サークルクラッシュ同好会へのご指摘について

 サークルクラッシュ同好会が2013~16年頃までの間に京都大学の中で配布しておりましたビラ、ならびにホームページやTwitter上での表現に不適切な内容があることをご指摘いただきました。

 これらのビラや表現は直接的には2012~14年に作られたものであり、当会の現役会員で製作に関わった人間は(この記事の文責である)ホリィ・センを除き、存在しません。

 サークルクラッシュ同好会には様々な思想やスタンスを持った人が入ってきます。実際、(末尾の***で具体的に述べますが)当会の例会は様々な立場から開かれ、毎年発行している会誌は様々な立場から書かれています。

 そのような相互批判的な対話の土壌が築かれていったからこそ、過去の会員やホリィ・センが製作したビラや表現に不適切な内容があるという声も上がりました。その結果、サークルクラッシュ同好会としては2017年頃からはそのようなビラの配布を停止しておりました。

 

 しかし、2020年1月現在、なおも大学内の一部に不適切な内容のビラが残存していたり、不適切な内容の表現がインターネット上にアップロードされたままであったりしたために、正当にも外部の方からご指摘をいただきました。

 この問題が放置されていたのは、ビラの配布や、ホームページ・Twitterアカウントなどの運営のほとんどの部分をホリィ・センが独占していたことが一つの大きな原因です。

 また、本来ならばビラの配布を停止したその時点で、ビラや表現の作成に責任のある者(主にホリィ・セン)が謝罪をすべきでしたが、この記事以前には謝罪はなされてきませんでした。

 まずは僕が問題を放置していたことを謝罪します。申し訳ございませんでした。

 

 不適切なビラや表現の有害な効果を鑑みて、

  1. 京都大学内に残存している不適切なビラの撤去
  2. Twitter上・ホームページ上に残存している不適切な表現の削除
  3. ホームページ上に残存している一部文章における、差別的だと受け取られかねない表現に対する注釈
  4. ビラや表現によって精神的な苦痛を負った方への個別の謝罪

 に、ホリィ・センをはじめとした同好会内の一部有志で、できるかぎり取り組んでいきたいと思います。

 また、今後作成するビラについては、作成前と配布前に不適切な表現がないか、会内でのチェックをおこなうこととします。

 

 :ここで、「一部有志」としている理由を書いておきます。上で述べたように、会内には様々な立場の人がいる上に、過去のビラや表現について現役会員で直接的な責任を負っているのはホリィ・センだけです。そのため、同好会全体の立場を代表するような対応(比喩的に言えば、企業や政党のような対応)はしたくてもできないからです(また、代表すべきでもないと思います)。

 よって、本記事の内容もまた、サークルクラッシュ同好会全体を代表するものではなく、文責のホリィ・センをはじめとした同好会内の一部有志によるものだということをあらかじめご了承願います。

 

 今回の件を受けて、サークルクラッシュ同好会の例会ならびにLINEグループ上において話し合いを行いました。話し合いにおいてビラ等の問題性を確認した上で、今回の記事を書くことに決定しました。

 ここからは、過去の過ちを繰り返さないためにも、当会の過去のビラや表現の内容がどのように不適切であったかを具体的に述べた上で、個別の観点ごとに謝罪していきたいと思います。

 

 ただ、謝罪に入る前に、申し上げておきたいことがあります。

 今回、ビラや表現の不適切性についてご指摘いただいた方々はこの社会や大学における性差別的な構造に対する問題意識を持っている方々だとお見受けしております。

 サークルクラッシュ同好会も同じく、観点や意見は異なるかもしれませんが、性差別的な構造に対して問題意識を持っているつもりです。

 そのため、共通する問題意識について、今後、可能な限り対話していけたらと考えております(対話しないという選択肢を取っていただいてももちろん大丈夫です)。

 

 そして、この記事を読んでいる方にお願いがあります。

 当会に対してご指摘いただいた内容を以下で引用していきますが、それらのご指摘をされた方々やそれに類する方々に対する誹謗中傷を含むコメント・書き込み等をお控えいただきたいです。

 そのようなコメント・書き込み等によって、共通の問題意識を持っている方々とのせっかくの対話の機会が失われ、溝ができてしまうことを強く危惧しております。たとえ当会を擁護しているような内容であっても、結果的に分断を生むようなコメント・書き込み等は望んでおりません。

 ただ、攻撃的ではない範囲での感想・意見等をいただくのは構いませんし、歓迎します。

 

 さて、それでは、当会のビラや表現の内容がどのように不適切であったかを具体的に述べてそれぞれ謝罪したうえで、ご指摘いただいた内容に個別に謝罪していきたいと思います。

 

ビラその1について

f:id:holysen:20200119215005p:plain

  このビラは2013年に初めて配布・掲示し、同様の内容のビラを2016年頃まで配布・掲示しておりました。このビラの上部には「狭いコミュニティでその気はなくとも次々と男を喰い荒し そのコミュニティの人間関係を壊滅させる系女子の特徴」と白抜き文字かつ扇情的なフォントで書かれています。真ん中には女性として描かれた絵と、その絵についての特徴やセリフが書かれています。そして、下部にはサークルクラッシュ同好会の活動と説明会についての情報が書かれています。

 以上の内容を見た上で、3点の問題点を指摘できると思います。

 

個人レベルの問題点

 ビラの絵や記述に自分が当てはまると認識し、このビラによって告発されているとその人自身が感じることで、精神的な苦痛を負ってしまう点。

 

関係レベルの問題点

 ビラの絵や記述に当てはまると周囲から認識された人が、ビラの絵や記述に基づいて不適切なレッテル貼りを受けることで、精神的な苦痛を負ったり関係性に困難をおぼえたりしてしまう点。

 

規範レベルの問題点

 直接的にはこのビラに基づいた被害が発生しなかったとしても、「ビラに描かれているような人物については非難してよい」という規範(価値観)の形成に(累積的に)寄与してしまう可能性がある。そしてそのことが間接的なかたちでビラに描かれているような人物への被害に繋がりうる点。

 

 以上三つの問題点があったことを謝罪します。申し訳ありません。

 また、後にも触れますが、実際に京大の中でこのビラによって傷ついた方がいるということを伺っております。本当に申し訳ありません。

 可能であれば個別にも謝罪したいと思いますので、個別で謝罪を受けたいという方がいらっしゃいましたらご連絡いただけると幸いです。

 

 

ビラその2について

f:id:holysen:20200119215033p:plain
  このビラは2014年から 2016年頃まで配布・掲示しておりました。このビラには「卒業後日本を背負って立つ君たちが女の尻を追いかけていられるのも今のうち」という文言があります。

 この文言には大きく二つの問題点があると思います。「男女はこうあるべき」という男女観といわゆる「恋愛至上主義」のような価値観を再生産してしまうことです。

 

「男女はこうあるべき」という男女観について

 「女の尻を追いかけ」るという表現は「男性は性的主体/女性は性的客体」という古典的な異性愛主義に基づいていると言えます。よって、そのような価値観を息苦しく感じる人にとっては不快でしょう。また、欲望される男性、欲望する女性、非異性愛者、男性でも女性でもない人、などの存在が排除されてしまっていることも問題です。

 また、「女の尻」という表現から女性を特定の身体部位に切り詰め、その人格性を否定していることになります。

 更に、「女の尻を追いかけ」る主語が「卒業後日本を背負って立つ君たち」であることから、京大生はエリートであるという価値観に基づきながら、その主体が男性に限定されてしまっています。つまり、女性は出世しなくていいという価値観が前提されています。

 以上のような不適切な価値観を再生産してしまうことは問題です。

 

恋愛至上主義」について

 「女の尻を追いかけていられるのも今のうち」という表現は(その後の「学部生のうちに死ぬほど振られろ」なども含めて)、恋愛を「早いうちにしなければならないもの」として規定していると言えます。

 これは、物事をなんでもかんでも恋愛に結びつけられたくない(すぐ恋愛の話をする社会が嫌いな)人や、アセクシャルなどのような恋愛感情を持たない人にとっては息苦しい価値観だと思います。よってこのような価値観を再生産することも問題です。

 

 以上二つの問題点があったことを謝罪します。申し訳ありません。

 

 

ビラその3について

f:id:holysen:20200119215104p:plain
 このビラは2014~15年頃に掲示しておりました。目線が隠された女性の写真と、その左に「おねえさんと、ランチしよ♡」と書かれています。また、最下部には小さく「規約を守らないと出禁にする/通報する」といった内容の文言が書かれています。

 これも「ビラその2」と同様に、女性の目線が隠されていることから、広告にありがちな「顔のない女性」として、女性の人格性を否定しているものです。また、「女性は性的客体」という価値観を再生産しています。

 そして、丸文字のフォントと、最下部の「規約を守らないと出禁にする/通報する」といった内容の文言と、目線の隠された女性のセットから、このビラが性風俗広告のパロディであることが読み取れます。そのようなパロディが行われているこのビラを見て、セックスワークの従事者の中には不快に思う人がいることと思います。

 

 以上の問題点があったことを謝罪します。申し訳ありません。

 

 

サークルクラッシャー」にまつわる表現について

 サークルクラッシュ同好会という名前にもある「サークルクラッシュ」は、元々「サークルクラッシャー」という言葉が起源です。しかし、「サークルクラッシャー」という“人”に焦点をあてた言葉を用いると、特定の個人に責任を押し付けてしまうという問題に繋がりやすいため、「サークルクラッシュ」という“現象”に焦点をあてた言葉を用いることを当会では推奨してきました。

 しかし、ホームページ上に残っていた2012~3年の文章では、集団内の恋愛トラブルの責任を「サークルクラッシャー」と名指された女性に押し付けるような表現や、悪意が読み取れるかたちでそのような女性の特徴を挙げている箇所がありました。

 そのため、「ビラその1」と同様に、「サークルクラッシャー」という言葉によって女性に責任を押し付けることを容認してしまうという規範レベルの問題点と、「サークルクラッシャー」とみなされた女性が実際に傷ついたり関係性に困難をおぼえたりするという個人レベル・関係レベルの問題点があると考えられます。

 ホームページ上に残っていた文章に、以上の問題点があったことを謝罪します。申し訳ありません。

 

 ここまでビラや表現がどのように不適切であるかを述べてきました。

 そして、これらのビラや文章の作成も、男性である僕が中心となっておこなってきたものです。

 つまり、ジェンダーにおいて優位な立場にある僕が劣位な立場に置かれてしまっている女性を貶めていることがより問題です。社会や集団における自らの立場性を自覚できるよう努めていきたいと思います。申し訳ありません。

 次に、ご指摘いただいた内容に個別に謝罪します。

 

 

ファリードやす様のご指摘

f:id:holysen:20200119215143p:plain

f:id:holysen:20200119215200p:plain
 ファリードやす様は「サークルクラッシャー」という言葉を不用意に使うことの問題と、サークルクラッシュ同好会が性差別的な文化に寄与しているということの問題を「ビラその1」の画像と共に指摘されています。

 上で述べましたように、ホームページ上には「サークルクラッシャー」という語を女性に責任を押し付けるかたちで用いてしまっている文章が残っていました。また、ビラの内容には、「ビラその1」で述べた規範レベルの問題、「ビラその2」で述べた「男女はこうあるべき」という男女観の再生産の問題などがありました。

 そのため、文章やビラに関してはおっしゃるとおりだと思いますし、これからもこのような問題が起こらないように努めていきたいと思います。申し訳ありませんでした。

 

 ただし、サークルクラッシュ同好会が「インセル**の思想」を持ったサークルである、ということについては申し上げたいことがあります。ビラの内容などからそのように判断されたのかもしれませんが、同好会の会誌や活動の内容***を根拠に、そのことははっきりと否定しておきたいと思います。

 

 **:「インセル」とは恋愛やセックスのパートナーを持つことができず、自身に性的な経験がない原因は相手の側にあると考える人のことを意味し、典型的には異性愛者の男性を指します。詳しくはWikipediaの「インセル」を参照。

 

 

ひびのまこと様のご指摘

f:id:holysen:20200119215311p:plain

f:id:holysen:20200119215323p:plain

f:id:holysen:20200119215344p:plain

f:id:holysen:20200119215359p:plain

f:id:holysen:20200119215413p:plain
 ひびのまこと様は

①ビラの内容の性差別性

②実際に京大女子が「紅一点」として有徴化され、ラベルを貼られる・少数派として説明役割を負わされているという状況において、「サークルクラッシャー」という言葉が暴力として機能している点

サークルクラッシュ同好会がジェンダー的に中立であることを装いながら男性中心主義を実践することによって、女性差別を不可視化している点(ひいては、ジェンダー概念の盗用)

 の三つの内容を指摘されているように思います。

 

 ①について、上で述べたように、おっしゃるとおり差別的と言える表現が含まれております。

 ②について、「サークルクラッシャー」にまつわる表現について のところで述べたように、「サークルクラッシャー」という言葉によって女性に責任を押し付けることを容認してしまうという規範レベルの問題点と、「サークルクラッシャー」とみなされた女性が実際に傷ついたり関係性に困難をおぼえたりするという個人レベル・関係レベルの問題点がありますので、おっしゃるとおりだと思います。

 2012~14年頃に作られたビラや表現に、①②のようなご指摘は当てはまります。これからもこのような問題が起きないよう努めます。申し訳ありませんでした。

 

 ただし、③については申し上げたいことがあります。

 確かに、当会のかつてのビラや表現を「男性中心主義の実践」と言うことが可能なことについては同意します。

 しかし、サークルクラッシュ同好会は、メンバーの多様性や日々の活動の中で、相互批判的な対話が行われているからこそ、過去のビラや表現の問題も会内で指摘され、配布が停止されました。

 よって、「サークルクラッシュ同好会が男性中心主義を実践しつつ、ジェンダー的に中立であることを装っている」ということについては、同好会の会誌や活動の内容***を根拠に、そうとは言いきれないと言っておきます。

 

 

ななみん様のご指摘

f:id:holysen:20200119215852p:plain

f:id:holysen:20200119215905p:plain

f:id:holysen:20200119215918p:plain

 ななみん様は上記のお二人と同様の指摘に加えて、「ビラを見て実際に傷ついた人がいる」ということを指摘していらっしゃいます。

 これは、「ビラその1」のところで確認しましたように、個人レベル・関係レベルでの問題が実際に起きたのだと思います。

 しかも、僕は数年にわたって問題を放置してきました。僕がもっと早く対処していれば、傷つかないで済んだ人がもっといたことと思います。ビラや表現の撤去・削除については迅速におこないます。申し訳ありませんでした。

 そして、傷ついたという方におかれましては、個別に謝罪したいと考えています。ななみん様から見て、ご友人に連絡されるのが適切であればご連絡いただくか、そのご友人の連絡先をお教えいただければ幸いです(センシティブな問題ですので、「連絡はできない」ということでしたらそれでも大丈夫です)。

 

 

まとめ

 サークルクラッシュ同好会で2012~14年に作られたビラや表現は不適切なものでした。そのため、同好会内でも批判の声があがり、配布は停止されていました。

 しかし、問題への対処が不十分でしたので、ビラや表現は残っていました。今回、ご指摘いただいたことによって問題は表面化しました。

 当時のビラや文章の作成について現役会員で直接的な責任を負っているのはホリィ・センだけですので、不適切なビラや表現によって生じた問題の補償となる対応(削除や謝罪など)はホリィ・センをはじめとした一部有志で行いたいと思います。

 また、今後同じ過ちを繰り返さないためにも、ビラや表現の問題性を確認しました。

 そして、今回、ビラや表現の不適切性をご指摘いただいた方々は、性差別的な構造に対する問題意識を(観点や意見は違うかもしれませんが)持っているという点で「共闘」できる可能性があると信じています。だからこそ、個別に応答させていただきました。(紙幅の都合上この記事上で応答できなかった方についても可能な限り、対話していけたらと思っております(対話しないという選択肢を取っていただいてももちろん大丈夫です)。)

 

 最後にもう一度、僕個人の気持ちを書いておきます。当同好会のビラ等にご指摘をされた方々やそれに類する方々に対して、誹謗中傷を含むコメント・書き込み等をするのはお控えください。

 意見を封殺したいのではありません。感想・意見等、お待ちしております。僕はただ、Twitter上で日々感じる分断に、嫌気が差しているのです。

 

 

 ***:最初に書きましたように、サークルクラッシュ同好会の中には様々な思想やスタンスがあります。その中で、旧来のジェンダー規範を批判するような活動は連綿と存在しております。

 具体的に書きます。近年の会誌で言えば、

6.5号の「「女の腐ったような奴」の当事者研究」(雪原まりも)は異性装を主題とすることでジェンダー規範に対する自身のあり方を脱構築/再構築していく試みと言えます。

7号「すぐ恋愛の話をする社会が嫌い」(複素数太郎)は、性愛中心主義の押し付けについて疑義を呈しています。

8号の「「サークラ女子会」名称批判 座談会」(無花果)では同好会内での周縁的な立場の人々の座談会を通じて、男女の性役割の問題への言及や、同好会の運営体制が男性中心主義的ではないかという疑問が呈されています。

 

 例会の活動でもフェミニズムジェンダーを明確に主題とした勉強会も何度か開かれています。一例として2017年に開かれた会のレジュメの一部を貼っておきましょう。

f:id:holysen:20200119220414p:plainf:id:holysen:20200119220426p:plain

 

 その他、会員有志による読書会でも『セックス神話解体新書』(小倉千加子)や『ジェンダー・トラブル』(ジュディス・バトラー)のような、既存のジェンダー規範を問い直す内容のものが選ばれています。

「オタク系」文化と「社会学」の不幸な結婚?

 大学のTA(ティーチングアシスタント)の仕事で書いた文章がそこそこよく書けた気がするので、ちょっと手を加えてブログにも掲載します。
 佐藤郁哉佐藤俊樹北田暁大の議論を自分なりに整理しただけなので、別にオリジナルなことは書いていませんが、「社会学」なるものが世間でどのように受け入れられて(しまって)いるのかに興味がある人が読むと面白いかもしれません。

 

(ちなみに、ググったらとても似たコンセプトの論文が既にありましたので併せて紹介しておきます。
永田大輔、2017、「『オタクを論ずること』をめぐる批評的言論と社会学との距離に関して」『年報社会学論集』30: 134-45。https://ci.nii.ac.jp/naid/130007480185

 

---

 

 いわゆる「オタク系」文化は90年代以降の日本の社会学の研究対象として一定の地位を確立してきました。
 しかし、その一方でオタク系文化を対象とした研究は、社会学(あるいは社会学"的な"批評)が陥りがちな問題を象徴的に示してしまっています。今回は、ある種の「反面教師」として、以下「オタクと社会学」にまつわる三つの問題について論じていきましょう。

 

1.「反映論」の落とし穴と「オタク系」作品

 漫画・アニメ・ゲームのような作品はしばしば「オタク系」文化として挙げられます。みなさんの中には、そのような作品を「社会を映し出す鏡」と考える人がいるかもしれません。例えば、「作品を経年比較することによって時代の変化を描き出す」ような研究や評論はよくあるものです。
 しかし、社会学者の佐藤郁哉(2015)は社会調査について論じた本の中で、「文化現象には社会を忠実に映し出す鏡のような側面がある」という「反映論」を批判しています。そのような反映論的分析においては、社会的な要因が文化現象に対して実際に影響を与えていくメカニズムやプロセスへの分析、例えば文化の制作者(著者、芸術家、出版社など)、受け手(読者、視聴者など)、それらを媒介するゲートキーパー(流通業者、評論家など)、およびそれらの人々が属する集団や組織が具体的に果たしている役割についても検討が必要になってくるはずだ、ということを佐藤は述べます。
 すなわち、作品を社会を見るための「鏡」のように用いる場合は、単純な反映関係というよりは、その間に介在するさまざまな「屈折要因」の作用を明らかにしなければ、「本体」に辿りつけないということです。そのような慎重な分析を経ずに社会と文化現象(作品など)との反映関係を語ると、主観的な印象や感想を述べているに過ぎない「素朴反映論」に陥ってしまうと佐藤は述べています。


 とりわけ、そのような「反映論」的な分析が行われがちなのが漫画・アニメ・ゲームなどの「オタク系」の作品群なのではないでしょうか。そのことを大澤真幸(2008)のオタク論を元に述べたいと思います。
 大澤は「おたく」という言葉には、(「あなた」や「君」のような)二人称としての意味だけでなく、「お宅」すなわち「家」の意味が込められていると述べ、とりわけ「閉じられた個室」のメタファーであることを論じています。
 そこから大澤は、「オタクは自らの探求対象がきわめて限定的・特殊的であることを自覚・肯定しながらも、それを通じて包括的で普遍的な世界を欲望している」という仮説を立てています。その傍証として、鉄道マニアがローカルな路線図のネットワークから国民国家の領土や世界を見ていること、オタクが窓のない閉じられた(「外部」がなく、それ自体で完結している)個室を好むこと、「移動する個室」のような大きなカバンを常に持ち歩いていることなどを挙げています。また、大澤は明示的には述べていませんが、「キミとボク」のような個人的な関係性が「世界の命運」のような包括的な問題へと(中間にある具体的な社会を経ずに)短絡する「セカイ系」と呼ばれるジャンルも同型の構造を持っていると言えるでしょう。
 大澤の図式に乗っかるのであれば、「オタク系」作品の批評というのは(たとえ社会学的な装いを帯びていたとしても)、主観的な印象や感想を作品に投影することによってそこに「世界」を見ようとする「素朴反映論」に陥りがちなのではないでしょうか。


 なお、東浩紀(2001)の「物語消費からデータベース消費へ」という図式について、二つの消費形態は断絶したものではなくあくまで連続したものだと大澤は解釈しています。というのは、「ガンダム」シリーズのような(「小さな物語」の)作品もあくまで特定のひとつの物語だからです。
 そして、求められている物語(「大きな物語」の補完物としての物語)の普遍性の水準が上昇すると、あまりにも包括的なコンテクストをカバーするためには必然的にその内部での諸要素の間の連関性は失われることになります。そのため、物語としての外観を失った要素の単なる集合=「データベース」として「物語」は現れると大澤は述べています。

 つまり、大澤の論においては、「データベース消費」であってもやはりオタクは普遍性を希求している、ということになるでしょう。

 

 

2.社会学と「社会学

 ところで、大澤の「オタクは自らの探求対象がきわめて限定的・特殊的であることを自覚・肯定しながらも、それを通じて包括的で普遍的な世界を欲望している」という図式や、東の「物語消費からデータベース消費へ」のような図式は、日本の社会学研究者コミュニティよりもむしろ、一般の人々に広く受け入れられた図式だったように思います(そもそも東は社会学者ではありませんが)。


 このように、大学などの高等教育機関で教育・研究されている社会学がある一方で、雑誌や一般書、ラジオやテレビで語られる「社会学」(カギカッコつき!)の二つがあるということを社会学者の佐藤俊樹(2010)は論じています。
 佐藤は固有名詞を挙げていませんが、テレビにも出てくるような「スター社会学者」について考えてみましょう。90年代に女子高生のブルセラショップや援助交際オウム真理教地下鉄サリン事件などについて論じた宮台真司や、フェミニストとして知られる上野千鶴子などが挙げられるかもしれません(最近では「ワイドナショー」や「ニッポンのジレンマ」などに出演している古市憲寿なども想起するかもしれません)。


 このような「スター社会学者」たちを筆頭として世間で語られる「社会学」と、大学で教えられる社会学との違いはなんでしょうか。佐藤によれば、その違いは「過剰説明」にこそあります。
 「社会学」は特定の図式や「理論」によってなんでもかんでも説明してしまうために、自らの議論の適用限界や反証可能性がしばしば明示されません。そのため、論理が飛躍してしまったり、経験的な調査データがない部分まで説明しようとしてしまったりすることになります。


 例えば先ほどの大澤は「アイロニカルな没入」や「第三者の審級」、東は「動物化」や「観光客」、宮台は「島宇宙化」や「意味から強度へ」のような図式・理論を提出していますが、それらの図式がどこまで適用可能なのか、そして適用する場合はどのような手順の経験的調査が行われたのかといったことがなかなか明示されません。
 それでもこのような図式の「分かりやすさ」「シンプルさ」、あるいは一元的な図式によって社会全体を把握できる(ように思える)「万能包丁」は魅力的です。複雑化していく社会をスパッと理解できる単純な図式が、マスメディアにおいても求められていると言えるでしょう。
 しかも、佐藤も述べているように、そのような「社会学」の人気に底上げされる形で、学生たちが社会学に対して興味を持ったり注目したりするという事態は実際に起きていることです。言わば、社会学と「社会学」とはある種の共犯関係になってしまっている側面があります。
 大学で研究している社会学者も一般書によってまるでコピーライターのごとくキャッチーな言葉を発明し、社会に影響を与えることがあります(家族社会学者の山田昌弘の「パラサイト・シングル」や「婚活」、上野千鶴子の「おひとりさま」など)。あるいは「社会学」的装いのうえで一般書が売れるということがあります(土井隆義の『友だち地獄』や古市憲寿の『絶望の国の幸福な若者たち』など)。


 そして、「オタク系」文化もしばしば「社会学」の対象となってきました。例えば、北田暁大は『嗤う日本の「ナショナリズム」』(2005)という著作で、1960年代から10年ごとの「反省」「アイロニー」の歴史を描くことで、社会の「2ちゃんねる」化(アイロニー(嗤い)を持ちながらも「電車男」に本気で感動してしまうような志向の共存)を説明しています。
 しかしこの本は経験的データが恣意的に選択され、「○○年代」に対して偏った説明が与えられているのではないかという疑問が湧いてくる点で、カギカッコつきの「社会学」寄りの本とも言えます。


 北田自身、「『社会批評』から離れてなにか他のことをやらなきゃいけない」(岸ほか 2018: 11)という問題意識の末、『社会にとって「趣味」とは何か』(2017)という本ではブルデュー理論の批判や計量調査に基づいたオタク論を展開しています。これは社会調査に基づく「普通の学問」としての社会学を標榜したオタク論と言えるでしょう。
 北田も編著者である『社会学はどこから来てどこへ行くのか』(2018)ではそのような北田の「転向」に呼応して、地道に社会調査を積み重ねていく形での社会学が重視されているように思います。この潮流において「オタク系」文化は「社会学」的な批評の対象というよりも、あくまで社会調査の一対象として見られているのではないでしょうか。
 つまり、佐藤が社会学と「社会学」との共依存的関係を論じたのは2010年のことでしたが、今や特定の理論図式による過剰説明による「社会学」は流行らなくなってしまったのかもしれません。


 なお、佐藤(2017)は「特定の規範がある」という説明図式を社会学において効果的に活用する方法についても論じています。社会学はついつい「雇用におけるジェンダー不平等が維持されるのは、不平等なジェンダー役割規範によって働き方が規制されているからだ」などという規範による説明に頼りがちですが、これでは規範によってなんでも説明できてしまい、カギカッコつきの「社会学」と同じ落とし穴にハマることになります。
 そうではなく、物理的な制約や、具体的な制度(法律やルール、経済的な合理性など)で説明できるものは説明した上で、それでも説明できない残余部分こそを規範によって説明した方が説得力のある社会学的分析になると佐藤は論じています(詳しくは文献を参照)。
 また、実際に(卒業論文を含む)論文を書く際には、単に現象に理論を当てはめるだけでは研究としての新規性は薄いと言えます。調査によって得られたデータから、その理論によっては説明できない部分を解釈していき、元の理論の修正をはかっていく、といった態度が必要になってくるのではないでしょうか。

 

 

3.「~化」という説明図式

(※ここの議論は北田(2010)に強い影響を受けています)

 上ではカギカッコつきの「社会学」を批判してきましたが、そもそも社会学理論による「過剰説明」の図式に対する批判は社会学内部でも起こってきたことです。おそらく最も象徴的な例は、1950年代頃のアメリ社会学におけるタルコット・パーソンズの社会システム理論に対する「誇大理論(グランド・セオリー)」への批判です。
 パーソンズの理論は「誇大」であるがゆえに、マクロな社会現象とミクロな社会現象とがどう繋がっているのかが分からないという批判や、経験的な調査が等閑視されているという批判、また、社会の中の個々人が持つ主体性が無視されているといった批判を受けることになりました。
 しかし、社会学のビッグネームたちの多くが用いてきた誇大理論があります。それは、「近代化」や「~化」と呼ばれる「社会変動」についての理論です。箇条書き的に挙げるならば、コントの「三段階の法則」、スペンサーの「社会進化論」、マルクスの「唯物史観」、テンニースの「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」、ヴェーバーの「世俗化」、デュルケムの「環節的社会(機械的連帯)から組織的社会(有機的連帯)へ」、リースマンの「伝統志向/内部志向/他人志向」、ベルの「脱工業化社会」、ギデンズやベックの「再帰的近代化」、バウマンの「リキッド化」、ライアンの「監視社会化」などなど……。
 社会学は何かと何かを比較する形での研究がオーソドックスであるため、時代ごとの比較をするという方法がどうしても流行してしまいます。その結果、「~化する社会」のような言葉が標語的に用いられ、その適用範囲が無際限に押し広げられてしまいます。


 日本の社会学においてそのような社会変動を描いた代表的なものとしては、見田宗介による「理想の時代(1945~60)/夢の時代(1960~75頃)/虚構の時代(75頃~90頃)」という15年ごとの時代区分があります。これらはそれぞれ「現実」の対義語が並べられています。経済的には戦後のプレ高度経済成長期、1973年のオイルショックで低成長の時代に入るまでの高度経済成長期、1991年のバブル崩壊やそれに続く構造改革に至るまでの時代、と考えられます。
 経済現象ではなく文化現象に対応づけるならば、夢の時代は学生運動の盛り上がりと退潮の時期に一致していますし、大澤真幸も述べているように「虚構の時代の果て」には1995年の地下鉄サリン事件があります(東はその後の時代を例の「データベース消費」から「動物の時代」として論じましたし、大澤は「これぞ現実!」という感覚を求める心性を「現実への逃避」と呼び、「不可能性の時代」として論じました)。
 これらは確かにもっともらしい時代区分ではあるのですが、研究として捉えるのであればやはり2.で述べたようにその経験的な実証性や、理論の適用範囲が問われるべきでしょう。

 例えば、山田昌弘(2005)は家族について論じる際に、1975年と1998年を転換点として捉えており、似たような時代区分を用いていると言えますが、それはある程度制度的な変化や統計上の変化に基づいたものになっています(しかし、注目するデータ次第では別様の時代区分もありうるでしょう)。


 逆に言えば、「~化」は経験的な実証性を伴わない場合がしばしばあります。よく言われるのは「少年犯罪の増加」が一部で語られている中、統計的には犯罪は減少していたというものです。
 このように、経験的データに基づかない言説を統計などの経験的データによって反駁していくことは社会学の一つの仕事と言えます(実際にそういう研究はあります)。

 

 しかし、このような言説と実態とが矛盾するような事態が起きる理由はなんでしょうか?
 その理由は、言説がいわゆる「実態」から独立して固有のメカニズムで動いている、ということでしょう。つまり、「経験的データに基づかない言説」自体も一つの社会的事実と言えます。よって、言説上において「少年犯罪が増加している(あるいは深刻化している)」と述べられること、それ自体のメカニズムを探求することも社会学のもう一つの仕事と言えるでしょう。


 単純な説明として考えられるのは、マスメディアにしても評論家にしても、過去と現在をどのように比較しているのかを明らかにしないまま現在の問題を「問題化」し、「昔は良かった」式の話法に頼っているというパターンがあります。あるいは、マスメディアの事件報道が視聴者の「体感治安」を悪化させているのかもしれません。より包括的には日本社会全体が「劣化」したという「劣化言説」が90年代以降流行しました。とりわけ目立っていたのは「ゆとり」や「ニート」などの言葉を用いた「若者バッシング」です。
 「劣化言説」が発生するメカニズムはいろいろと考えられますが、この場合、社会学者としては、例えば「若者の人間関係は希薄化している」という言説があった際に、「人間関係が希薄化した/していない」という区別・定義は誰がどのように行っているのか、その区別・定義はいかなる社会的条件の元で可能になっているのかということを(社会学者が勝手に「理論」によって説明するのではなく)内在的に記述していくことが重要でしょう。


 具体的な例を挙げましょう。北田(2010)が挙げている中村功(2003)の研究によれば、携帯メールによる個人的な繋がりを強く求める人たちは、リアルな人間関係も活発であり、孤独感も低いそうです。その一方で、孤独を恐れる度合いが高いそうです。また、「人間関係が希薄化している」という希薄化論を受け入れる20代の割合は増えているそうです。
 これらの知見を総合するならば、若者の友人関係は客観的な人間関係の数や「孤独感」という基準においては、人間関係は濃密になっていると言えます。それと同時に、「孤独になることが恐い」という基準においては「人間関係が希薄化している」と区別していると言えるのではないでしょうか。
 ここでは、「希薄化した/していない」という区別を、当事者の用いている基準に内在的な形で探求することで、一見「にもかかわらず」と接続されそうな部分を、「それと同時に」として説明することが可能になっています。この点で、より精緻な社会学的説明がなされていると言えるでしょう。


 もちろん、このような説明ですら、量的データから明らかになった「孤独になることが恐い」を「人間関係の希薄化を受け入れている」ことに接続しているため、厳密には論理飛躍があります。そこで、研究対象となる人々が用いる概念に寄り添う形での研究方法として「エスノメソドロジー(人々の-方法論)」や「概念分析」といった研究手法が日本の社会学の一部の界隈では流行し始めています。実際、先ほど挙げた北田(2017)においても第七章で「おたく」の概念分析が行われています。

 

【文献】
東浩紀、2001、『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』講談社
岸政彦ほか、2018、『社会学はどこから来てどこへ行くのか』有斐閣
北田暁大、2005、『嗤う日本の「ナショナリズム」』NHK出版。
――――、2010、「【『社会と個人』の現代的編成】フラット『化』の語り方」遠藤知巳編『フラット・カルチャー――現代日本社会学せりか書房: 385-92。
――――、2017、『社会にとって「趣味」とは何か――文化社会学の方法規準』河出書房新社
中村功、2003、「携帯メールと孤独」『松山大学論集』14(6): 85-99。
大澤真幸、2008、『不可能性の時代』岩波書店
佐藤郁哉、2015、「反映論の強靭な生命力」『社会調査の考え方 下』東京大学出版会: 238-9。
佐藤俊樹、2010、「【社会学/『社会学』】背中あわせの共依存――あるいは『殻のなかの幽霊』」遠藤知巳編『フラット・カルチャー――現代日本社会学せりか書房: 393-400。
――――、2017、「29 規範と制度」友枝敏雄・浜日出夫・山田真茂留編『社会学の力――最重要概念・命題集』有斐閣: 100-3。
山田昌弘、2005、『迷走する家族――戦後家族モデルの形成と解体』岩波書店

「シェアハウス」に対するイメージの偏りについて

 この記事は

adventar.org

の23日目の記事です。

 

シェアハウス関連の自己紹介

 京都で「オープンシェアハウス サクラ荘」という団体の代表をしているホリィ・センと申します。28歳です。現在シェアハウスは6軒ほど運営しています。

 運営といっても、全部大家さんから賃貸しているだけですし、借りる人もそれぞれの家の代表がやっている感じです。

 じゃあサクラ荘って何をやっているのかっていうと、月1で集まって会議をして、「サクラ荘グループ」全体としてどうしていくかというのを決めている感じです。サークルみたいな感じですね。

 会議で決まったことを元に、パーティを開いたりイベントを開いたりサクラ荘メンバーたちで交流したり、という感じです。

 サクラ荘にはコンセプトがあります。それは、「日本にシェアハウスを根付かせる」「そのために、シェアハウスを増殖させる」ということです。シェアハウスを通じた社会運動です。シェアハウスで世界を(まずは日本を)変えようとしています。

 

「ライフコースとシェアハウス」という問題設定

 というのも、今の日本では“まともな”ライフコースを送るのが難しくなってきているからです。

 1990年代前半ぐらいまでは、学校でちゃんと勉強して、良い会社に入って/良い人と結婚して、家庭を営み、子どもを育てていくというコースがうまくいく人が多かったと思います。しかし、そのコースに乗れない人がどんどん増えてきています。箇条書きするならこんな感じでしょう。

 

  • 正規雇用が広がり、お金を稼ぐのが難しい
  • 未婚化・晩婚化でそもそも家族を作れない
  • 家族の維持も難しい(離婚の増加)
  • お金や時間がなくて子育てにリソースをうまく割けない
  • そのくせ、家事・育児・介護に対する社会的な要求水準は高いままである
  • 家事・育児・介護は未だに「母親」に押しつけられがち

 

 こういった問題の帰結として、僕はとりわけ「孤独」の問題と、「子育て環境の悪化」の問題がヤバいと思っています。もっと言えば、「非モテ」問題や「毒親」問題がヤバいと思っています。

 ヤバいので「シェアハウス」で「結婚以外の同居」を推し進めれば問題解決するんじゃね? と思ってとりあえずシェアハウスを広める活動をやっています。ここ4年ぐらいシェアハウス増殖活動をやってきました。

 しかし、サクラ荘は年齢層がめっちゃ限られてます。18~35歳ぐらいですが、20代半ばに集中しています。いわゆる「若者」ですね。

 “まともな”ライフコースをざっくり、出生学校就職結婚子育て老後 だと考えると、僕らのシェアハウスは結局、学校就職結婚の間にしか入れていない、ということになります(なお、仕事についても、フルタイムの人はあんまりいないです)。

 

「シェアハウス」は若者がやるもの?

 シェアハウスは海外暮らしや寮暮らし、ドラマやテラスハウスなどの影響で広がってきた感じです。だからそもそも「若者文化」なのです。

 ライフコース全体から見ても「一時的な経験」として見られがちで、シェアハウスに住むことを「留学」みたいな感じで捉えている人も多いと思います。実際問題、シェアハウスに住んだ経験でいろいろ得られるものはあったと僕も思っています。人によっては合わなくて割とすぐに退去していくんですが。すぐに退去できるのがむしろ魅力なわけです。

 しかし、「“まともな”ライフコースを送るのが難しくなってきている」という問題意識からすると、シェアハウスを若者専用にしてしまうのはもったいないんじゃないか、となってくるわけです。

 実際に、共同保育をするシングルマザーのシェアハウスや、就活や企業活動を軸に集まるシェアハウス、高齢者が寄り集まっているシェアハウス、あるいは子育て世代も高齢者も混ざった多世代居住(コレクティブハウスといいます)のような実践が一部では行われています。

 本当はシェアハウスにはいろいろポテンシャルがあるんだと思います。しかし、「シェアハウス」という言葉のイメージはそれを裏切ります。

 不動産屋主導で広まっているシェアハウスは「オシャレなライフスタイル」のようなものが中心だと思いますし、世間では「シェアハウス」と聞くと若者的な生活がイメージされるでしょう。

 

もっとたくさんの・様々なシェアハウスを

 僕は様々なシェアハウス実践者と話してきましたが、単なる「若者」のイメージに回収されない人は実のところたくさんいます。シェアハウスに住んでいる人は明るい人も多いですが、ある意味「暗い」というか、人間同士の関係についてとても深く考えたうえでシェアハウスに生活し続けている人も割といます。

 ライフコースの視点で見れば、たしかに結婚してシェアハウスを抜けていく人もたくさんいますが、その一方で離婚した後にシェアハウスに住んでいる、みたいな人も割とよく見かけます。「“まともな”ライフコースを送るのが難しくなった」という問題に対するセーフティネットのような機能を果たしている側面があるわけです。

 「シェアハウス」の「若者」的イメージはこれからも根強く残っていくでしょう。しかしシェアハウスはもっと長いスパンで人生を捉えたときに、若者以外にも必要なものになっていくと思います。僕はその準備の作業をやっていきたい。

 28歳の僕は「若者」ではなくなっていく。具体的には「次の世代」について考えるときです。そういう気持ちを大事にしたいので、5年後ぐらいには里親になることも検討しています。

 僕が年齢を重ねると共に、「シェアハウス」もまた若者以外へと開かれたものにしたいと思っています。だからこそ、これからも僕はシェアハウスを拡大していきますし、個性豊かなシェアハウス実践者たちのことを応援しています。

 これからもよろしくお願いします。

ぼくの「二次元」時代ーー中二病回顧(懐古)録 その壱

※この記事は、サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー14日目の記事です。13日目はjocojocochijocoさんの「」でした。

 

holysen.hatenablog.com

 3年前に描いた記事で「中二病」を回顧(懐古)するぞ!と意気込んだのですが、全然書いてませんでした。せっかくのアドベントカレンダーの自分語りの機会なので、書こうと思います。③の「ボクっ娘萌えから男の娘、ショタを通り、関係性萌え(カプ厨)へ」ってやつです。

 僕は三男です。長男のオタク趣味を間近で見て育ってきました。今日書きます「二次元趣味」の多くは兄に影響を受けたものです。記事中の画像は全部Google画像検索で拾ってきたやつです(ヤバいかも)。

 

  三男なうえで、妹がいない。妹という存在に対して憧れを感じた。中学校の頃、妹がいる男に嫉妬した。自然と身近に異性がいる環境が羨ましかったのだと思う。

 妹というものを単なる属性として見たときに、僕はカードキャプターさくらの主人公さくらと、兄の桃矢との関係性が好きだった。桃矢は妹のさくらを常にからかい続けるが、根っこのところでは妹思いである。「うちの妹に何しやがる!」、すごく言ってみたいセリフだった。

f:id:holysen:20191215035403j:plain

最高の兄妹

 

 「おにいちゃん」という呼び名は、血の繋がっていない関係性に対しても擬似的に用いられる。『マギ』で有名な作者の大高忍が描いていた『すもももももも』では「いろは」というキャラがその意味で萌えた。主人公の犬塚孝士のヘタレうじうじっぷりがたまらない作品だ。『マギ』のアリババのポジションのキャラを主人公がやっている感じである。『ダイの大冒険』で言えばポップである。

f:id:holysen:20191215035527j:plain

かわいい(けど、実はメッチャ強い)

f:id:holysen:20191215035613j:plain

うじうじしててもハートは燃えてるんです

 

ボクっ娘

 妹と言えば、12人の妹が攻略対象のギャルゲーの「シスタープリンセス」というものがあった。みんな魅力的な妹たちなのだが、僕は衛というキャラに惹かれた。衛は「ボクっ娘」という属性を持っている。スポーツ少女であり、冬の寒い中「あにぃ」と朝にランニングをするイベントが印象的だった。「見て見てあにぃ! 吐いた息が真っ白だよ!」 無邪気だ。

f:id:holysen:20191215035806j:plain

萌える……

 ところで、シスプリのゲーム版は12人の妹に対し、それぞれ「血縁END」「非血縁END」がある。ストーリー次第で血の繋がりがあったりなかったりするのは狂ってると思う。

 

  『みなみけ』で有名な桜場コハルはかつて『今日の5の2』という作品を描いていた。たまにリアルタッチになるシュールなギャグが笑える作品なのだが、普通に萌える。とりわけ、平川ナツミというボクっ娘キャラがたまらなかった。単行本が2003年なのに2008年にアニメ化してテンションが上がった。平川ナツミを阿澄佳奈が演じていたのもマジで最強だった。

f:id:holysen:20191215040007j:plain

目がキラキラしてる子かわいい

 ところで、『みなみけ』のカナと藤岡の関係もすごく好きだな。桜場コハル先生は良い仕事をする。カナを井上麻里奈が演じていたのも完璧だった。

 

 ボクっ娘と言えば、「うぐぅ」が口癖のたい焼き好きの少女、月宮あゆだが、萌え属性全部乗せだなあと思う。海外でたい焼きが流行るのも納得だ。Kanon京アニが再アニメ化したときは狂喜乱舞した。

f:id:holysen:20191215040056p:plain

いたる絵は神

 

 しかし、僕が今までの人生で最も萌えたキャラは『魔導物語』『ぷよぷよ』シリーズのアルル・ナジャである。そもそものキャラデザインが神がかっているし、シリーズによって冷たい大人な性格だったり無邪気だったりの(意図せざる)二面性が良い。後に僕は「関係性萌え」に至るわけだが、それについては後に述べる。

f:id:holysen:20180614114651j:plain

神デザイン

 

 

男の娘

 ボクっ娘は沼だったのだが、そんななかで高校生のときに兄の部屋でふと読んでみた作品に心奪われた。やぶうち優の『少女少年』である。タイトルのとおり(?)、小学生の男の子が「男の娘」としてアイドルデビューする作品が描かれている。これが「小学五年生」とかに掲載されていたと思うと、性癖が歪むと思う。2012~16年に少女少年リバイバル的に連載されていた『ドーリィ♪カノン』も本当に神だった。

f:id:holysen:20191215040402j:plain

全員男

 

 大学で漫画読みサークルに入ると「おちんちんが生えている」ということを非常に重視する先輩がいて、男の娘成分が割と補充されていた。『プラナスガール』はそこで出会った作品だった。扇情的な男の娘によって巻き込まれヤレヤレ系主人公が堕ちていく様は気持ちが良い。

f:id:holysen:20191215040424j:plain

やっぱ好きなんすねぇ

 

 当時、ついにはショタでもいいんじゃないかという気持ちも湧いてきていたが(『ムシブギョー』という作品の主人公をショタとして読んでいた)、結局おねショタが好きだっただけかもしれない。つくづく僕はヘテロセクシャルである。

 

関係性萌え(カプ厨)

 2013年頃、リアルで恋愛し始めた影響もあったのか、関係性萌えというか、僕はすっかりヘテロ恋愛カプ(カップル)厨になっていた。印象に残っている作品はまず『ラブロマ』だろうか。すっかり人気作家であるとよ田みのる出世作だが、男の子がいちいちまっすぐ正直に気持ちを伝える(近年の言葉で言えば「アスペルガー」的、と言える)というのが斬新な作品だ。

f:id:holysen:20191215040605j:plain

やさしい世界

 

 カプ厨という意味では高津カリノの『WORKING!!』も好きだった。作者のサイトで連載されていた『ブタイウラ』もそうなのだが、ある友人は高津カリノの作品を「みんなリア充になっていくからニヤニヤできる」と評していた。同感である。

f:id:holysen:20110412020037j:plain

カップル二組

 

 ぷよぷよシリーズではシェゾ×アルルが捗りまくった。僕は一時期コミケに行くたびにシェアル同人誌を買い込んでいた。コミケぷよぷよ島は小さいが、質が高いものも多い。シェゾの有名な「お前が欲しい」(「もとい、おまえの魔力が欲しいだけだ」)という迷ゼリフの考証(?)もずいぶんと進んでいる。

f:id:holysen:20191215040925j:plain

ヘンタイ

 

 僕は不器用な恋愛や「照れて赤面する」というのが好きなのだと思う。その意味で、ジュブナイル的な幼い恋も大好きなので、小学生たちや中学生たちを描いた作品なども大好物である(だから、やぶうち優の作品も好きだったんだと思う)。とはいえ、恋愛を描いた作品は挙げだすとキリがない。

 

 

二次元恋愛を三次元恋愛へ投影

 このように二次元に萌え萌えだった僕は、それを現実へと転写してしまったのだと思う。その大きなキッカケの一つは「セカイ系」やモノローグの多い「泣きゲー」というジャンルである。

 架け橋となった作品を挙げていこう。無論、新海誠作品やイリヤの空最終兵器彼女といったセカイ系の王道は原作はだいたい履修済みである。しかし、僕に圧倒的な影響を与えたのはおそらくkeyの作品である。

 先ほどKanon月宮あゆを挙げたが、key作品は傷や障害を持ったキャラクターを主人公が「フラットに受け入れる」という構図になっている。シナリオライター麻枝准の自己投影(?)である主人公たちはクセの強いヒロインたちを「おちょくり」ながらも受け入れていく。ヤレヤレ系主人公とは別の意味でヒロインたちの可笑しさを楽しんでいると言えるだろう。

 

 あるいは、傷や障害を持ったキャラクターだからこそ主人公(=プレイヤーのオタクくんの投影先)を受け入れてくれるのだという錯覚を生む。それでいてエロゲーというジャンルの構造上、選択肢を間違えるとBAD ENDによって主人公(=オタクくん)は「無力感」を覚えることになる。「ダメな俺」という自己陶酔的マゾヒズムを刺激するのだ。しかもkey作品はケータイ小説かよ」というぐらい人が死ぬ。選択肢を間違えると死んでしまい、「マモレナカッタ……」となってしまうわけだ。しかし、正しい選択肢を選ぶと「奇跡」が起こりTRUE ENDを迎える。この落差によって、「ダメな俺」が感情移入することもできるし、「ダメな俺」を救済してくれもするのである。

 しかし、key作品に限らず、エロゲにどっぷり浸かったせいで三次元でも「変な人」を好きになりがちな人は僕以外にもいないのだろうか。情報求ム。

 

二次元に描かれた(奥深い)愛のかたち

  ヒロインに対して「ダメな俺でも受け入れてくれる」という聖母性を見出してしまうことは一つの(政治的には正しくない)ゴールではある。僕がたびたび「メンヘラが好き」と公言してきた理由の一つはそこにある。

 しかし、そこから更に先へと僕を進めてくれる、強度のある作品もいくつかあった。最後にそれらを紹介しよう。僕を二次元から脱却させ、三次元の対人関係を豊かにしてくれたのも、おそらくこの作品たちである。

 まず、やはりkeyの主要メンバーが所属していたTacticsで作られた『ONE~輝く季節へ~』を挙げたい。この作品のメインヒロインである長森瑞佳の「聖母性」について(そして逆に浮き彫りになる主人公の自分勝手さについて)、かつてサークルクラッシュ同好会会誌第四号で述べたことがある。僕が別に所属している漫トロピーというサークルのブログでも同じ箇所を転載して記事を書いた。

mantropy.hatenablog.com

 

 しかし、敢えて言えば、瑞佳の本当の魅力はここから更に先にある。『ONE』という作品は、正しい選択肢を選ばないと主人公の浩平が世界からどんどん稀薄になっていき、「えいえんのせかい」に旅立ってしまうという設定になっている。それは過去に妹を失ったことによるトラウマ、また、その際に(おそらく浩平が妄想で生み出した少女である)「みずか」と交わした盟約が理由、という設定になっている。

 「みずか」はそもそも長森瑞佳をモデルとして作られた。純粋な「聖母」のようでいて、実はその二面性が示唆されていると言えるだろう。「みずか」の冷たい視線は僕(=プレイヤー)を射抜いてくる。

f:id:holysen:20120211210920j:plain

ポタクくん「ぽれは…ぽれは…」

 そして、瑞佳ルートには一つの謎がある。浩平と瑞佳が待ち合わせをした際に、瑞佳がいつまで経っても来ず、降ってきた雨のせいで浩平は風邪を引いてしまうというエピソードがある。

 設定に沿って単純に考えればこれは、「えいえんのせかい」の作用によって瑞佳が浩平のことを(一時的に)忘れてしまったと解釈できる。しかし、トゥルールートに入っている場合にはヒロインだけは浩平のことを忘れないはずなのである。実際、他のヒロインたちも(正しい選択肢を選んでいれば)浩平を忘れることはない(なかったはず)。なぜ瑞佳だけが浩平のことを忘れてしまったのか?

 この問いに答えがあるわけではない。しかし、一つ言えることは、このエピソードこそがエロゲヒロインの聖母性に対して、異化効果をもたらしているということだ。このエピソードをどう解釈するかについては様々に考察できるが、少なくともこのエピソードこそが瑞佳ルートに深みを持たせ、瑞佳というヒロインにどこか冷たさと同時にミステリアスな魅力をもたらしている。

 

***

 

 同じエロゲでも「ヤンデレ」という属性を有名にしたNavelの『SHUFFLE!』という作品がある。SHUFFLE!のアニメの「空鍋」のエピソードは視聴者に衝撃を与えた。

f:id:holysen:20191215042111j:plain

精神を病んだ挙句、主人公:稟(りん)の帰りを待ちながら空の鍋を混ぜるヒロイン:楓。

 楓は幼い頃に事故で両親を亡くしているという設定である。実際には、両親が旅行に行った際に楓が両親を呼び戻したせいで自動車が事故に遭い両親が亡くなったのだが、楓がその罪悪感に押し潰されないよう、幼馴染である稟は「自分が両親を呼び戻したせいで両親は死んだ」という嘘をつく。それ以来、稟は楓に恨まれ、嫌がらせをされながら生活をすることになる。

 それでも稟は罪を被り続ける。楓が生きる気力を失わないように、恨まれることも厭わない。そうして、結果的に楓は(本当は自分が両親の死の原因になったという)真実に気づくことになる。楓は今まで稟にしてきた攻撃のことを反省し、逆に稟に対して「尽くす」ようになる。言わば、負債を返す形で稟に尽くしているのである。この設定を「ヤンデレ」と解釈するのは個人的には間違っていないと思う。アニメスタッフはよくやってくれた。

 それはともかく、僕が感動したのは、稟の「ヒロイックな自己犠牲」である。現実にはなかなかあり得ないような設定ではあるし、自分が恨まれるように仕向けることが本当に楓の癒しになるのかは疑問符がつくが、このような(恨まれることを選ぶという)形の愛がありうるのか、と目からウロコが落ちた。

 

***

 

 ギャルゲ原作ではあるが全く違う内容のオリジナルアニメに『true tears』という作品がある。昼ドラ的手法をアニメの世界に持ち込んだ岡田磨里の出世作の一つでもある。

 『true tears』には三人のヒロインが出てくるが、乃絵というヒロインがこれまた変なヒロインである。ニワトリを餌付けしていたかと思えば、主人公:眞一郎をニワトリと同一視してニワトリの餌を与え始める。

 眞一郎はヤレヤレ系主人公とは違う。乃絵の奇妙な行動に驚きつつも、乃絵に対して(乃絵の独特な言語に寄り添う形で)真剣に向き合っていく。そして、こっそり趣味として描いている絵本を乃絵だけに見せるなかで、二人の関係を築いていく。

 ニワトリになぞらえられた眞一郎であるが、乃絵は「飛べる/飛べない」という比喩で眞一郎に示唆を与える存在になる。「眞一郎、あなたは飛べるの」と。

 さすがに長くなってきたのでもう詳しくは書かないが、自分の恋心を諦めて、相手を「飛べる」ようにする、そういう愛もあるんだなあと思う。何度も観たい作品である。

f:id:holysen:20191215042447j:plain

天使

 

***

 

 この記事を書く前に僕は『NHKにようこそ!』のアニメを何年ぶりかに観た。心が震えた。ここまで実存に刺さってくるアニメが今の時代にありうるだろうか? いや、俺TUEEや異世界転生モノが人気を博してしまっているこの時代には、こんな作品が出てくることはありえないだろう。

 ネットの一部界隈では『NHKにようこそ!』のヒロイン:中原岬が「ダメな俺を救ってくれる天使・聖母」のように扱われているようだが、それは一面的すぎるのではないかと思う。

 あるいは、「中原岬になりたい系女子」は、「ナジャになりたい系女子」、つまり純朴な男の前に現れるミステリアスで魅惑的な女になりたい人とどう違うんだよ、という話である(何の話だ)。

 中原岬は、ひきこもりの佐藤くんを「ダメ人間」、それも「自分よりもダメな人間」だと見下すことによってある種の安心感を得ながらコミュニケーションを展開する。岬に振り回されることで結果的に気持ちが楽になっていく佐藤くんの視点において、岬ちゃんはある種の「天使」なのかもしれない(実際、岬ちゃんは佐藤くんがどれだけヤバくても佐藤くんを受け入れるのだから)。

 しかし、それはイコール、岬ちゃんが天使であるということではない。岬ちゃん自身、周囲との噛み合わなさを抱えた結果、その生きづらさを佐藤くんに投影している。つまり、佐藤くんを救うことによって自分を救おうとしている。これは典型的なメサイアコンプレックスの構造である。

 あるいは、自分が「天使」の役割を引き受けることに陶酔している、とさえ言えるかもしれない。これが男女逆なら暴力性は明らかなのだが、女性から男性への矢印であることによって、岬ちゃんの側の暴力性はあまり見えにくくなっているようにも思う。

 佐藤くんと岬ちゃんの関係性がどんどんギクシャクしていくことからも分かるように、佐藤くんも徐々に岬ちゃん自身の問題を理解していくのである。岬ちゃんだって葛藤を抱えた人間であるのだと。「救い-救われる」関係はそう簡単には成立しない

 その諦観をお互いに受け入れたうえで、それでもなお、「きっと大丈夫だよ」とゆるやかに関係を続けていく。そして、生き延びていく。これが『NHKにようこそ!』が導き出した答えなんじゃないかと僕は思う。

f:id:holysen:20191215053450j:plain

 

 僕が『NHKにようこそ!』の原作を読んだのは中学生のときだが、大学生になり、サークルクラッシュ同好会を始めてからようやく、三次元でNHKにようこそ!」的世界を目の当たりにした。『NHKにようこそ!』は紛うことなき“リアル”だった。それは佐藤-岬の関係に限らず、先輩や山崎、自己啓発セミナーや自殺オフ会の描写においてもそうである。

 佐藤-岬的関係の一例を挙げるならば、Skype掲示板である。Skype掲示板では、親代わりが欲しい中高生の女子と、青春を取り戻したい20代半ば以降の男性が奇妙にもマッチングしている。中高生の女子は天使の役割を引き受けながら男性の青春を「取り戻させてあげる」のだ。一方、20代半ば以降の男性は年上として中高生の女子に対して「大人の余裕」を見せる(本当に余裕なのだろうか?)。

 やがて彼ら彼女らはその関係の「異常さ」に気づくかもしれない。中高生から見ると「大人と付き合っている」というのはカッコよく見える側面もあるのかもしれないが、20代以上から見れば中高生と付き合っているというのは普通に「ヤバい奴」である。

 この関係を、グロテスクで幼稚な関係だと笑い飛ばせるだろうか? 否、これは僕に言わせれば「社会問題」である。もちろん、18歳未満との性行為は犯罪なのだが、お互いがお互いの(自分と相手の)抱えている「後ろめたいニーズ」について理解してしまいながらも、それでもなんとなく共生していく。そういう愛もあるんじゃないだろうか

 

f:id:holysen:20191215054346j:plain

 

 

***

 

次は15日目、saraさんの「世界一 可愛い子に 生まれたかった」です。

サークルクラッシュ同好会運営マニュアル

 有力なサークル創設者たちが立て続けにサークル設立のための「教科書」を発表している。書かれている内容は具体的な経験に基づいているのもあり、非常に実践的で役に立つ内容が多い。

 

handaitoilet.wp.xdomain.jp

 

kurfla.hatenablog.com

 

handaitoilet.wp.xdomain.jp

 

 僕も3年前(2016年11月)にサークルクラッシュ同好会会誌第五号で「サークルクラッシュ同好会運営マニュアル」というものを書いた。せっかくなので便乗して貼っておこうと思う(表記を少しだけ修正しました)。

 今読むと、単純に自分がやってきたこととやりたいことを書いているだけだなあという感じだった。

 

サークルクラッシュ同好会運営マニュアル(2016年11月19日発行 サークルクラッシュ同好会会誌 Vol.5所収)

 

 サークルクラッシュ同好会を作って今や五年目になる。最初はネタのつもりでやっていたものが、思えば大きくなったものだ。しかし、その歩みも今や停滞ぎみである。
 その一方で、「サークルクラッシュ同好会関東支部」が今年の初め頃に結成された。「サークルクラッシュ同好会」という一団体に過ぎなかったものが、ある種のミームサークルクラッシュ同好会》として広がっていく。そんな兆しも見え始めているのかもしれない。
 そこで、今回は《サークルクラッシュ同好会》現象の火を絶やさないため、「運営マニュアル」を書く。これを読んだ人が、一人でも《サークルクラッシュ同好会》を始めてくれるならば、望外の喜びである。なお、《サークルクラッシュ同好会》の発展のモデルケースとして、 最後の章では2012年に結成した「サークルクラッシュ同好会」がどういう歴史を歩んできたのかも記しておこう。


一、活動目的

サークルクラッシュ同好会って何してるんですか?」と聞かれることがよくある。その答えは、
サークルクラッシュ同好会は、ネタサークルであり、メタサークルであり、ベタサークルである」というものだ(以下、「サークルクラッシュ同好会」は基本的に「サー同」と略します)。
 具体的には、

 

ネタサークル

 イベントサークル。 「他のサークルをクラッシュする」だとか、「サークルクラッシュ同好会自体もサークルであるという矛盾」だとか、そういうものを活かしながらネタ的な活動をして楽しむ。ネット上のメディアなどでも注目を集めて宣伝効果を狙う。最後の仕上げとして自身のサークルをクラッシユし、有終の美を飾る。

 

メタサークル

 まじめな研究サークル。恋愛やコミュニケーション、ジェンダー、コミュニティなど、目の前にある人間関係の問題をテーマにしているので、それらの問題を俯瞰的な(メタ的な)視点から研究する。研究成果をホームページ上や会誌上で発表する。

 

ベタサークル

 居場所・自助グループとしてのサークル。他の集団になじめなかったり、人問関係や恋愛やコミュニケーションがうまくいかなったりといった「居場所がない」問題に解決する一種の安全基地としてサークルが存在する。一方で、メタ的な研究によって得られた知見も活かしつつ、それぞれが抱えた悩みなどに対して、話し合ったりトレーニングすることで、社会への適応などを目指す。

 

 

二、活動内容

 活動目的の「ネタ・メタ・べタ」で述べたように、基本的にはイ ベント/研究/居場所または自助が活動内容の三本柱になってくる。 その上で、まずメタ・べタの活動として、「『普段触れられない新しいもの』に触れること」が具体的な活動内容になってくる。
 その触れる対象は①人、②場所、③知識の三つに分類できる。
以下、その例を箇条書きで列挙する。

 

①人

 普段触れられない新しいものに触れるのに手っ取り早いのは人と交流することだ。交流は、「今すでに内部にいる人との交流」と「外部 の人との交流」とに分けて考えられる。

 

●内部の人との交流
・飲み会やカラオケなどの普通の交流
アンゲーム人狼、その他ボードゲームなどのコミュニケーションゲーム
インプロビゼーション(即興劇)ゃアイスブレイキングなどのワークショップ
当事者研究会(詳しくはググってください)
・悩みを相談し合う(自助グループ的活動)
・「愚痴」か「失敗談」か「恋バナ」を各自持ち寄って、一人一つ披露する会

 

●外部の人との交流
サークルクラッシュを体験した人や見た人から話を聞く。インタビューなどをしても面白い
・具体的に会ってみたい人の名前を出して呼んでみる。
 メンバーの交友関係の中で、面白いと思う人を呼べばいいかもしれない。


②場所

 行ったことがない場所に行ってみたい、でも一人で行くのは怖い、という人は多いと思われる。メンバーの中でその場所について詳しい人がいれば、その人に連れて行ってもらう「ツアー形式」で楽しむことができる。特殊な場所は調査して分析してみても面白いだろう。ただし、「怖いもの見たさ」で行くことによって現地の人に迷惑をかけてはいけない。礼儀をわきまえておくこと。

・映画館などの比較的ハードルの低い場所
文学フリマコミケなどの即売会
・アングラ寄りのイベント(例えば「メンヘラ展」)
・クラブなど、一人では行きづらいリア充的イベント
・ストリップショーなど、一人では行きづらい性的なもの
・オフ会
・宗教団体
・シェアハウス
・その他、特殊な地域や施設やコミュニティ

 

③知識

 サー同は心理学、社会学など、人文社会科学系の学問に強い人が一定数集まってくる傾向がある。また、恋愛ゃコミュニケーションなどについても一家言ある人は多い。普段自分の触れない分野について詳しい人から話を聞くのは楽しいものだ。



●読書会
・コミュニケーションスキルについての本などを読み、実際にお互いに実践しながら学んでみる。マナー、プレゼンテーション、「雑談力」、アサーションレジリエンス、カウンセリング、インタビュー、ディベート、演劇など
・自助活動として、自己啓発書や新書、自伝、漫画などで、ゆるい読書会をする(参加者で感想を共有するのが重要)
・堅い学術書を少しずつ読んでいく
・ネットに挙がってる論文やブログなどの文章を読む(Skype等でもできる)
・過去のサー同会誌を読む

 

●発表
・何かしらのテーマで誰かが発表をする(例えば、定例会では「フェミニズム」について発表・勉強会が開かれたことがある)
・3分講演会をする。各自が自分の好きな分野について、3分間のプレゼンをする。互いの興味分野を知ることができる

 

●映画鑑賞会
・恋愛などに関する映画を鑑賞し、感想を言い合う会

―――


 以上は、比較的受動的で、内部で閉じた活動だ。しかし、サー同は外部に対して開かれた団休であることが望ましい。
 以下では能動的に外部に働きかけていく活動を述べる。ここでネタサークルとしての性質が活きてくる。

 

④自分たちで新しい企画を生み出す

 サービスの受け手になるだけではなく、自分たちが送り手になることで得られるものもあるはずだ。また、メンバーで協力してーつのものを運営することは、団体の結束感を高める効果もあるだろう。

 

●ベタにできそうなもの
・会誌を発行する(既に関西・関東は合同でやっている)
・女装/男装会や、オタサーの姫/クラッシャーコスプレ会を開く
・大学生向けの合コンを企画する
・サークルの人間関係に関するお悩み相談メールを受け付け、回答をネット上に公開したり、コンサルティングしたりする
・男女の恋愛などに詳しい人を呼び、講演会を開く

 

●ネタとしては
・「自己啓発セミナー」を開く
・サー同内でサークルクラッシャーを養成し他のサークルに送り込んでクラッシュする。クラッシュによって得られたデータはフィールドワーク資料として研究に活かされる
↑クラッシャられを養成して送り込んでクラッシュされてもよい

 


 以上の活動は、月1回や月2回、あるいは余力があれば週1回集まる「定例会」ができるとやりやすい。一応付け加えておくと、定例会では毎回のように新しい人が来ていたため、「毎回、自己紹介をちゃんとやること」と「新しい人が来ていたら常連の会員はその人に配慮してちゃんとコミュニケーションを取ること(“歓迎”をすること)」とを重視してきた。

 


三、Webの整備・人の集め方・定例会の場所の決め方

 今の時代、サークルを運営するならばWebの整備は欠かせない。ネタサークルとして外部発信するサー同としてはなおさらだ。具体的に必要になってくるものはだいたい次のものだろう。今の時代、もはやメーリングリストは古いのかもしれないが。

 

●メーリソグリスト
●LINEグループ
●公式メールアドレス
●公式ツイッターアカウント
●公式ブログ
●その他SNS への登録(ガクサー、つなげーとなど)

 

 次に、人の集め方について。「サークルクラッシュ」を扱っているので、大学を拠点にするのが理想的だ。どこかの大学を拠点にしつつ、 ツイッター上などで宣伝することで人を集めると良いだろう。ただし、メンバーは必ずしも大学生に限定する必要はない。社会人も参加できる方が多様性が出て良いだろう。
 また、活動内容で述べたようなイベントや定例会がある。それらも 外部に開き、日付や場所をツイッターなどで告知すると更に新たな人が入ってきやすくなるだろう。
 もし、大学内でビラを撤いたり新歓ができるならば、それはぜひ活用すべきだ。面白いビラを作り、面白い新歓をすることもまたネタサークル活動としての一環である。


 次に場所の決め方について。大学を拠点に活動するのならば、その大学で教室などを借りられると理想的である。もし、そういう場所がない場合、公民館などを借りるのが次善だろう。人が少ない場合は、誰かの家やファミレスなどを使ってもいいかもしれない。いずれにせよ「定例会」として定期的に開くことが組織の存続には重要である。

 

四、サークルクラッシュ同好会のあゆみ

 最後に、実際に私が作った「サークルクラッシュ同好会」がどのように活動してきたか、「年表」のようなものを記しておこうと思う。思えばうまくいかないこともいっぱいあったし、今もそこまでうまくいってないのかもしれない。しかし、だからこそ今後の《サークルクラッシュ同好会》の発展のためにも、一度これまでの歩みを振り返っておこう

 

サークルクラッシュ同好会年表
●2012年
2月 「自分はサークルクラッシャーだった」と語る女性が@holysenのTL上に現れる
3月 サークルクラッシュ同好会結成。ツイッターアカウント開設
4月 新歓ビラロードでビラ配り「サークルクラッシュにご注意ください!」と啓発
新歓期に3、4人が入会
5月 ホームページ開設
11月 会誌第一号を京都大学11月祭(NF)で頒布。シェアハウス界隈や幸福の科学の人から寄稿いただいた
12月 第一号をコミックマーケット83(C83)で頒布

 

●2013年
4月 新歓。10人以上が入会。
5月 初の定例会。徐々に自助グループ的な色合いを帯びていく
サークルクラッシュ同好会関東支部結成
8月 関東支部、初の定例会
10月 関東支部、崩壊(クラッシュ)
11月 会誌第二号を京都精華大学キノフェア2、第十七回文学フリマ、NFで頒布。
12月 第二号をC85で頒布

 

●2014年
4月 新歓。「面白法人カヤック」の「学生新歓コンテスト」に出場。「サークルコンサルティング」、「ダミーサークル」などの奇抜な新歓戦略を展開
5月 定例会で「サークラ人狼」を実施
6月 定例会で「アイスブレーキング」、「映画『モテキ』鑑賞会」を実施。「服を買いに行く会」実施。ブログ開設
7月 定例会で「ジェンダー論勉強会」を実施
8月 会誌2.5号をC86で頒布
9月 2.5号を第二回文学フリマ大阪で頒布
サークラ合宿」実施。和歌山の白浜へ
11月 2.5号をキノフェア3で頒布
会誌第三号をNF、第十九回文学フリマで頒布。NFで「ビンタ屋」実施
12月 定例会で「女装会」を実施
12月 第三号をC87で頒布

 

●2015年
2月 「映画『愛のむきだし』鑑賞会」を実施
4月 オープンシェアハウス「サクラ荘」開始(当初は「サークラハウス」という名称だった)。
5月 「面白法人カヤック」の「第2回学生新歓コンテスト」に出場。新歓にて「自己啓発セミナー」を実施。実際の中身は「誰でも当事者研究会」。以後、定例会でも頻繁に「誰でも当事者研究会」が開かれる
「ゴッフマン『行為と演技』読書会」開始(途中でポシャる)
6月 定例会でコミュニケーションゲーム「アンゲーム」を実施
7月 「精神分析読書会」実施
8月 会誌3.5号をC88で頒布
9月 「サークラ百物語」実施。会誌3.5号を第三回文学フリマ大阪で頒布
11月 3.5号をキノフェア4で頒布。会誌第四号をNFで頒布。「ビンタ屋」実施
12月 第四号をC89で頒布。

 

●2016年
2月 サークルクラッシュ同好会関東支部結成(2013年のものとは別物)
3月 「代々木忠監督のAV作品鑑賞会」を実施。関東支部で「インプロ・ワークショップ(即興劇)」実施
4月 新歓。「意識高い系サークルの新歓に潜入する会」実施。関東支部フロイト読書会」開始(8月に終了)。
5月 「自己啓発セミナー」を実施(二年目)。第四号を第二十二回文学フリマ東京で頒布
「映画『愛の渦』、『恋の渦』、『恋の罪』」連続鑑賞会実施(3週に分けて)
6月 「映画『桐島、部活辞めるってよ』」鑑賞会実施。関東支部で「ゲーム会」実施
7月 「服を買いに行く会」実施。
「偏ったブログをぱらぱら読む会」実施:ぱぷりこ氏の「妖怪男ウォッチ」を読む
8月 「第一回ゆるふわ読書会」実施:『セックス神話解体新書』を読む
幸福の科学大学オープンキャンパスに行く会」 「天理市に行く会」
9月 「バーベキュー」実施。「第二回ゆるふわ読書会」実施:『孤独と不安のレッスン』を読む。「Skype読書会」開始(ほぼ週一で開かれ、10月末に停止)。関東支部で「服を買いに行く会」実施
10月 「サイゼリヤ飲み会」実施。「オタサーの姫コレクション」実施。関東支部で「ハロウィンを楽しむ」実施

 

次のサークルクラッシュ同好会を作るのは君だ!
(完)

DULL-COLORED POP 福島三部作 の感想

 9800円も払って観たので感想ぐらい書いとかないとコスパ悪いなと思ったので書いとく。9月2日に大阪で観ました。当然ネタバレ満載です。

 

 

 

第一部『1961年:夜に昇る太陽』

 これが一番面白かった。田舎に原発を誘致する際の裏話みたいなのをこんなに面白く描けるのはスゴい。

 田舎から東大に行った長男が、家を継がないために「もう故郷には帰らない」と告げる話。おっかない爺さんの怒号が良い。「立身出生」「末は博士か大臣か」という言葉がまだリアリティを持っていた時代の話だった。

 最終的には双葉町が、福島が、東京という「中心」に搾取される「周縁」として描かれる。さながら植民地と宗主国のように、その決定には権力性がある。東京電力がカネにモノを言わせ、「原発双葉町や福島の未来がかかっている」という甘言に惑わされていいのか、みたいな話。「東北は地震が少ないから安全」って発言も面白いね。

 でも、原発を素晴らしいものとして語る言葉には説得力があるのがまた面白い。各所の関係者がひっそりと双葉町に入り、主人公の実家での密会で酒を飲み交わし、交渉がなされるわけだけど、なんともリアリティがある。スクリーンに映し出されるディティールも良い(当時の時代背景や、当時の関係者の証言など。関係者の証言はフィクションか?)。

 想い人?を田舎に置いて東京へと往く主人公は、まるで「木綿のハンカチーフ」みたいだ。やはり、みんなの期待を背負いながら東京に行くと。

 

第二部『1986年:メビウスの輪

 基本的には会話劇。それもディベートのような。原発反対派となった第一部の主人公の弟が、汚職で辞任した町長の代わりに、(原発の危険を分かっているがゆえの)原発推進派として町長選に出るという話。

 危険であるがゆえに稼動する際の安全対策をしっかりするのだ、というねじれた論理をこれでもかというぐらい見せてくれる。しまいにはチェルノブイリの事故に対して、危険性をレトリカルに隠蔽する「日本の原発は安全です」という言葉。

 飼われていた犬が「死者の声」や「人間だからこそ固有に存在する『責任』」を語るというのは面白い構造。別にハイデガーとか言わなくてもいいとは思ったけど。観客は2011年の原発事故を知っているわけなので、「責任」は過去への遡及的なものではなく、未来へと連綿と受け継がれる責任として意識させられる。

 あとやはり、第一部からの繋がりで言えば、双葉町の産業が原発に依存しきってしまっているという話は面白い。「原発の安全対策」はこれから更に産業を活性化させるためのネタだというロジックも喜劇的だ。

 最後に子どもが生まれる、というところで終わるのが素晴らしかった。原発のリスクの「計算不能性」が最後には取り沙汰されるんだけど(ベックの言う「新しいリスク」というやつだろう)、子どももまた「計算不能」な希望(あるいはリスク)だよなと。最近流行り(?)の反出生主義なんかのことを思いつつ。第一部の顛末が生んだ原発という子どももまた、事故が起こってからでは「生まれてくることを望まれなかった子ども」になってしまうのだろうか。

 

第三部『2011年:語られたがる言葉たち』

 はるかぜちゃんこと春名風花さんが出ていてびっくりした。役もアテ書きみたいな感じで、福島の「真実」を伝えることによって炎上する女子高生の役だった(ちょっと紋切り型すぎやしないかとも思った)。お得意の泣き芸も見れて得した気分だった。

 内容的には「マスメディアの報道倫理」みたいな話。近年の質的調査系の社会学者たちも「聞き取られなかったマイノリティの声」を聞こうとしているし、個人的にはあまり新鮮味のない題材だった。

 まあ放射能の濃度がどうとか、農業への風評被害とか、避難する人間たちの意識の差とか、そういうよく言われる話はきちんと拾われてるわけだけども。問題はそれらの紋切り型を超えて、「演劇」というメディアならば何を拾い上げられるのか、だと思う。この作品は脚本・演出の方が自分で取材して聞き取ったものだということが紹介には書かれているけども、そうだとしても「演劇」である必要があまりよく分からないなと思った。視聴率主義=資本主義の問題の批判とかしてもなあ。演劇だってメディアなんだし、じゃあ演劇だったら何が見えて、何が見えないのか、そういう反省性に開かれていることをもうちょっと期待した。

 第二部に引き続き「死者の声」も出てくるんだけど、むしろ「語られたがる言葉たち」は死者の声の方なんじゃないかと思った。震災によって死んでいった人たちが語れなかった言葉を辿っていく、そういう作業こそ演劇にできそうなものだが。

『猫で人魚を釣る話』という漫画がめっちゃいいので読んでほしい

 漫画のレビューです。

 

 2015年に月刊スピリッツを読んでいたところ、「スネるの法則」という読みきり漫画が載っていた。

 とにかく言語センスが独特だった。それでいて読みにくいわけでもなく、奇妙なバランスを保った不思議な作品だった。作者の名前を見ると、「菅原亮きん」と書かれていて、これまたおかしな名前だなあと。

 

 頭の片隅にこの名前が刻まれていたところで2018年、『猫で人魚を釣る話』という菅原亮きん先生の連載が始まった。

 これが、面白かった。

 

 作品の内容はいたってシンプル。不器用なお医者さんが白血病の患者に恋をするという王道の作品である。シンプルな筋道なのもあって、このたび全3巻でコンパクトに完結した。

 しかし、王道であるがゆえに、表現技法において作者のセンスが光る。構図、コマ割り、ページの使い方、擬音など、非常にユニークなつくりになっている(詳しくは漫画を見てほしい)。手数が多くて芸が細かいし、読んでて飽きない。

 言語の表現も単なるフキダシだけには留まらない。携帯電話の画面で会話がなされたり、詩が挿入されたりとバラエティ豊かだ。そして、やっぱり言語センスが独特で面白い。

 

 もし、他の漫画家の作品にたとえるとするならば、とよ田みのる先生の漫画に似ているかもしれない。なお、とよ田先生は『ラブロマ』→『友達100人できるかな』→『タケヲちゃん物怪録』→『金剛寺さんは面倒臭い』と最近の作品になるにつれて表現のダイナミックさが増し、どんどん先鋭化していっている感じがある。

 菅原先生も基本的にはダイナミックな表現でバラエティに富んでいる。とよ田先生とテイストは違うものの、大まかなタイプとしては似ているのではないだろうか。

 

  概要としてはそんな感じだが、以下ではネタバレ込みで感想を書く。

  

猫で人魚を釣る話 (1) (ビッグコミックス)

猫で人魚を釣る話 (1) (ビッグコミックス)

 

 

猫で人魚を釣る話 (2) (ビッグコミックス)

猫で人魚を釣る話 (2) (ビッグコミックス)

 

  

猫で人魚を釣る話(3) (ビッグコミックス)

猫で人魚を釣る話(3) (ビッグコミックス)

 

  

 

 

***

 

 

キャラクターたちについて

 まず、キャラクター作りが上手い。医者である主人公の四月一日正直(わたぬき まさなお)は「病人を診ずして病気を診よ。」という座右の銘を持っている。端々からにじみ出る不器用さ、融通の利かなさが恋愛モノにおいては良いアクセントになっている。

 ただし、その不器用さから内面の葛藤に苦しむような「こじらせ」モノではない。基本的に主人公の性格はまっすぐで、立ちはだかる問題に対して実直な答えを出していく。それこそ、とよ田みのる先生の『ラブロマ』のようだ。2巻で主人公が毎日ヒロインの家に通うという(ヘタするとストーカーじみた)場面があるが、そこにイヤらしさが感じられない。

 話としては、主人公の不器用さがどんどんほぐれていくという構成になっている。もちろんヒロインポジションにいる吉祥てらのある意味で奔放なキャラクター性がそうさせた面はあるが、てらも過去の父親の死と飼い猫の死という問題を背負っている。

 だからむしろ二人を導いたのは春樹という猫である。タイトルの通り、猫がキューピッドのポジションになっている。話の展開や、主人公自身の(隠された)感情への気づきは猫を介して起こる。このあたりも上手い。まあ、作者は明らかに猫が好きなのだろう。経験に基づいたリアリティを作品世界に持ってこれたのだと思う。

 他にもてらの幼馴染の獣医さんや主人公の病院の師長さん、フィットネスのインストラクターといったキャラクターが登場するが、とにかく悪人がいない。みんな根っこのところではサッパリスッキリした人たちで、自分の主張をはっきり言える人たちだ。

 

作品全体として

 要するに「自由」なのである。読者が自由の感覚をおぼえる作品になっていると思う。もちろん「葛藤」を描くことが重要な作品もあるだろうが、この作品では(葛藤がないわけではないが)、自由になっていく過程が基本線である。

 ウジウジ悩む過程に紙幅を割かずにテンポ良く進んでいく話は、全3巻に綺麗にまとまっている(3巻の巻末には作者の読みきりが2本載っているぐらいで、実質的には2.6巻分ぐらいで本編は終わっている)。

 全3巻の構成としても、1巻の終わり(6話)に主人公が「好き」だと告白するのがきていて、2巻の終わり(12話)にはてらが自身の主人公への気持ちを確信していくまでが丁寧に描かれている。そして3巻でクライマックスへ。よく練られた月刊連載だなあ。

 

その他個別のこと

 その2巻の終わり(12話)でてらが自宅で主人公と携帯を通じてやりとりしながらモノローグするシーンはすごく良くて感動した。

 最後3巻の14話、15話、最終話はまさにヤマだと思うんだけど、見事だった。14話は涙する主人公のシーンで僕も泣いた。クソ真面目に生きてきた人間が抑圧していた衝動に向き合うってシーンはいいですね。

 15話のベッドが飛んでいく演出もヘタするとサムくなってしまいかねないと思うんだけど、これがまた良かった。上に書いた「自由」の感覚がまさに感じられるシーンだった。

 最終話の終わり方もこれ以上ないぐらい良かった。自由に描いているようでいて、かなり収まりの良い作品だった。

  

 

***

 

 

 僕は漫トロピーというサークルで毎年漫画ランキングを作っているのだが、2018年の個人ランキングでは(11月時点で)この作品を1位にした。

 最後まで読んで、自分の目に狂いはなかったなと思った。とても好きな作品なので、みなさんもぜひ読んでください。