恋愛をめぐる「許可主義」について(サークルクラッシュ同好会会誌第六号『他の男とはセックスしてるクセに俺にはヤらせてくれない女が憎い』より)

ホリィ・センです。

サークルクラッシュ同好会の会誌最新号(第六号)を二つの場所で売ります↓

コミックマーケット93(東京ビッグサイト)の三日目(12月31日(日)10~16時)の東6-ニ-19bにて

②第二回文学フリマ京都(京都市勧業館みやこめっせ」1F 第二展示場C・D、2018年1月21日(日)11~16時)にて

 

第六号は特集「こじらせ男子の自分語り」っていうことで僕も相変わらず自分語りしてます。

今回はせっかくなので、一部公開して販促しようかなと思いました。内容は冒頭の主に”恋愛をめぐる「許可主義」について”の部分です(ちょっと自分語りも入っちゃってますが)。

以下です(読むのにかかる時間:7分ぐらい)。

 

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『他の男とはセックスしてるクセに俺にはヤらせてくれない女が憎い』

 

先に言っとく。この文章は露悪的で差別的。

 

「ヤれそうでヤれない女」とは

 まずはサークルクラッシュの話から始めよう。(女性の)クラッシャーだとされる人は往々にして「ワンチャンありそう感」や「俺でもいけそう感」があるのだと言われている(主に僕が言っている)。恋愛経験に乏しいがゆえにクラッシャられになってしまう男たちは、圧倒的な高嶺の花には手を出せない。共通の趣味を持っていたり、下ネタに付き合ってくれたりといった「自分と同じ目線で喋ってくれる」人を好きになるのだ。それどころか「わざわざ俺の趣味に付き合ってくれるこの子は」、あるいは「運命的にも俺と嗜好やノリが一致しているこの子は」、「「俺のことが好きなのかもしれない」」というわけだ。とんだ勘違いなのだが、そのような恋愛感情を錯覚させてしまうのが「ワンチャンありそう感」や「俺でもいけそう感」ということにしておいてほしい。

 さて、時計の針を進めてサークルクラッシュまでいったとすると、実際には恋愛感情などありはしない。クラッシャられ男からの好意を集めることに快楽をおぼえていたかもしれないが、性的な関係にまで辿り着くことはあまりない。あったとしてもせいぜい一回きりとかだろう。それと似た話で、「ヤれそうでヤれない女がいる。そういう女が一番タチが悪いんだ」という言説をたまにネット上で観測することがある。いわゆるミソジニー女性嫌悪)だ。はい、サークルクラッシュの話はもう終わりです。

 

「レイプ」を巡る男女のディスコミュニケーション

 なるほどそういう「ヤれそうでヤれない女」は、イイカンジの男女(のように見える)関係になっておきながら、実際にはセックスができないわけだ。そこで、もし強引に性行為を迫り、断れない状況に追い込んだならば「レイプ」とみなされかねないだろう。これはなかなか難しい問題だ。男性側の立場に立てば「たとえ合意があったとしても、女が「レイプだ」と言い張ればそれはレイプになってしまう。イケメンだったら無罪なんだろ? 女のお気持ち一つでその判定は覆されてしまう」という感じだ。一方で女性側の立場に立てば、そういう被害に遭ったことを誰かに言うこと自体がうまくできずにトラウマ化する。誰かに言えたとしても「アンタが無防備だったんだ」と非難されかねない。そもそも、レイプがあったことを(裁判等で)立証する段階で自身の被害経験を語らざるを得ないという困難さがある。結局のところ訴訟などはせずに泣き寝入り、ということがほとんどだろう。レイプやセクハラといった問題についてはこのように男女の間で埋めがたいミゾがある。

 

セックス同意書が明らかにする「許可主義」の倫理

 他にも「男性のレイプ被害は訴え自体受け入れてもらえない」などの問題はあるが、そこまでは踏み込まない。ともかく以上のような状況から一部では「許可主義」とも言える言説が流行している。「嫌よ嫌よも好きのうち」なんてことはなく、Yes means yes、No means no。つまり性行為をするには事前に許可が必要だという考え方だ(ちなみにこの言葉は、ブロガーの三沢文也氏の「童貞こじらせbarに行ってきたよ…はぁ~」(2017年4月1日)という記事にある「許可の理論」という言葉を参考にしている)。

 この許可主義についてはサークラ会誌の第四号でひでシス氏が「セックス同意書」として(その問題点も含めて)象徴的に描き出した。露悪的なロマンチストなのを承知で敢えて言えば、恋愛は「察し」の文化に支えられている部分がある。言外のメッセージを読み取り合い、発し合うことによって快楽を高めていくのだ(少なくともそういうコミュニケーションをやっているカップルは多いように思う)。この領域ではアサーション、すなわち「相手の意見を聞きつつ、こちらの意見もちゃんと主張する」といったことは成り立ちにくい。もちろん、言葉によって合意形成をしながら仲を深めていくカップルがいるのは否定しないし、男女双方に「許可主義」を支持する人達はいる。言外のメッセージを発するのも読み取るのも著しく苦手だという人は、リスクを冒すぐらいなら「恋愛的コミュニケーション」を断念するだろう。

 

「許可主義」では自由恋愛社会から排除される

 しかし、問題なのはこの社会が自由恋愛社会であることである。近年、恋愛の機会は飛躍的に向上し、様々な異性と出会えるようになった(簡単のため、ここではヘテロセクシャルを前提としておく)。にもかかわらず、交際経験も性経験も結婚も割合的には低下してきている。未婚の理由を聞けば「出会いがない」が最も多い(気になる人は「出生動向基本調査」でググろう)。これはなぜか。実のところ「自由恋愛」は一見自由に恋愛できるように見えて、不自由を強いられているからだ。「恋愛市場」という言葉もあるとおり、恋愛は市場競争なのだ。美貌や経済力、コミュニケーション能力(?)のある人間が勝ち上がっていく。もちろんそれぞれの人間の好みにはバラつきはあるのだが、結婚相手の選び方は慎重にならざるを得ない。みんなが「魅力のある」人間を選ぼうとする結果、「選ばれない人間」が多数出てくる。たとえ選べたとしても「もっといい人がいるかもしれない」と、結婚は躊躇しがちなのである。

 まあ結婚の話まではする必要はなかったが、いずれにせよそんな状況なので、恋愛や結婚は「めんどくさい」、「コスパが悪い」ものとして扱われてきている。娯楽が多様化したり、相変わらず労働時間が長かったりする中では恋愛や結婚をしているリソースはないのだ。もし恋愛や結婚をするとしたら(みんなの恋愛相手への要求水準が高い限り)それなりのリソースは割く必要が出てくる。そこで「許可主義」は負けてしまうのだ。なんでもかんでも言葉にして確認してしまうがゆえに、相手の求めているものを読み取ろうという努力が(あるいは才能が)ない人間は恋愛市場からは淘汰されてしまう。許可主義的恋愛を良しとする共同体でも新たにできれば状況は変わるかもしれないが、それには原理的な不可能性がある。というのはやはり「許可」なのであって、これは女性から男性に対して与える「許可」なのだ。許可主義によって男性が恋愛市場に参入できても、女性の状況は変わらない。許可主義などなくとも女性は今までどおり恋愛をやっていけるのだ(許可主義によって「魅力的な」男性が発掘される可能性がないとは言えないが、それも少数だろう)。おそらくこの方向性で必要なのは「合意主義」であって、しかも恋愛・結婚市場から相当に淘汰されることによって要求水準が下がっている女性が多数発掘されねばならない。しかし、おそらくそういう女性は「恋愛から降りている」ように僕には見える。

 勢いでマクロな話を語ってしまった。恋愛・結婚市場についてはかなり大ざっぱな見立てなので間違っているところもある気がする。反論があればぜひ頂戴したい。

 

僕は「イチャイチャ」がしたい(でもできない)

 それはさておき、そろそろ自分の話をしよう。僕自身も「許可主義」に少なからず影響を受けてきた。具体的には、恋愛において「告白」をある程度重視してきたのである。告白という儀礼、はたまた「付き合う」とはどういうことか。これについてはサークラ会誌第四号ですりっぱ氏の考察があるのだが、僕の場合「性的な行為をしていいのかどうか?」を「告白」に仮託してきた。何なら口が滑って告白時に「君とはセックスとかもしたいと思っている」みたいなことを口走った記憶もある(許可主義の立場から見た「誠意」なのだが、クソ)。この自分の経験に依拠すると、許可主義が何のために必要なのかがはっきりする。自分の性的な行為がレイプになってほしくない、はたまた相手を傷つけたくないというのももちろんあるのだが、何より「嫌われたくない」という理由からだ。しかしまあ、行為の意図せざる結果として、告白によって気まずくなってしまうわけだが(「嫌われる」は回避できてるよ!)。

 ところで僕の言う「性的な行為」はいわゆる狭義の性行為、性器の挿入を意味するわけではない。それも含まれるのだが、僕が特にしたいのは「イチャイチャ」なのだ。僕は恋愛のあの雰囲気がたまらなく好きだ。好きがゆえにハードルが高い。(相手からすれば大したことないのもしれないが)僕からすればそれは性行為である。僕は犬や猫、あるいは子どもを、我を忘れて可愛がれる人が信じられない。自意識はないのだろうか。そんな無防備な感情を僕も出したい。僕が唯一そういう感情を出せる形式、それが「付き合っている」ということなのだ。

 僕は「手を繋ぐのとセックスは一緒だ」と思っている。というのも、「手を繋ぐ」は恋愛の「あの雰囲気」を近似的に表現してくれているからだ。下品にも僕が手を繋いだだけで勃起してしまう理由はそういうところにある。そんな危険な(?)行為を、とても「許可」なくしてできたもんじゃあない。

 まあそれでも僕は幸い、勝率は高くないもののバカの一念で告白を成功させてきたことはある。というのもサークラ会誌第五号でSkype掲示板を駆使してきたを述べたが、Skypeによって作り出される「ふたりの空間」においては、わざわざ告白をせずともそれなりの「イチャイチャ」ができたからだ。

 一方で僕は、三人以上の空間においては親密な女性に対して氷のように冷たくなってしまうところがある。親密な女性Aさんを(好意があるからこそ)過剰に意識してしまって、イチャイチャできないどころかちょっと打ち解けたコミュニケーションすらできなくなってしまうのだ。プライベートな好意を他の人間に悟られるのは恥ずかしいし、Aさんは僕と親密な関係であることを第三者に見られるのは困るのではないか? と考えすぎてしまうからだ。そこではやっぱり「許可」がほしい。僕とAさんは公認のカップル、そういう契約がみんなにも知られていれば、まだ多少は気兼ねなく親密でいれるかもしれないのに。まあ実際よくあるパターンとしては、Aさんとは単にある程度親密だというだけで、付き合っているわけでもなんでもないのだが。しかし「親密でいるための許可」を取ることは難しい。「付き合うための許可」としての告白ではなく、「親密でいるための許可」としての50%告白みたいなものがあればいいのだが、という思考実験をしてしまう。こう考えると、人間関係が苦手な人が「友だちだよね?」という確認をするのは、「友だちであることを許可してください」ということなのだろうと思う。

 

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いかがでしたでしょうか。これで全体の1/4ぐらいです。

僕の文章以外にもいろいろと面白い文章や漫画があるのでぜひぜひ買っていただけると幸いです。詳しい目次はこちらに載ってます。それでは。

『「意識高い系」の研究』古谷経衡 読書メモ

ねちっこい文体でひたすら承認欲求とルサンチマンの話をする本といった感じ。森見登美彦みたいな文体だ(言いすぎか)。

 

土着性や親からの相続(とりわけ不動産)の差を根拠に、「リア充=階級」であるという図式を提出している。そして、リア充とは「彼女がいること」などではなく、マイルドヤンキーや大学の内部進学者、スクールカースト上位者などのイメージなのだと。
「上京」的な都会への移動は過去の話で、東京圏などでも6割7割は地元民なのだということを統計で示している。これはなるほど。

 

→しかし、「スクールカースト上位」はその場のコミュニケーションの問題であって、階級ではないのでは……。「容姿や社交性の多寡」で説明しているが……。

一応、内部進学者は受験に追われない分、社交にかけられる時間が長いだとか、「ジモティー」は地元で人間関係の地盤を維持できるだとかいう説明がある。ブルデューの再生産論みたいな話だが、ブルデューほど説得力はない。

古谷さん自身「地方上洛組の意識高い系」だったと言っているように、(古谷さんが成り上がったのであれば)「成り上がり」は十分に起こりうるのではないか。「階級」のように固定的に捉えるのは一面的すぎるきらいがある。

 

意識高い系の二分類

地方上洛組→グレートリセット(大学デビュー)を狙うが、かけられる時間が少ない
在地下克上組→高度化(社会的起業やマイナージャンル)によってスクールカースト上位層を避ける

 

→上位層、中塗層、下位層という三分類をしていたが、スクールカースト論の語彙で言えば、これは「Bクラス」の問題と言える。

つまり、Bクラスが一番ルサンチマンを感じやすいし、頑張る動機付けがあるということ(Aクラスは不満を持たないし、Cクラスは諦観に至る、的な)。

となると、社会運動的なものに走っている僕自身も意識高い系と言える。あるいは意識高い系の機能的等価物か。

Bクラス的な自意識やルサンチマンを抱えた人がどのように発達していくのかは面白い問題だ。過去だったらまた別の発達の仕方があっただろうし(例えば、自己啓発セミナーはオウム以前もっと流行ってた)。

 

「高次の大義」と「低次の欲望」

あらゆる現象について、「抽象的な高次の大義」によって「具体的な低次の欲望」を隠蔽しているという論を展開していく。セックスに至るためには最初からそういう欲望を表明するんじゃなくて、まずは別の大義名分を掲げていくのと同様。具体例は下の方に示す。

 

社会学でいう「動機の語彙」論みたいなもんか。ちょっとズレるけど顕在的機能(行為者が意図している機能)と潜在的機能(行為者が意図していない機能)とも似てる。

「高次の大義」は抽象化されたリア充像に合致する。「低次の欲望」は具体的=グロテスクなので見ないようにする。コラムではご飯の例がいくつか挙げられていて、意識高い系は鍋の雑炊やシメのラーメンを食べないという話をしている。あと食べ放題→バイキング、甘いもの→スイーツ、喫茶店→カフェ的な言い換えにも言及している、なるほど。

その意味では意識高い系はコスパ厨の対義語なのかもしれない。あるいは、コスパ厨的な欲望を隠蔽している。

精神分析的に言えば、持っている欲望がグロテスクであればあるほど、動機の語彙は反動形成的に高次化・抽象化するのだろう。家庭では暴力的で幼稚な人が公の場では高潔に振舞うみたいなのと一緒。

 

また、意識高い系が具体的=グロテスクなものを避けるのは「傷つきたくない」という心ゆえだという旨のことも書かれている。

おそらく「めんどくさい」という心にも繋がっている。『恋愛しない若者たち』(牛窪恵)では「恋愛がめんどくさい若者」のことが書かれていたが、「めんどくさい」という意識は近年、社会に蔓延しているのだろうか。蔓延しているのだとしたらそれはいかにして蔓延したのだろうか、気になる。

 

以下この図式の具体例。
例:ハロウィンにおける仮装は欲望の隠蔽

 

例:「自分の写っている写真」はコペルニクス的転回だった。記録が目的ではなく「○○をしている自分」が目的
しかもこれは自撮りではなく、「他撮りに自分が写り込んでいる」という状態。

 

→友人の言っていた明るい自撮り/暗い自撮り の二分類を思い出す。前者はフェイスブック・インスタ的なキラキラしたやつで、後者はツイッターとかで黒髪ロングの人が承認欲求的に自撮りするみたいなやつを想像していただければ。この本で言ってるのは「明るい自撮り」の方だろう。「明るい自撮り」はそもそも「自撮り」ですらない場合も多いなそういえば。
SNOW以降はまたそのへんの布置が変わっただろうけど。

 

例:本来インストゥルメンタルであるはずのセミナーなどへの参加行為がコンサマトリー化(参加自体が目的化)している。「参加しているぞ」アピールをSNSに挙げるのが真の目的になっている。

例えば夏期講習(極めてインストゥルメンタルな行為)で自撮りする奴はおらんやろ、ということ

 


その他

意識高い系コミュニティの駄サイクル性を指摘していた。せやな。

意識高い系と意識高い人は違う、後者は結果を残す、という話をしていた。「私は嫉妬を隠さないぞ!」という「自覚しているという倫理」みたいなものを書いてた。まあこういう本出す人はそう言うよね。

 

三章の意識高い系列伝では、青木大和、愛国女子、安藤美冬、ばびろんまつこを引き合いに出していた。古谷さんは「彼らは全員僕の分身のようなものだ」と自戒を込めていたものの、結局これは個人攻撃にしか見えんし下品だなあ。まあいいけど。
ただ、古谷さんの図式にぴったり当てはまってるのはばびろんまつこだけな気がした……。そもそも有名な人を引き合いに出すとある程度の成功者であることは否めないし、「意識高い人」なんじゃないのかと。
青木大和(+Tehu)と奥田愛基を対比して後者を褒めてたけど、そんなに本質的な違いがあるのだろうか。具体的に政治にコミットしている人が偉いんだ、っていうのはどうなんだろう。
あとTehuくんを兵庫からの地方上洛組としていたけど、灘だしなあ。

 

この本の図式は多少は見通しがよくなるけど、あんまり万能ではない。あくまで一つの見方として使えるという程度だろう。
あと男女一緒くたに語られていたのは個人的には不満。「傷つきたくない」とか「承認欲求」とかはジェンダー的な差異がどうしても出てくるところだと思う。


本以外の感想

サブカルチャーの引用の仕方と言い、「地方上洛組」の立命館出身といい、ルサンチマンの取り扱い方といい、宇野常寛さんを思い起こさせる感じだ。宇野さんは78年生まれ、古谷さんは82年生まれかー。
こういうルサンチマン論や承認欲求論の系譜を描くことは僕の課題なのかもしれない。歳取って、30歳過ぎぐらいになったらこういう論壇から撤退していくのが普通っぽいし。今しかできない仕事かもしれないなあと。

僕の人生を大きく変えたメンヘラ神との思い出

 サークラアドベントカレンダー3日目、ホリィ・センです。
 「こじらせ自分語り」がテーマだそうで、僕の中でこじらせの定義は「他者にあまり理解されにくい複雑なこだわり」みたいな感じですかね。と言っても、今回はそういうテーマに回収されるのか微妙です。今回はメンヘラ神と名乗っていた女性を巡って2013年にあった出来事と、それについて僕が何を思ったかを書こうと思います。


はじめに

 文脈を知らない人のためにも説明します。2014年2月にLINEで自殺教唆した人間が逮捕されたというニュースがありました。それによって話題が掘り返されてしまったのですが、その自殺した人間がメンヘラ神でした。先に言っておくと、彼女の自殺の動機や原因は僕にも分かりません。彼女は精神疾患を抱えていましたし、その「自殺教唆」のようなものが決定的な自殺の原因になったかと言われればそうではないと思っています。


 そのニュースがあって、誰が作ったのか分かりませんが「電子の海を揺蕩うメンヘラ神」(https://twitter.com/Q_sai__)というbotができました。彼女が使っていたアイコンのままで彼女のネタツイートの一部が抜粋されていますので、見れば大体の雰囲気が掴めると思います。

 

 メンヘラ神は「メンヘラ」という概念を用いたパフォーマンスにおいて伝説的な人でした。リストカットオーバードーズ、自殺未遂や恋愛のイザコザなどをTwitterやブログに投稿し、その自意識についての巧みな文章力もあって多くのフォロワーを獲得していました。

 

 それもインターネット上のパフォーマンスでとどまるのではなく、オフ会なども何度か開かれており、活動的な人でした。2013年11月の第十七回文学フリマで頒布された『メンヘラリティ・スカイ』という同人誌も話題になりましたし、実際にメンヘラ神に会ったことのある人もそれなりの数いるはずです。

 

 そんなメンヘラ神と僕は個人的な関わりを持っていました。いろいろな気持ちがあってインターネット上で語るのは控えてきましたが、もう彼女が亡くなってから4年も経ったわけですから、そろそろちゃんとした形で彼女のことを書こうと思います。

 

出会い

 2013年の4月、僕は「サークルクラッシュ同好会」の新歓をするため、Twitter上で宣伝していました。ネタ性の高いビラを作り、ある程度の注目を集めていました。そんな中で彼女はメールを送ってきました。

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 そして彼女が「メンヘラ神」というアカウントで活動していることを知り、彼女の面白いツイートを見て僕は惹かれました。5月にたまたま東京に行く機会があったため、僕は彼女に会うことにしました。5月18日のことでした。


 彼女とは渋谷で待ち合わせしました。会ったはいいものの、僕はまだ東京に行き慣れておらず、おぼつかない感じでどこで話をするかも考えていませんでした。メンヘラ神は「キャッチの人についていきましょう」と言いました。僕はそれについていき、キャッチのお兄さんに導かれて僕たちは居酒屋に入りました。


 僕は当時はまだ女の人と二人で話をすることも慣れていませんでした。ぎこちない会話になっていたかもしれません。それでもメンヘラ神は優しく、気さくに話してくれましたし、聞くのが上手くて話しやすいと僕に言ってくれました。


 居酒屋を出ても夜行バスまで時間が少しあったので、マクドナルドでギリギリまで喋りました。そのときに僕は小学生のときに精神的に不安定だった話をして、彼女は笑ってくれました。「ホリィさんってまともそうな人かなと思ってたので、そういうメンヘラなところもあるのなんか安心しました」、そんな感じのことを彼女は言っていたと思います。


サークルクラッシュ同好会関東支部の発足

 僕がサークルクラッシュ同好会を拡大していくにあたって関東支部をやりたいという話をしていたら、彼女はその代表をやることを快諾してくれました。さっきのメールにもあるように彼女は実際にサークルクラッシュをしてしまっていたのです。


 彼女曰く、まず「精神を病んでるから気にかけてほしい」ということを言って一人を自分に惚れさせた上で、他の男たち一人ひとり個別で二人っきりで会って「○○さんに言い寄られて困ってるの……」と言っていくスタイルで連鎖的に人を壊していったそうな。誇張もあるかもしれませんが、あるサークルで人間を8人辞めさせたとか。その結果彼女が追い出されることになったそうです。ただし、次々と人間が辞めていく理由が誰にも分からず、とりあえずアイツがヤバそうだということで「大麻をやってるから」という理由で辞めさせられたということを話していました。

 

 

 そんな彼女はサークルクラッシュ同好会関東支部を「他のサークルから追い出されてきた人にとっての最後の居場所」にしたいと言っていました。関東支部発足にあたって、7月7日にskypeでの説明会がありました。そのとき録音していた音声が残っているので、僕は今でもメンヘラ神の声を聞くことができます。

 

 

関東支部の集まり

 そして翌月の8月13日、メンヘラ神が一人暮らししていたマンションで第一回の関東支部の集まりがありました。僕は関西からも二人の人間を連れて行きました。メンヘラ神は実家がお金持ちだったのでとても広い部屋に住んでいました。メンヘラ神はとても不安そうにしていましたが、人狼ゲームのレクリエーションをするなどもあり、和気あいあいとした感じでその日は終わりました。


 そのときに出会った人の中には今でも付き合いがある人が何人かいます。ネクラコミュ障っぽい人もそれなりにいる集まりだったと記憶していますが、メンヘラ神はとにかく優しくて、そういう人にこそ気さくに話しかけていました。


 ただ、「その場にいる人を楽しませられているか」という点で不安になってしまう彼女はついついリストカット芸やオーバードーズ芸をやってしまうのでした。そのときも度数の強いお酒をハイペースで飲んでいた気がします。そのせいで結局すぐに寝ちゃってました。メンヘラ神の部屋ではなにやら性的なことも起こっていた気がしますが、僕はあまり気にしないようにして他の人間と話していました。

 

メンヘラ神と付き合う

 メンヘラ神が起きていたときに、僕は「メンヘラ神とだったら僕は付き合いたいけどな」みたいなことを冗談めかして言ったような気がします。僕はメンヘラ神のことが女性としても好きでしたから。


 そして僕にとっては奇跡のような体験をしました。メールを通じてメンヘラ神とその日の段取りをしていたのですが、メンヘラ神宅での集まりが終わった後に携帯にメールがきました。「ホリィ、付き合おうよ~」と書かれていたと思います。少し照れのあるかわいいメールだなと思いました。


 僕はそのときまで女性から付き合おうということを言われたことは一度もありませんでした。それをまさか、好きな人であるメンヘラ神から言われるとは。僕は喜んでOKしたかったところでした。


 ただ、問題なことに、僕はそのときに付き合っていた彼女をメンヘラ神宅に連れて行ってもいたのです。僕は当時付き合っていた彼女のこともまた尋常じゃなく好きでした。どちらかを選ぶなんて僕にはできませんでした。

 

 

 実は当時付き合っていた彼女(Aさんとしましょう)は別の人間と二股をかけていました。僕はAさんが付き合っている男がいるのを承知で告白し、「二股してもらっていた」のです。そして、メンヘラ神もまた、いろんな男と肉体関係を持つ人でした。そんな中でできる「誠実な」態度というのは、二人にちゃんと話した上で二人ともに付き合うことだろう、と僕は思ったのです。というのも、「ポリアモリー」と呼ばれる複数の人と恋愛をするライフスタイルについて当時関心があったため、それを都合の良い部分だけ抽出して利用してしまったのです。


 今から思えばまともな恋愛のプロトコルもロクに知らない人間が、それをすっ飛ばしていきなりポリアモリーを実践するなんて無謀すぎたのです。アレは単なる「不誠実な」態度でしかなかったでしょう。

 

 結局Aさんはメンヘラ神に嫉妬し、関係が破綻しました。僕は別れたAさんに対して強く執着してしまい、客観的に見ても明らかに気持ち悪いチャットをSkypeで送ってしまいました。しかも彼女はメンヘラ神などの関東の人たちと個人的に仲良くしていたのがあり、僕のチャットは関東支部の人たちに広まってしまいました。メンヘラ神の中で「関東支部に集まってくる人が想像していたのと違う」というのもあり、関東支部を辞めるということをあるとき電話で告げられました。

 


「女の子」としてのメンヘラ神

 それでもメンヘラ神との交際は楽しいものでした。こんなことを言うと笑われるかもしれませんが、あんなにまっすぐ僕に対して好きだと言ってくれた人間はメンヘラ神だけでした。少なくとも僕にとってはそうなんです。

 

 関東支部の集まりのときに僕はなぜかクレジットカードをメンヘラ神宅に忘れてしまっていました。郵便で送ってもらったのですが、そこには手紙が同封されていました。僕はこの手紙を見るとやっぱり今でも泣きそうになります。

 

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 文面からも伝わってくるでしょうが、彼女は「女の子」でした。少なくともそれを演じてはいました。もう消えてしまいましたが、メールの文面もかわいかったのです。


 そして東京に行く際には彼女と会っていました。結局2,3回程度しか会うことはなかったのですが、個人的に彼女の家に行って泊めてもらったこともありました。喋っていたら相手を楽しませられているかどうか不安になってトイレで一人反省会をしてしまうメンヘラ神。一緒に寝ているときも僕の手や腕を噛んでくるメンヘラ神。部屋を出るときに背伸びをしてキスを求めるポーズをしてくるメンヘラ神。僕はそんなところにドキドキしていました。


 彼女は僕と一緒にブログの交換日記をすることを提案してくれたこともありました。今思えばそれもやっておけばよかったなと思います。でも、僕は僕で自分のことで精いっぱいだったところがあります。ある日メールでやりとりをしていたら長文のやり取りになってしまい、「僕は君のことが好きだが、君が別れたいのなら別れよう」というようなことを言ってしまいました。経緯を詳しく覚えてはいないのですが、バカなことをしてしまったなと思います。


 聞くと、メンヘラ神もまたAさんに対して嫉妬していたそうです。Aさんと僕は仲が良いんだから私の入る余地はない、と思っていたところがあったそうです。でもメンヘラ神はそんなことを表に出さずに我慢していたのです。僕は本当に大バカ者でした。あんなに好きだった人に対して、どうしてもっと配慮できなかったのか。もっと愛することができなかったのか。何があったとしても僕だけは君のそばにいる、責任を取ると、はっきり言えなかったのか。

 

 彼女はまた「女の子」として矮小化してしまうのもどうかと思うぐらいに、本当に才能のある存在でもありました。「たとえこれから何かを成し遂げることができなくても、今までの君はいるんだから、それだけで僕は君のことが好きだ」ということをどこかで言ったような気もします。それぐらいが当時の僕の限界でした。

 

メンヘラ神の死

11月4日(月)、第十七回文学フリマがあった。僕は東京に行き、サークルクラッシュ同好会会誌第二号を委託販売していた。メンヘラ神は『メンヘラリティ・スカイ』という同人誌をはるしにゃんという男と共に販売していた。少し挨拶を交わしたものの、僕らは違う場所にいた。僕はその日にメンヘラ神宅に泊まった。『メンヘラリティ・スカイ』の打ち上げはメンヘラお断りなので、メンヘラ神は行けなくなったというようなトンデモナイ話を聞いて、自分の側の打ち上げに誘えばよかったと思った。

 

11月5日(火)、起きてメンヘラ神がパスタを茹でる。それを僕はいただく。パスタがうまく巻けないって話を『メンヘラリティ・スカイ』でしてたよねと話す。彼女は「こんな暗い部屋で二人でパスタ食べてるってなんだか浅野いにおの漫画みたいだね」と言っていた。彼女はTwitterでも「浅野いにおの漫画みたい」って言っていた気がするし、ネタの使い回しが多いんだなあと思った。
そして彼女は「ホリィもリスカしようよ」と言ってきた。これも一つの経験かと思い、僕もやってみることにした。彼女は痛いのが苦手らしく、薬を飲まないとリスカできないんだと言っていた(確かマイスリーだったような気がする)。薬を飲んだ後に貝印のカミソリを振りかぶり、手首に振り降ろす。やたらと勢いが良かった。僕もそれにならってやってみる。痛い。痛い。でも僕は痛みに対する耐性が強いので、大したことはなかった。血が滲み出てくる。彼女が僕の傷を舐める。僕も彼女の傷を舐める。彼女は薬を飲んだ人間特有の目をしていた。なんだか退廃的な感じだった。
その後に別のサークラ関東支部の友人がメンヘラ神宅に来て、蜜月の時は終わった。聞くと、関東支部の中の男と付き合っているとのことだった。僕ははっきりと別れてしまっていたようだ。焼き鳥屋かどこかへ行った気がする。メンヘラ神の彼氏はバンギャの男版みたいな見た目の奴で、誰かから「でも顔的にはもっともっさりしたのが好きなんでしょ」みたいなことを言われていた気がする。彼女も肯定していた。

 

11月6日(水)、夜行バスで関西に帰ってくる。メンヘラ神と電話すると「昨日のことを覚えてない」と言われる。マイスリー前向性健忘だ。(この電話はもっと前の電話だったかもしれないが記憶が曖昧だ)
メンヘラ神によってサークルクラッシュ同好会関東支部の崩壊がネタにされていた。ラリっている状態特有の誤字が目立っていた。僕は関東支部の今後の進退についていろいろと考えをTwitter上で述べていた。

 

11月7日(木)、関東支部の崩壊について僕もネタツイをした。

 

11月8日(金)、関東支部だった人から怒りのリプライがきて応戦していた。メンヘラ神は鍵垢で「ホリィ、ディベートみたいなやり方をしてもしょうがないよ」というようなことを言っていた。メンヘラ神と僕はディベート甲子園出身者だった(ちなみに8月にはディベート甲子園の会場でも彼女と会っていた)。
その日の夜、メンヘラ神からメールがきた。「ありがとうございました」とだけ書かれていた。僕は彼女のことが心配だったが、自殺未遂自体はこれまでも何度もしてきたし、携帯の電池も切れそうだったし、メールを返すだけに留めておいた。あのとき電話の充電がちゃんとあればよかったなと今でも思う。

 

11月9日(土)、メンヘラ神のツイートが途絶えた。僕は心配だったが、9割方大丈夫だろうと思っていた。

 

 

11月10日(日)、でも、大丈夫じゃなかった。心配をした友人がメンヘラ神の住んでいるところの近くの警察署に電話をして、自殺を確かめたのだ。僕は激しく動揺した。冗談を言っているのかと思った。僕自身も警察署に電話をして確認した。電話口で亡くなっているということを告げられた。

 

 

世界が変わってしまったのだ。

 


その後のこと

 僕は激しく泣いた。力が入らなかった。メンヘラ神が死んでしまったと、友人に話し、先輩に話し、親に話した。メンヘラ神のことを知っている人にこのことを伝えなきゃいけないという思いでいろんな人にDMをしたり電話をかけたりした。本当は僕は話し相手が欲しかったのだと思う。苦しくて苦しくて、何日かは思い出し泣きする日を繰り返した。


 彼女の実家は沖縄だったし、そもそも葬式に行ってもしょうがないと思った。彼女と親しかった人は葬式に行ったので、彼女の亡骸の様子などを聞いた。死化粧は綺麗すぎて、違う顔のようだったというようなことを言っていた。飛び降りて、顔だってまともな状態では残っていないはずなのだからと。


 『メンヘラリティ・スカイ』の共同代表であったはるしにゃんもメンヘラ神のことをブログに書いていた。僕に「ありがとうございました」というメールを送ってきた翌日の朝、メンヘラ神ははるしにゃんに電話をかけていたようだ。それでも結局どうしようもなくて飛び降りたようだ。はるしにゃんのブログによればメンヘラ神ははるしにゃんに「ずっと好きでした」と言ったそうだ。はるしにゃんは話を盛りがちな人間なので実際どうだったのかは分からないが、メンヘラ神ははるしにゃんを選んだのだな、とどこか負けた気分にもなった。


 そして、はるしにゃんももうこの世にいない。はるしにゃんもまた、メンヘラの間ではカリスマ的な存在だったし、メンヘラ神はそういうところに憧れていたのだろうと思う。メンヘラ神についてやそれらのことは他にもいろいろ書けるが、もうこれぐらいにしておこう。

 


 ともかく、メンヘラ神の死は受け入れがたい事実だった。人間が大切な対象を失ったとき、それを受け入れていく過程を「喪の過程」という。僕にとっての「喪の過程」はまずはとにかく話すことだった。メンヘラ神の死についていろんな人に話した。先輩に勧められて大学のカウンセリングルームに行ったし、普段そんな話をしない人に対しても「大切な人が自殺してしまった」という話をした。迷惑だったかもしれないが、そうするしかなかったところがある。


 そして、不謹慎だと言われるかもしれないが、4年も経ったのだからはっきり言っておく。「僕は彼女の死から何を学んだのか」ということ、また「彼女の死にはいかなる必然性があったのか」という物語を考えることが僕にとっての喪の過程だ。それが彼女の死を受け入れ、彼女の死を無駄にはしないことだと思う。これはあくまで僕にとっての問題だし、他の人には他の人の答えがあると思う。


それからとこれから

 この2013年があって、僕の生き方は変わっていきました。生きづらい人が生きやすい世の中にしたい。人を助けたい。そういう執着が生まれました。それは「メサコン」と呼ばれる、ある種危険なことなのかもしれません。自分の生き方を押し付けて人の生き方までも支配してしまわないように注意すべきだとは思います。しかし僕は第二、第三のメンヘラ神をできるだけ生みたくないのです。目の前にいる人たちが死なないようにしたいのです。僕のサークルクラッシュ同好会は、僕のシェアハウス運動は、僕とあなたとの対話は、そのためにあるのです。

 

 

 メンヘラ神のことを語ってしまうとどうしても自分語りになってしまいます。どうしても恋愛的な気分でメンヘラ神のことを語ってしまいます。そういうのが申し訳なくて、長らく書けないでいました。でも、彼女の死によってできていった繋がりもたくさんあります。おかしな言い方になりますが、僕はそこにある意味では「感謝」したいです。「死せる孔明生ける仲達を走らす」、ということでしょう。僕はそうすることでしか、彼女の死を贖えないのです。

 

 

 みなさんは彼女の真似をしないでください。彼女だって南条あや中島らも大槻ケンヂなどの影響を受けたサブカル女でした。そこにリアルはないんです。死んだらどうしようもないんです。この世に彼女が生きていたら、あんな出来事もこんな出来事も笑って話し合えたらと思うと、本当に悲しいです。

 

 なんだか、うまく書けなくてごめんね。アドベントカレンダー、次はSIlloiくんです。

ねほりんぱほりんサークルクラッシャー回を読み解く(後編)

前回ねほりんぱほりんで語られていたことから読み取れる背景を分析しました。しかし、そこには「語られていなかった」ことがいくつもありました。

 

 まず第一に、番組では「あのサークルにおいて、なぜサヤカさんは7人と関係を持つことになってしまったのか」、そこが掘り下げられていないのです。

 

 というのも、サークルクラッシュという現象が成立するためには、クラッシャーという要素だけではダメ。クラッシュが起こるような特殊な集団であるという要素と、クラッシュされる側の人間クラッシャられ)という要素がほぼ不可欠です。その三要素が揃うからこそクラッシュするのです。


 そのセンで考えていくと、まず、サヤカさんが所属していた集団はどのような集団だったのでしょうか?

 

 

クラッシュする集団とは?

 番組によるとサヤカさんはスポーツのサークルに属していたようです。スポーツ系の集団というと、文化系とは逆で、それなりにイケてる人たち、要は異性と接する経験も豊富な人たちが集まっているのではないかとも思われます。

 しかし、YOUさんの「モテる人は(サヤカさんを)食わないね」やサヤカさんの「名門男子校出身者は百発百中」「ちょうどいいアンパイなところにいって打率は高める」という発言もあったように、基本的には女性と接する経験のあまりなかった人を恋愛対象にしてきたのではないかとも考えられます。また、「仲直り飲み会」のあとに乱闘になったことにより、メンバーの半分ぐらいが辞めたということも分かっています。


 このあたりの情報から考えると、集団の構成員はどれくらいの数だったのか、男女比はどうなっていたのかといった基本情報はほしいものです。また、もっと言えばどれくらい恋愛が発生していたのかや、集まりや飲み会の頻度なども掘り下げるとより立体的に見えてくるでしょう。

 

クラッシャられは何者なのか?

 そして必要なのはクラッシャられの情報です。番組ではクラッシャられ代表として番組スタッフが出てきました。「女装させられたときに近づいた顔が忘れられない」というのは確かに見事なクラッシャられエピソードだと思います。しかし、はたしてサヤカさんにクラッシャられた彼らもいわゆるクラッシャられだったのでしょうか。ニルヴァーナのロックTなどを着て心のより所にしがちな文化系男と、酒の席とはいえ血を流すまで殴り合うケンカをする男は同じだと言えるのでしょうか。
 むしろ、サヤカさんの所属サークルからは文化系ではなく、ホモソーシャルな雰囲気(女性蔑視を通じて男性同士が絆を作る、例えば下ネタを言い合ってる男子校ノリのようなイメージ)も感じられます。というのも、サヤカさんの次の証言があるからです。「「サヤカちゃん被害者の会」みたいなのがあって被害を受けた男性たちが私の愚痴を言い合う飲み会みたいなのが開催されてて「あいつ寝相悪いよね〜」みたいな話をしてた」。これはサヤカさんをモノとして消費することを通じて男性同士が繋がっていたようにも解釈できます。

 実際、集団内の男性たち(A~Fたち)はどんな男で、サークルはどのような絆を形成する集団だったのでしょうか。これは番組の情報だけではいまひとつ分からないところです。

 

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集団における公私混同

 何より集団・クラッシャられの情報の不在によって決定的に分からなくなっているのは、「なぜサヤカさんが同じ集団内で7人も関係を持ったのか」ということです。

 例えば、集団の中でサヤカさんについての情報がある程度共有されていたのであれば、サヤカさんに対して熱を上げる男性が7人も簡単に出てくるとは思えません。また、たとえ乱闘騒ぎがあったとしても、なぜ当事者でないメンバーの半分も辞めるのでしょうか。

 これについては、キャプテンであるA君がC君を出場停止にしたという話が重要です。つまり、A君は自身の嫉妬という私的な事情によって、C君の試合という公的な物事に影響を与えたのです。これはまさに「公私混同」です。キャプテンという最も「公的」でなければならない立場の人間が、スキャンダラスな形で私的な事情を持ち込んでしまった以上、他の構成員が失望して辞めてしまうのは仕方のないことでしょう。
 この「公私混同」はサヤカさんが複数人と関係を持っているということについても言えます。サヤカさんが持つ人間関係が「公」の光に晒される、すなわち最初から筒抜けなのであれば、サヤカさんも私的な肉体関係を持つことはできなかったでしょう。また逆に、サヤカさんの持つ関係がずっと「私」の闇に隠されたままならば問題にはなりません。しかし、性的関係が独占欲や嫉妬に結びつく以上、「私」の闇は「公」の光に照らされる危険性は常にあります。公私混同にこそサークルクラッシュはあるのです。

 

サヤカさんの構築する人間関係のパターン

 しかしこれだけでは「なぜサヤカさんが同じ集団内で7人も関係を持ったのか」という問いへの答えとしては不十分でしょう。このような事態について理解するには、やはりサヤカさん自身について掘り下げなければなりません。例えばサヤカさんの作る人間関係の全体像(過去の人間関係も含む)を見ていくべきでしょう。しかし、番組からはそれがあまり見えてこない。かろうじて見えるのは例えば、高校時代に付き合っていた男との別れをキッカケとした、クラッシャられ男たちに対する釣り師としての態度と、大学卒業後に出会って結婚した相手に対する「運命の人だ!」という感覚でしょう。
 ここから、サヤカさんには他者を「一人の人間として見る」態度が欠落していたという仮説が立ちます。他者をモテポイントを稼ぐための材料として見たとしても、「運命の人」として見たとしても、いずれにせよサヤカさんは自分本位のフィルターを通して映る相手を捉えているのです。そう考えると、高校時代までの周囲に対する「自分って何もないな」という劣等感や、スポーツでの全日本3位という成績における「上に2人いるからダメ」という評価もまた、自分本位なバイアスに囚われてしまった見方と解釈できます。


 サヤカさんが実際に他者を「一人の人間として見る」態度を持っていなかったかどうかは分かりません。しかしもし、おそらくサヤカさんの家族との関係や同性との友人関係、あるいは異性との友人関係などを詳しく掘り下げていれば、そのあたりの理解も深まっていたでしょう。例えば、女性との友人関係がうまくいかなかったからこそ男性と関係を持たざるを得なかった、というパターンがありうるでしょう。

 

サヤカさんの心理

 もし、サヤカさんの過去、すなわち家族との関係や友人関係なども詳しく見ていったとしたら、サヤカさんの心理的な面も分かることでしょう。サヤカさんが「何者かになりたい」という自己不全感を抱えていたのは番組の通りですが、その他にも(それと関連した)特異な性格特性が見出せたかもしれません。例えば、「あいうえお」の「あ」は「あっ!アイス食べたい」と「突然先の読めないこと言う」というものでした。これは意図的にやっている部分もあるのでしょうが、サヤカさん自身の衝動性(言わば、「今ここ」にある快楽を重視してしまい、先のことを考えることができないという特性)を表しているのかもしれません。
 複数人と性的関係を持っていた私の友人がリスク回避のために「ワンコミュニティ・ワンセックス」を提唱していたのを思い出しますが、実際、同じサークル内で7人と関係を持つのはあまりにもリスキーです。サヤカさんが先のことを考えずにそういった行動を取ってしまった原因を探るならば、もう少しサヤカさんの過去を通じて性格特性を明らかにすることも必要だったでしょう。

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"もう一人の"サヤカさん

 もちろん、サヤカさんは「元サークルクラッシャー」として「現在から見た自身の過去」を解釈して語っています。そのため、何らかのバイアスがかかっていることは否めないでしょう。だからこそ、夫との離婚も経験したサヤカさんからすれば、むしろ大学サークル時代の人に対して、「ちゃんと関係つくろうみたいに働きかけてくれた人に対してかなり雑な扱いをしてたからバチ当たった」という見方にもなるわけです。
 私もまた、番組を通して読み取れるサヤカさん像を、情報を補いながら再構成してきました。しかし、補う情報次第ではまったく違うサヤカさん像もありうるわけです。


 例えば、サヤカさんは男たちを手玉に取る悪女のようにイメージできます。しかしその一方で、本当は男たちにいいように性的に消費され、性的に迫られれば断れない状態だったのかもしれません。実際、サヤカさんは「告白されないようになんとかこうヘビの生殺しみたいな状態にしとく」と言いながら、7人の内の3人とは付き合い、1人とは「サブ彼」なわけで、結局男から押し切られてる部分もあると解釈できます。もしかすると、そういう事態から逃れられずに精神的に病んでいったあげく、大学卒業後に結婚した男も、自分本位にサヤカさんを利用するモラハラ男だった……のかもしれません。とはいえ、何らかの取捨選択を経たサヤカさんの物語(番組)からそのことは積極的には読み取れないわけですが。ねほりんぱほりんの感想ツイートを見ていても、「この人は精神的には安定しているんだな」と解釈している人がちらほらいました。


 あるいは私の仮説に反して、もっと「まともな」人なのかもしれません。番組の性質上「悪女」として描かれる方が「おいしい」わけです。実際にはサヤカさんの中ではごく普通に男性に接していたにもかかわらず、クラッシャられ男たちが勝手に勘違いして惚れ、男の方が公私混同して人間関係をグチャグチャにし始めた……のかもしれません。


 このように、ねほりんぱほりんはあくまでサヤカさんの視点で過去に経験したことを、現在のサヤカさんが語り、それを番組として構成し、視聴者が解釈する、という何重にもフィルターのかかった物語に過ぎません。言わば伝言ゲームです。それが間違ってるとか悪いと言っているわけではなく、常に別の解釈にも開かれているということを意識しながら見るべきだということです。さもなければ、サークルクラッシュという貴重な現象も、安易なレッテルによって理解されかねません(もちろん、「サークルクラッシュ」と名付けることもまたレッテルなわけですが)

 

類型を知ることの大切さ

 このように、サークルクラッシュの事例が常に別の解釈にも開かれているということを意識するために、「サークルクラッシャーの類型」を知っておくのは大事かもしれません。実際、私が知っている中でもサークルクラッシャーには4つほど類型があります。

 

①いわゆる悪女やビッチと言われるような複数の人間と関係を持つタイプ。背景にはおそらく承認欲求がある。(承認欲求タイプ)

②恋人を乗り換えるのが早く、同じ集団内でとっかえひっかえするタイプ。おそらく衝動的に恋愛をし、熱しやすく冷めやすい。(衝動恋愛タイプ)

③好かれたくない相手にも好かれてしまうが、強く自己主張するのが苦手などの理由で断れないタイプ。恋愛感情を向けられていることに半ば自覚的だが、ついつい拒否できない。アサーション苦手タイプ)

④異性との距離感は近いが、そもそも本人が恋愛関係だとは思ってないタイプ。「男っぽいサバサバ系」(FtXなどの性別違和を持った人)やロリータ系ファッションなど、女性性を無にするか過剰にすることによって男女関係を拒否する傾向。(男女関係拒否タイプ)

 

 必ずしもこの4つの類型が正しいわけではありませんし、複数同時に満たす場合もあります。しかし、例えばこの類型で考えると、類型④の人は相手を男/女というカテゴリーで捉えることをせず、人間として接するがゆえに異性との距離感が近くなってしまう(友人として接しようとしているのに恋愛感情を持たれる)ということがあります。これは上で述べたサヤカさん像には見られない傾向です。サヤカさんとは逆に、④の人は他者を「一人の人間として見る」傾向が強いわけです(だからこそクラッシュするのですが)。

 しかも、④の場合はおそらく、クラッシャられの側が相手のことを鑑みずに自分の感情で突っ走らないことにはクラッシュまでは到達しません。逆に、クラッシャられの側がしっかりしていれば「相手のことが大切だからこそ、ガチ恋はしない」という訓練されたアイドルファンのような態度を示し、平和が保たれるというパターンもあります。つまり、類型を知っていればこのような複雑な事象を理解することもできる、ということです。

 細かい余談ですが、こう考えると「サークルクラッシャーの類型」という言い方は不適切なところがあります。サークルクラッシュはクラッシャーだけで成立するものではなく、集団・クラッシャー・クラッシャられの三要素が複雑に絡み合わないと成立しません。「クラッシャーの類型」としてしまうと、単に女性を分類して消費するだけになってしまう恐れがあります。ということで、サークルクラッシュという「現象」に4つほど類型があると考えるのがより正確でしょう。

 

 まとめると、サークルクラッシュの事例を理解したいのであれば、集団のまじめさとか人数とか男女比とか情報の風通しとか友人関係とか知っといた方がいいし、クラッシャられのことも知っといた方がいいし、クラッシャー本人の過去も考慮に入れた方がいいし、他のクラッシュパターンと比較して考えた方がいいよ、ってことです。そうすることで、クラッシャーやクラッシャられになっちゃうような人に対して偏見を持たなくて済むし、その人の話を「ちゃんと聞く」ことができるのだと思います。

 

 そのあたりをちゃんと掘り下げた具体的なパターンを知りたい方は、ぜひ以下の私の書いたSPAの記事を読んでください。あと2パターンぐらい書いた方がいいんだろうなって思うけど。

 

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ねほりんぱほりんサークルクラッシャー回を読み解く(前編)

とうとうNHKで「サークルクラッシャー」が取り上げられましたね。サークルクラッシュ同好会を運営し、啓発活動(?)を続けてきた自分としては嬉しい限りです。


サークルクラッシャー」という言葉がどのような経緯で生まれたかについては

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で書きました。2005年に宇野常寛さんたちが生み出した言葉です。当時、電車男を発端に「非モテ」が話題になり、その文脈で「サークルクラッシャーに引っかかる」ということが盛り上がったわけです。


概念として定着し始めると、それじゃあこの「現実」の社会において「サークルクラッシャー」ってどういうものなんだっていうことが気になってくるでしょう。ただでさえ都市伝説のごとく語られてきたわけですから。

僕が2012年にサークルクラッシュ同好会を立ち上げて、2014年に「オタサーの姫」という言葉が作られたということを踏まえても、「サークルクラッシャー」がある種の都市伝説として語られる状況は変わりません。今回「ねほりんぱほりん」で取り上げられたのも、題材として適切だったからでしょう。

 

「悪女」としてのサークルクラッシャー

こう考えると、番組の最初で「悪女」のような言葉を使ってゴシップ的に扱いつつも、ゲストとして現れたサヤカさんにもある程度の事情があったのだということを掘り下げていき、現在では反省しており人生に苦悩しているというところで〆たのは一定の評価ができるでしょう。「サークルクラッシャー」というと、どうしてもその人自身の持つ悪意や責任にスポットがあたり、単なるゴシップとして終わってしまいます。酷い場合は「ビッチ」などと言われ、いわゆる「女叩き」に堕してしまいます。

 

「被害者」としてのサークルクラッシャー

しかし、今回の番組では(サークルクラッシャーのあいうえおなど、笑えるテクニックも挟みつつ)、「何者かになりたい」ということをキーワードにサヤカさんの内面を掘り下げていったわけです。これによって、サークルクラッシャーは「加害者」であると同時に、実はある種の「被害者」であるということが示されています。僕に言わせれば、社会全体から見てサークルクラッシャーもクラッシャられてしまう男たちも、事情を理解され(できれば支援され)るべき対象なわけです。

 

サークルクラッシュから見た女性の人生

そして、番組の後半では「仕事で自己実現したいと同時に母・妻であることの困難」という現代社会の問題にサヤカさんも苦しんでいるということが判明します。特に興味深いのは、子育てに関して「夫が助けてくれなかった」一方で、「男を釣っていた時代は何も言わなくても相手が助けてくれた」という対比です。夫に関して「運命を感じる相手だった」と述べていたことも考え合わせると、高学歴で自己実現志向の現代らしい女性であっても、どうしても旧来的な「強い男性」に魅力を感じてしまうという問題があるのです。逆に言えば、大学サークル時代の「クラッシャられ」の男たちには「運命」を感じないわけです。おそらく一時的な安心を与えることはできても、刺激が足りないのでしょう。


つまり、恋愛においては旧来的な男女観が根強く、ライフコース(キャリア)においては「女性の社会進出」といった自己実現が称揚されるという矛盾があるわけです。このような「欲張り」な志向は、番組の途中に出てきたエリコさんの円グラフ(彼氏以外の男でリスクヘッジをするやつ)にも見出せるでしょう。


広い視点で見るならばサークルクラッシュという現象は、「子どもを産み育てたい・強い男に魅力を感じる」といった旧来の価値観を温存したままで、「自由恋愛市場」と「仕事」という二つの社会に女性が進出したことにおける矛盾を示しているとも言えなくもないでしょう(この問題を解決するための方策はいろいろあるでしょうが、それは割愛します)。

 

 

このように、ねほりんぱほりんは「サークルクラッシャー」を掘り下げたものとしてはなかなか良い点をついているように思います。しかし、決定的に分からなかった点もいくつかあります。サヤカさんはなぜ同じ集団内で7人も関係を持ったのか、その集団はどのような集団だったのか、男女比はどうだったのか、恋愛以外での交友関係はどうなっていたのか。そして、「サークルクラッシャー」とはサヤカさんのような例が代表的なのか。このような問い、すなわちねほりんぱほりんが語らなかったこと」を後編では見ていきます

 

続く

たまたま金沢に行った際に、展示「インストール インストール RE: / 主体性の輪郭」に行った感想

10月の最初の方、たまたま誘われて金沢に行っていた。それで「インストール インストール RE: / 主体性の輪郭」という展示に行ってきた。

 

展示している主のNanageo/さんのホームページに展示の感じや情報(ステイトメントとか)が載っている→ http://naganeo.com

 

だいたい以下のような内容だった。

 

①人間のアイデンティティについて考えさせられるような不思議な展示
心の哲学」系の思考実験で提起されるような問いを心理学風の質問紙で問う
③質問紙をもとにNaganeoさんが録音しながらカウンセリングする
④カウンセリングを終えた人の写真を撮って加工したもの、質問紙、録音されたテープを「被験者」として展示

 

被験者の僕。アイロニカルだと言われた。


僕は心の哲学も心理学も好きなので、こういう学問をパロディした内容はたまらない。カウンセリングを対面ではなく90度の角度でやるとかも良いパロディ。


心の哲学とかで提起されている問いを僕はある程度知ってしまっているので、けっこうメタ的な視点から回答してしまったなぁ。そういうのをかじっていない人からはこれらの内容がどう映ったのかが気になる。他の人の質問紙も見れるんだけど、それぞれに個性が見られてなかなか面白かった。
しかしまあ、学問オタクへの道を進みつつある僕にとっては、こういう学問を援用するタイプの芸術はもっと増えてほしいなあと思うのでした。

 

それにしても、カウンセリングをNaganeo/さんのようなハンサムな人にやってもらうのはドキドキした。Naganeo/さんは質問紙の問いについて「答えはない」ということを強調していた。それは複数の学問がコラージュされたこの展示においては、あたかも学問分野間の調停しきれない対立を表しているように(僕には)見えた。

 

人文社会科学と自然科学(いわゆる文系・理系)の間には人間の捉え方にミゾがある。人文社会科学の中でもいろんな対立がある(社会学をやっている僕としては、「あなたはどこにいますか?」というような問いに対して「周りとの関係」というような答えがあり、ついついマルをつけてしまった)。
しかし、それぞれの学問分野disciplineのレンズを通して見る「わたし」(主体性)は、展示のタイトルにもあるように輪郭のような形で浮かび上がってくるだろう。統一された全体ではなく、ぼんやりと。学問というレンズだけでなく、芸術というレンズ、展示というレンズ、質問紙というレンズ、カウンセリングというレンズ、録音テープというレンズ、写真というレンズ、あるいは展示に来た人々それぞれが持っているレンズを通して。

京大生必見! 2017年NF統一テーマに隠された真実

2017年の京大11月祭(NF)統一テーマが発表された。以下である。


戦争に加担した大学から平和を希求する大学へ
軍事研究するヒマがあったら、みんなで肩組んで騒ごうぜ!

 

このテーマについての批判が相次いでいる。主張内容の薄さもさながら、左翼的な臭いも感じさせる。
それに、やけに長いテーマで二行に分かれていて歯切れが悪い。もちろん私もこのテーマに違和感を覚えずにはいられなかった。しかし、実はこの違和感には理由がある。私はこのテーマに隠されたメッセージに気づいてしまった。

 

まず、このやけに長いテーマの省略されている文字を補うとこうだ。


戦争に加担した大学から平和を希求する大学へ(告ぐ)
軍事研究するヒマがあったら、みんなで肩組んで騒ごうぜ!


ということだ。これは「戦争に加担した大学」から「平和を希求する大学」へのメッセージなのだ。では「戦争に加担した大学」、「平和を希求する大学」とは何のことか?


大学の知(アカデミズム)が戦争において重要な役割を果たすことはしばしばある。ここでこのテーマが「NF」のテーマだということを思い出してほしい。


NFとは何の略か? November Festival? いや、違う。これはその「超人思想」をナチスドイツに利用された、フリードリヒ・ニーチェ(Nietzsche Friedrich)のことを指しているのだ。

 

ここまで言えば「戦争に加担した大学」の意味は明らかだろう。このNF統一テーマは、戦争に加担した大学(の知)から、腑抜けた「平和を希求する大学」へのメッセージなのだ(当然のことながら、マルティン・ハイデガーが1933年にナチスへの共感を示した「ドイツ大学の自己主張」も背景にある)。

 

 


では、メッセージの内容は何をしめしているのか? 先ほどの分析から考えて明らかなように「みんなで肩組んで騒ごうぜ」というのは言うまでもなく全体主義を示している


腕がなく“肩を組めない”“みんな”に入れない者は積極的に排除していこうという姿勢だ。NF統一テーマの“統一”とは、そういうことであり、「NF」がナチズム・ファシズムをも意味していることもまた明らかである

 

しかし、それでは「軍事研究するヒマがあったら」というのはどういうことだろう? ヘゲモニーを握って「統一」を成すためにはむしろ軍事力が必要ではないのか?

いや、違うのだ。忘れてはならないのはこれは大学へのメッセージであるということだ。


軍事研究という「政府による・理論主導の・上から押し付けられた」ものではなく、“みんなで肩組んで騒ぐ”。つまり、「個人個人による・直接行動の・草の根の」力を、大学(の知)に求めているのだ。

アカデミズムが大衆から遊離する中で「国家」という幻想を取り戻す。そのために行われる「NF」の3つ目の意味はNationalism Fantasyである。

 

NF統一テーマは微温的な左翼による戦争反対のメッセージではない。むしろ戦争のために大衆を、大学を蜂起させるプロパガンダなのだ。