すもも「男性社会の幸福な女性たち」というnote記事への疑問

要約すると、問題を個人の意識に還元しすぎじゃない? 「男女の機会は平等」っていう割にその証明がないのでは? もっと社会的な変数も考えてみては? みたいな話。

 

note.mu

 

 すもも氏のこの記事について、統計の読み方に問題があるということを指摘している人を見た。僕もいくつか疑問があるので、ここに記しておく。あまり細かいところを指摘しすぎるとあまりに読みにくいので、できるだけ議論を主要な部分のみに絞った。

 

漫然とした不満 という見出しの部分

 まず、多くの女性が日本を「男性社会」だと感じているという話。それはいい。

 その後、「社会において男性が優遇されている原因」について、「男女共同参画社会に関する世論調査」(http://www.gender.go.jp/research/yoron/index.html)の2000年(平成12年)のものから分析している。年代が古いという批判もできるだろうけど、そもそも「多くの女性が日本を「男性社会」だと感じている」という主張の根拠となる統計では2000年以降の時系列データ参照しているので、これもまあそこまで問題ではないと僕は思う(「日本は男性社会である」ということが2000年からずっと言われているのであれば、なぜ”最近になって”フェミニズム言説が盛り上がっているのかの説明にはなっていないが)。

 

 僕が問題としたいのはその後である。引用しよう。

 

さらに詳しく分析すると、内閣府男女共同参画社会に関する世論調査」(2000年2月調査)の「男性が優遇されている原因」をみると、「日本の社会は仕事優先,企業中心の考え方が強く,それを支えているのは男性だという意識が強い」「社会通念や慣習やしきたりなどの中には,男性優位にはたらいているものが多い」「女性の能力を発揮できる環境や機会が十分ではない」が上位にきている。

〔……〕

つまり、多くの女性の「男性優遇」だと思っているものは、「女性という属性を理由に本人の意思に反して不当な扱いを受けた」という「差別」や「優遇・冷遇」の類ではなく「男性目線で動いているように見える社会」に対する漠然とした不満であると理解できる。

  

 この記述に対して、僕は三つ疑問がある。

①この記述は「差別」や「優遇・冷遇」を「女性という属性を理由に本人の意思に反して不当な扱いを受けた」ということに還元している。そんなに狭く定義してしまっていいのだろうか。

 一見「本人の意思」に反していなかったとしても、不当な扱いを受けることを構造的に選択させられている(ことに納得させられていまっている)というのはありうるように思われる。

 例えば、「男性が優遇されている原因」として「能力を発揮している女性を適正に評価する仕組みが十分ではない」の項目を女性たちが挙げなかったとしても、「日本には適正評価の仕組みが存在する」とは言えないだろう。アンケート調査で明らかになるような個人の意識とは独立して、差別的な仕組みが社会に存在することはありうる。むしろ、個人の気づかないところで差別構造が温存されているとしたら、その方が問題とすら言えるのではないだろうか。

 

②仮に上記の定義に従ったとして、「多くの女性の『男性優遇』だと思っているものは、『女性という属性を理由に本人の意思に反して不当な扱いを受けた』という『差別』や『優遇・冷遇』の類ではな」い、「漠然とした不満である」とまで統計から読み取れるだろうか。この定義で言うところの「差別」や「優遇・冷遇」も起こっている可能性はないだろうか。

 この統計データは複数回答で10個の項目について問われているのだが、そもそもれを選べば「漠然とした不満」なのか、どれを選べば「具体的な(漠然としていない)不満」なのかを区別する基準をすもも氏は設けていない。

 しかも、「育児、介護などを男女が共に担うための体制やサービスが充実していない」の項目が上位3位にきている。これは「漠然とした不満」ではなく「具体的な不満」ではないだろうか。しかも、元のデータを確認すると、この項目は女性回答者では3位だったのに、全体では4位に落ちている。つまり、「男性よりも女性の方がより具体的な不満を持っている」と言える可能性すらあるのである。

 

③また、すもも氏は「『差別』や『優遇・冷遇』が起こっていたら問題だけど、起こっていないから問題ではない」ということを言いたいのだろう。では、「『男性目線で動いているように見える社会』に対する漠然とした不満」は問題ではないのだろうか?

 

 以上を構造的に言い直せば、すもも氏の記述は「Aが差別や優遇・冷遇である」と定義した上で、社会で起こっていることはAではなくBであると言っている。

 それに対して僕の疑問は、①「差別や優遇・冷遇の類」をAと定義していいのか? ②そう定義したとして、Aも実際には起こっている可能性はないだろうか? ③Bに問題はないのだろうか? ということである。

 次の部分に移ろう。 

 

”結果の平等”に怒る女性たち という見出しの部分

 この部分は要するに、女性は機会の平等は得ているのに、その機会を行使しないから結果的に不平等が生じているだけだ、という主張である。

 だが、統計データはその主張を根拠づけているだろうか? まず、すもも氏はジェンダーギャップ指数によって、(特に政治分野において)結果としては「男性社会」になっていることは認めている。

 問題はそのプロセスにおいて、男女間の「機会の平等」が存在するかどうか、である。

 ここですもも氏が提示しているのは、「世界価値観調査」による、「男性は女性よりも政治指導者として優れている」という意見への賛否である。「世界価値観調査」の中から先進12か国におけるデータを抽出し、女性回答者において、日本は賛成が上から4位、反対がワースト1位、なのだという。

 問題はデータから引き出されている解釈である。引用しよう。

 

「男性は女性よりも政治指導者として優れている」という意見に対して、日本の女性は「賛成計」が上位4位、「反対計」がワースト1位であり、「政治家は男性がするもの」という意識が強いことが示唆される。

〔……〕

もし、「政治家になりたい」という女性が非常に少ないのであれば、「ジェンダー・ギャップ指数」を「女性差別」「男性優遇」を主張するエビデンスにはならないのではなかろうか。

政治家における男女比のみならず、管理職の男女比、賃金の格差など、機会は平等だが、結果的に男女差が生じているものに対して「差別」や「優遇・冷遇」の類と混同する議論をよくみかける。

 
この解釈はさすがに飛躍があるように僕は感じた。すもも氏の思考を順番に追っていくと、

 

「男性は女性よりも政治指導者として優れている」という意見への賛成が多く反対が少ない

「政治家は男性がするもの」という意識が強い

「政治家になりたい」という女性が非常に少ない

結果的に政治家の男女比に偏りはあるが、機会は平等である

管理職の男女差や賃金格差においても同じことが言える

男女差はあくまで結果であり、機会は平等なので「差別」や「優遇・冷遇」の類は生じていない

 

と考えていることになる。

   この論理展開に関しては、大きく4つの疑問がある。

 

①統計データの解釈に問題はないだろうか? 「男性は女性よりも政治指導者として優れている」という意見への賛否のデータを見ると、日本は他国と比べて圧倒的に「わからない」の割合が高い。これは、「中央化傾向」と呼ばれる、日本人が人事評価などで「真ん中」を選択する傾向を表しているのだろう。これでは、反対の合計がワースト1位になるのも当然である。
(とはいえ確かに、「わからない」がもし全員反対側に流れたとしても、この12か国の平均より賛成の割合は高いので、他国と比較してこの意見への賛成が多いとは言えるだろう。一応元の統計を見てみたので、詳しくは下の画像を参照)

 


②統計から引き出せる解釈に問題はないだろうか? まず、統計から「政治家は男性がするもの」という意識が強いことを引き出しているが、男性が政治指導者として優れているからといって「政治家は男性がするもの」となるのだろうか? また、仮にそうだとしても、あくまで“他国と比べて”そういう意識が強いというだけであり、そもそも「政治家は男性がするもの」ということに賛成の人が絶対的に多いというわけではない。
 そして、「もし、『政治家になりたい』という女性が非常に少ないのであれば」という書き方にはなっているものの、そもそも「政治家になりたい」という女性が非常に少ないというエビデンスは示されていない。せいぜい「『政治家は男性がするもの』という意識があるとしたら、『政治家になりたい』という女性も少ないのではないか」という推論が成り立つ可能性があるという程度である。ここは「政治家になりたい女性は少ない」というデータを別個に示さないと根拠が薄いように思われる。


③機会は平等だろうか? すもも氏は意識と機会を混同してはいないだろうか? たとえば、「政治家になるための機会」ということを考えてみると、確かに女性は議員として立候補できるし、制度上機会を保障されている。しかし、選挙で勝とうと思えば、票を集めるための手段(地域における地盤固めなど)が必要になってくるだろう。その際にはたして男性と女性は機会が平等だろうか? これは意識の問題ではなく社会構造上の問題である。
 また、仮に意識の上で何かを選択したとしても、「選ばされている」というパターンは無視できない。これは、アンケートを取って「あなたの現状は自分で選択したものですか?」ということを聞いて「はい、自分で選択しました」と答えたとしても言える話である。アンケート回答者が自覚していないところで社会構造によって「選ばされている」ことはありうるからだ。

 このテの「女性は『主体的に〇〇を選んでいる』のか? それとも、『社会構造によって〇〇を選ばされている』のか?」という問いについては先行研究の蓄積がある。
  例えば、「主体的選択か社会構造か」という問いについて、ケア労働の分野において以下の本がある。

 

なぜ女性はケア労働をするのか―性別分業の再生産を超えて

なぜ女性はケア労働をするのか―性別分業の再生産を超えて

 

 

 

④「結果の不平等・機会の平等」は他領域にも一般化できるだろうか? すもも氏は政治についての話を管理職の男女差や賃金格差にも拡張して論じている。しかし、政治の話と労働の話は異なるので、機会が平等だというのならデータが必要だろう。
 むしろ、管理職の男女差や賃金格差においては、「性別職域分離gender segregation」が起こっていると言われており、女性の昇進や賃金上昇の機会は構造的に制限されている(例えば、

CiNii 論文 -  性別職域分離が賃金に与える影響とそのメカニズムに関する実証研究 : 技能に注目して

を参照)。


以上、いろんな疑問を抱いたが、僕がここで最も問題に感じるのは、「男女の機会が平等である」ということが証明されていないことである。

 


日本の女性の幸福度を高めているのは専業主婦 という見出しの部分

 ここでは幸福度の男女差の原因を測るために、個々の属性ごとの幸福度を見ている。

 

  • 女性は「10代」(90年代生)「20代」(80年代生)の幸福度が高い。
  • 女性は「学生」「主婦」「退職」の幸福度が高い。
  • 男性は「未婚」「離婚」の幸福度が低い。
  • 男性は「収入階層意識が高い層」の幸福度が高い。

 

という傾向を見出しており(なお、女性は「自営業」の幸福度も高いようだ)、これ自体は面白い結果である。
(ただし、幸福度が平均より高い/低いと言えるのか、どの程度高い/低いと言えるのかみたいな議論をするのであれば、有意検定をしたり、相関係数を出したりといった操作が必要になるように思われる)

 

 すもも氏はここから、専業主婦について議論していく。まず、日本の女性においては、専業主婦の幸福度が高い。そして、他の国と比べると専業主婦の割合が高い。更に、他の国と比べて「家庭の主婦であることはお金のために働くのと同じくらい充実している」という意見に賛成している割合も高いとデータから分かる。
 そこから、日本の「女性が男性の経済力に依存することが肯定される文化」を見出し、一方で、男性の方は収入階層意識が高い場合に幸福度が高いというところから「男性は経済力をつけなければ幸福になれない」ということを見出している。


 ここまではよくできている。しかし、疑問があるのは次の記述である。

 

恋愛・結婚における力関係では女性が選ぶ側であり、女性の意識が変わっていかない限り、男性の幸福度の向上も男女平等も遠のくだろう。

 

 この記述には二つ疑問がある。

 

①「恋愛・結婚における力関係では女性が選ぶ側」というのは唐突に出てきたが、どういう根拠でそう述べているのだろうか?
 確かに、全体としてはそういう傾向はあるかもしれないが、男性の中にも選ぶ側はいるだろうし、女性の中にも選ばれる側はいるだろうし、そもそも恋愛・結婚市場に参入してこない男性・女性もいるだろう。そのあたりの細かい区別がここからは見えてこない。
 そうなると、続く「女性の意識が変わっていかない限り」という記述にも疑問が出てくる。どういう女性の話をしているのだろうか?

 

②「女性の意識」に還元できる問題だろうか? 記事内の統計データでは意識が扱われているが、意識とは独立したところで恋愛・結婚の環境が決まっている側面はあるだろう。また、女性の意識(や男性の意識)にも文化や制度は強く影響していることだろう。なので、文化や制度の方を変えることで、(「女性の意識の変化」を経由するかどうかは分からないが)男性の幸福度の向上や男女平等に向かうことも可能なはずである(具体例を最後に述べる)。


日本の未婚男性は怒っていい という見出しの部分

 ここでは、未婚男性の幸福度の低さが問題視されている。そのことには強く頷ける側面がある。
 ただし、そもそもの疑問を挙げておくと、この「幸福度」とは何を測っていることになるのだろうか? 元の統計データを見ると、「全体的にいって、現在、あなたは幸せだと思いますか、それともそうは思いませんか」に非常に幸せ・やや幸せ・あまり幸せではない・全く幸せではない・わからないの5件法で答えるものとなっている。
 確かに、こうやって主観的な幸福感を測ることには一定の意義がある。しかし、「満足な豚よりも不満足なソクラテスであれ」という言葉もあるように、必ずしも「私は幸福です」と答えている人が、より質の高い幸福に浴しているとは言いきれないだろう。

(何が幸福と言えるのかについて議論した僕のブログ記事を一応貼っておきます

満足することが嫌いです - 落ち着けMONOLOG

社会学に触れ始めたぐらいの時期に書いた記事なので、拙くて恥ずかしいですが)


 そのため、最後の部分にある「近年のフェミニズムは、幸福度の高い女性に対する『過剰サービス』になっているのではないか」という部分については、なんとも言えないところがあるように思う。
 ただ、未婚男性に関して、社会階層と健康状態、人生における家族・友人の重要性のデータも出しているのは良い方向性だと思う。多角的に見ても未婚男性が苦しんでいるということは確かにもっと強調されてよい。

(男性はいろんな観点から見てしんどい部分があるよ、的な議論については例えば以下の本がある)

 

 

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問

 

 


まとめと個人的な意見

 すもも氏の主張をまとめると、
主張A:「日本は『男性社会』だと思われているが、それはそう見えるだけで『差別』や『優遇・冷遇』の類ではない」
主張B:「しかも、実際には女性は幸福である」
主張C:「専業主婦と経済力のある男性が幸福で、未婚男性は不幸であるので、怒るべきは未婚男性である」
 といったところだろうか。

 幸福度についての分析はそこそこ的確だと思ったが、前半で個人の選択(意識)の問題に還元し、後半で幸福度の問題に還元していることを合わせて考えると、一種の心理主義に陥っているきらいがあるように思われる。そんなに男性個人と女性個人を対立的に描かなくてもよいのではないだろうか。(女性とは独立して)未婚男性には未婚男性の苦しみがあるのだ、ということだけで十分だと思った。


 僕が社会学の人間だからそう見えるだけかもしれないが、もっと社会的な変数も考慮に入れていいのではないだろうか。すると、ある種のフェミニズム的な発想から男性の幸福度を高めることも、たとえば次のように可能なのではないだろうか。

 「子育て支援」の制度が充実していれば、女性が働き続けたり昇進したりできるので女性の賃金も上がる。すると、専業主婦を選ぶメリットは下がる。結果として、「女性が男性の経済力に依存することが肯定される文化」は衰退し、未婚男性は経済力がなくても結婚できるようになったり、経済力以外の幸福の道を見出せるようになったりする……みたいな話である。

  これは空想的なたとえ話に過ぎないので、実際にはデータに即して考えるべきだろうが(たとえば以下の本みたいに)

 

 

子育て支援と経済成長 (朝日新書)

子育て支援と経済成長 (朝日新書)

 

 


 ……なんにせよ、統計的な分析をする人が出てきたのは歓迎すべきことだと思う。統計的な話をしてくれるおかげで、まともに議論することも可能になる。考えるためのキッカケを提供してくれたすもも氏には感謝します。
 「フェミニズムv.s.アンチフェミニズム」のような対立がTwitter上で起こっているように見える。そもそもTwitter上での対立は現実からは乖離しているのかもしれないが、仮にそのような対立があったとしよう。そもそも不毛な対立はしない方がいいとは思うが、敢えて対立するのだとしたら、どちらの議論の質も高まっていってほしいというのが、僕の素朴な願いである。

文学フリマ(5月6日)「メンヘラ批評」出店情報

ホリィ・センです。
なんとか間に合いました。文学フリマ東京に出店します「メンヘラ批評」の告知をします!


第二十八回文学フリマ東京(https://bunfree.net/event/tokyo28/
日時:2019年5月6日(月) 11:00〜17:00
場所:東京流通センター 第一展示場

 

「メンヘラ批評」のスペースはオ-36です!
以下、「メンヘラ批評Vol.1」の表紙、目次、巻頭言を掲載します!

 


表紙

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ふみふみこさんに描いていただきました! 感謝!

 

目次

巻頭言:いくつもの声のなかで ホリィ・セン 2

 

■特集=獣道を生きる

社会的強者のメンヘラは、今日も生きづらいと叫びながらマシンガンを乱れ撃つ 雨宮美奈子 6

メンヘラ男子に女装とコスプレの勧め 永井冬星 13

記号としての「わたし」 A440 19

 


■特集=私ですけど、何か?

変わっていたいと不健全を夢見ることはとっても健全だ 南村杞憂 30

メンヘラ展とは何だったのか
障害者アートにおける技術・障害・個性 河野麻実(元あおいうに) 34

メンヘラビッチバーの始まりについて メンヘラビッチバー 40


■特集=物語の中の「メンヘラ」

HUNTER×HUNTERのキルアにおけるメンヘラ克服法 脱税レイヤー風呂屋さん 42

存在しない「メンヘラ」と、平成最後のガール・ミーツ・ガール じあん 52

人生の止まった時計が動き出す
毒親」語りとリバイバルブーム ホリィ・セン 60


コラム
メメント・モリ メンヘラ的に死を想う 小谷悠里 78


■特集=「メンヘラ」が問いかけてくるもの

インターネット社会における「メンヘラ」とまなざしの地獄について 北条かや 80

ダウナー系メンヘラを「待つ」こと レロ 85

オラつき行為の自然史
ジャイアニズムの展開過程について 西井開 90

メンタルヘルサーは夕暮れとともに飛びたつ 雪原まりも 96


■特集=カギカッコなしのメンヘラ

「メンヘラ」はなぜ決まって女ばかりに言われるのか
~「ニシノユキヒコの恋と冒険」から読み解く~ ばしこ 106

 

―――

 総勢15人が執筆しています!

本当に様々な角度からみなさん書いていただきました。

せっかくなので、内容の紹介をしております巻頭言もこの記事に掲載しておきます!

 

 

巻頭言:いくつもの声のなかで

  「メンヘラ批評」は、さまざまなことについて「メンヘラ」という切り口から見たものです。「メンヘラ」を出発点に、いろんな人がいろんな視点から文章を書いています。
 「批評」といっても、「メンヘラ」を外側から評価して、好き勝手なことを言うわけではありません。批評は「評論」よりも「否定」の意味合いが強い言葉ですが、今生きているこの社会の生きづらさを、私たちは否定したいのです。この社会で生きづらさを感じている人にとってこの本が突破口になってくれれば。そういう思いを込めて、敢えて「メンヘラ批評」と名づけました。
 この本のコンセプトは、この社会についての新たな「見方」を読者に提示すること、そして、その見方によって「メンヘラ」に力を与えることです。だから、ごく一部の人にしか読めないような内容では意味がありません。批評というと難しい話を想像する読者もいるかもしれませんが、実際には具体的でイメージしやすい話が集まっています。
 より読みやすくなるように、以下では各記事の簡単な道案内をしておきます。読者はどこから読んでも構いませんし、興味のありそうな記事から読むのも一つの手でしょう。

***

 第一特集「獣道を生きる」では、「あたりまえ」の、「普通」の道を生きてこなかった三人の記事が収録されている。
 雨宮美奈子は自身が「社会的強者」になるに至った過程と自傷行為との関係を語っており、そのドラマティックな生き様の背景にある信念が伝わってくる。
 永井冬星は驚くほど一直線に、自らの「メンヘラ」問題の定義→「女装」や「コスプレ」という解決策、というワンセットを示し、そのまま読者に勧める。
 A440は自らの病気のキッカケとなった壮絶な人間関係を回想しており、今なお「ふつう」や「社会」に対する距離感に戸惑い続けている様子が見て取れる。
 この三人の記事についてはそれぞれの文体にも注目してほしい。それぞれの語り口のクセの強さが、いかなる性質や人生経験から現れてきているのか。そのあたりを想像することで、書き手の世界観に対するより深い理解や共感に達しうることだろう。
 第二特集「私ですけど、何か?」では、それぞれのユニークな実践の振り返りと共に、信念のこもった主張がなされている。
 南村杞憂は真摯に自分のことを語り、葛藤を隠さない。様々な言葉や経験が紡ぎ合わされていくその様は、「メンヘラ」という言葉の多義性とも響き合う。
 河野麻実(元あおいうに)は「メンヘラ展とは何だったのか」と題して、その三年間の活動を振り返る。そして、相変わらずの切れ味で障害や個性というテーマを切り捌いていく。
 メンヘラビッチバーはそのまま活動の紹介だが、バーで話されたことがそのまま紹介されている。特集の締めにふさわしい、バーでのひとときの会話のような読み味となっている。
 第二特集までは具体的な生の現実に根ざした記事が集まっているが、第三特集以降は、「メンヘラ」にまつわる様々な事態が、やや俯瞰的な視点から論じられていく。
 第三特集「物語の中の『メンヘラ』」では、作品の分析を通して、「メンヘラ」にまつわる問題が鮮やかに整理されていく。
 脱税レイヤー風呂屋さんは有名なジャンプ漫画『HUNTER×HUNTER』のキルアの動向を「毒親」の観点から精緻に読み解いており、原作ファンにはたまらない内容である。原作を知らなくてもよく理解できる構成になっている。
 じあんは「わたし」にとっての様々な「(広義の)他者」Aと「わたし」がどのように関係しているのかを問い、■(Aに斜線)という記号によって表される関係から「メンヘラ」を特徴づける。そして、その様相をいわゆる「百合」系の作品群から見出していく。
 ホリィ・センは「アダルトチルドレン」が「毒親」へと言葉が移り変わったことを指摘し、その背景を探る。そこで、『SSSS.GRIDMAN』や『君の名は。』といった作品を補助線とすることで、現代的な「トラウマ語り」の意義について分析している。
 「死にたい」という言葉についての小谷悠里のコラムが間に挟まり、第四特集「『メンヘラ』が問いかけてくるもの」では社会科学的な志向をもった記事が収録されている。
 北条かやはインターネットにおいて「メンヘラ」に対して向けられているまなざしについて、自身の炎上経験も交えた上で分析し、「まなざし」の時代的な変遷についても考察を加えている。
 レロはアッパー系メンヘラ/ダウナー系メンヘラという二分法を様々な観点から考察し、その区別が具体的にイメージできるところまで落とし込んでいる。そして、実践上は「待つ」ことの意義を論じている。
 西井開は他者に攻撃的な言葉を浴びせて威圧する行為(「オラつき」、「ジャイアニズム」)を取り上げ、その無意識的な学習過程や、周囲との関係性が固定されていく「自然史」を描いている。そのうえで、相手を支配せずに関係性を良好に築く方法を模索している。
 雪原まりもは「夜の仕事はメンタルヘルスに『優しい』のか」という問いから出発し、日本において昼職/夜職という二領域がどのように形成され、どのようなバランスの元で成り立っているのかといったことを説得的に論じている。
 第五特集「カギカッコなしのメンヘラ」には、ばしこの「『メンヘラ』はなぜ決まって女ばかりに言われるのか~『ニシノユキヒコの恋と冒険』から読み解く~」が掲載されている。この記事は世間に流通している「メンヘラ」のステレオタイプなイメージに則ったものであり、「素朴な実感に基づいた内側からの視点」という意味で、他の記事とは異なる位置づけが与えられている。

 

―――


以上です!

5月6日(月)、ぜひぜひブースにお越しください! よろしくお願いします!(ちなみに価格は1500円です)

「メンヘラ批評」表紙絵発表

ホリィ・センです。「メンヘラ批評」の編集もいよいよ佳境に入ってまいりました。
とても面白く、読み応えのある内容になっておりますんで、自信を持ってオススメできます。


さて、今回は表紙絵を描いてくださる人を発表します。ふみふみこ さんにお願いしております!

 

 

ふみふみこ (@fumifumiko23235)
漫画家。『キューティーミューティー(作画担当)』『愛と呪い』連載中。既刊『ぼくらのへんたい』『女の穴』など。

 

 

いやー、非常にありがたいことです。僕の原稿も現在連載中の『愛と呪い』にインスパイヤされている部分が大いにありますのでお願いした次第です。
少年少女の心の機微を独特のタッチで描く、素晴らしい作家さんです。ふみふみこさんの漫画を読んだことない方には、ぜひ(既刊も新刊も)読んでほしいところです。
ではでは。

 

 

 

愛と呪い 1巻: バンチコミックス

愛と呪い 1巻: バンチコミックス

 

 

 

 

ぼくらのへんたい(1) (RYU COMICS)

ぼくらのへんたい(1) (RYU COMICS)

 

 

 

女の穴 (RYU COMICS)

女の穴 (RYU COMICS)

 

 

「メンヘラ批評」執筆者発表第三弾

どうも、日和下駄です。忙しすぎるのですが、忙しすぎてハイになってきたので執筆者発表をします。
原稿も着々と集まってきて、面白い本になりそうです。次回くらいには目次と、値段等の詳細情報出せると思います。みんな買ってね。
執筆者は予定ですので、もしかしたらいない人もいるかもしれません。あらかじめご了承ください。
 

執筆者発表第三弾

 
北条かや(@kaya_hojo)
同志社大学社会学部卒業、京都大学大学院文学部研究科修士課程修了。自らのキャバクラ勤務経験をもとにした初著書『キャバ嬢の社会学』(星海社新書)で注目される。以後、執筆活動、メディア出演などを継続。著書は『整形した女は幸せになっているのか』(星海社新書)、『本当は結婚したくないのだ症候群』(青春出版社)、『こじらせ女子の日常』(宝島社)、『インターネットで死ぬということ』(イーストプレス
 
西井開(@kaikaidev)
「ぼくらの非モテ研究会」「男の勉強会」など男性の語り合う場をつくる市民団体Re-Design For Men代表。立命館大学人間科学研究科D1。専攻は社会臨床心理学、社会病理学など。男性たちの抱く苦悩について、被害・加害両面から迫ることを目指している。
 
永井冬星(@tosei0128)
保守的な日本企業と東京で消耗する生活からから脱するべく、イケてるWEB系企業に転職し仙台に移住したWEBエンジニア。
野菜を育てることが好き。最近畑を借りて本格的な家庭菜園を始めた。将来は仙台よりもう一ランク下の地方都市への移住を目指している
他に、宮城・山形・福島・岩手など東北各所のイベントで東方などのコスプレをしている。→@tosei0128_
ブラック企業で虐げられて続けてきた「真面目なだけ」の弱い自分を殺すために、そしてそして強い自分を手に入れるために私はコスプレをする!という話を書きます。
 
レロ(@rero70)
ジェンダーセクシュアリティ社会学を専門とする大学院生。現在の研究テーマはメイドカフェにおける女性の経験。概念を圧倒的な精度で体現してくれるもの(アイドル、声優、テーマパーク、スターバックスコーヒーなど)が好きなレズビアン。「生きづらさ」を抱えた人や性格が歪み気味な人に惹かれがち。
 
じあん(@メンヘラになったので垢消しした)
気付けば人生の四分の一以上をホリィ・センの後輩として過ごしています。
私見ですが、「自身のメンヘラ性と響き合わせながら作品を批評する」というのがメンヘラ批評のひとつのあり方かなと思います。
いわば、「病みの性癖発表会」です。
ということで、「あっ“特別”なこの子と一緒になったら自分も“特別”になれるんじゃないかな。と思ったら相手が期待するような人間ではなくて、勝手に期待し勝手に失望して結果メチャクチャになる百合」について書こうと思います。
 
南村杞憂(@jocojocochijoco)
関西学院大学文学部卒業、神戸大学大学院国際文化学研究科在学。キムラユウナの名でマルチクリエイターとしてハンドクラフトからレーザーカッターまで扱いながら活動中。ポリアモリー実践当事者で彼氏が二人いる。先日海外向けのメディアに掲載されたので見て。https://grapee.jp/en/113412
 
 
なんか、社会学色の強い執筆者紹介になりました。ホリィ・センくんの人望でしょう。
次回の告知もお楽しみに〜。

「メンヘラ批評」執筆者発表第二弾

ホリィ・センです。告知は日和下駄がやるはずだったんですが、忙しそうなんで急きょ僕がやります。
僕も日和下駄もけっこういいかげんな性格ですが、着実に頒布の準備は進んでいます!
告知した執筆者は予告なく変更されるかもしれませんので、ご了承ください。
 
 
 

執筆者発表第二弾

 
河野麻実(元あおいうに)(@kawanoartasami2)
1991年茨城県生まれ。2016年東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒。ArtLabTOKYO所属画家。主な展示に2014〜2017メンヘラ展など。
  
雪原まりも(@uhn58)
誰も搾取せず、誰も傷つけない、エコでクリーンな自給自足型恋愛を目指しています
 
ばしこ(@wahoo910)
ばしこです。物書きとして文フリ出たりブログやったりしてます。
自身もメンヘラとのどろどろ共依存の経験とかもいくつかあり、思うとこあり参加しました。
みんな本谷有希子読もうな
 
小谷悠里(@grtgr1543)
1993年生まれ。大谷大学哲学科卒業。OL見習い。倫理学依存症、ケアに関心があります。
 
A440(@A440_oddnote)
精神科に通う所謂メンヘラ。
名前の由来は、調律におけるピッチの標準とされている値から。
感覚でしか語れないような「正しさ」には抗いたい、でも違和感を語るときの物差しとしての何かは持ち続けていたい、そんな思いで名付けました。
拠り所となれるような何かを見つけられたらと思い、拙いながらも文章を書いてみました。
 
メンヘラビッチバー(@MHBbar)
いかなる障害、経験であろうと「当事者」として苦しんできた履歴には価値がある。その「当事者固有の価値」による収益化の試みが「メンヘラビッチバー」だ。「メンヘラビッチが楽しく働くこと」をコンセプトとし、いかなる性のお悩みも、メンヘラの苦しみも、オープンに笑い飛ばせる場を目指して運営を始めて今年で4年目。
 
 
 
***
 
告知第一弾で発表した方のプロフィールも追加しました。
かなり大所帯になりましたが(まだまだいます)、いろんな人がいた方が楽しいですね。
なお、僕自身はこの2010年代のリバイバルブームと「毒親語り」ブームを絡めて、「”90年代の傷”がトラウマ的に作用しているのではないか? 20年経った今だからこそ"毒親語り"が出てきたのではないか?」といった仮説を元に論を展開した文章を書いています。よろしくお願いします。

「メンヘラ批評」執筆者発表第一弾

ホリィ・センのブログですが日和下駄です。
先の宣言から動き出し、執筆をお願いしたり、執筆したいという声をいただいたりし、ある程度固まってきたので告知します。
 
告知を分けているのは、分けた方がいっぱい告知できるなという理由のためです。
なお、執筆者は予定です。告知なしに変更する場合がありますのであらかじめご了承ください
 
 

執筆者発表第一弾

雨宮美奈子(@areyoume17)
シンガポール出身、九州大学卒、出版社勤務を経て執筆業。
なおかつ、東京大学在学中、銀座の高級クラブのママと肩書きの多い28歳既婚者。
昼は革ジャンで大型バイクに乗り、夜は着物で水割りを作っています。
 
 
脱税レイヤー風呂屋さん (@557dg4) 
脱税がバレて風俗堕ちしたコスプレイヤーの裏アカウントです。表でまだ活動はしています。追徴課税本税&延滞税3200万円完納。何かあればDMかこちらまでpakabenkaiji@gmail.com 
 
ホリィ・セン(@holysen)
「メンヘラ批評」発起人の1人。京都大学院生。専門は社会学テーマは親密性、ジェンダーなど。人間関係・恋愛への関心からサークルクラッシュ同好会という団体を立ち上げ、活動する中で「生きづらさ」問題に目覚める。「メンヘラ批評」はその関心の延長線上にある。「生きづらさ」問題に対処する社会運動としてシェアハウス推進団体サクラ荘を立ち上げ、現在も代表を務めている。
 
日和下駄(@getateg)
1995年鳥取県生まれ。横浜国立大学卒。俳優、ライター。
円盤に乗る派プロジェクトメンバー。サークルクラッシュ同好会東京本部会長。メンヘラ当事者研究会会長。
人が集まることと伝え方を考えることが好きなので、コンテンツを使って色々やってる。
最近の出演作は、カゲヤマ気象台「幸福な島の誕生」、アムリタ「虚構の恋愛論2018」、sons wo:「流刑地エウロパ」など。
お仕事募集中。
 
 
様々な方に執筆いただけてありがたい限りです。ホリィ・センと僕も書きます。
同人誌で文章を発表することは初めてなので、ちょっと緊張しています。南条あやから永田カビまでの、エッセイ的な自分語り(悪い意味ではないです)が、それぞれの時代状況をどのように反映させて表出しているかを書く予定です。よろしくお願いします。
 
では。

忙しい人のためのジュディス・バトラー

 ジュディス・バトラーというアメリカのジェンダー理論家がいます。最近来日して講演があり、それのまとめも兼ねられた『現代思想』の特集も組まれています。

 

 

 人気な人ですが、その思想の難解さでも知られています。
 僕はバトラーの本では『ジェンダー・トラブル』と『触発する言葉』の一部だけは読みました。また、『ジュディス・バトラー――生と哲学を賭けた闘い』(藤高和輝)という解説書を読みました。難解だとされている人の本をせっかく読み、解説書も読んだのですから、僕なりに紹介しようと思います。ただ、これは僕なりの理解ですし、忘れてる部分もあるのでちょっと間違ってる部分もあると思います。
 ただ、僕が思うにバトラーは運動の方法論として大事なことを言っている(要するに「使える」)と思うので、そういうところを単純にでも紹介しておくことに価値はあると思っています。ということで、正確さについては目をつぶっていただいて、バトラーの運動戦略の部分を知っていただければなと思います。

 

*** 

 

ジェンダー」概念の刷新

 ジェンダーは「社会的性」とも呼ばれ、セックス(「生物学的性」)と区別されて語られてきた。バトラーが問題にしているのは、この「セックス/ジェンダー」の二分法を「先天的/後天的」だとか「生まれつき/学習」だとか「自然/文化」だとかの二分法に還元されてきたことである。
 この「セックス/ジェンダー」に二分法によって、あらかじめセックスがあり、そこに事後的にジェンダーが付け加わっていくと考えられがちである。そして、セックスは「変えられないもの」であるのに対し、ジェンダーは「変えられるもの」であるという理解を生む。例えば、「性別役割分業」を説明するために「生物学的」な説明と「社会的」な説明のどちらについても考えてみよう。「男性は外で仕事、女性は家で家事・子育て」という違いが存在するのは、古来「男性は狩りに行き、女性は家を守る」ということが行われていたことからも分かるように、それが生存に有利だからだ、という「生物学的」な説明があるとする。
 これに対する「社会的」な説明は例えば、マスメディアや教育、法制度などの様々な「社会的なもの」が個々人に内面化され、結果として男女が違う行動を取らざるを得なくなった、という説明である。そして、この社会的なものの内面化を自覚していれば、「性別役割分業」を今ある形から変更することができる、ということになる。

 

 以上のような説明も確かに重要ではある。しかし、このような説明には限界がある。その限界は大きく二つ。一つは、あらかじめ「生物学的/社会的」という区別を前提としてしまっていること。もう一つは「発達論」とでも言えばよいのか、過去から未来への直線的な因果関係によって物事を理解してしまっていること。
 これらの限界を突破するために、「ジェンダー」という言葉にはもう一つの意味があることを指摘できる。
 バトラーは「セックスはつねにすでにジェンダーである」と述べた。これを(やや不正確ではあるとは思うが)僕なりに説明するなら、セックスは「『生物学的性』にまつわる現象」、ジェンダーは「『性』全般にまつわる現象についての言語」と考える、ということである。すると、「生物学的/社会的」という区別をあらかじめ持ち込む必要はなく(男/女という区別を持ち込む必要もなく)、あらゆる「性」にまつわる現象は「ジェンダー」という言語を用いて理解できることになる。
 ここで、あらゆる「性」にまつわる現象は「ジェンダー」が原因となって生じている、などと考えてはならない。そうではなくて、これは、僕らは何かを理解するときにはなんらかの「言語」を用いて記述しなければならない(絵や身ぶりなども使えるが、それらもまとめて「記号」と置き換えてもよい)ということである。よって、あらゆる「性」にまつわる現象は「ジェンダー」という言語を用いて理解される。だから、「生物学的性」なるものや、科学的だとされている物事も「ジェンダー」という言語を用いた記述によって理解することになる。
 この記述のあり方は様々である。例えば、「性同一性障害」という言葉があるが、最近では同じ現象が「性別違和」と呼ばれるようになった。このように記述が変わることで、「病気」として理解されていたものが「病気」として理解されなくなったということである。このことによって、「障害」として治療の対象とされたり、「異常」なものとして理解されたりする可能性は減ったと言えよう。

 

 よって、このもう一つの「ジェンダー」概念は「性にまつわる現象において、『変えられる部分』を変えること」を志向しているのではなく、性にまつわる現象について「どのように解釈するか」を変えていくことを志向している。だから、一見、言語を操るだけでは世界は何も変わらないように見えるかもしれないが、このもう一つの「ジェンダー」(言わば「解釈可能性」としてのジェンダー)の変化次第では歴史や過去さえも書き換えることができるのである。例えば、「これからの社会では男性・女性に対してこういう理解をしていこう」というだけでなく、「男性・女性はそもそも昔からこうだったのだ」という新たな解釈を創り出せる可能性がある(それは“悪用”も可能である。例えば、核家族による性別役割分業を「古代から男女の役割分担とはこういうものだったのだ」と解釈することも可能なのだから。しかし、歴史的な知識を用いれば、日本で核家族がちゃんと成立したのは1960年頃ぐらいからのことに過ぎない、と言うこともできる)。

 

「自然」なるものの社会構築性

 バトラーはこのようにジェンダー概念を刷新した。そして、「自然な生物学的性」なるものがジェンダー(ここでは、社会における性についての言説や解釈)によって事後的・遡及的に作り上げられていることを指摘し、その様を描き出している。

 例えば、これはバトラーの出した例ではないが、同性愛の歴史などが分かりやすいと思う。細かいことは省略するが、ある時期までは「同性愛者」は存在せず、「同性愛」という行為が法的な処罰の対象になっていたという程度である(国によって違う)。それが19世紀に「同性愛者」となり、医学的な病気として扱われるようになった。同時に「異性愛者」が「自然」なものであるということに“なった”わけである。ただし、現代では「同性愛者」は医学的な病気としては扱われていない。

 この話の元ネタはフーコーというフランスの思想家である。フーコーは『性の歴史1 知への意志』という本で、フロイトの「抑圧仮説」を批判している。フロイトによれば、人間の性は抑圧され、社会的にも隠されたものとなっている。だからその抑圧から「解放」しなければならないのだというのが基本線である。フロイトに影響を受けたライヒやマルクーゼのような思想家もこの「解放」を志向している。

 しかし、フーコーからすれば「抑圧があるぞ」と強調することがむしろ「抑圧以前」の「解放」を事後的・遡及的に作り上げているということになる。これによって、(例えば教会で懺悔として)自らの性について語ることがある種の「真理」を語っている、ということになっていった。「真理」は性科学や精神分析などの知とも結びつき、性に関する言説はむしろ生み出されたのである。従来の抑圧する権力に対してフーコーはこのような生み出す権力を「生産的権力」と呼んでいる。

 ジェンダー概念の説明で述べたように、バトラーは「セックス」において以上のようなフーコーの考え方を真似たわけである。

(ただし、バトラーはフーコーから一歩進んで、「抑圧/解放」の二分法の生まれた後に、その二分法を相対化する運動戦略を提示している。例えば、先ほどの同性愛者の病理化の話で言えば、図式的には「抑圧された同性愛者/解放された異性愛者」の対立ということになるが、「生産的権力」によってなされたこの対立の激化はむしろ「同性愛者」についての言説を増大させた、とバトラーなら考える。そして、「同性愛者」というカテゴリーを当事者たちが転用する社会運動が生まれた、と考えられる。それにより「抑圧された同性愛者/解放された異性愛者」という二分法は撹乱される。

つまり、ここでは「同性愛者」カテゴリーを病人とは違う意味にズラしながら反復使用していることになるが、その運動論的意味については下の方で述べる「バトラーの運動戦略:引用と反復」を参照)。

 

主語と述語

 「同性愛」という行為がなぜ「同性愛者」という主体になるのか、ということについては様々なことが言えるが、とりわけバトラーの論において面白いのは文法構造に注目し、主語と述語の関係について論じているところである。詳しくは僕も理解していないが、要するに述語(動詞)の前に主語が存在するということが暗黙に前提されているということである。ジェンダー論の世界ではDoing genderという言葉やgendering(動詞としてのジェンダー)という言葉があるが、これは、ジェンダー化された主体が動詞によって作られていることを指摘する批判的な言葉である。
 バトラーはこの「暗黙の前提」論法が大好きである。バトラーの主要な論はだいたいこれで説明できるので、以下で紹介していこう。

 

「構成的外部」

 バトラーが「構成的外部」という概念を使っているわけではないが、この言葉が分かりやすいと僕は思っている。
 一般的に言えば、「Aが社会において存在できるのは、Bが暗黙に非Aとして、構成的外部となっているからである」という主張である。
 例えば、男と女という性別二元論があるが、「女」が「男ではないもの」として構成的外部として存在するからこそ男が存在する、という感じである。異性愛者/同性愛者についてもこの論法が使われていたはず。

 また、上で述べたように、フーコーは「抑圧からの解放」の社会構築性を指摘していた。フーコーがやったことは、性に関する「抑圧/解放」の二分法がいかにして生み出されたかという系譜を解き明かすことである。バトラーはこの「構成的外部」論法を使うことで、法的権力が抑圧を生み出すと同時に、その抑圧を「構成的外部」として「解放的主体」が生み出されるという論理展開でフーコーを批判的に継承している。

 

「一枚岩の主体」批判

 そして、上記の「抑圧された主体/解放的主体」のような二元論をバトラーは問題視している。例えば、『ジェンダー・トラブル』ではフェミニズムが「女」という固定した一枚岩の(解放的)主体を元に運動することの限界を指摘している。なぜなら、その「女」というカテゴリーにみんなが包摂されるわけではないからである。それまでのフェミニズムが白人の異性愛者によるものであり、黒人の女性やレズビアンがないがしろにされてきたことを指摘している。
 また、フェミニズムが採用する「家父長制」という概念は、「男性による女性の支配」という図式を普遍化することになるが、それはかえって男/女の二元論を強化することに繋がってしまう。
 まあ、そんなこと言うからバトラーはそれまで運動してきたフェミニズムの人たちに批判されることにもなるわけですが。

 

バトラーの運動戦略:引用と反復

 では、バトラー的にはどのように社会運動すればいいのだろうか。「黒人のフェミニスト」などの様々な細分化されたカテゴリーを作って、それらを元にそれぞれが運動するということがまず考えられるが、それではみんなバラバラに細分化されてしまい、分断が起きてしまう。
 それでは、新しく革命的な主体を作り上げるのはどうか。「女」というカテゴリーではなく「レズビアン」というカテゴリーで戦ってみるとか(ウィティッグ)。あるいは「両性具有」に可能性を見出してみるとか(フーコー)。しかし、それもバトラーは批判する。現状の社会の「外部」に新たな主体を設定することによって、結局「内部/外部」という二元論が強化され、既存の構造は温存されてしまうというのが(おそらく)バトラーの見立てである。なので、「社会にある言語は全部『男性的』なものだ! だから、身体やリズムなどを重視した『女性の言語』を生み出そう!」みたいな実践もバトラーからすると批判対象である。

 それではどうすればいいのか。バトラーは歴史的な文脈から運動を切り離すのは基本的に不可能だと考えている。あらゆる言語活動は何らかの先行する文脈の引用であり、反復であるのだと。そこで、バトラーはむしろ積極的に反復することを推奨する。しかし、ただ単に反復するだけだったら既存の構造を再生産するだけである。既存のカテゴリー(例えば、「男」や「女」)を批判的に問い直し、言わば「引用元」をズラしながら反復するという戦略になってくる。

 

パロディ

 ではどういう風に反復すればいいのか。先ほどのバトラーが男女二元論を批判していることを述べたが、バトラーによれば二元論は「生まれたときに男だったら、社会的にも男であり、愛する相手は女」という、セックス・ジェンダーセクシュアリティの一貫性を生み出してしまうのだという(強制的異性愛だとか、異性愛マトリクス(基盤)だとか言われる)(おそらくもっと言えば、白人・健常者などの一貫性も生み出しているだろう)。
 そこで、バトラーはドラァグクイーンをバトラー的運動戦略の例として挙げる。ドラァグクイーンはセックス・ジェンダーセクシュアリティのそれぞれについて、男・女などを言わばバラバラに付け替えることが可能である。このドラァグの実践はバトラーに言わせれば「パロディ」なのだという。パロディとは何かの模倣ということだが、それはオリジナルのない模倣である。ドラァグの実践から、われわれは「男」や「女」というカテゴリーはそもそも最初からパロディでしかないということを知る。ドラァグは言わば、パロディのパロディなのである。確かにこれは先ほど述べたような「引用元をズラす」という実践になっている。
 更に指摘しておくと、ドラァグは装う実践であるため、身体が用いられる。バトラーによれば、身体はなんらかの実践をするための前提となるが(身体には習慣とかも根付いている)、それと同時に言葉を超えていく過剰なものでもある。この過剰性によって言わば引用は「失敗」するわけで、この引用の失敗を保証してくれるのが身体、ということになる。

 

言葉狩り表現の自由

 最後に応用問題。バトラーはどちらかと言えば表現の自由推進派である。ポルノの規制が進む昨今、バトラーはポルノの中にもここまで述べてきたような効果的な引用・反復実践があるのではないかということを述べるわけである。逆に表現規制や「言葉狩り」には慎重である。ポリコレ的にアウトな言葉があったとして、そういう言葉が規制されたとしよう。すると、その言葉の意味はそれで固定化されてしまうことになる。それよりもむしろバトラーは言葉を(批判的に)用いることによって意味がズレていくことを狙っているわけである。

 バトラーはこんな例も挙げている。性暴力を受けた人がいたとして、その人が原告として裁判が起こったとしよう。その際、その性暴力を受けたということをやはり引用しながら喋ることとなってしまう。この際、むしろ司法側の権力が被害者に対して言葉の使用を強いているわけである。つまり、バトラーは言葉狩り表現規制は権力の横暴(権力による言葉の引用・反復)を招くというようなことを主張しているのである。この意味では例えば、「ヘイトスピーチ規制法」は権力側による規制となるため、あまりよろしくない。

 

 

 

  

ジュディス・バトラー 生と哲学を賭けた闘い

ジュディス・バトラー 生と哲学を賭けた闘い