分化する性欲

イド 現代が生殖中心の性愛を解体する過程にあるとすれば、その惰性として、「本当は生殖にまで至るつもりだったけど、途中で止まった性欲」を考えることができます。これもまたフロイトの卓見です。

 フロイトは、幼児の乳飲みやトイレトレーニング、性器いじりといった現象から、口唇期、肛門期、男根期といった発達段階をモデル化しました。幼児はこれらの期間に対して固着する(強いこだわりを持つような出来事がある)ことによって、自身の性的嗜好の基盤を作っていく、というのがフロイトの考え方です。大人になって、唇や肛門が性感帯になりやすい理由の一つはここにあります。

 フロイトはさらに、性格までもこの「固着」によって形成されると考えました。それはともかくとして、「生殖にまでは至らなかった」性欲がある、という発想は更なる考察を生みます。つまり、フェティシズムの問題です。

 フェティシズムはしばしば物質へと向かいます。人間を部分へと切り分け、はてはパンツや靴のような身体部位ではないものにまで興奮するようになります。ここには先ほど超自我さんが述べていた「相手をモノのように扱う」という機制が含まれていますね。

 とはいえ、生殖に至る性行為=人間扱い/生殖に至らない性行為=モノ扱いというわけではありません。生殖へと至る性行為にだってフェティシズムは含まれうるでしょうし、そもそも「モノ扱い」と対比される「人間扱い」とは何を意味しているのだろうか、という疑問が湧くでしょう。

超自我 その疑問については後に検討することにしましょう。確認しておきたいのは、現代の人間は決して生殖中心のセックスを営んでいるわけではないし、すでに挿入・オーガズムを中心としたセックスも相対化されつつある、ということです。そして、更に推し進めるならば、先にイドさんが述べた6つの「中心主義」にはすべて解体の可能性がありますね。

わたし 今回は④の性行為中心主義を解体する可能性について取り上げましょう。

 具体的な題材として、「ナンパ」という行為を扱います。日本の一部界隈で流行した「恋愛工学」と呼ばれるナンパ術と、それに対する批判的見解を取り上げて、最終的には「友だち主義」とも呼べる方向性を提示するという流れになります。

 

 小説『ぼくは愛を証明しようと思う。』

わたし 「ナンパ」という行為においては、習熟するための「マニュアル本」が出回っています。マニュアルではなく、小説の形式で多くの読者を生んだ作品が『ぼくは愛を証明しようと思う。』(2015)です。

 この小説は著者である藤沢数希(物理学のPh.Dで投資家とされている)がブログ「金融日記」やメールマガジンで連載していた「恋愛工学」が元となっています。そのため、この本は小説の形式で書かれているものの、実際には「ナンパマニュアル」として機能していると考えられます。

 社会学者の井上俊(2008)によれば、私たちの社会生活の経験はしばしば「物語」的に構成されているといいます。それは「人生は物語である」「人間関係はドラマである」といったことを単なるメタファーとして捉えるのではなくて、「物語」や「ドラマ」を実際に社会生活に織り込まれたものとして捉える視点です。つまり、文学における「物語」は、私たちの社会的経験や行為の様式を形成する側面がある、ということです。

 つまり、このマニュアルが「小説」という形式で書かれているのは、読者に新たな行為様式を根づかせる効果を狙ってのことだと言えるでしょう。

 それでは、ナンパマニュアルが読者に対してどのように機能することになるのかを検討するために、まずはこの小説のあらすじを紹介しましょう。

 

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プロローグ:恋愛工学に熟達した時点での渡辺と永沢(後述)のやりとりが描かれている。「この東京の街は、僕たちのでっかいソープランドみたいなもんですね」「ああ、無料のな」という酷いセリフが印象的。

 

第一章:特許事務所に勤める主人公、渡辺正樹は二七歳の弁理士で、結婚まで考えていた恋人の麻衣子に手ひどく振られる。失意の中、友人と六本木ヒルズにあるバーで飲んでいると、突然現れた男がモデルのような美女三人と話し始め、15分もしないうちに一番の美女とキスし連絡先を交換する。その男は仕事のクライアントである永沢だった。渡辺はプライベートで永沢に接触し、モテるためのテクニックを伝授してもらおうとする。渡辺の今までの行動を永沢は恋愛工学独特の用語(非モテコミット※1、フレンドシップ戦略友だちフォルダ※2)で解説していく(いずれも本文中では太字ゴシック体)。そして、恋愛も勉強や仕事と同じで効率良くやるべきもので、「正しい方法論」があるのだと諭す。

 

※1:「非モテコミットというのは、お前みたいな欲求不満の男が、ちょっとやさしくしてくれた女を簡単に好きになり、もうこの女しかいないと思いつめて、その女のことばかり考え、その女に好かれようと必死にアプローチすることだ」(文庫版 58ページ)

 

※2:「フレンドシップ戦略というのはなんですか?」「お前みたいなモテない男が、非モテコミットした女にアプローチするときにやる、唯一の戦略だよ。まずはセックスしたいなんてことはおくびにも出さずに、親切にしたりして友だちになろうとする。それで友だちとしての親密度をどんどん深めていって、最後に告白したりして彼女になってもらい、セックスしようとする戦略のことだ」「確かに、そうやってきました。でも、それがふつうだと思うんですけど、ダメなんですか?」「まったく、ダメだ。なぜなら女は男と出会うとそいつが将来セックスしたり、恋人にするかもしれない男か、ただの友だちにする男かをすぐに仕分けてしまう。友だちフォルダだ。いったんこの友だちフォルダに入れられると、そこからまた男フォルダに移動するのは至難の業だ」(59ページ)

 

第二章:トライアスロン」と称された「週末の街コン→ストナン(ストリートナンパ)→クラナン(クラブナンパ)のサーキットで、1日50人以上の女にアタックする」という修行を、渡辺は永沢に助けられながら遂行していく。

 

第三章:渡辺はナンパによって連絡先を交換した女性たちとデートを繰り返した末、一人を家に誘ってセックスする。

 

第四章:渡辺はナンパによって知り合った一人の女性と交際するものの、一ヶ月も経たないうちに振られ、自らの「非モテコミット」を恥じる。なおも「恋愛工学」に則りナンパを続ける渡辺は複数人とセックスを重ねていく。しかし、「スランプ」に陥り一ヶ月半の間新しく女性と関係を持てなかったことで永沢に相談する。永沢は「お前、何を目的に、街にナンパしに行くんだ?」と渡辺に問い、「俺たちは、出会った女を喜ばせるためにナンパしないといけない」と告げる。

 

第五章:適宜「恋愛工学」の用語が紹介されつつ、本文中で「Aクラス」とランク付けされた女性に渡辺はターゲットを絞っていく。取引先の女性に対しても手を出したことが露見し、結果的にセクハラとして訴えられたことで、渡辺は会社を辞める。

 

第六章:失意の中、再就職もうまくいかず女性との関係を失った渡辺だったが、伊豆に旅行に行った際に女性と出会う。

 

エピローグ:交流を再会した永沢に対して、「いまはもう、たくさんの女と関係を持ちたいとは思わないんです。ひとりの女を愛することを学びたい」と告げる。しかし、最後のシーンで再度渡辺がナンパを始めていることが示唆されている。

 

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わたし あらすじは以上です。ここから、「非モテコミット」をしていたダメな自分が、ナンパを通じて「男」になっていくという過程は容易に読み取れるでしょう。

 「恋愛工学」に限らず、ナンパのマニュアル本にはしばしば「今までのダメな自分を変える」という「自己啓発」のノリがあります。しかし、「自分を変え」た先にどこに向かうのでしょうか。

 この小説のオチでは、ナンパを辞めて一人の人間を愛そうとする意志を主人公が語っています。しかし、再度ナンパを始めてしまうという「ナンパ依存症」のような側面が見られます。なので、ナンパにハマることの危険性を指摘しているようにも読めなくはないのですが……。

 

「恋愛工学」と女性蔑視

超自我 この小説を批判した論文が哲学者の森岡正博(2017)によって書かれています。森岡は集団性的暴行事件を起こした千葉大学の学生が「恋愛工学」に“私淑”していたということが書かれた『週間文春』の記事に言及するところから始め、この小説を分析しています。

 森岡はこの小説に対して、「セックスを最終目標とし、女性を「股を開く」メスとして捉える「女性蔑視」の思想」があると述べています。また、「女性に喜びを与える、幸せにするとの言辞も書かれているが、それは「恋愛工学」の「女性蔑視」を糊塗するための言い訳」であるとも述べています。森岡の読みに従うなら、第六章とエピローグの内容は、社会から糾弾された際の言い訳として取ってつけた内容だということになるでしょう。

 森岡は元のメルマガである「週刊金融日記」の言説やそれに対する読者の反応まで分析しており、説得的な議論を展開していると言えるでしょう。

 森岡がそうまで「恋愛工学」にこだわり、批判をする理由は「私もまた、恋愛に奥手で女性にどう迫っていけばいいか分からない若い男性たちに恋愛と性愛のアドバイスをしたい気持ちがあるし、またいろんな女性たちとセックスの冒険を重ねていきたいという彼らの気持ちが理解できるから」だといいます。しかし、「恋愛工学」によって女性蔑視に染まってしまえば、女性の尊厳を毀損してしまい、好きな人との関係を結局は壊してしまう、というのが森岡の主張です。

わたし なるほど。森岡の立場は女性への性暴力やハラスメントを防止し、性別に関わりなく人々が対等な関係を作っていくべきであるという観点からすれば一理あるでしょうね。しかし、地に足がついていないというか、現代日本社会における男性性の現実に立脚できていないところがあるようにも思います。

 

「草食系男子」という夢想

わたし 森岡は哲学者でありながら、『草食系男子の恋愛学』(2008)という男性向けの指南本と、『最後の恋は草食系男子が持ってくる』(2009)という「草食系男子」の魅力を紹介した女性向けの本を書いています。「草食系男子」という言葉を広めるのに大きな役割を果たした人物ななんですね。

 森岡は草食系男子を 「心が優しく、男らしさに縛られておらず、恋愛にガツガツせず、傷ついたり傷つけたりすることが苦手な男子のこと」(森岡 2009: 7)と定義しています。そして、「みずからが規範を産出して女性を制圧し保護するという意味での『男らしさ』を窮屈に感じ、その呪縛から自分で降りようとしている男性たち」(森岡 2011: 26)でもあるといいます。森岡はインタビューによってその存在を確認したうえで、殺人検挙数の低下から「草食系男子の増加」の傍証を試みています。しかし、はたして、「草食系男子」がスタンダードになる兆しはあるのでしょうか。

 実際のところ、高橋征仁(2013)によると、「日本性教育協会」の青少年への調査から「草食化」の4つのトレンドである①性的欲望の縮小、②性行動の不活発化、③性別分業意識の低下、④性別隔離の解消はおおむね支持できるものの、この4つは男性だけでなく女性にも起こっている現象なのです。

 そして何より、その4つのトレンドに全体としての一貫性があるわけではないのが問題です。具体的には、④の性別隔離の解消は「異性の友人がいる」という回答が増加したという点で見られるものの、①~③とは逆向きの関連があるのです。つまり、「性的関心がないのに異性の友人がいる」というパターンは比較的少ないのです。

 高橋は、この4つのトレンドが「草食系男子」としてひとかたまりのものとして扱われてしまう理由の解釈を次のように述べています。「性経験が豊富なために『がつがつしない』という因果的推論を行うことで、性行動の分極化という全体像や消極化の原因を見誤っている」、「かつての『肉食系』の男性像――異性との接触機会があれば、それを恋愛やセックスのチャンスととらえて積極的にアタックする――を前提にしている。そして接触機会が増えたにもかかわらず消極化する男子という理論的構成をとっている」(高橋 2013: 55)。しかし、実際には、男性は異性との接触機会がある者とない者とで単に二極化しているだけなんですね。

 にもかかわらず、森岡(2009: 61-143)のインタビューに登場する草食系男子は「性的関心がないのに異性の友人がいる」というパターンのものです。つまり、先ほどの高橋のデータにおいては少ない類型のものが取り上げられているわけです。

 森岡の言う「草食系男子」はある種の「理想」であって、現実のトレンドを反映しているとは言い難いんですね。

超自我 ただ、森岡のインタビューは4人とも三十歳前後のものですので、大学生以下である高橋のデータとは単純に比較できない側面はあると思いますけどね。

「男らしさ」から始めよ?

わたし 敷衍して考えるならば、日本社会には未だに「男らしさ」のヒエラルキーが厳然として存在していると言えるのではないでしょうか。つまり、「性的関心の強さ」と「異性との接触機会」というワンセットの基準において、「男であるもの」と「男でないもの」が二極化、すなわち序列化しているということです。

超自我 「男らしさ」一般について考えるために参考になるのは「男性学」という分野の蓄積です。日本の男性学の第一人者と言える伊藤公雄(1996)は、優越志向、権力志向、所有志向で定義される「男らしさ」の「鎧(よろい)」を脱いで、「自分らしさ」を志向することを勧める、いわゆる「脱鎧論」を提唱しました。

わたし たしかに、脱鎧論は男性性を相対化するにあたって一定の役割を果たしたと言えるでしょうね。しかし、これもまた草食系男子同様のある種の「理想」なのではないでしょうか。

 宮台真司ほか(2009)の『「男らしさ」の快楽――ポピュラー文化からみたその実態』では伊藤の脱鎧論に対する批判的な検討が行われています。そこでは、これまでの男性性研究の対象が職場や家庭の性別役割分業といった限定された空間に偏っていたことが指摘されています。それゆえ、「男性性にはそもそも暴力性や抑圧性が内在するものである」とひとくくりに論じられることが多かったんじゃないかという疑問が呈されています。

 同著の結論部分では、ミソジニー(女性蔑視)とホモフォビア(同性愛嫌悪)から定義される「ホモソーシャリティ」が旧来的な「男らしさ」を再強化してしまう(暴力に繋がってしまう)可能性を指摘してはいます。しかし、ホモソーシャリティの多元的機能(関係性のスキルを養うことや文化継承など)を代替することの難しさから現実的な「とりあえずの連帯」としてホモソーシャリティから出発するべきだということが述べられています。

 すなわち、「自分らしさ」に「空回り」を続けるよりも、「男らしさ」をある程度基盤にして「群れ」つつ「男らしさ」を内部からずらすような「処方箋」こそが(関係性の構築において)現実的だという主張です。

 「男らしさ」を内部からずらす、というのはいまひとつイメージしにくい言い方だと思います。そこで次は、『「男らしさ」の快楽』の編者の一人でもある宮台真司のナンパ論から、その内実を探っていきましょう。これは、先に挙げた「恋愛工学」が旧来的な「男らしさ」を温存しようとすることへの批判にもなっています。

 

宮台真司のナンパ論

イド それについては私が説明しましょう。宮台がナンパを主題として取り扱ったおそらく最新の本である『「絶望の時代」の希望の恋愛学』(2013)に基づいて、宮台のナンパ論を整理します。

 一言で言えば、宮台は「スゴイ人」が持っている〈感染力〉によって、身体の内から湧き上がってくる〈内発性〉が駆動することを重視しています。ただし、それは個人の意志力や、損得勘定に基づいた「自発性」ではありません。「スゴイ人」は利他的行動を取るのにいちいち理由を考えません。「我々」や「共同体」と呼べるような〈ホームベース〉がしっかり構築されているので、理由をスキップできるのです。逆に〈ホームベース〉がなければ、利他的行動を取る際に、いちいち「見返り」を計算することになります。これは「セコイ人」がやることです。

 そして、〈内発性〉に基づいて行動することで〈ホームベース〉は構築されます。〈内発性〉に基づいた行動と〈ホームベース〉とは相互規定的であるということですね。

 「スゴイ人」は人を巻き込むカリスマ的な力を持っています。〈今ここ〉を生きている人間を〈ここではないどこか〉へと連れていき、ある種のトランス=〈変性意識状態〉(めまいや酩酊)を引き起こします。そうして、その人においてもまた、〈内発性〉が駆動し始めるわけです。これは言わば〈感染〉の過程ですね。

 現代は「我々」「共同体」のような生活世界が、システムによって植民地化された時代です。それゆえ〈感染〉が困難になっています。しかし、ナンパはそのような〈感染〉を引き起こし、自身と他者の〈内発性〉を駆動するものでなければなりません。

 しかし、宮台によれば世のナンパマニュアルはそのようにはなっていません。決まり文句(ルーティーン)を設定し、他者からの承認を目指すものになっているのです。そこで、宮台はマニュアルの問題を「硬さ」と「細かさ」という言葉でまとめています。

 一方で、マニュアルに書かれているような文字通りのテキストにこだわることは、「変わらないコンテクスト」「他者が発しているオーラ」への感度をなくしてしまいます。一つ一つの言葉にいちいち「硬く」反応するのではなく、「言葉なき言葉(オーラ)」に反応できる〈敏感さ〉を持とうということです。

 他方、マニュアルに書かれていることで「これがいいのか、あれがいいのか」といちいち比較することは、相手の反応に一喜一憂してしまう「細かさ」を生んでしまいます。むしろ、他者からの承認の可能性にいちいち頓着しないという意味での〈愚鈍さ〉を持つべきなのです。

 結果として、ナンパマニュアルは〈変性意識状態〉を生まず、ナンパにおける〈踏み出し〉という前半プロセスは可能になったとしても、そのまま袋小路に入ってしまい、その後の〈深入り〉という後半プロセスは実現しません。その状態で行なわれるナンパでは、他人がモノ扱いされることになります。宮台はこれを人格化ならぬ「物格化」と呼んでいます。

 大まかには、以上が宮台のナンパ論です。

超自我 最後におっしゃった「物格化」は、「恋愛工学」においても見出せるナンパマニュアルの問題点ですね。

イド はい。それに対して、この宮台のナンパ論には「男らしさ」をずらしていく実践も含まれています。それは、「今までの自己を破壊する」という、精神分析的な視点によって達成されます。ここからは私なりの説明をつけ加えましょう。

 

自己を破壊せよ

イド そもそも、他者を自分のファンタジーの中に押し込めて「物格化」し、自意識に留まっているうちは、殻を破れません。自身の「男らしさ」をずらしていく上では、相手に対して〈深入り〉していくことが重要です。

 というのは、ナンパを通じて〈深入り〉した人間関係になっているときには、お互いが〈変性意識状態〉に入ることができるからです。その際、自分と相手は、自己の核となる部分同士でコミュニケートすることになります。すると、自己の基底にあった「男らしさ」もどんどん変形していくことになります。

超自我 なるほど。たしかに実際、男性学者の多賀太が、青年期の男性のアイデンティティ形成についてのインタビューで、恋人との交際を通じて「伝統的」な男女観が相対化された事例を提示していますね(多賀 2006: 56-62)。

 その理由として多賀は、元々の価値観が相対化されるためには、対抗的価値観を強く「内面化」する必要があると述べています。そして、価値の内面化において情動的なコミュニケーションが重要である、というパーソンズの説を引いています(多賀 2006: 70-71)。

イド そういうことはあるでしょうね。ここからはさらに精神分析的な説明をします。まず、フロイトは、人間が興奮したり緊張したりして高まったエネルギーを解放し、低めることで快楽を得ることを「涅槃原則」と呼びました。そこから、エネルギーがゼロになった状態=死を人間は求めているのではないかという仮説を見出し、フロイトは「死の欲動」と呼んでいます。

 「死の欲動」は無意識から湧き出てくるわけですが、逆に、意識や自我と呼ばれるものは、「無意識」のカオスな力に対して防衛、すなわち「フタ」をしてしまいます。しかし、このような防衛的態度では現在の自己はひたすら固定され、「男らしさ」への神経症的なこだわりを解消することができません。だからこそ、自己を破壊する「死の欲動」の力を使うわけです。

 ところで冒頭で、私たちの欲望は、生殖を至上目的とする一元的な欲望から分化してきたものではないか、ということを述べました。しかし、その元となっている生殖欲=性欲は種のレベルで見れば自己保存的ですが、個人のレベルで見れば自己破壊的な側面があります。というのはまず、女性にとっては妊娠や出産が大きな健康リスクです。何より、生殖を導くオーガズム(“イく”こと)は、「今ここ」の自己から離れる、エクスタシーの感覚を伴うというところが、自己破壊的なんですね。

 このように、生殖を導くオーガズムが最初から自己破壊的な側面を持っていることは、フロイトの「死の欲動」説の傍証となっているでしょう。そして、そこから私たちの持っている欲望が分化してきたものだとするならば、その欲望にも自己破壊的な側面がある、と考えるのは自然なことです。

 しかし、その欲望が他者の「物格化」へと閉じてしまうならば、せっかくの自己破壊的側面も失われてしまいます。

わたし あ、つまり、その逆の事態である〈人格化〉は自己を破壊するということですか?

イド そのとおりです。えっと、説明するとですね、「人に対して一人の人間として接する」とき、私たちは自我の境界を揺らがせ、他者の中に深く入り込むことなるわけです。そこでは、剥き出しの他者の欲望も自己に流れ込んできて、自己は破壊を余儀なくされる、ということです。

 こう考えると、冒頭で述べた人間扱い/モノ扱いの区別は、自己破壊/自己防衛という区別に対応すると言えます。

 結局のところ、ナンパというのは自己を変えるためにやっているわけですから、自己が破壊されることを恐れることはないんです。むしろ、凝り固まった「男らしさ」をずらしていく契機になるという点でも、祝福すべきことなのです。

超自我 ふむふむ。まだ咀嚼しきれていないですが、なんとなく分かったような気がします。しかし、その話もやはり、精神分析的な説明を理想化してしまっているんじゃないですかね。本当に「男らしさ」はずらされているのか、疑問があります。

 

師匠と弟子――排除された女性

超自我 『「絶望の時代」の希望の恋愛学』で、宮台は理由なき利他性:〈内発性〉を育むために「妥当に方向づけられた性愛実践」を提唱しています。しかし、ここで「妥当に方向づける」のは宮台自身や経験を積んだナンパ師たちですよね。これってすごくホモソーシャル的な状況なんじゃないでしょうか。

わたし 実際、宮台は『「男らしさ」の快楽』の「脱鎧論」批判としてホモソーシャリティを肯定的に評価していますからね。ホモソーシャリティの多元的機能(関係性のスキルを養うことや文化継承など)を代替することは難しいのだと。

イド たしかに、宮台自身、ある社会学者が実践していたナンパを見て、その「グルーヴ」の中でナンパを始めたのだと電子書籍版のあとがきで書いています。これは、「スゴイ人」が弟子にあたる人物を〈感染〉させていく過程なんでしょうね。

 弟子にあたる人物は「スゴイ人」を理想化していて、認識のうえでは〈変性意識状態〉が生じているんでしょう。これは精神分析で言うところの「陽性転移」ですし、先ほど述べた「自己の破壊」にも繋がる、ということなんじゃないですかね。

超自我 しかし、そこには女性がいない。「師匠と弟子」という形で脈々と受け継がれてきた継承線は、圧倒的に男性に偏っていますよね。

 それがまさにホモソーシャルなんですよ。ナンパのような実践では、女性が性的な対象として外部化され、そのことによって、「女性でないもの」である男性たちが自らの「男らしさ」を確立していくことになります。

 のみならず、「恋愛工学」への森岡の批判でも述べられていたように、ナンパは現実問題として女性に対する性暴力の温床になってもいます。

わたし なるほど。全てのナンパが悪いとまでは私は思いませんが、そこには構造的な問題がありますね。

「依存症」におけるメタ的な自己保存

超自我 はい。加えて、もう一つ問題があります。性愛関係が〈変性意識状態〉を生み、非日常の〈ここではないどこか〉へと旅立つ手助けになりうる、ということが宮台のナンパ論だったわけですが、逆向きの可能性もありえます。それは「依存症」です。

 アルコール依存症をはじめとして、そもそも依存症の対象は強い刺激によって〈変性意識状態〉を誘発することが多いですよね。これはまさに自己を破壊するわけですが、その自己の破壊が「クセ」になってしまっては元も子もないんじゃないでしょうか。つまり、自己を破壊する、ということがルーティーンになってしまったら、メタ的な意味では「自己を破壊することを習慣としている自己」が保存されることになるんじゃないかと。

 依存症の対象は、ある意味では、自己を苦しみから解き放ってくれるものです。人は依存することによって「自己治療」をおこなっていると言います。しかしそれゆえに依存は強まり、量が増えるなどして、身体にも耐性がついてきます。非日常だった依存の対象は日常化し、より強い刺激を求めることでしか非日常は得られなくなるわけです。言ってしまえば、バカになってしまうんですね。

イド 「男らしさ」をずらす、という課題においては、〈変性意識状態〉を生んでくれる依存の対象はある意味重要だと思うんですけどねぇ。

超自我 しかし、それが日常化してしまい、「アルコールをどれだけ飲めるか」や「何人の女とヤったか」を競うゲームになってしまったら、それは旧来的な男らしさに回収されてしまいますよね。それは結果的に人間関係も破壊して、男性の場合、女性への暴力にも向かう傾向が強いわけです。

よいナンパとわるいナンパ

わたし なるほど。ナンパには女性を排除しているという問題や、依存症的な自己保存を帰結してしまいかねないという問題があることは分かりました。私たちは、そのような問題を避けつつ、自己を破壊することで「男らしさ」をずらしていく、という価値をナンパから救い出さなければならないんじゃないでしょうか。

 つまり、もっと「よいナンパ」がありうるはずだと。

 そもそもナンパとは何かを定義するのは難しいですよね。見知らぬ人に話しかける、という意味であれば、僕らは多かれ少なかれナンパを普段やっていることになります。

超自我 ただ、その中でも、対象を〈物格化〉し、凝り固まった自己を保存してしまうようなナンパは問題ですよね。

イド 宮台のナンパ論から言ってもそうですね。ナンパが目指すべきものは、むしろ対象の〈人格化〉であり、相手の視点に深く入り込むことで、自己が破壊されていくということです。

わたし しかし、相手の視点に深く入り込むということには必ずしも性愛関係が伴うわけじゃないですよね。自他の境界が曖昧になる〈変性意識状態〉の中で、お互いの無意識が発露し、自己が破壊されていく、と。これが起こることが重要なのであって、性愛関係が必要条件だというわけではない。

 むしろ、現実的に考えればまだまだ現代日本社会では、性愛関係においては一対一の関係がスタンダードですよね。フリーセックスのような形でスタンダードが破られると、精神的に傷つく人は多いでしょう。

超自我 昨今はMeTooブームもあり、セクハラや性暴力に対する意識も高まっています。今の世の中で、セックスを至上目的としたナンパを持続していくのは無理だと思いますね。

わたし なるほど。やはり、地に足のついた「よいナンパ」のあり方を提示しなきゃいけないようですね。最後に私なりの意見を述べたいと思います。

恋愛の魔力

わたし 自分の話になりますが、私は「付き合う」という契約をして一対一の恋愛関係をやっていくことに非常に息苦しさを感じるようになりました。

 自分で言うのもなんなのですが、僕には友だちが多い。とりわけ女友だちとは、一対一で「深い話」をしがちです。

 それに対して付き合っている人が嫉妬してしまうのに困っていました。顔も知らない女性に対して、激しい怒りを覚えたりする。逆に、よく知っている女性と私が話していてもあまり怒りはしない、ということすらありました。

 この恋人の怒りは「付き合う」という契約によって正当化されているのだと思います。顔すら知らない女性に対しても彼女は怒ることができてしまう。言うならば、恋愛というものが持っている魔力なのだと思います。

 だから私は「付き合う」ということに対しては慎重になりました。実質的には恋愛関係にある人との関係を「付き合ってはいない」と定めることにどれだけ効果があるのかと言われると微妙なんですが……少なくとも私は「付き合う」ことに疲れてしまいました。

 

女友だちと〈セックス〉するために

イド しかし、あなたはどうしようもなく異性愛者で、女性に対して恋愛感情を抱いてしまいますよね。その感情自体を完全に抑えることはできないし、精神分析的に言えば、抑圧されたものは回帰してしまうと思います。

わたし そうですね。だからむしろ、私は女性への恋愛感情は徹底的に自覚したいと思います。

超自我 自覚するおかげで、行動化しないで済むという面はあるでしょうね。行動化しなければ、暴力や関係の破壊に繋がりやすい性行為は、制限することができる。

イド それでも女性に対して強い感情を抱くこと自体は自由です。フロイトに言わせれば、人間のコミュニケーションへの欲求は「目標(性行為)を制止されたもの」です。つまり、性欲が分化し、文化的に意味づけられたものとしてコミュニケーションがある、と考えればいいでしょう。

わたし たしかに、人と深い話をしているとき、「まるで〈セックス〉をしているみたいだった」と感じることがあります。冗談めかして「完全に〈セックス〉していた」と言っている人もいましたね。実際文字通りそのとおりなのではなんじゃないでしょうか。

イド ディープな会話は、自他の境界を揺らがせ、〈変性意識状態〉を誘発します。そして、深いコミュニケートの中で、ゆっくりと自己は破壊され、再構築されていきます。それはいわゆる性行為ではなくとも、〈セックス〉なのではないか、ということですね。

 

ナンパとフリーセックス

 はこれまで様々な場所に飛び込んで友だちを作ってきました。それはナンパと変わらないものだと思います。意気投合して深く話し込んできました。それはセックスと変わらないものだと思います。

 世界には様々な人間がいます。様々な人間と様々に交歓します。そのセックスを一人の相手としかしないなんてもったいない。しかし、社会の性規範は、どうしようもなくフリーセックスを否定し、現に人々は傷つき、その豊かな可能性は毀損されてしまっています。

 傷つくこと自体も、必ずしも悪いことではありません。「草食系男子」は「傷つけることも傷つくことも恐れている」といいますが、傷つきのない人間関係なんて、多くの場合嘘っぱちなんじゃないでしょうか。それはただ、リスクから自分を防衛しているに過ぎず、「傷つき」がなければ、古い自己をずっと大事に保存してしまうでしょう。

 しかし、非対称な権力関係によって、「傷つける男」と「傷つけられる女」が固定されてしまっているという構造はあります。そして、傷つきを受け入れ、乗り越える仕組みもまた、十分には整備されていないでしょう。それこそが問題なのです。

 性行為中心主義的ナンパから友だち主義的ナンパへ。フリーセックスから〈フリーセックス〉へ。これが現代の性愛に対してが打ち出せる方向性です。

 

【文献】

藤沢数希、2015、『ぼくは愛を証明しようと思う。』幻冬舎

井上俊、2008、「社会学と文学」『社会学評論』59(1): 2-14。(再録:2019、『文化社会学界隈』世界思想社、2-23。)

伊藤公雄、1996、『男性学入門』作品社。

宮台真司編、2013、『「絶望の時代」の希望の恋愛学』KADOKAWA/中経出版

宮台真司・辻泉・岡井崇之編、2009、『「男らしさ」の快楽――ポピュラー文化からみたその実態』勁草書房

森岡正博、2008、『草食系男子の恋愛学メディアファクトリー

――――、2009、『最後の恋は草食系男子が持ってくる』マガジンハウス。

――――、2011、「『草食系男子』の現象学的考察」『The Review of Life Studies』Life Studies Press、1: 13-28。

――――、2017、「『恋愛工学』はなぜ危険なのか――女性蔑視と愛の砂漠」The Review of Life Studies Vol.8 (February 2017): 1-14。

多賀太、2006、『男らしさの社会学――揺らぐ男のライフコース』世界思想社

高橋征仁、2013、「欲望の時代からリスクの時代へ――性の自己決定をめぐるパラドクス」日本性教育協会編『「若者の性」白書――第7回 青少年の性行動全国調査報告』小学館: 43-61。