『Re: ゼロから始める異世界生活』というアニメを毎週楽しく観ている。僕は原作は読んでいないのだが、33話まで放映されたアニメの範囲で、ある種の批評性を感じているのでそれについて試論する。「リゼロ」を読んでる/観てる人向けの記事です。
1.「ループもの」から「異世界もの」への連続性と断絶
『Re: ゼロから始まる異世界生活』は小説投稿サイト「小説家になろう」の人気ジャンルである「異世界もの」である。それと同時に、主人公が死ぬと一定の「セーブポイント」に戻り、やり直す「死に戻り」というシステムがある。
この「死に戻り」のシステムはオタク文化において「ループもの」として広く受け入れられてきた。批評家の東浩紀は『動物化するポストモダン』や、その続編にあたる『ゲーム的リアリズムの誕生』でこの「ループもの」について論じている。
東の議論には様々な論点があるが、ここでは「キャラクターとプレイヤーの二層化」の話に絞ろう。
ゲーム、とりわけ美少女ゲームにおいては、プレイヤーは選択肢を選ぶことによってゲームを進めていく。選択肢を間違えればゲームはバッドエンドになってしまうわけだが、プレイヤーはセーブしたところから(あるいは最初から)ゲームをやり直すことができる。そして、間違った選択肢Aを選ぶとキャラクターがどうなるのかを知っている立場から、プレイヤーは間違った選択肢Aを避けるわけである。
つまり、未来の立場のプレイヤーは、キャラクターとしての過去をやり直すことができる。これが、「キャラクターとプレイヤーの二層化」である。この「ゲーム的」な構造はゲームに限らず様々なフィクションにおいて用いられ、「ループもの」というジャンルが流行したと考えられる。東は『動物化するポストモダン』のなかで、その二層構造を「解離」や「多重人格」と結びつけている。
というのも、多くの美少女ゲームはマルチストーリー・マルチエンディングの形式を採用しており、個々のストーリーではヒロインとの「純愛」や「運命」が強調される一方で、プレイヤー視点に戻れば選択肢の分岐によって複数の恋愛を体験することができる、ご都合主義が存在するからである。このご都合主義を矛盾なくやり過ごすには、あるヒロインとの「運命」的恋愛のことを忘却したり、人格を分裂させたりする必要があるというのが東の見立てである。
これはいくぶん比喩的ではあるが、実際に美少女ゲームは「記憶喪失」の構造に支えられている。美少女ゲームの主人公は「幼なじみ」と子ども時代を過ごしていたはずだが、そのときの記憶があまりないという設定が典型的である。そして、どのヒロインを攻略するかが選択されていくことによって、事後的に子ども時代の記憶が確定する(実はこの子とは幼い頃に会っていた! 運命だ!)という構造を持っている*1。
この「忘却」の構造が存在する点で、「ループもの」は「異世界もの」に繋がっている。「異世界もの」の一つの魅力は、その魅惑的な世界観によって、現実の世界を忘却させてくれるからだ。悪く言ってしまえば「現実逃避」の構造を持っているわけである。
しかし、「ループもの」からは一方で、現実に向き合う「やり直し=思い出し」構造を抽出することもできる。過去の「間違った選択肢」をトラウマとして反復しながらも、それを乗り越えていく、そんな構造である。この構造が「異世界もの」では薄まってしまった、その点で「ループもの」と断絶がある、とひとまずは言えるだろう*2。
*1:
なお、この記憶喪失構造はハーレム的な欲望を満たす。プレイヤー視点に立てば選択前に戻ることによって複数の運命を経験できる=複数のヒロインを攻略できるという点を東は指摘しているわけだが、そもそも子ども時代の記憶が曖昧であれば、「誰が運命の相手なのか」の答えを保留したままで複数のヒロインが登場させることができる。いわば、「運命の相手」という変数xにどの女の子でも代入できる状態を楽しむことができる。この構造は、美少女ゲーム以外でも例えば赤松健の『ラブひな』で指摘できる。「トーダイに一緒に行くこと」を約束した女の子が誰なのかをめぐって二人のヒロインが候補に挙がってくる、という話がソレである。
この「なんでも選べる」という記憶喪失構造の全能性ゆえに、宇野常寛はセカイ系=美少女ゲームを「レイプ・ファンタジー」と名付けて批判している。
*2:
むしろ、忘却構造を強化するような、あるいは別世界に別の「現実」があると考えてしまうような、そんな構造が昨今流行りのジャンルからは読み取れる。元の生活からは切り離され、閉鎖された世界での勝利を目指す「デスゲームもの」。世界の破滅を"生々しく"描く「ポスト・アポカリプスもの」。あるいは、夾雑物が紛れ込んでこない純粋な世界を描いた「日常系」や「アイドルもの」もそうかもしれない。
とはいえ、東の議論に沿って考えれば、リアルとフィクションとの間に境界線がはっきりと引かれ、フィクションにおける「現実逃避」の機能が強まる、というベクトルだけでもあるまい。むしろ、リアルがフィクションのレンズを通して再構成され、フィクションの傾向がリアルの文化に影響を受けて変化していく、そういうこともあるはずである。僕にそれらを細かく論じる知識はないので、ここではそのあたりのジャンルについては述べないでおく。
2.「リゼロ」における乗り越え
前置きはこのくらいにして、それでは「リゼロ」がどのようにしてこの「忘却=現実逃避」構造を乗り越えていったのかをアニメを観て気づいた範囲で記そう。
痛みを忘れないループ
真っ先に指摘できることとして、リゼロはループの仕方が特殊である。よくあるループものでは、ゲームをプレイしている人と一緒で試行回数を増やすことによって最適解を見つけていくのが定番である。
しかし、リゼロにおいては、ちゃんと死の痛みが忘却されずにトラウマになってしまっている。主人公のスバルはそれにより精神に変調を来たしている(おまけに、ループするたびに「魔女の残り香」が強化されていくことで、周囲のキャラクターから信用されるための難易度も上がっていく)。
異世界転移なのに元の世界のことを思い出す(29話)
主人公のスバルは引きこもり生活をしていたらふと異世界に転移したという設定である。この設定は単に読者/視聴者にとって感情移入しやすいからそうなっているのだ、と僕は素朴に考えていた。
しかし、29話。聖域における試練において、スバルの過去が明かされる。スバルは自分が父と比較され、周囲からの期待に応えることがプレッシャーとなり、引きこもりとなったのである。アニメで描かれた、暑苦しくも優しさがイタい親子関係に対して、僕は共感性羞恥のようなものをおぼえた。「日常系」というジャンルではしばしば親が描かれないが、その真逆で、ここまでイタイタしく親子の関係を描くのには新しさを感じる。
スバルの母の声優が柚木涼香なのは『うたわれるもの』を思い出すし、「マヨネーズか世界か」という問いがセカイ系を意識しているのは言うまでもなく、なぜマヨネーズかというと慎吾ママのおはロック(2000年)のパロディなんだよな。父殺し、家族システムとしての引きこもりみたいな主題も露骨だ。
— ホリィセン放言取り急ぎ (@noisysen) 2020年7月30日
この回はゼロ年代の文化を意識している!という僕の推測に関しては後に詳しく。
余談だが30話でガーフィールが「そもそも、過去なんて乗り越える必要あんのか?」というセリフを発しているのが印象的。この問いに対してどのような答えが出てくるのか気になる。
ヒロインたちが分け持つ機能――ゼロ年代の象徴としてのレム
リゼロでは、スバルが異世界転移してすぐに出会うエミリアがひとまずメインヒロインに見える。しかし、ピンチのエミリアを助ける過程をスバルと共にするレムもまた、圧倒的なヒロイン力を発揮している。
18話では、打つ手がなく絶望してしまい、自己否定の言葉を繰り返すスバルに対して、レムはダメな部分も含めて優しく受け入れる。2人の会話劇だけでまるまる1話使うというものすごい回。「母性」という言葉をこれほど想起させるものはないだろうというぐらい。
しかし、2期の最初にあたる26話で、魔女教大罪司教、『暴食』担当のライによって「名前」を喰われ、レムは忘れ去られてしまう。
僕にはこの「忘却」が、どうも先ほど述べた美少女ゲーム的忘却構造のメタファーであるようにしか見えなかった。レムというヒロインは、美少女ゲームでヒット作が量産され、「セカイ系」が一世を風靡したあの時代、「ゼロ年代」の象徴なのではないかと(レムも「ここから始めましょう、イチから――いいえ、ゼロから!」って言ってるし!)。
自分のダメさを吐露するスバルをレムが「母性」的に受け入れたのは、表面的にはスバルがレムを助けた英雄だったからなのだが、それ以上に、「ダメな俺を丸ごと受け止めてくれ症候群」を思い出すのだ。
これは、「セカイ系」の構造と類似している。「セカイ系」はエヴァンゲリオンから始まったとされているが、その意味でのエヴァンゲリオンの新しさは、アニメ上で「モノローグ」を多用したことである。
社会から受け入れられない人間はどうしてもモノローグ的に自分の世界に引きこもってしまうことになる。しかし、社会から切り離された人間が一発逆転できるシステム、それが「恋愛」である。セカイ系では、「キミとボク」の関係が、中間にある「社会」をすっ飛ばして「セカイ」へと直結してしまう構造があるのだ(あるいは「キミとボク」こそが「セカイ」になるとも言える)。
社会から虐げられたオタクくんからすれば、これには感情移入せざるを得ない。2005年頃の「電車男」以前では、オタクはまだまだ社会から虐げられた存在だった。社会から虐げられていたからこそ、恋愛という個別的関係にこそ超越性を見出せたのである。
このように考えると、ダメなスバルを丸ごと受け止めるレムはまるで、セカイ系に出てくるヒロインである。
しかし、スバルはレムに告げる。「エミリアが好きだ」と。これはどう解釈すべきか?
一つの見方では、「エミリアが好き」でありながら、自分のダメさをレムに許される、といういいとこ取りのハーレム的構造を維持していると言える。その意味ではやはりゼロ年代的美少女ゲーム構造とも言える。
一方、スバルははっきりエミリアを選んでいる。それはレムを選ばないということであり、美少女ゲーム的構造を乗り越えているようにも見える。このあたりの解釈は、今後の展開次第でもあるだろう。
ヒロインたちが分け持つ機能――「プレイヤー」の立場に立つエキドナ
最新の33話を観た時点ではまだ早漏かもしれないが、エキドナは三人目のヒロインだと思う。エキドナの優位性は、スバルの「死に戻り」を観察してきたことにある。エキドナはスバルの死に戻りの苦悩を知っている。だからこそスバルはエキドナに対して気持ちを吐露するのである。
これは東浩紀が提起した「キャラクターとプレイヤーの二層化」において、エキドナが「プレイヤー」の側に立っていることを意味する。これまでスバル以外はスバルの死に戻りを知らなかったため、あくまで「キャラクター」の位置にいたのだ。
「キャラクターとプレイヤーの二層化」は崩れた。ゆえに「忘却=現実逃避」の構造はない。現時点でのリゼロの可能性は、ここに見出されるように思う。
ついでに言えば、エミリア、レム、エキドナはそれぞれ異なる機能を持っていることになる。美少女ゲーム的にリゼロを見れば、スバルは結局誰を「選ぶ」のか? そこにも注目したい。
3.ゼロ年代の止まった時計が動き出す
まとめよう。「異世界もの」は一般的には「忘却=現実逃避」の構造があり、それはある意味で、ゼロ年代に流行った「ループもの」や美少女ゲームにおける文法を徹底したものだった。
しかし、「リゼロ」には傷の痛みを忘却しない設定や、元の世界における親子関係の描写、ループ構造を観察するエキドナの存在などがある。これには「キャラクターとプレイヤーの二層化」を乗り越えようという意志を感じたのである。
この「乗り越え」について、僕は今後、さらに議論を展開させたいので、最後に二つの展開の可能性を述べておく。
一つは、哲学者の森岡正博が『意識通信』(1993)で提唱し、社会学者の加藤晴明が『メディア文化の社会学』(2001)などで取り上げている「二世界問題」と呼ばれる問題との接続である。「二世界問題」とはすなわち、「現実と虚構のどちらが『リアル』なのか」という問題である。
ベタな「異世界もの」ではもはや元の世界と異世界との間のリアリティの強度は反転してしまっており、「異世界」の方が「リアル」だと感じられてしまっている、ということになろう。しかし、「リゼロ」においては、元の世界と異世界、(ループする)プレイヤー世界と(ループしない)キャラクター世界、それぞれの二世界が複雑な絡み合いを見せている。「リゼロ」が「二世界問題」に対していかなる答えを出すのか、注目していきたい。
二つ目の展開可能性として、近年のリバイバルブームに象徴される、「思い出し」の可能性である。リバイバルブームやかつての作品の続編の制作について、90年代やゼロ年代のコンテンツがリサイクルされている、高齢化したオタクが介護されている、などと揶揄されることがある。しかし、僕はこのリバイバル=反復は祝福すべきことであるとかつて論じた(「人生の止まった時計が動き出す――「毒親」語りとリバイバルブーム」『メンヘラ批評Vol.1』所収)。
ざっくり言ってしまえば、バブルが崩壊し、日本社会がデフレ不況と新自由主義に飲まれていく端緒となった、90年代/ゼロ年代というあのトラウマの時代を、大人になった視点から「語り直す」ことで乗り越えられる可能性がある、という話である。
「リゼロ」の著者の長月達平は現在33歳。リゼロを書き始めたのは25歳からのようだ。彼は多感な子ども時代、思春期を90年代/ゼロ年代で過ごした。そして、同時代のコンテンツに触れてきたことだろう。あの時代の乗り越えは、まったく新しいものによってではなく、あの時代を反復することを経た先に到達されるものだと僕は考えている。
18話でレムは言った。「レムの止まっていた時間をスバルくんが動かしてくれたみたいに、スバルくんが止まっていると思っていた時間を、今、動かすんです」。
レムとはゼロ年代のことであり、スバルとはまさに今の時代のことなのだ。