『当事者研究と専門知』読書会第一回(9/7)の個人的感想メモ

 

 友人のべとりんが『当事者研究と専門知』読書会を開くということで、面白そうなのでskype参加した。当事者活動を実際にやっている人とかも参加してて実りのある内容だった。以下、個人的な感想メモを記す。

 

1.平井秀幸「ハームリダクションのダークサイドに関する社会学的考察・序説」(『当事者研究と専門知』p119-131)の雑な要約

 ハームリダクション(以下HR)とは「合法・違法にかかわらず精神作用性のある薬物について、必ずしもその使用量は減ることはなくとも、その使用により生じる健康・社会・経済上の悪影響を減少させることを主たる目的とする政策・プログラム・実践である」とされている。

 

 薬物使用に関するHRは「犯罪モデル」にも「医療モデル」にも対立するものとして生まれたと考えられる。
 「犯罪モデル」では薬物使用を「乱用」と扱い、処罰によって解決する。
 「医療モデル」では薬物使用を「嗜癖」と扱い、治療によって解決する。
 それらに対し、HRのモデルでは薬物使用は単に「使用」というノーマルな行為であり、使用そのものを減らすのではなくて「健康・社会・経済上の悪影響(ハーム)」を減らす方向に持っていく。

 

 その例として「安全な注射」キャンペーンが挙げられる。そこでは、①「安全な注射技術」の伝達、②「注射器具の適切な廃棄」の教授、③「注射実践についての思慮と沈黙」の勧奨(むやみに薬物を使用していると発言したり、使用する姿を見せたりしないこと)といった実践が行われる。なお、「安全な注射」キャンペーンでは、薬物使用当事者をサービスの受け手だけでなく、キャンペーンを広める人としても扱う。

 

 しかし、このようなHRにはダークサイドがある。すなわち、「安全な薬物使用者」の像を示すことによって、それに従わない人は「リスキーな薬物使用者」とみなされてしまう。これにより、「リスキーな薬物使用」の方を選んだ人間は「自己責任」であるとして処罰・排除の対象となることが正当化されてしまう。また、「安全な薬物使用者」がそのキャンペーンを広める者として動員されることで、その処罰・排除はより苛烈なものになりうる。これらは「安全な/リスキーな薬物使用者」の分断統治と言える。
 また、問題の焦点が「薬物使用」ではなく「ハーム」に当たるため、薬物使用以外のリスキーな行為(性病予防のなされていない性行為や、不衛生なホームレスなど)も排除の対象になる恐れがある。

 

 そもそもHRにおける「ハーム」とは何だったのか。これまで述べてきたHRはHIV/AIDSやC型肝炎などの公衆衛生的なものをハームと定義した際に行われる、効果があるというエビデンスに基づいた政策である。つまり、HRは「寛容さ」や「薬物使用当事者の脱スティグマ」が第一義的な目的で行われているものではない。
 それに対して、「薬物使用当事者のQOL」にとってのハームを考えることができる。このハームを対象としたハームリダクションを〈HR〉とするならば、ダルクをはじめとした当事者活動はむしろ〈HR〉を志向してきたのではないか。ここでは、「減らすべきハーム」を定義するのはあくまで「個人」である。一方「ハームの減らし方(リダクション)」の方は、資源調達の困難さを考えれば、できる限り社会が担うべきであると考えられる。
 HRのダークサイドについて鑑みれば、〈HR〉への想像力を高めておく必要がある。そのヒントは日本の当事者活動にあるのではないか。

 


2.ホリィ・センの持った疑問

 「ハーム」は個人的なものとして扱い、「リダクション」は社会的にやっていくということが本当にできるのか?

 

 というのは、ハームとリダクションが分けがたく結びついているのではないかと考えられる。例えば、医療のモデルで考えてみると、「ハーム」の定義は「診断」であり、「リダクション」が「治療」にあたる。あるいは、「ハーム」が「問題」で「リダクション」が「解決」と考えてもいいかもしれない。
 このとき、「治療」や「解決」というゴールによって「診断」や「問題」が定義されてしまう可能性がある。HRの話に戻せば、「リダクション」を社会的なものと考えると、「ハーム」を個人的なものと捉えることが難しくなってしまうのではないか。逆に、個人的な「ハーム」に対して社会的な「リダクション」を当てはめるのは難しいのではないか。

 

3.この疑問に対して出た話

 「当事者研究」の文脈に引きつけて考えてみると、当事者の問題(ハーム)を定義する際にも当事者だけでやっているわけではない。語り合ったり、他人の言葉を借りたりしながら自分自身の問題を定義していく。つまり、個人的な「ハーム」を定義するためにもある種の「社会的なもの」は必要なのである。


 また、ベーシックインカムや、個人が行ける「居場所」がいっぱい社会に作られていくことは、「社会的な」リダクションの例なのではないか。

 

4.更にホリィ・センが考えたこと

 「個人」と「社会」は必ずしも対立概念として捉えられない。「個人」が使える選択肢、資源としての「社会」はむしろいろいろあった方が良い。その意味では公衆衛生型HRが想定する「社会」も、当事者型〈HR〉が想定する「社会」も、個人にとっての「選択肢」として現れてくるのであれば良いものな気がする。(ちょっと違う話だけど、国家がやるべきことは「基準」を定めることであって、「裁量」をすることではないという国家観を思い出した。ハイエクソ連社会主義の批判の文脈で言ってるらしいが……)

 

5.他に面白いと思った話


・公衆衛生型HRが批判されているけど、誰でも真似できる共通の枠組みがあって、効果のエビデンスもあるんならけっこう良いことなのではないか。むしろ、当事者型〈HR〉はすごく個人の力に頼ることになるし、形式化された枠組みもないし、危ういものなのではないか
(個人的な意見としては、「リスキーな当事者」がスティグマされることによって生じてしまう「罪悪感」と「孤立」を防ごう!という枠組みは共有できるのではないか、と思った)

 

・本で扱われているのは薬物使用だったけど、自傷行為とか性的逸脱とかアルコール依存とかでもHRの考え方は応用できる可能性がある。しかし、その対象によってHRの方法だけでなくHRを行う主体も変わってくるだろう

 

・日本とオランダでは対人観がそもそも全然違うよねという話。オランダで公衆衛生型HRが発達した(?)のは新自由主義的な対人観があったからではないか
(個人的な意見としては、日本はねじれた新自由主義のようなものがあると思う。マクロな社会政策としては新自由主義的だからこそあまり福祉が発達せず、HRも発達しなかったのではないか。しかし、ミクロな対人観としては新自由主義がそこまで浸透していないからこそ、ダルクのような〈HR〉の先駆的存在が発達したのではないか)

アンコール複借論争~ホリィ・セン×借金玉イベントに蘇る複素数太郎~

 予定されていた「複素数太郎借金玉イベント」が中止になりました。複素数太郎の代わりに僕、ホリィ・センが登壇することになりましたが、僕は複素数太郎借金玉イベントを開く意義が未だにあると思っています。
 この記事ではまず、複素数太郎がイベントから外されてしまった経緯を書きます。にもかかわらず複素数太郎が出している論点が重要であるがゆえに、複素数太郎が登壇しないとしてもやはり8月25日はその論点について議論すべきだということをその次に書きます。

 特に司会を担当していただく青識亜論さんにはこの記事をしっかり読んでいただけると助かります。

 

1.複素数太郎はいかにして外されたのか

 この件について僕は推測することしかできませんが、僕なりの見解を述べておきます。

 

1-1.「複素数太郎を外して代替イベントをやろう」という借金玉さんの提案

 8月4日の夜に僕が今井くん(

今井 ホツマ (@O_regalis) | Twitter

)と会っていたところ、借金玉さんと今井くんと僕との三人でLINE通話をしようということになりました。
 そこで借金玉さんは、複素数太郎借金玉イベントを中止して、僕と借金玉さんの代替イベントを開催しようという提案をしました。
金玉さんがその提案をした理由は僕の聞いた限りでは以下の四点にあるように思いました。


複素数太郎が、事業の立場に立たずにアカデミズムの立場に立ち、(事業の立場からすれば)「無理難題」を相手に要求しており、そこから建設的な議論は生まれないこと。
②また、継続をすること自体が困難を極める「当事者運動」(なぜなら、当事者自身の精神状態が不安定だったり、使える手段が制限されていたりするから)に対して、複素数太郎が当事者のメンタルへの配慮がない言い方をしていること。
複素数太郎がそのようなアカデミズムの立場であるにもかかわらず、複素数太郎が集めた観客のリストを見たところ、それらはアカデミックな人間(例えば学者)というわけではないこと。
④それどころか、集められた観客は複素数太郎の周囲の「リスク」のある人間であること。そのような「リスクのある」人間がイベント時に何か問題を起こした際には、責任を取りきれないということ。

 また、なぜ借金玉さんは、複素数太郎の周囲の人間に「リスク」があると考えているのかについて以下で述べます。
 あるとき、これ以上ツイッターに関わることに対して危険を感じたために、複素数太郎は死んだフリをしました(詳細は以下)

sutaro.hatenablog.jp
 その際に誰もそのことを借金玉さんには言わず、その際に誰か(借金玉さんによれば「真実烏」というアカウント)が「借金玉さんが殺人者である」というデマを借金玉さんの職場に「密告」したため、借金玉さんは仕事を失うことになったという事件があったようです。

 他にも理由はあるとは思いますが、とりあえずこの事件などが理由で「リスク」があると考えているようです。

 最終的に8月7日の今井くんのイベント告知で複素数太郎が外されていますが、その背景には借金玉さんからの提案があったということをここでは述べておきます。

 

1-2.それでも複素数太郎借金玉イベントをやるべきだった(と僕は思ってる)

 そして、僕自身はそれでもなお、8月25日に複素数太郎借金玉イベントを開催すべきだと思いましたのでその場ではそう言いました。
 僕からすれば複素数太郎の出した論点は重要であり、上記の①②もまさにその論点に関わるポイントなので、イベントで議論すべき内容だと感じたからです(後述の2-2を参照)。
 また、③についてはそもそもアカデミックな人間を複素数太郎がその場に呼ばなければならない必要を僕は感じません(どうしても専門家に見てもらいたいなら録音・録画などをすればいいのではないかと思いますし、複素数太郎=アカデミズム、借金玉さん=当事者事業という対立構造が明確に成立しているのかについては疑問が残ります)。しかも、複素数太郎は専門家を呼ぼうともしていました。
 ④については「リスクのある人間の排除」ということ自体がまさに議論されるべき内容だと感じています(後述の2-1参照)。「リスクのある人間の排除」の是非を問うべき議論の場で、あらかじめ「リスクのある人間の排除」をするのは「論点先取」的だと僕は感じています。

 しかも、仮にリスクのある人間をあらかじめ排除すべきだとしても、現在リスクのある人間を排除できているのかどうかは分かりません。「複素数太郎の周囲の人間ならばリスクがあり、そうでなければリスクがない」と考える理由が不明確です(「京都若者界隈」なるハイリスク群が押し寄せてくるとでも考えていたのでしょうか?)し、今回のイベントの観客募集方法でも、抽選になるのならば「複素数太郎の周囲の人間」や「リスクのある人間」は入りうるのでリスクが変化するようにはあまり思えません(観客のツイッターアカウントを一人一人見れば、ある程度「検閲」できるのかもしれませんが)。

 また、そもそも集められた観客のリストを登壇者の一方である借金玉さんのみが閲覧し、それを根拠にイベントの中止を提案したという経緯はいかがなものか、とも思っています。最終判断を下したのが今井くんだとしても、強権的に今井くんに責任を押しつけすぎなのではないでしょうか。

 

 それに、やはり観客が見たかったのは複素数太郎借金玉イベントだろうと僕は思います。僕と借金玉さんのイベントは、その後にやれば十分でしょう。複素数太郎のことを踏まえずに僕と借金玉さんトークイベントをやるならば、それは敢えて言うなら「事業主」同士のイベントになることでしょう。しかしその前に「事業の論理」への批判者である複素数太郎との論争を終えておくべきなのでは? と僕は未だに思っています。
 とはいえ複素数太郎が登壇できないならもう仕方ないということで、8月25日の「ホリィ・セン借金玉イベント」には登壇させていただくことにします。ただし、8月25日のイベントに少なくとも複素数太郎が観客として参加するという条件は呑んでもらいました。

 

 

2.8月25日に議論したい内容

 さて、僕はこれまでサークルやシェアハウスを運営してきましたし、そこには生きづらさを抱えた“当事者”と呼べる人もいるように思います(かく言う僕自身もコミュニケーションや恋愛がうまくいかないことへの“当事者”性があったからこそ「サークルクラッシュ同好会」を始めたのです)。
 だから、本来なら「当事者事業」の主として借金玉さんトークイベントをするのが妥当だとは考えています。しかし、1で述べたように複素数太郎が出した論点は未消化だと僕は考えています。だから敢えて複素数太郎の批判を引き継ぎ、「当事者事業」なるものへの批判者としての立場も持った上で今回のイベントに臨みたいと思います。それは結果的に「当事者事業」を考える上でも建設的な議論になるでしょう。
 ということで、「当事者事業」なるものへの批判者としての立場をできるだけ勉強してから8月25日のイベントには臨みたいと思いますが、とりあえず今のところ考えている主要な論点だけでも、先に書いておきたいと思います。

 

2-1.「事業としてできること」について

まず借金玉さんの主張に引きつけていえば、「事業主として当事者運動をやる際に、何を最低限担保すべきか」という論点です。借金玉さんは例えば「赤字を出さず、事業として回す」「利益と目的をバランスさせ、可能な限りの継続性を担保する」ということなどを述べていました。

 

(他にもいろいろ述べていましたが詳細は以下)

twitter.com



 そこで、ある当事者事業において、自傷行為オーバードーズを禁止するような規定がある場合について議論になっていました。
 これに対する複素数太郎の批判は、「禁止」という抑圧をスタートラインにして支援を始めるべきではないということです。また、具体的な支援ということになるのであれば、自傷オーバードーズをする人に対してその危険性を低め、徐々に遠ざけていくという支援を行うべきだということや、学術的・医療的なバックグラウンドを踏まえた上で支援を行うべきだということなどを述べています。

 

 

 

 

 

 

 一方で借金玉さんの主張は、この批判を受け入れると、先ほど述べた「最低限」を担保できなくなる、ということです。なぜなら、自傷行為オーバードーズを容認することになれば、事業として責任を取りきれない可能性があるからです。責任を取れないと事業は継続できません。

 この時点でまず、「何が最低限なのか」という論点については様々なことが言えます。言い換えれば、「当事者運動を継続しつつ、かつできるだけ抑圧的でない支援をするためにどのようにバランスを取れるのか」ということが論点になるでしょう。
 ここで、複素数太郎の述べていた「小さな労力」とは、「きっかけを与える」、すなわち、規約において抑圧的な文言を使わないという話を指すと思われます。ただし、話が現実の支援や対処のレベルに移ると「大きな労力」になってくるものと思われます。
 つまり、複素数太郎の立場ではまず、「A.自傷行為オーバードーズを禁止する規定を作らない」ことが重要なわけです。

 ただし、具体的な支援の話になってくると、「B.自傷オーバードーズをする人に対してその危険性を低め、徐々に遠ざけていくという支援を行う」「C.学術的・医療的なバックグラウンドを踏まえた上で支援を行う」べきだということ などが複素数太郎から挙げられています。

 一方借金玉さんの立場では、Bは事業主としてはできるレベルではないし、Cも「監修をつける」のレベルになると労力やお金がかかり、到底できるレベルではないということです(ただし、BとCについては複素数太郎は応答として提示しただけなので積極的に主張しているわけではありませんし、話題になっていた「メンヘラ芸」の話も複素数太郎が始めたものではありません。よって、実はそもそも複素数太郎と借金玉さんの間にそこまで対立はないように思われます)。

 

 また、借金玉さんの主張では、それが一つの事業である限りその事業の内部において「コンプライアンスを守る」ためには、ある種の禁止をしてもよいという立場だと思います(「外でやる人には文句はつけられない」ものの)。一方、複素数太郎の立場からすれば、そのような規約をあらかじめ設けることは「抑圧」や「暴力」といった言葉遣いになるでしょう(ただし、規約とは関係なく、実際に支援にする場面においてある種の禁止をすることまでは、複素数太郎は積極的に否定まではしていないように思います)。
 借金玉さんはこの話について、アカデミズムとしてそういう議論は成り立つし、「お友達」に接する分にはそうありたいが、一つの事業としてやるならば禁止することになるということになるということだと思います。

 

 しかし、――あくまで僕が思うにですが――可能な限り、一つの事業の中であっても先ほどのBやCのようなことをすべきだと思います。この点についても8月25日に議論したい内容です。

 参考までにざっくり言っておけば、僕自身もサークルクラッシュ同好会やサクラ荘の内部で自傷オーバードーズを「禁止」したことはありません。それは、たとえ「事業」をやっていたとしても、やはり抑圧的でない関係性を作ることが重要だと考えているからです。

 

 そしてこの話は1-1の④で述べた「リスクのある人間の排除」にも適用できる話でしょう。僕が思うに「リスクがある」とされた人間をあらかじめ排除することは、責任を取るための「事業の論理」だと思います。それ自体が間違っているわけではありませんが、「当事者事業」であればこそなおさら排除という「抑圧」には繊細になるべきでしょう。もちろん無際限に「来るもの拒まず」というわけにはいきませんが、できるだけ排除せずに継続できるような事業のあり方についてはまだ工夫のし甲斐があるように僕は思います。

 参考にまで言っておけば、複素数太郎の批判対象であったメンヘラ.jpは、途中で規定の文言を少し変えています。
 元々メンヘラ.jpに書かれていた文言は「病気や障害を「魅力」として扱うような、治療プロセスにとって有害なコンテンツも掲載できません」だったのに対して、現在では【メンヘラ.jpでは掲載できないコンテンツ】として「病気や障害を過度に「魅力」として扱うようなコンテンツ」が挙げられているという変更です。これは、病気や障害を「魅力」として扱うことへの権利とリスクとの間のバランスを踏まえ、「禁止」という抑圧をスタートラインにしない、ベターな文言の変更だと僕は考えています。すなわち、複素数太郎の批判に意義があるパターンの一例とも言えるでしょう。

 

 再度抽象的なレベルで言えば、どこまでが「アカデミズム」や「お友達」で、どこからが「事業」なのか、また「アカデミズムの論理」や「お友達の論理」がどこまで「事業の論理」に入ってきてもいいのか、という話が論点になるように思います。

 

2-2.「当事者事業」は批判をどこまで受け入れられるのか/無視できるのか

 そして、とても重要な論点として、当事者運動への批判はどうあるべきかという問題があると思います。
 1-1で述べたように借金玉さんの立場からすれば、複素数太郎の主張には問題があります。再度書くと、

①事業の立場に立たずにアカデミズムの立場に立ち、(事業の立場からすれば)「無理難題」を相手に要求しており、そこから建設的な議論は生まれない
②継続をすること自体が困難を極める「当事者運動」(なぜなら、当事者自身の精神状態が不安定だったり、使える手段が制限されていたりするから)に対して、複素数太郎が当事者のメンタルへの配慮がない言い方をしている(それにまともに取り合ってたら運動の継続しようがない)。

ということです。

 一方で①について、複素数太郎の批判は、実際に海外の当事者運動である「ニューロ・ダイバーシティ運動」が「障害者権利条約」のスローガン「私たち抜きに私たちのことを決めるな」に依拠している、ということを援用しています(2ツイートだけ貼りますが、細かい議論はリプライツリーを見てください)。

 

 

 つまり、当事者のニーズに沿った抑圧的でない支援をするということは「当事者運動」としても主流のことであり、アカデミズムの枠内に留まらない上に、「無理難題」ではない批判になっていると捉えることもできます。
 また、②について――これも僕個人の意見ですが――複素数太郎の主張内容だけ抽出し、敵対しない立場の人が、マイルドな言い方に変えさえすれば、批判として有効に機能するのではないかと思います(それが僕がブログ記事に書いた「「メンヘラ.jp」の意義と批判まとめ」でやろうとしたことです)。

 

 そして、先ほどの2-1の議論を踏まえるならば、おそらく借金玉さんの主張は「事業の外部においてはその批判はもっともだが、事業の内部においてはその事業なりのルールがあるのだから受け入れられない」ということでもあると思います。
 そこで、――僕が思うにですが――ある批判を当事者事業がどの程度受け入れるべきかは、「その批判を受け入れられる場」が社会にどの程度存在するかに依存するように思います。例えば、「よそ」に有力な「駆け込み寺」があるのならば、「よそに行ってくれ」というのは分からないのでもないです。しかし、有力な「よそ」がないのならば、「よそに行ってくれ」と言うのは「たらい回し」をしていることになります。
 仮にあらゆる批判を受け入れないのであれば、メンヘラ.jp内でも批判されていた「クラスジャパン」(引きこもり支援)ような事態になりかねません。

menhera.jp

 だからこそ、「どこまで当事者のニーズを優先できるのか」は議論すべき点だと思います。

 

 以上より、「当事者事業」はどこまでの批判なら受け入れられるのか、またどういう言い方の批判なら受け入れられるのかということは論点になると思います。


3.青識亜論さんへのお願いと僕がこれから読む本

 少し雑多でしたが、2で述べてきた論点について僕は議論したいと思っています。それは、1で述べた経緯から、僕は複素数太郎の代理人の立場としても登壇したいと考えているからです。司会を担当していただく青識亜論さんにはぜひとも、以上の論点を踏まえた上で進行していただければとお願いしたいです。

 また、2の論点を踏まえて8月25日までには勉強して、議論を組み立てた上で臨みたいと思います。少なくとも、『自傷行為の理解と援助―「故意に自分の健康を害する」若者たち』(松本俊彦)は、例として出てきた自傷行為オーバードーズをする人への接し方を考えるために読みます。
 他に読もうと思っている本としては、「当事者のニーズ」というのは何なのかという問題を考えるにあたって『当事者主権』(中西正司、上野千鶴子)が挙げられます。
また、アカデミズムが当事者事業にいかに介在すべきなのかという視点では『臨床心理学 増刊第10号-当事者研究と専門知』(熊谷晋一郎編)も読んでおきたいところです。
 他にもいくつかあたりをつけていますが、とりあえずこれぐらいにしておきます。

 

 各位、8月25日はよろしくお願いします。

男性多数の(≒ホモソーシャルな)集団における女性の困難~サークルクラッシュ同好会の人間関係を例に~

要約:

サークルクラッシュ同好会には「女子グループ」が苦手だった女性が集まりがち→彼女らは「男性多数の集団」に入っていく

もっと一般化すると、男性多数で女性を性的に消費する「ホモソーシャル」の構造が背景にはある。ホモソーシャル集団においては女性はあらかじめ排除されていて、入ってこれた女性たちも分断されてしまう。

ホモソーシャル集団は体育会系っぽいのだけじゃなくて、オタクっぽいのもある。つまり、女性に接するのに慣れていない男性たちの作るホモソーシャルもある。そこでの実態は体育会系とは異なるが、やはり女性は排除・分断されてしまう側面がある。

サークルクラッシュ同好会固有の問題もいろいろとあるので、そのへんもサー同の人は読んでくれると嬉しい。

 

読むのにかかる時間:14分ぐらい

 

サークルクラッシュ同好会内の女性同士は仲良くできるのか?」問題が話題になっていた。この問題はサークルクラッシュ同好会というローカルな集団に留まらない一般的な問題を含んでいるので文章化しておく。

 

話題になったのは要するにこういう問題だ。サークルクラッシュ同好会内の女性が男性からの承認を集める。あるいは具体的に男性からの承認を集めていないとしてもそう見える("あざとい"ように見える)。それゆえに、女性同士は同族嫌悪してしまい、仲良くできないのではないか。

 

「女子グループ」が苦手な女性が集まってくる

この問題について根本から考えていこう。そもそも、サークルクラッシュ同好会に集まってくるような人は(男性も含めて)どういう人なのだろうか。
これはあくまで僕の感覚に過ぎないが、僕が思うに集まってくる女性は「"女子グループ"が苦手な女性」である。例えば、同質性を重んずる中学生女子(発達心理学の語彙では「チャムグループ」と呼ばれる)はトイレにすら一緒に行く。「とりあえずみんな一緒に」についていけない女子はハブられてしまうのである。この「女子グループ」に違和感をおぼえて生きてきた女性がサークルクラッシュ同好会に入ってくる女性の大部分を占めていると僕は思う。
では「女子グループ」に違和感をおぼえて生きるとどうなるか。これはバリエーションがある。それこそ分かりやすく女子グループからハブられてきた人もいるように思う。あるいはなんとか同調してやり過ごしてきたものの、強く違和感はおぼえていたという人もいるように思う。いずれにせよ大学生に上がる頃には女子グループを離れ、「男性と喋っている方がラク」というところに辿り着きやすい。

 

「女子グループ」におけるノリ、男性の視線

この男性、すなわち女性にとっての異性の視線というのも重要である。中学生女子のグループでは、「好きな人は誰?」という恋愛的な「ノリ」によって会話が成立するという。誰々が好き、ということを宣言することによってそれを応援するような流れも成立する。仮に好きな人が明確にいなかったとしても、誰かが気になっているということを敢えて言う、というような戦略を取る人もいると聞く。
逆にこの「ノリ」を脅かすことは許されない。例えば、男子グループとの距離が近いことによって男子に好かれている(ように見える)女子。これは、女子グループからは「抜け駆け」として非難される。中学生女子にとっては同性を取るか異性を取るかはダブルバインドなのである。このダブルバインドを解決するためには、女子グループでの「誰々が好き」という宣言があって、女子グループ内での認証を経た上で、なのである。この認証のステップを抜きに男子と仲良くなってしまうと、「なにあの子、男子に色目使ってチョーシに乗っちゃってさ」となるわけだ。
いささか誇張した話だが、こういった「ノリ」についていけない女性は女子グループでの「認証」のステップを面倒に思う。「認証」のためにはそもそも女子グループで会話が成立しなければならない。同質性を重んじる女子グループでは「みんな一緒」であることを確認するコミュニケーションが重視される。そこでは個性を発揮してはいけないのだ。まず相槌を打って合わせる。「雑談か議論か」で言えば、圧倒的に「雑談」の側のコミュニケーションだ。「毛づくろいコミュニケーション」と言ってもよい。

 

「男性多数の集団」に入ってしまうメカニズム

こういったコミュニケーションを面倒に思い、男と喋っている方がラクになってしまうというところがある。結果、どちらかと言えば男子グループの方に入っていき、大学生になったときにそれが顕著になる。
あるいは実際にハブられてしまった女性の場合、女子グループから逃げた先にあるのは男子グループである。中高時代はうまく溶け込めなかったとしても、大学生になってしまえば集団はそれぞれ分立している。要するに「サークル」に入ってしまえば自分の居やすい場所を確保できるのである。ハブられてしまった女性はある種のトラウマ的な「女性不信」を抱えて男性多数の集団を訪れるのである。

以上より、女性が男性多数の集団に入っていくメカニズムの一部を考察した。つまり、まず第一に重要なことは「サークルクラッシュ同好会は男性多数の集団である」ということである。少なくとも男性中心の集団である。特に、サークルクラッシュ同好会において言えば、このような「"女子グループ"が苦手な女性」が特に多く集まっているように思う。

(21時追記:そのため、そもそも女性が苦手、という人が集団に集まっており、女性同士が仲良くできないという側面はあるだろう)

 

しかしもちろん、女性が男性多数の集団に入っていくメカニズムはこれだけではないし、男性多数の集団における女性は実際にはもっと多様である。単に男性多数だったり男性中心だったりする集団は他にもいくらでもあるのだ。サークルクラッシュ同好会固有の問題から離れた上で、もう少し解像度を上げて考えてみよう。

 

ホモソーシャル集団への女性の入りにくさ

男性多数・男性中心の集団でパッと思いつくのは体育会系の集団である。体育会系の集団では「男性性」なるもの「女性性」なるものが誇張された形で表れていることが多い。そこでの男性同士の強い関係(しかしホモセクシャルではない、と彼らは言うだろう)を指して「ホモソーシャル」とも呼ばれる。この構造は体育会系に限らず見られる。
ホモソーシャルな集団においては、女性はあらかじめ排除される。というのも、まずホモソーシャルな集団では、男性から女性に対して異性愛的な視線が向けられ、そういった性愛の話題(典型的には男同士の下ネタや男性内で女性を評価するような話題など)が挙がりやすいからだ。そして女性を話題にすることで男性たちが絆を強め合う。そこには女性が入りにくいだろうし、集団内の女性が直接的に異性愛的な視線に晒されることもままある。ひどい場合はそれが直接的なセクハラにまで繋がってしまうこともある。よって、そういった異性愛的な視線に耐えたり、うまくかわしたりできる女性しかその集団には入ることが難しい。

 

ホモソーシャル集団における女性の分断

更に、ホモソーシャルな集団においては女性同士が分断される。このような集団に入れる女性の多くは、

A:男性と趣味嗜好を共有し、同じ目線で会話できる「男のような女性」(いわゆる「名誉男性」)

か、

B:男性の視線を内面化し、性的に客体化された女性

の2パターンである。Aの女性とBの女性はそもそもタイプが違っていて相容れない場合が多い。そして、Bの女性たちの中でも分断が起こっている。Bの女性たちは男性からの承認を資源としており、同じように男性から承認を集める女性を「敵」として認識せざるを得ない側面がある。男性からの承認というパイの奪い合いが起こってしまうわけである。似ている立場であるからこそ嫌な側面(具体的には男性からの承認を集めるための行動)がよく見えてしまい、「同族嫌悪」をしてしまう……といったことが起こりうるだろう。
(また、Bの中には性に奔放な人もいる。性に奔放な女性はこの21世紀になってもなお(男性からも女性からも)軽視されてしまう側面がある。その理由は二点、①Bの女性たちからすると性に奔放な女性は「承認を得るためにズルをしている人」と映るから。また、②性に奔放な女性は軽視していいという文化が脈々と続いてしまっているから、である。性に奔放であることによるリスクというテーマは興味深いがこれ以上詳しくは延べない)


ともあれこのように、ホモソーシャルな集団では構造的に女性同士が分断されてしまう側面がある。ではサークルクラッシュ同好会がホモソーシャルな集団か、というところだが、これは部分的にはそのとおりだと思われる。しかし、そうは言い難い側面もある。

 

「オタク的ホモソーシャル」もある

ホモソーシャル」概念においては、男性がどれくらい女性と接するのに慣れているか、という側面が捨象されている。そのため、体育会系の集団に限らず、例えばオタクたちの集団も「ホモソーシャル」だと考えられる。男性たちが女性に対して異性愛的な視線を向けているという点では等価だからだ。

 

男性の女性に対する問題のある接し方

しかし、典型的なオタクたちの集団では三次元の性愛経験に乏しい人間が多い。そのため、女性への接し方が体育会系のソレとは異なってくる。体育会系の側、つまり、女性への接し方に慣れている男性たちのホモソーシャル集団(以下、「体育会系的ホモソーシャル集団」と表記する)の場合、男性の女性への問題ある態度は大きく二種類に分けられる。一つ目は「優しい態度」だ。男性たちは女性を獲得するために女性に対して露骨に優しい態度を取る。それだけならば女性にとってはまだ問題はないだろう。しかしもう一つの「消費」の態度が問題である。最初は優しかったものの、いざ集団になじみ始めると露骨に性の対象や下ネタの対象として扱われ始めるわけだ。そこでは女性は「消費」されている。
一方、女性と接するのに慣れていない男性たちのホモソーシャル集団(以下、「オタク的ホモソーシャル集団」と表記する)において、女性への問題ある態度はどうだろうか。問題ある態度が三種類ある。

一つ目は「距離をおく」だ。女性と接することに慣れていない際、そもそも話しかけることができなかったり、適切な話題が見つからなかったりといったことが起こってしまう。これでは女性は集団内で疎外感を覚えてしまうだろう。二つ目は「男性のように接する」である。女性と接するためのパターンが分からない男性は、男性の友人に接するかのように女性に接するのである。すると、男性の話題に対応できる女性のみが集団に居ることができる。三つ目は「ゴリ押し」である。集団内に女性がいると誰にでも告白する、という男性を見たことがないだろうか。女性に対して常にゴリ押しする男は一定数いる。しかし多くの場合女性に気持ち悪がられてしまい、相手にされない。しかし、うまく断れない気弱な女性は被害に遭ってしまうのである。これは、体育会系のところで説明した「消費」の態度と似ている。いずれにせよ女性はセクハラ的な被害を受けてしまうからだ。

 

オタク的ホモソーシャルに入っていける女性

以上から、オタク的ホモソーシャル集団においても、「どういう女性が入ってこれるか」という問いを考えてみよう。体育会系的ホモソーシャル集団と同様に、「A:男性と趣味嗜好を共有し、同じ目線で会話できる「男のような女性」(いわゆる「名誉男性」)」は多いだろう。ただし「趣味嗜好を共有」というのも、非常にゆるやかになってきている側面はある。例えば男性中心のオタク集団に「腐女子」や「女性のオタク」と呼ばれるような人たちが参入してくることは珍しいことではなくなった。そこには「男性の趣味嗜好」とは似て非なる何かが文化として根づく可能性がある(腐女子の例を出したように、オタクサークルにおいては典型的にはBL文化だろう。僕自身、オタクサークルにいたときに「女性向け」のジャンルで集団内の勢力を伸ばす人たちを目の当たりにしたことがある)。ただし女性がホモソーシャル集団で独自の地位を確立する例は体育会系の集団においても見られる。例えばスポーツ集団における「女子マネ」も、ある種のケアワーカーとして専門化すると、集団内で自立した地位を獲得するという話があるのだ(しかし、腐女子の例と違って、あくまで「ケア」という女性役割からは逃れていないかもしれない)。

このように、入っていける女性は体育会系的ホモソーシャルとオタク的ホモソーシャルホモソーシャル集団の中でも、男性が女性に接するのに慣れているか否か)で異なる。次に、「B:男性の視線を内面化し、性的に客体化された女性」の方はどうだろうか。「オタサーの姫」という言葉も話題になって久しいが、実はオタクサークルでも男性から女性として見られることをある種利用する人はいる。あるいは、利用しているという意識はなくとも、結果的にそれで得をしている人はいるだろう。もっとも、先ほど述べたように、男性からの承認は体育会系集団のソレとはだいぶ異なる。あくまで慣れていないなりの承認であり、その異様さゆえに男性たちは「囲い」だとか「騎士」だとか揶揄されてしまうのであろう。

 

オタク的ホモソーシャルでもやはり女性は分断される

このように「ホモソーシャルな集団に居やすい女性」のAとBという分類は、オタク的ホモソーシャル集団においては体育会系的ホモソーシャル集団とはだいぶ実態が異なるものの、根本的には同一であるように思われる。これによってやはり多くの女性は集団に入りにくく、あらかじめ排除されてしまう側面はある。また、集団に入ったとしても、女性同士が分断を被る(AとBは仲良くできず、B内では男性の承認のパイの奪い合いが起きる)。
説明が長くなったが、ホモソーシャルを「体育会系的ホモソーシャル」と「オタク的ホモソーシャル」に分類してみた。「オタク的ホモソーシャル」の概念を使えば、サークルクラッシュ同好会の状況をうまく説明できるかもしれない。実際、サークルクラッシュ同好会の男性たちで女性に接するのに慣れていない人は多いように思う(かく言う私がそのような問題意識でこのサークルを作ったのだから)。

 

ホモソーシャル集団における女性の分断の解決策

ここで、「サークルクラッシュ同好会内の女性同士は仲良くできるのか?」という問いに戻る前に、大急ぎで一応、これらの問題の解決策の例を急いでいくつか示しておこう。①男女の関係をただちに性愛関係として扱わないこと。男女間の友情が成立するポイントを作るのが良いだろう。例えば恋人のいる男女は恋人がいるがゆえに他の異性と「友だちどまり」にすることができる、という例がある(それで浮気に発展したら最悪だけど)。②男性の側は女性を性的に消費してばっかりでなく、ちゃんと一人の人間として接するポイントを作るべきだろう。性愛関係なく、普通に優しい人間になれば良いのではないか。③女性の側は敵視しなくていい女性を見つけること。利害がぶつかり合わないけどお互いに認め合える「ソウルメイト」的な存在が良いのではないか。 他にも単に集団内の女性を増やすだとか、性に奔放な人を過度に蔑視しないだとか、集団内でみだりに手を出さないだとか、いろいろ考えられるだろうが、とりあえずこんなもんで。

 

サークルクラッシュ同好会独自の問題(おまけ)

しかし、以上のホモソーシャルに関する考察をもってしてもなお「サークルクラッシュ同好会内の女性同士は仲良くできるのか?」という問いに対して決定的な答えを与えたとは言い難い。しかし、ホモソーシャルという男性多数の集団における一般的な問題が背景の一部にはあるということは示せたと思う。
よって残りの考察は一般化の難しい、サークルクラッシュ同好会独自の問題であり、おまけである。サークルクラッシュ同好会の人間にとって考えるヒントになりそうなものだけ箇条書きで示しておこう。

 

●女子グループに馴染めなかった女性は、ポジティブには「好きなものは好き!」という嗜好をはっきり持っている個性によって男性が多い集団を選ぶ。ネガティブには「女性からは承認を得られないので男性に頼ろう」と、承認を求めて男性が多い集団を選ぶ。これは「サークルクラッシャーは二種類いる。前者は天然型、後者は承認欲求型」という言説にちょうど対応しているようにも思われる。実際には両方の側面を持っている人も多い。サークルクラッシュ同好会に集まってくる女性からこういう要素を感じることもある。

 

サークルクラッシュ同好会に集まる人間は大まかに言って、男女問わず「たくさんの集団に入った末にサークルクラッシュ同好会にも入る」タイプか「他に居場所がないからサークルクラッシュ同好会にも来てみた」タイプに分けられるように思う。前者(多動系)はいろんなことに興味が向いてしまう多動的な人だと思うし、後者(居場所系)はサークルクラッシュ同好会のテーマ(居場所がない、恋愛関係のトラブル、など)に対して切実な人だと思う。両方の要素を持っている人もいる。

 

サークルクラッシュ同好会の女性がIT系に就職することが多い。ここから、おそらく女性的な役割(他人のサポートやケア、対人的な感情労働)が相対的に苦手だったりやりたくなかったりという人がけっこういるのではないかという話になった。ただし女性役割は拒否しても、女性として異性愛的に承認されることを放棄していない人は多いように見える。ちなみにさっきの「多動系/居場所系」の分類で言えば、IT系に就職する女性は多動系に寄っているように思う。

(21時追記:当事者から指摘を受けましたが、IT系においてもサポートやケア、対人的な感情労働はありますし、「IT系に行く人は女性的な役割が苦手」はさすがに根拠に乏しいかもです)

 

サークルクラッシュ同好会の男性は男らしさ規範から逃れたい/逃れている人が多い。「ジェンダーこじらせ」とでも形容できようか。第一に大きな勢力として、恋愛を男性内での競争と捉えてしまい、それにおいて敗北しているという自己認識を抱いている人たちがいる(非モテ系)。また、他にも例えば男性と接しているより女性と接している方がラクだとか、女装願望のある人だとか等々がいる。

 

最後は身内向けな文章でした。

「メンヘラ.jp」の意義と批判まとめ

要約:

1.メンヘラ.jpは「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」に対して、自己表現、承認、情報提供の場になっているので大事。しかもメンヘラ.jpでしか届かない人に届いてるのでは。

でも、三つ批判がある。

2.「メンヘラ」という「つながり」が悪い方向にいく危険性がある。具体的には当事者間のトラブルと、「メンヘラ」のアイデンティティ化・コンテンツ化の問題がある。メンヘラ.jpはそれぞれに対策してるっぽい。

3.メンヘラ.jpは治療を重視しており、治療文化に則っているので、強制的に治療に向かわせる圧力を生む危険性がある。そうならないように、メンヘラ.jpにはバランス感覚が求められる。治療ばかり強調しない、介入しすぎない、多様性を保つ、など。

4.メンヘラ.jpは支援者として信頼に足るのかどうか。やっちゃいけないことやっちゃってる。クラウドファンディングも騙されそうで怖い。誤ったら謝ろう。複数人の運営主体がいるのは良いこと。外部の批判もうまく受け入れられるといいのでは

 

目次:

1.メンヘラ.jpの功績(読むのにかかる時間:9分程度)

活動①:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の自己表現

活動②:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の承認

活動③:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」への情報提供

 

2.「メンヘラ」という「つながり」の危険性(読むのにかかる時間:5分程度)

リスク①:当事者間のトラブル

リスク②:「メンヘラ」のアイデンティティ化・コンテンツ化

 

3.治療文化に伴う優生学的思考(読むのにかかる時間:9分程度)

問題①:「治療(すべき)対象」というレッテルの一般化
問題②:強制的な治療=優生学

 

4.「支援者」としてのメンヘラ.jp(読むのにかかる時間:3分程度)

 

 

 

 この記事ではメンヘラ.jpのやってきた活動とその意義を「メンヘラ」に一家言ある者として紹介します。また、今後のメンヘラ.jpの発展を願い、敢えてメンヘラ.jpへの批判を紹介し、その対策についても考えます。ただし長いです。全部読むのに30分近くかかるかもしれないので、つまみ食いしてくださっても構いません。

 

1.メンヘラ.jpの功績

 メンヘラ.jpとは管理人のわかり手氏によれば、メンヘラ.jpとは「メンタルヘルスに問題を抱える当事者が集うオンラインコミュニティメディア」である。
 私個人はメンヘラ.jpを支持している。支持している理由はこのサイトが社会問題の解決に寄与し、これからも寄与していくと考えているからだ。具体的には「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」をより生きやすくしている。あるいは、わかり手氏の言葉を借りるなら「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の孤立の解消に寄与していると私は考えている。

 

 ただし、メンヘラ.jpの具体的な活動内容を紹介する前に急いで触れておくべきことがある。そもそもなぜ「メンヘラ」という言葉を使うのか?という疑問を持たれた方がいるかもしれない。これは、メンヘラ.jpに対して最もよくある批判だと思われる。「メンヘラ」という言葉を使うことによって、「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」がレッテルを貼られ、攻撃を受けてしまうという問題である。この問題について今回は詳しく扱わないが、私なりに回答しておこう。
 確かに「メンヘラ」という言葉はレッテル貼りとして用いられてきた歴史がある。特に、2006年頃から「メンヘラ」のイメージが「女性」と「境界性パーソナリティ障害」(当時の呼称は「境界性人格障害」)に結びつき始めたという背景がある。2005年頃からの「ヤンデレ」の流行もあり、「メンヘラ」という言葉は恋愛におけるコミュニケーションの特異性(例えば、恋人への過度の依存や、相手の愛情を試すためにわざと恋人を困らせる行動など)やリストカットなどの自傷行為等のイメージを喚起させるようになっていった。
 しかし、次で述べるメンヘラ.jpの活動などもあり、「メンヘラ」という言葉が単なるレッテル貼りとして使われることはこれから減っていくと私は期待している。「メンヘラ」という言葉はむしろ当事者が自身の問題を発見して、当事者たちがつながりを作り、情報を集めるための「フック」になっていくのではないか。特に、メンヘラ.jpの「メンヘラ」の定義は「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」であり、かなり多くの人を含む定義である。にもかかわらず、「これは自分のことだ」と思わせる力が「メンヘラ」という言葉にはあると私は考えている。
 似たような例として「オタク」という言葉について考えてみてほしい。「オタク」という言葉は東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の容疑者が「オタク」であったということからには強いマイナスイメージを持って迎えられ、90年代には「オタクバッシング」の時代があった。しかし、岡田斗司夫大塚英志などの活動から徐々にオタクを肯定的に捉えたり、オタクをアイデンティティとしたりするような方向性が生まれた。そして、2005年頃の「電車男」ブーム頃からオタクは一般に知られるようになり、もはや「オタク」という言葉に強いマイナスイメージは見られない。このように、「メンヘラ」という言葉のイメージも変化していく可能性がある。そこで私は「メンヘラ」という言葉が自身を知るための「フック」となることに期待し、そのような活動にコミットしているのである。この記事を書く理由の一つもそのためである。

 

 以上のことを踏まえた上で、メンヘラ.jpの活動を①②③の3点に分けて、具体的に説明しよう。

 

活動①:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の自己表現

 「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」は自己の問題を表現することを困難に思っている場合が多い。その理由は3点ある。以下ABCで説明する。

 

A.自身の「メンタルヘルスの問題」をうまく言語化できない

 自身のメンタルヘルスの問題を表現するためにはまず、言語化が必要になる。具体的には文章力や、自分の状態をうまく言葉で説明する力である。もっと根底には、自分がどういう状態にあるのかを気づくのが苦手な「鈍感」な人もいることだろう。
 文章が書けなくとも話し言葉でなら自分の問題について語れる、という人はいるだろうが、いずれにせよこういった表現能力がないために自分の問題をうまく表現できない人はいるだろう。
 なお、絵を描くなどの「芸術」分野にあたるものも一種の表現であり、「言語化」と同様に考えることができるが、今回は「言語化」に絞って議論する。

 

B.自己主張できない性格

 言語化する能力があったとしても、なかなか自己主張できないという人もいる。例えば、家庭で自分のわがままを強く叱られ、親の言うことに強く従わされてきた、という人がいるとしよう。そういう人は家庭以外の対人場面でもついつい自分の言いたいことを飲み込んでしまう、ということになりやすいだろう。これが表現できない理由の二つ目である。

 

C.「メンタルヘルスの問題」を話すことによって人間関係に問題が生じてしまう 

 また、言語化の能力があり、言いたいことも言えるとしよう。それでもなお、自身の「メンタルヘルスの問題」を人に話すことによって、その人に拒絶されるということはありうる。
 まずそもそも「メンタルヘルスの問題」によって具体的に人に迷惑をかけてしまって拒絶されるということは社会一般によく見られる現象である。そして、人はそのリスクを予期して、「メンタルヘルスに問題を抱えている」ということだけでその人を拒絶することもある。そのため、自分が「メンタルヘルスの問題」を抱えているということを隠して生活している人もいることだろう。このように、人間関係の問題を回避するために「メンタルヘルスの問題」を表現できない人もいる。

 

 以上ABC3点から、「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」が自己の問題を表現できなくなっていることがある。それに対して、メンヘラ.jpは「メンタルヘルスの問題」を自己表現する場を与えている。この場をうまく活用できる人にとっては、上記BCの問題は基本的には解決する。ただ、Aについては課題が残る。自己の問題をある程度言語化できればメンヘラ.jpの読者投稿を活用することはできるが、うまく言語化できない人には活用が難しい。とはいえ、少なくともBCについてはメンヘラ.jpは自己表現の問題を解決している。
 そして、メンタルヘルスの問題」を抱えた当事者が自己表現をすることは基本的には重要である。メンタルヘルスの問題」が不安やストレスなどに起因する問題であれば、そもそも表現すること自体によってそれらの問題を弱めることができる。また、多くの人は漠然とした不安やストレスよりも、明確な問題の方が耐えられるだろう。そして、病気や障害に限らずとも、そのような表現は自分自身を理解することに繋がりうる。
 そして、自己表現は他者に承認されるための取っかかりになる。このことを次に述べよう。

 

活動②:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の承認

 「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」は自身のメンタルヘルスが問題となっていると同時に、社会的な孤立も問題になっている場合が多い。というのも、メンタルヘルスの問題によってそもそも何かに参加したりコミュニケーションしたりするためのエネルギーがなかったり、他者との不和が生じてしまったりしがちだからである。
 しかしメンヘラ.jpによって、①で述べた自己表現が記事となり(メンヘラ.jpでは「体験談」や「コラム」というカテゴリーの記事になっている)、メンヘラ.jpの閲覧者は記事を読むことだろう。記事にコメントする人なども出てくるだろう。コメントなどがなかったとしても、記事を書いた人にとって「読まれている」という意識を持つことはできる。自己表現はそれ自体重要であるが、それが承認されること(つまり「聞いてくれる人」がいること)で、①で述べたようなメリットはより高まる。また、自己表現を繰り返すことで自分自身のことを説明することもだんだんうまくなっていくだろうから、それによって他者からの承認は得やすくなるだろう。
 また、読者の中には似たような問題を抱えた当事者も多いだろうから、当事者同士が承認し合うことにも繋がるだろう。記事の読み手の視点に立つと「同じことで悩んでいる人がいたんだ」という安心感に繋がる効果や、「なるほど、こういう考え方もあるのか」という自身の考えや状態をよりクリアにする効果が見込める。そして、似たような問題を抱えた当事者は問題を解決するためのヒントを持っている可能性がある。そのことを次に述べよう。
(一方、当事者同士の承認は、2.で述べる「メンヘラのコンテンツ化」問題に繋がってしまうリスクもあるので、それをメンヘラ.jpは回避しようとしている。そのことについては後に述べる)

 

活動③:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」への情報提供

 「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の中には病院に通っている人も多いことだろう。しかし、病院に通うことが金銭的に困難だったり、そもそも病院で受けている治療に対する不信感があったり、病院で受けている治療だけでは自分の悩みが解決しなかったりということもあるだろう。
 メンヘラ.jpではこのような人たちのために、福祉制度や自助団体、支援者団体などの利用方法や様々なライフハックの記事が掲載されている。また、「お悩み相談」という悩みを投稿して、それに他者が答えるサービスがある。これによって、メンタルヘルスに問題を抱える当事者」個人がアクセスできる情報の限界を超えて情報を得ることができるだろう。また、似たような問題を抱えた当事者だからこそ分かる感覚というものもあるだろう。当事者ならではの悩みに対して、同じ目線からの回答を受けることで、問題解決のヒントが得られるかもしれない。
 なお、このように支援を届けるべきなのにもかかわらず支援が届かない人に支援を届けることを「アウトリーチ」という。アウト(外)にリーチ(届ける)ということだ。インターネット上でカジュアルに使われている「メンヘラ」概念は多くの人にとってアクセスしやすい。最初に述べたように、「メンヘラ」という言葉には「これは私のことだ」と思わせるだけのイメージ喚起力がある。そのため、メンヘラ.jpは病院の治療や福祉制度の支援を十分に受けているとは言えない人にまで届くという固有のメリットがある(もちろんそれでも当事者みんなに届くわけではないが、一部の人にであっても届けることは重要である)。この「アウトリーチ」は福祉の分野で主に用いられている言葉だが、福祉的な支援にとって「メンヘラ」という言葉を用いることには「アウトリーチ」としての意義があるのである。

 

 以上三つの活動より、メンヘラ.jpは「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」を生きやすくしている、非常に価値のあるものである。
 しかし、そんなメンヘラ.jpに対してはいくつかの批判がある。その一つは冒頭に紹介した「メンヘラ」というレッテルを貼ることへの問題だが、それ以外にも大きく三つの批判が存在する。これらの批判について検討することはメンヘラ.jpの今後の行く末を考える上で重要なことだと思われる。以下で一つずつ紹介する。

 


2.「メンヘラ」という「つながり」の危険性

 メンヘラ.jpでは、「孤立」が問題視されており、メンタルヘルスに問題を抱える当事者たちがより良い生活を歩むための「つながり作り」が目的とされている。確かにこれは重要なことである。
 しかし、ことメンタルヘルスに問題を抱える当事者たちにおいては、不用意に「つながり」を作ることにリスクが伴うこともある。そのリスクは大きく二つに分けられる。

 

リスク①:当事者間のトラブル

 一つ目のリスクは「当事者間のトラブル」である。メンタルヘルスに問題を抱える当事者たちは対人関係においても問題を抱えている傾向が強いと考えられる。よって、それらの当事者たちが「つながり」を作ってしまうと、結果的にトラブルに繋がってしまうことが通常よりも多いことが予想される。たとえ当事者の一方がトラブルを起こすような人ではなかったとしても、その人が別の当事者に対して過剰に気を使って無理をしてしまい、余計にメンタルヘルスの問題を悪化させるなどということもありうるだろう。
 また、これは同じ「メンヘラ」という言葉でメンタルヘルスに問題を抱える当事者たちを括っていることの弱点であると言えるかもしれない。当事者たちはそれぞれ事情が異なる他者に対して想像が及ばず(あるいは想像力を働かせる余裕もなく)、お互いに攻撃的になってしまうということはありうるだろう。仮に、お互いに事情が似ていたとしても「同族嫌悪」が起こる可能性はある。例えば、似た事情の相手に対しては「私にできたんだからあなたにもできるはず」といった考えが働きやすく、自分と同等の努力をできない人に対してキツく当たってしまうなどといった事態が考えられる。


 このようなリスクがあるものの、おそらくメンヘラ.jpはそのリスクを認識していると考えられる。というのも、メンヘラ.jpの提供しているサービスにおいては、当事者同士の個人的な繋がりを作ることを推奨しているわけではない。あくまでメンヘラ.jp上において、読者投稿やお悩み相談などを通じてコミュニケーションが取られるだけである。よって、以上のような当事者間のトラブルが起こるには、当事者が自発的に他の当事者と個人的繋がりを作る必要がある。メンヘラ.jpの存在がそのような個人的繋がりを促進している側面はあるかもしれないが、積極的に推奨されているわけではない。そのため、当事者間の対人関係におけるトラブルはメンヘラ.jpを通じては起こりにくいとは考えられる。むしろ、当事者と支援者とのつながりや、支援者を媒介とした当事者間のつながりといった、より安全なつながりが作られていると考えられる(ただし、この支援者も万能というわけではない。「支援者」の問題については4.で述べよう)。
 また、以上のリスクを回避するために、自他の境界をある程度明確に設定し、「付き合えない相手とは無理に付き合わない」という態度があると良いかもしれない。他人を介在させず自己肯定する、良い意味での「孤独」が必要なときもあるだろう。しかし、そのような態度を選択することが苦手で、ついつい他人に巻き込まれたり、他人を操作したりする人もいる。これは次の②の論点にも関わってくる。

 

リスク②:「メンヘラ」のアイデンティティ化・コンテンツ化

 二つ目のリスクは「メンヘラのアイデンティティ化・コンテンツ化」である。まず、「メンヘラ」当事者たちがつながりを作ることで、より「メンヘラ」としてのアイデンティティを強化し、それに依存してしまう可能性がある。それによって例えば、他の当事者の自傷行為を真似したり、「メンヘラ」という言葉のイメージに引っ張られて自身の状態をちゃんと把握できなかったり(素人判断で誤った病名を自分に当てはめるなど)、治療を放棄したりといったことが起こりうるだろう。メンタルヘルスの問題の治療を目的とした場合には、これらは治療を阻害することになる。また、治療を目的としなかったとしても、「メンヘラ」という言葉のパワーによって個人の行為の自由が奪われていること自体が問題だと言えるかもしれない。
 また、「メンヘラ」を強いアイデンティティにすると、それによって他人からの承認を得ようという動きも出てくる。それが「コンテンツ化」の問題である。メンタルヘルスの問題は場合によっては面白おかしく、魅力的に語ることができる。しかし、それが不幸自慢の形を取り、「誰が一番不幸なのか」という競争がエスカレートしていくこともある。自らをコンテンツ化するために自ら不幸になるといったことが起こるのである。この不幸が最終的に自殺にまで至るかどうかは分からないが、「メンヘラ」という分かりやすい「コンテンツ」としてのイメージをアイデンティティとしてしまうことで、より大きな問題を抱えることになってしまうことは十分にありうるだろう。


 このようなリスクを避けるためであろう、メンヘラ.jpでは「①標準的な医療措置を否定するようなコンテンツ ②自傷行為、自殺、犯罪などを過度に奨励するようなコンテンツ ③病気や障害を過度に「魅力」として扱うようなコンテンツ」の掲載を断っている。そして、③に関してはメンタルヘルスの問題を肯定的に評価するのではなく、「受け入れる」ことを推奨している。よって、「メンヘラ」のアイデンティティ化・コンテンツ化のリスクは抑えられている(ちなみに私見ではアイデンティティ化・コンテンツ化の問題は男女で現れ方が明確に異なるように感じるが、ここでは掘り下げない)。ただし、これらの文言に代表されるメンヘラ.jp全体の方針が更なる批判を生んでいる。それが次の批判である。

 

hyogokurumi.hatenablog.com

(2.はこの記事を参考にしました)

 

3.治療文化に伴う優生学的思考


 以下はこの記事

sutaro.hatenablog.jp

に基づいて批判を紹介する。必要なはずの論点が拾えていなかったり誤解があったりする場合は私の責任である(ので、その場合は私に指摘していただけると幸いです)。

 

 基本的に、メンヘラ.jpではメンタルヘルスに問題を抱える当事者の治療を推奨している。とりわけ、この「治療文化批判」が行われる以前においては、メンヘラ.jpで掲載を断っているものの③では「病気や障害を「魅力」として扱うような、治療プロセスにとって有害なコンテンツも掲載できません」という、やや強い文言が書かれていた。その他、掲載されている記事には治療を推奨するものがいくつも見られる。以上のことから先取りして書いておくと、メンヘラ.jpは治療文化に則っている。
 治療文化とは「精神疾患発達障害を正常からはみ出た状態とし、治療(すべき)対象とするようなイデオロギー」を指す。しかし、これだけだと何が問題なのか分からないので、記事にならい、治療対象とされる人の問題解決の方法について三つのアプローチを紹介する。これはメンヘラ.jpが対象とする「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」にも適用できるので適用して考えてみよう。なお、この三つのアプローチについては

岡田有司、2015、「発達障害生徒における学校不適応の理解と対応―特性論,適合論,構築論の視点から」

https://takachiho.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=86&item_no=1&page_id=13&block_id=21


が元となっている。

 

アプローチ①:特性論

 これは、メンタルヘルスの問題の原因が、当事者の特性にあると考えるものである。そして、その特性を変化させることによって問題解決するというアプローチである。つまり、基本的には当事者を治療することを指していると言っていいだろう。

 

アプローチ②:適合論
 これは、メンタルヘルスの問題の原因が、当事者を取り巻く環境にあると考えるものである。そして、その環境を変化させることによって環境を当事者に適合させるというアプローチである。これは具体的にはいろいろ考えられる。当事者の利用できる福祉制度や医療制度などを充実させたり、当事者にとって居心地の良い居場所を作ったり、周囲が当事者に気遣ったりといったところだろうか。

 

アプローチ③:構築論
 これは、メンタルヘルスの問題の原因が、社会全体の価値観やその集団の価値観や周囲の人間のコミュニケーションなどによって「問題」として構築されていることにあると考えるものである。そして、当時者を取り巻く人々の価値観を変化させることで「メンタルヘルスの問題」とされていたものはそもそも問題ではないというところに持っていくアプローチである。というよりもより正確に言えば、それが「問題」なのかどうかという定義は外から決められるものではなく、当事者が問題だと感じるかどうかにかかっているというところに持っていく。

 

 治療文化は以上の三つのアプローチの内、構築論に対立し、特性論(部分的には適合論)に依拠する。それゆえ、この治療文化の問題点は、根底に優生学的思想があることである。どういうことかというと、治療文化は「正常からはみ出た、治療(すべき)対象」を当事者の外の特権的な位置から設定し、強制的に治療=根絶の対象にしているということである。
 よって、メンヘラ.jpが治療文化に則っていることから以下二つの問題が生じる。

 

問題①:「治療(すべき)対象」というレッテルの一般化

 一つは「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」が「治療(すべき)対象」であるがゆえに強制的に「正常からはみ出た」存在にされてしまうということである。通常「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」や「メンヘラ」という言葉には、医師からの診断を受けたわけでもないので「治療(すべき)対象である」という意味合いはない。にもかかわらず、「メンヘラ」という言葉がその対象範囲を広げた上で、従来の単純なレッテル貼りの道具として以上に、強いレッテル(「治療」すべき病気や障害)として機能し、当事者が自己肯定感を失ってしまうという問題である。

 

問題②:強制的な治療=優生学

 もう一つの問題は、強制的な「治療」は優生学的なジェノサイドを帰結するということである。例えば、「治療を受けたい人が治療を受け、障害や病気がなくなる」というのならば良いだろう。しかし、実のところ障害や病気にはしばしばメリットが伴うことがある。古くから「疾病利得」という言葉もあるし、発達障害の人間が特定の能力に優れているというパターンや、特定のパーソナリティ障害の人が魅力的なコミュニケーションをとるといったことはよく見られることである。いや、そもそも外から見て理由も分からないのが本人にとってはこの病気・障害が自分の人生や世界観にとってかけがえのない重要なものなのだと主張する場合もあるだろう。よって「治療を受けたくない人」も存在するのである。そのような人の障害や病気を外からの強制的な介入によって根絶することは許されない、という問題である。


 以上の二つの問題は、メンヘラ.jpの活動に再考を促す非常に根本的なものだと思われる。メンヘラ.jpとしてはこれらの問題をどのように避ければいいのだろうか。以下、メンヘラ.jpの立場に立って考えてみよう。結論から言えば、適度なバランス感覚を持って「程度」を定めることが必要だと思われる。具体的には以下①②③④の4つの「程度」について検討しよう。

 

程度①:「治療」を強調する程度

 まず、性急な治療だけが唯一の解答ではないということは言えるだろう。例えば、ADHDの治療に用いられているコンサータストラテラといった薬があるが、それを用いると創造性が失われてしまうために使わないようにしている、ということをADHDの当事者から聞いたことがある。薬による治療が必ずしも良いというわけではないようだ。これは一つの例だが、メンヘラ.jpにとっては治療以外の選択肢や「そのままでもいい」的な言説をある程度提示することが重要だろう。それによって、「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」=「メンヘラ」への苛烈なレッテル貼りは防げる側面があるだろうし、治療がジェノサイドにまで行き着くことを防げるだろう。
 (なお、批判とは直接関係ないが、治療以外の選択肢を提示することは、医療の権力を相対化できるというメリットもある。現代日本において、医療の権力が強いことによって問題が生じている側面は無視できない。例えば、製薬会社で開発された薬が存在するがゆえに特定の病気を「流行」させて、その薬を使える機会を増やす、といったことが起きている可能性が考えられる)

 

程度②:介入の程度

 先ほど「治療を受けたくない人」も存在するということを述べた。この選択を尊重することはリベラリズムという政治思想における「愚行権」を尊重することに当たるだろう(「愚行」という言葉を用いること自体がそもそもおこがましいのだが)。一方で、自身がどのような行動をとれば幸福に繋がるかということを自身では判断できない者もいる(典型的には精神疾患を抱えた人や小さな子どもが挙げられる)。そこで治療を勧めるなどの一定の介入が必要になってくる。メンヘラ.jpに掲載できないものを挙げた文言はその介入の一例である。介入がなければ、「メンヘラのコンテンツ化・アイデンティティ化」という自ら不幸を招く結果が目に見えているからだ。
 よって例えば、基本的には「よりよい選択肢」をメンヘラ.jpの側が提示するが、最終的に選ぶ権利は当事者の側にある、選択を強制はしない、という程度に抑えておくのが穏当なように思われる。しかし、どうしても強制せざるを得ない場面が出てきたり、強制していないつもりでも当事者には強制のように映ったり、といった問題はありうるだろう。更に、いったい何が「不幸」なのか、何が「よりよい選択肢」なのか、それを判断する権利がメンヘラ.jpの側にあるのか、それを推し進めるとやっぱり優生学なのではないかという問題がつきまとう。そこでメンヘラ.jpという「支援者」が信頼に値するのかという論点は重要になってくるだろう。これについては4.で述べる。

 

程度③:影響力の程度

 メンヘラ.jpは大きな影響力を持つようになってきたが、今のところその影響力は「メンタルヘルスに問題を抱えた当事者」の一部に対してのものに留まっているだろう。しかし、このまま影響力が拡大していくと、それこそメンヘラ.jpの提示する「治療」が当事者にとって絶対的なものとして映ってしまう可能性はある。また、メンヘラ.jpのサービスが肌に合わない当事者がいることも想像できる。そういう人たちの「他の選択肢」は確保する必要があるだろう。
 そこでメンヘラ.jpにできることは、影響力を限定的なものに抑えるというよりかは、メンヘラ.jpの方から他の選択肢を提示するということだと思われる。その意味で、全国の自助グループ、支援者団体等のデータベースを作るというクラウドファンディングには強い意義があるだろう。このデータベースにおいてはメンヘラ.jpが持っているバイアスがかかっておらず、多様性を確保できているかどうかのチェックが今後必要になってくる。私もそのチェックには協力したい。

 

程度④:「メンヘラ」定義の程度

 メンヘラ.jpにおいては「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」=「メンヘラ」と定義されていると見てよいだろう。この定義は運用次第ではかなり広範囲の人を含めることができてしまう。それによって、レッテル貼りが横行したり、逆に「自分はメンヘラではない」という反発があったりといった問題が想定できる。メンヘラ.jpにおいては「みんなメンヘラでみんなしんどいんだ、だから無理しなくていい」ということが語られているように私には見える。この語りには人を安心させる効果もあるだろうが、「みんなメンヘラ」によって個別の問題が見えなくなっている側面はあるかもしれない。これは、2.のリスク②:「メンヘラ」のアイデンティティ化・コンテンツ化で述べたような、「メンヘラ」という言葉のイメージに引っ張られて自身の状態をちゃんと把握できなくなってしまうという問題でもある。
 よって、「みんなメンヘラ」にも再考が必要な可能性がある。例えば「メンヘラ」を程度問題や状態として捉えて考えてみるだとか、同じ「メンヘラ」でも個別の症状やジェンダーによって異なる捉え方をしてみるだとか、多様性・個別性の確保が「メンヘラ」の定義には求められるだろう。

 

 以上四つの「程度」について、メンヘラ.jpにはバランス感覚が求められると私は考える。それではメンヘラ.jpがそのようなバランス感覚を持った存在なのかどうか、これが最後の批判である。

 

4.「支援者」としてのメンヘラ.jp

 メンヘラ.jpが「支援者」として信頼に値するかどうか。これは根本的に難しい問題である。というのも、1.の活動③:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」への情報提供 で述べたように、メンヘラ.jpにはアウトリーチ機能(支援が届きにくい人に届く機能)があると私は考えている。つまり、活動が「まとも」すぎるとやってこない人も、良い意味で「怪しい」からこそやってくるということがありうるのである。そこでは「メンヘラ」という言葉に対する偏見のようなものも逆用されている。
 実際、メンヘラ.jpの「まとも」ではない部分として、運営主体もまた「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」であるということが挙げられる。しかし、だからこそ当事者が共感を持ってメンヘラ.jpを利用する、そういったこともきっと起きていることであろう。
 「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」であるかどうかは措くとしても、実際にわかり手氏がTwitter上で決して看過できない攻撃をされたりしたりしているのを私は目撃している。Twitter上で執拗に攻撃されることによって反撃したくなる気持ちは分かる。しかし、その中には恣意的で問題のある(ように私には見える)線引きを行って、攻撃している例があった。これでは、メンヘラ.jpが「支援者」としてバランス感覚を持って、適切な線引きをしていけるかどうかには一抹の不安を覚えてしまう。
 また、クラウドファンディングに関してもお金の集め方への不信から、でき上がっていくデータベースも「騙されやすい人達の情報集」になってしまうという批判もある。

hyogokurumi.hatenablog.com


これは確かに一理ある批判である。


 しかし、1.で述べたようなメンヘラ.jpの功績はこれらの問題を上回る価値があると私は考えている。そこで、メンヘラ.jpの活動の中止を求めるのではなく、メンヘラ.jpがこれらの問題をどのように回避できるかをやはり考えたいと思う。
 まず、支援者として「まとも」かどうかという問題だが、どんなに「まとも」な人間であっても誤りは犯してしまうものだろう。問題は、その誤りを謝れるかどうか、反省できるかどうかだと私は考えている。まず、自分で自分の間違いを認め、謝罪ができるということ、それがメンヘラ.jpの運営には求められるように思う。
 しかし、何が「間違い」なのかといったことすら自分一人ではなかなか判断できないだろう。また、一度してしまった過ちや攻撃による傷つきは取り返しがつかない部分があるかもしれない。だからこそ事前にそういった誤るリスクを減らす努力もまた必要である。そこで、メンヘラ.jpの運営事情を見てみると、どうやら複数の主体によって運営されているらしい。わかり手氏に管理運営が一極集中するという事態は避けられているようだ。メンヘラ.jp内部において良い意味で批判的にメンヘラ.jpを運営し、慎重にリスクを避けられる人間がいることに期待している。
 また、外部の人間も批判的に機能する可能性はある。今回私は3つほどの批判を紹介したが、外部からの批判が良い意味で機能することで、問題が生じるのを慎重に避け、かつ、メンヘラ.jpにしかできないことを最大限やっていけると良いと思う。私は個人的にはメンヘラ.jpの活動を応援している。問題があるときはちゃんと問題を指摘したいが、建設的な批判者としてメンヘラ.jpの活動を見守っていきたい。

恋愛をめぐる「許可主義」について(サークルクラッシュ同好会会誌第六号『他の男とはセックスしてるクセに俺にはヤらせてくれない女が憎い』より)

ホリィ・センです。

サークルクラッシュ同好会の会誌最新号(第六号)を二つの場所で売ります↓

コミックマーケット93(東京ビッグサイト)の三日目(12月31日(日)10~16時)の東6-ニ-19bにて

②第二回文学フリマ京都(京都市勧業館みやこめっせ」1F 第二展示場C・D、2018年1月21日(日)11~16時)にて

 

第六号は特集「こじらせ男子の自分語り」っていうことで僕も相変わらず自分語りしてます。

今回はせっかくなので、一部公開して販促しようかなと思いました。内容は冒頭の主に”恋愛をめぐる「許可主義」について”の部分です(ちょっと自分語りも入っちゃってますが)。

以下です(読むのにかかる時間:7分ぐらい)。

 

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『他の男とはセックスしてるクセに俺にはヤらせてくれない女が憎い』

 

先に言っとく。この文章は露悪的で差別的。

 

「ヤれそうでヤれない女」とは

 まずはサークルクラッシュの話から始めよう。(女性の)クラッシャーだとされる人は往々にして「ワンチャンありそう感」や「俺でもいけそう感」があるのだと言われている(主に僕が言っている)。恋愛経験に乏しいがゆえにクラッシャられになってしまう男たちは、圧倒的な高嶺の花には手を出せない。共通の趣味を持っていたり、下ネタに付き合ってくれたりといった「自分と同じ目線で喋ってくれる」人を好きになるのだ。それどころか「わざわざ俺の趣味に付き合ってくれるこの子は」、あるいは「運命的にも俺と嗜好やノリが一致しているこの子は」、「「俺のことが好きなのかもしれない」」というわけだ。とんだ勘違いなのだが、そのような恋愛感情を錯覚させてしまうのが「ワンチャンありそう感」や「俺でもいけそう感」ということにしておいてほしい。

 さて、時計の針を進めてサークルクラッシュまでいったとすると、実際には恋愛感情などありはしない。クラッシャられ男からの好意を集めることに快楽をおぼえていたかもしれないが、性的な関係にまで辿り着くことはあまりない。あったとしてもせいぜい一回きりとかだろう。それと似た話で、「ヤれそうでヤれない女がいる。そういう女が一番タチが悪いんだ」という言説をたまにネット上で観測することがある。いわゆるミソジニー女性嫌悪)だ。はい、サークルクラッシュの話はもう終わりです。

 

「レイプ」を巡る男女のディスコミュニケーション

 なるほどそういう「ヤれそうでヤれない女」は、イイカンジの男女(のように見える)関係になっておきながら、実際にはセックスができないわけだ。そこで、もし強引に性行為を迫り、断れない状況に追い込んだならば「レイプ」とみなされかねないだろう。これはなかなか難しい問題だ。男性側の立場に立てば「たとえ合意があったとしても、女が「レイプだ」と言い張ればそれはレイプになってしまう。イケメンだったら無罪なんだろ? 女のお気持ち一つでその判定は覆されてしまう」という感じだ。一方で女性側の立場に立てば、そういう被害に遭ったことを誰かに言うこと自体がうまくできずにトラウマ化する。誰かに言えたとしても「アンタが無防備だったんだ」と非難されかねない。そもそも、レイプがあったことを(裁判等で)立証する段階で自身の被害経験を語らざるを得ないという困難さがある。結局のところ訴訟などはせずに泣き寝入り、ということがほとんどだろう。レイプやセクハラといった問題についてはこのように男女の間で埋めがたいミゾがある。

 

セックス同意書が明らかにする「許可主義」の倫理

 他にも「男性のレイプ被害は訴え自体受け入れてもらえない」などの問題はあるが、そこまでは踏み込まない。ともかく以上のような状況から一部では「許可主義」とも言える言説が流行している。「嫌よ嫌よも好きのうち」なんてことはなく、Yes means yes、No means no。つまり性行為をするには事前に許可が必要だという考え方だ(ちなみにこの言葉は、ブロガーの三沢文也氏の「童貞こじらせbarに行ってきたよ…はぁ~」(2017年4月1日)という記事にある「許可の理論」という言葉を参考にしている)。

 この許可主義についてはサークラ会誌の第四号でひでシス氏が「セックス同意書」として(その問題点も含めて)象徴的に描き出した。露悪的なロマンチストなのを承知で敢えて言えば、恋愛は「察し」の文化に支えられている部分がある。言外のメッセージを読み取り合い、発し合うことによって快楽を高めていくのだ(少なくともそういうコミュニケーションをやっているカップルは多いように思う)。この領域ではアサーション、すなわち「相手の意見を聞きつつ、こちらの意見もちゃんと主張する」といったことは成り立ちにくい。もちろん、言葉によって合意形成をしながら仲を深めていくカップルがいるのは否定しないし、男女双方に「許可主義」を支持する人達はいる。言外のメッセージを発するのも読み取るのも著しく苦手だという人は、リスクを冒すぐらいなら「恋愛的コミュニケーション」を断念するだろう。

 

「許可主義」では自由恋愛社会から排除される

 しかし、問題なのはこの社会が自由恋愛社会であることである。近年、恋愛の機会は飛躍的に向上し、様々な異性と出会えるようになった(簡単のため、ここではヘテロセクシャルを前提としておく)。にもかかわらず、交際経験も性経験も結婚も割合的には低下してきている。未婚の理由を聞けば「出会いがない」が最も多い(気になる人は「出生動向基本調査」でググろう)。これはなぜか。実のところ「自由恋愛」は一見自由に恋愛できるように見えて、不自由を強いられているからだ。「恋愛市場」という言葉もあるとおり、恋愛は市場競争なのだ。美貌や経済力、コミュニケーション能力(?)のある人間が勝ち上がっていく。もちろんそれぞれの人間の好みにはバラつきはあるのだが、結婚相手の選び方は慎重にならざるを得ない。みんなが「魅力のある」人間を選ぼうとする結果、「選ばれない人間」が多数出てくる。たとえ選べたとしても「もっといい人がいるかもしれない」と、結婚は躊躇しがちなのである。

 まあ結婚の話まではする必要はなかったが、いずれにせよそんな状況なので、恋愛や結婚は「めんどくさい」、「コスパが悪い」ものとして扱われてきている。娯楽が多様化したり、相変わらず労働時間が長かったりする中では恋愛や結婚をしているリソースはないのだ。もし恋愛や結婚をするとしたら(みんなの恋愛相手への要求水準が高い限り)それなりのリソースは割く必要が出てくる。そこで「許可主義」は負けてしまうのだ。なんでもかんでも言葉にして確認してしまうがゆえに、相手の求めているものを読み取ろうという努力が(あるいは才能が)ない人間は恋愛市場からは淘汰されてしまう。許可主義的恋愛を良しとする共同体でも新たにできれば状況は変わるかもしれないが、それには原理的な不可能性がある。というのはやはり「許可」なのであって、これは女性から男性に対して与える「許可」なのだ。許可主義によって男性が恋愛市場に参入できても、女性の状況は変わらない。許可主義などなくとも女性は今までどおり恋愛をやっていけるのだ(許可主義によって「魅力的な」男性が発掘される可能性がないとは言えないが、それも少数だろう)。おそらくこの方向性で必要なのは「合意主義」であって、しかも恋愛・結婚市場から相当に淘汰されることによって要求水準が下がっている女性が多数発掘されねばならない。しかし、おそらくそういう女性は「恋愛から降りている」ように僕には見える。

 勢いでマクロな話を語ってしまった。恋愛・結婚市場についてはかなり大ざっぱな見立てなので間違っているところもある気がする。反論があればぜひ頂戴したい。

 

僕は「イチャイチャ」がしたい(でもできない)

 それはさておき、そろそろ自分の話をしよう。僕自身も「許可主義」に少なからず影響を受けてきた。具体的には、恋愛において「告白」をある程度重視してきたのである。告白という儀礼、はたまた「付き合う」とはどういうことか。これについてはサークラ会誌第四号ですりっぱ氏の考察があるのだが、僕の場合「性的な行為をしていいのかどうか?」を「告白」に仮託してきた。何なら口が滑って告白時に「君とはセックスとかもしたいと思っている」みたいなことを口走った記憶もある(許可主義の立場から見た「誠意」なのだが、クソ)。この自分の経験に依拠すると、許可主義が何のために必要なのかがはっきりする。自分の性的な行為がレイプになってほしくない、はたまた相手を傷つけたくないというのももちろんあるのだが、何より「嫌われたくない」という理由からだ。しかしまあ、行為の意図せざる結果として、告白によって気まずくなってしまうわけだが(「嫌われる」は回避できてるよ!)。

 ところで僕の言う「性的な行為」はいわゆる狭義の性行為、性器の挿入を意味するわけではない。それも含まれるのだが、僕が特にしたいのは「イチャイチャ」なのだ。僕は恋愛のあの雰囲気がたまらなく好きだ。好きがゆえにハードルが高い。(相手からすれば大したことないのもしれないが)僕からすればそれは性行為である。僕は犬や猫、あるいは子どもを、我を忘れて可愛がれる人が信じられない。自意識はないのだろうか。そんな無防備な感情を僕も出したい。僕が唯一そういう感情を出せる形式、それが「付き合っている」ということなのだ。

 僕は「手を繋ぐのとセックスは一緒だ」と思っている。というのも、「手を繋ぐ」は恋愛の「あの雰囲気」を近似的に表現してくれているからだ。下品にも僕が手を繋いだだけで勃起してしまう理由はそういうところにある。そんな危険な(?)行為を、とても「許可」なくしてできたもんじゃあない。

 まあそれでも僕は幸い、勝率は高くないもののバカの一念で告白を成功させてきたことはある。というのもサークラ会誌第五号でSkype掲示板を駆使してきたを述べたが、Skypeによって作り出される「ふたりの空間」においては、わざわざ告白をせずともそれなりの「イチャイチャ」ができたからだ。

 一方で僕は、三人以上の空間においては親密な女性に対して氷のように冷たくなってしまうところがある。親密な女性Aさんを(好意があるからこそ)過剰に意識してしまって、イチャイチャできないどころかちょっと打ち解けたコミュニケーションすらできなくなってしまうのだ。プライベートな好意を他の人間に悟られるのは恥ずかしいし、Aさんは僕と親密な関係であることを第三者に見られるのは困るのではないか? と考えすぎてしまうからだ。そこではやっぱり「許可」がほしい。僕とAさんは公認のカップル、そういう契約がみんなにも知られていれば、まだ多少は気兼ねなく親密でいれるかもしれないのに。まあ実際よくあるパターンとしては、Aさんとは単にある程度親密だというだけで、付き合っているわけでもなんでもないのだが。しかし「親密でいるための許可」を取ることは難しい。「付き合うための許可」としての告白ではなく、「親密でいるための許可」としての50%告白みたいなものがあればいいのだが、という思考実験をしてしまう。こう考えると、人間関係が苦手な人が「友だちだよね?」という確認をするのは、「友だちであることを許可してください」ということなのだろうと思う。

 

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いかがでしたでしょうか。これで全体の1/4ぐらいです。

僕の文章以外にもいろいろと面白い文章や漫画があるのでぜひぜひ買っていただけると幸いです。詳しい目次はこちらに載ってます。それでは。

『「意識高い系」の研究』古谷経衡 読書メモ

ねちっこい文体でひたすら承認欲求とルサンチマンの話をする本といった感じ。森見登美彦みたいな文体だ(言いすぎか)。

 

土着性や親からの相続(とりわけ不動産)の差を根拠に、「リア充=階級」であるという図式を提出している。そして、リア充とは「彼女がいること」などではなく、マイルドヤンキーや大学の内部進学者、スクールカースト上位者などのイメージなのだと。
「上京」的な都会への移動は過去の話で、東京圏などでも6割7割は地元民なのだということを統計で示している。これはなるほど。

 

→しかし、「スクールカースト上位」はその場のコミュニケーションの問題であって、階級ではないのでは……。「容姿や社交性の多寡」で説明しているが……。

一応、内部進学者は受験に追われない分、社交にかけられる時間が長いだとか、「ジモティー」は地元で人間関係の地盤を維持できるだとかいう説明がある。ブルデューの再生産論みたいな話だが、ブルデューほど説得力はない。

古谷さん自身「地方上洛組の意識高い系」だったと言っているように、(古谷さんが成り上がったのであれば)「成り上がり」は十分に起こりうるのではないか。「階級」のように固定的に捉えるのは一面的すぎるきらいがある。

 

意識高い系の二分類

地方上洛組→グレートリセット(大学デビュー)を狙うが、かけられる時間が少ない
在地下克上組→高度化(社会的起業やマイナージャンル)によってスクールカースト上位層を避ける

 

→上位層、中塗層、下位層という三分類をしていたが、スクールカースト論の語彙で言えば、これは「Bクラス」の問題と言える。

つまり、Bクラスが一番ルサンチマンを感じやすいし、頑張る動機付けがあるということ(Aクラスは不満を持たないし、Cクラスは諦観に至る、的な)。

となると、社会運動的なものに走っている僕自身も意識高い系と言える。あるいは意識高い系の機能的等価物か。

Bクラス的な自意識やルサンチマンを抱えた人がどのように発達していくのかは面白い問題だ。過去だったらまた別の発達の仕方があっただろうし(例えば、自己啓発セミナーはオウム以前もっと流行ってた)。

 

「高次の大義」と「低次の欲望」

あらゆる現象について、「抽象的な高次の大義」によって「具体的な低次の欲望」を隠蔽しているという論を展開していく。セックスに至るためには最初からそういう欲望を表明するんじゃなくて、まずは別の大義名分を掲げていくのと同様。具体例は下の方に示す。

 

社会学でいう「動機の語彙」論みたいなもんか。ちょっとズレるけど顕在的機能(行為者が意図している機能)と潜在的機能(行為者が意図していない機能)とも似てる。

「高次の大義」は抽象化されたリア充像に合致する。「低次の欲望」は具体的=グロテスクなので見ないようにする。コラムではご飯の例がいくつか挙げられていて、意識高い系は鍋の雑炊やシメのラーメンを食べないという話をしている。あと食べ放題→バイキング、甘いもの→スイーツ、喫茶店→カフェ的な言い換えにも言及している、なるほど。

その意味では意識高い系はコスパ厨の対義語なのかもしれない。あるいは、コスパ厨的な欲望を隠蔽している。

精神分析的に言えば、持っている欲望がグロテスクであればあるほど、動機の語彙は反動形成的に高次化・抽象化するのだろう。家庭では暴力的で幼稚な人が公の場では高潔に振舞うみたいなのと一緒。

 

また、意識高い系が具体的=グロテスクなものを避けるのは「傷つきたくない」という心ゆえだという旨のことも書かれている。

おそらく「めんどくさい」という心にも繋がっている。『恋愛しない若者たち』(牛窪恵)では「恋愛がめんどくさい若者」のことが書かれていたが、「めんどくさい」という意識は近年、社会に蔓延しているのだろうか。蔓延しているのだとしたらそれはいかにして蔓延したのだろうか、気になる。

 

以下この図式の具体例。
例:ハロウィンにおける仮装は欲望の隠蔽

 

例:「自分の写っている写真」はコペルニクス的転回だった。記録が目的ではなく「○○をしている自分」が目的
しかもこれは自撮りではなく、「他撮りに自分が写り込んでいる」という状態。

 

→友人の言っていた明るい自撮り/暗い自撮り の二分類を思い出す。前者はフェイスブック・インスタ的なキラキラしたやつで、後者はツイッターとかで黒髪ロングの人が承認欲求的に自撮りするみたいなやつを想像していただければ。この本で言ってるのは「明るい自撮り」の方だろう。「明るい自撮り」はそもそも「自撮り」ですらない場合も多いなそういえば。
SNOW以降はまたそのへんの布置が変わっただろうけど。

 

例:本来インストゥルメンタルであるはずのセミナーなどへの参加行為がコンサマトリー化(参加自体が目的化)している。「参加しているぞ」アピールをSNSに挙げるのが真の目的になっている。

例えば夏期講習(極めてインストゥルメンタルな行為)で自撮りする奴はおらんやろ、ということ

 


その他

意識高い系コミュニティの駄サイクル性を指摘していた。せやな。

意識高い系と意識高い人は違う、後者は結果を残す、という話をしていた。「私は嫉妬を隠さないぞ!」という「自覚しているという倫理」みたいなものを書いてた。まあこういう本出す人はそう言うよね。

 

三章の意識高い系列伝では、青木大和、愛国女子、安藤美冬、ばびろんまつこを引き合いに出していた。古谷さんは「彼らは全員僕の分身のようなものだ」と自戒を込めていたものの、結局これは個人攻撃にしか見えんし下品だなあ。まあいいけど。
ただ、古谷さんの図式にぴったり当てはまってるのはばびろんまつこだけな気がした……。そもそも有名な人を引き合いに出すとある程度の成功者であることは否めないし、「意識高い人」なんじゃないのかと。
青木大和(+Tehu)と奥田愛基を対比して後者を褒めてたけど、そんなに本質的な違いがあるのだろうか。具体的に政治にコミットしている人が偉いんだ、っていうのはどうなんだろう。
あとTehuくんを兵庫からの地方上洛組としていたけど、灘だしなあ。

 

この本の図式は多少は見通しがよくなるけど、あんまり万能ではない。あくまで一つの見方として使えるという程度だろう。
あと男女一緒くたに語られていたのは個人的には不満。「傷つきたくない」とか「承認欲求」とかはジェンダー的な差異がどうしても出てくるところだと思う。


本以外の感想

サブカルチャーの引用の仕方と言い、「地方上洛組」の立命館出身といい、ルサンチマンの取り扱い方といい、宇野常寛さんを思い起こさせる感じだ。宇野さんは78年生まれ、古谷さんは82年生まれかー。
こういうルサンチマン論や承認欲求論の系譜を描くことは僕の課題なのかもしれない。歳取って、30歳過ぎぐらいになったらこういう論壇から撤退していくのが普通っぽいし。今しかできない仕事かもしれないなあと。

僕の人生を大きく変えたメンヘラ神との思い出

 サークラアドベントカレンダー3日目、ホリィ・センです。
 「こじらせ自分語り」がテーマだそうで、僕の中でこじらせの定義は「他者にあまり理解されにくい複雑なこだわり」みたいな感じですかね。と言っても、今回はそういうテーマに回収されるのか微妙です。今回はメンヘラ神と名乗っていた女性を巡って2013年にあった出来事と、それについて僕が何を思ったかを書こうと思います。


はじめに

 文脈を知らない人のためにも説明します。2014年2月にLINEで自殺教唆した人間が逮捕されたというニュースがありました。それによって話題が掘り返されてしまったのですが、その自殺した人間がメンヘラ神でした。先に言っておくと、彼女の自殺の動機や原因は僕にも分かりません。彼女は精神疾患を抱えていましたし、その「自殺教唆」のようなものが決定的な自殺の原因になったかと言われればそうではないと思っています。


 そのニュースがあって、誰が作ったのか分かりませんが「電子の海を揺蕩うメンヘラ神」(https://twitter.com/Q_sai__)というbotができました。彼女が使っていたアイコンのままで彼女のネタツイートの一部が抜粋されていますので、見れば大体の雰囲気が掴めると思います。

 

 メンヘラ神は「メンヘラ」という概念を用いたパフォーマンスにおいて伝説的な人でした。リストカットオーバードーズ、自殺未遂や恋愛のイザコザなどをTwitterやブログに投稿し、その自意識についての巧みな文章力もあって多くのフォロワーを獲得していました。

 

 それもインターネット上のパフォーマンスでとどまるのではなく、オフ会なども何度か開かれており、活動的な人でした。2013年11月の第十七回文学フリマで頒布された『メンヘラリティ・スカイ』という同人誌も話題になりましたし、実際にメンヘラ神に会ったことのある人もそれなりの数いるはずです。

 

 そんなメンヘラ神と僕は個人的な関わりを持っていました。いろいろな気持ちがあってインターネット上で語るのは控えてきましたが、もう彼女が亡くなってから4年も経ったわけですから、そろそろちゃんとした形で彼女のことを書こうと思います。

 

出会い

 2013年の4月、僕は「サークルクラッシュ同好会」の新歓をするため、Twitter上で宣伝していました。ネタ性の高いビラを作り、ある程度の注目を集めていました。そんな中で彼女はメールを送ってきました。

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 そして彼女が「メンヘラ神」というアカウントで活動していることを知り、彼女の面白いツイートを見て僕は惹かれました。5月にたまたま東京に行く機会があったため、僕は彼女に会うことにしました。5月18日のことでした。


 彼女とは渋谷で待ち合わせしました。会ったはいいものの、僕はまだ東京に行き慣れておらず、おぼつかない感じでどこで話をするかも考えていませんでした。メンヘラ神は「キャッチの人についていきましょう」と言いました。僕はそれについていき、キャッチのお兄さんに導かれて僕たちは居酒屋に入りました。


 僕は当時はまだ女の人と二人で話をすることも慣れていませんでした。ぎこちない会話になっていたかもしれません。それでもメンヘラ神は優しく、気さくに話してくれましたし、聞くのが上手くて話しやすいと僕に言ってくれました。


 居酒屋を出ても夜行バスまで時間が少しあったので、マクドナルドでギリギリまで喋りました。そのときに僕は小学生のときに精神的に不安定だった話をして、彼女は笑ってくれました。「ホリィさんってまともそうな人かなと思ってたので、そういうメンヘラなところもあるのなんか安心しました」、そんな感じのことを彼女は言っていたと思います。


サークルクラッシュ同好会関東支部の発足

 僕がサークルクラッシュ同好会を拡大していくにあたって関東支部をやりたいという話をしていたら、彼女はその代表をやることを快諾してくれました。さっきのメールにもあるように彼女は実際にサークルクラッシュをしてしまっていたのです。


 彼女曰く、まず「精神を病んでるから気にかけてほしい」ということを言って一人を自分に惚れさせた上で、他の男たち一人ひとり個別で二人っきりで会って「○○さんに言い寄られて困ってるの……」と言っていくスタイルで連鎖的に人を壊していったそうな。誇張もあるかもしれませんが、あるサークルで人間を8人辞めさせたとか。その結果彼女が追い出されることになったそうです。ただし、次々と人間が辞めていく理由が誰にも分からず、とりあえずアイツがヤバそうだということで「大麻をやってるから」という理由で辞めさせられたということを話していました。

 

 

 そんな彼女はサークルクラッシュ同好会関東支部を「他のサークルから追い出されてきた人にとっての最後の居場所」にしたいと言っていました。関東支部発足にあたって、7月7日にskypeでの説明会がありました。そのとき録音していた音声が残っているので、僕は今でもメンヘラ神の声を聞くことができます。

 

 

関東支部の集まり

 そして翌月の8月13日、メンヘラ神が一人暮らししていたマンションで第一回の関東支部の集まりがありました。僕は関西からも二人の人間を連れて行きました。メンヘラ神は実家がお金持ちだったのでとても広い部屋に住んでいました。メンヘラ神はとても不安そうにしていましたが、人狼ゲームのレクリエーションをするなどもあり、和気あいあいとした感じでその日は終わりました。


 そのときに出会った人の中には今でも付き合いがある人が何人かいます。ネクラコミュ障っぽい人もそれなりにいる集まりだったと記憶していますが、メンヘラ神はとにかく優しくて、そういう人にこそ気さくに話しかけていました。


 ただ、「その場にいる人を楽しませられているか」という点で不安になってしまう彼女はついついリストカット芸やオーバードーズ芸をやってしまうのでした。そのときも度数の強いお酒をハイペースで飲んでいた気がします。そのせいで結局すぐに寝ちゃってました。メンヘラ神の部屋ではなにやら性的なことも起こっていた気がしますが、僕はあまり気にしないようにして他の人間と話していました。

 

メンヘラ神と付き合う

 メンヘラ神が起きていたときに、僕は「メンヘラ神とだったら僕は付き合いたいけどな」みたいなことを冗談めかして言ったような気がします。僕はメンヘラ神のことが女性としても好きでしたから。


 そして僕にとっては奇跡のような体験をしました。メールを通じてメンヘラ神とその日の段取りをしていたのですが、メンヘラ神宅での集まりが終わった後に携帯にメールがきました。「ホリィ、付き合おうよ~」と書かれていたと思います。少し照れのあるかわいいメールだなと思いました。


 僕はそのときまで女性から付き合おうということを言われたことは一度もありませんでした。それをまさか、好きな人であるメンヘラ神から言われるとは。僕は喜んでOKしたかったところでした。


 ただ、問題なことに、僕はそのときに付き合っていた彼女をメンヘラ神宅に連れて行ってもいたのです。僕は当時付き合っていた彼女のこともまた尋常じゃなく好きでした。どちらかを選ぶなんて僕にはできませんでした。

 

 

 実は当時付き合っていた彼女(Aさんとしましょう)は別の人間と二股をかけていました。僕はAさんが付き合っている男がいるのを承知で告白し、「二股してもらっていた」のです。そして、メンヘラ神もまた、いろんな男と肉体関係を持つ人でした。そんな中でできる「誠実な」態度というのは、二人にちゃんと話した上で二人ともに付き合うことだろう、と僕は思ったのです。というのも、「ポリアモリー」と呼ばれる複数の人と恋愛をするライフスタイルについて当時関心があったため、それを都合の良い部分だけ抽出して利用してしまったのです。


 今から思えばまともな恋愛のプロトコルもロクに知らない人間が、それをすっ飛ばしていきなりポリアモリーを実践するなんて無謀すぎたのです。アレは単なる「不誠実な」態度でしかなかったでしょう。

 

 結局Aさんはメンヘラ神に嫉妬し、関係が破綻しました。僕は別れたAさんに対して強く執着してしまい、客観的に見ても明らかに気持ち悪いチャットをSkypeで送ってしまいました。しかも彼女はメンヘラ神などの関東の人たちと個人的に仲良くしていたのがあり、僕のチャットは関東支部の人たちに広まってしまいました。メンヘラ神の中で「関東支部に集まってくる人が想像していたのと違う」というのもあり、関東支部を辞めるということをあるとき電話で告げられました。

 


「女の子」としてのメンヘラ神

 それでもメンヘラ神との交際は楽しいものでした。こんなことを言うと笑われるかもしれませんが、あんなにまっすぐ僕に対して好きだと言ってくれた人間はメンヘラ神だけでした。少なくとも僕にとってはそうなんです。

 

 関東支部の集まりのときに僕はなぜかクレジットカードをメンヘラ神宅に忘れてしまっていました。郵便で送ってもらったのですが、そこには手紙が同封されていました。僕はこの手紙を見るとやっぱり今でも泣きそうになります。

 

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 文面からも伝わってくるでしょうが、彼女は「女の子」でした。少なくともそれを演じてはいました。もう消えてしまいましたが、メールの文面もかわいかったのです。


 そして東京に行く際には彼女と会っていました。結局2,3回程度しか会うことはなかったのですが、個人的に彼女の家に行って泊めてもらったこともありました。喋っていたら相手を楽しませられているかどうか不安になってトイレで一人反省会をしてしまうメンヘラ神。一緒に寝ているときも僕の手や腕を噛んでくるメンヘラ神。部屋を出るときに背伸びをしてキスを求めるポーズをしてくるメンヘラ神。僕はそんなところにドキドキしていました。


 彼女は僕と一緒にブログの交換日記をすることを提案してくれたこともありました。今思えばそれもやっておけばよかったなと思います。でも、僕は僕で自分のことで精いっぱいだったところがあります。ある日メールでやりとりをしていたら長文のやり取りになってしまい、「僕は君のことが好きだが、君が別れたいのなら別れよう」というようなことを言ってしまいました。経緯を詳しく覚えてはいないのですが、バカなことをしてしまったなと思います。


 聞くと、メンヘラ神もまたAさんに対して嫉妬していたそうです。Aさんと僕は仲が良いんだから私の入る余地はない、と思っていたところがあったそうです。でもメンヘラ神はそんなことを表に出さずに我慢していたのです。僕は本当に大バカ者でした。あんなに好きだった人に対して、どうしてもっと配慮できなかったのか。もっと愛することができなかったのか。何があったとしても僕だけは君のそばにいる、責任を取ると、はっきり言えなかったのか。

 

 彼女はまた「女の子」として矮小化してしまうのもどうかと思うぐらいに、本当に才能のある存在でもありました。「たとえこれから何かを成し遂げることができなくても、今までの君はいるんだから、それだけで僕は君のことが好きだ」ということをどこかで言ったような気もします。それぐらいが当時の僕の限界でした。

 

メンヘラ神の死

11月4日(月)、第十七回文学フリマがあった。僕は東京に行き、サークルクラッシュ同好会会誌第二号を委託販売していた。メンヘラ神は『メンヘラリティ・スカイ』という同人誌をはるしにゃんという男と共に販売していた。少し挨拶を交わしたものの、僕らは違う場所にいた。僕はその日にメンヘラ神宅に泊まった。『メンヘラリティ・スカイ』の打ち上げはメンヘラお断りなので、メンヘラ神は行けなくなったというようなトンデモナイ話を聞いて、自分の側の打ち上げに誘えばよかったと思った。

 

11月5日(火)、起きてメンヘラ神がパスタを茹でる。それを僕はいただく。パスタがうまく巻けないって話を『メンヘラリティ・スカイ』でしてたよねと話す。彼女は「こんな暗い部屋で二人でパスタ食べてるってなんだか浅野いにおの漫画みたいだね」と言っていた。彼女はTwitterでも「浅野いにおの漫画みたい」って言っていた気がするし、ネタの使い回しが多いんだなあと思った。
そして彼女は「ホリィもリスカしようよ」と言ってきた。これも一つの経験かと思い、僕もやってみることにした。彼女は痛いのが苦手らしく、薬を飲まないとリスカできないんだと言っていた(確かマイスリーだったような気がする)。薬を飲んだ後に貝印のカミソリを振りかぶり、手首に振り降ろす。やたらと勢いが良かった。僕もそれにならってやってみる。痛い。痛い。でも僕は痛みに対する耐性が強いので、大したことはなかった。血が滲み出てくる。彼女が僕の傷を舐める。僕も彼女の傷を舐める。彼女は薬を飲んだ人間特有の目をしていた。なんだか退廃的な感じだった。
その後に別のサークラ関東支部の友人がメンヘラ神宅に来て、蜜月の時は終わった。聞くと、関東支部の中の男と付き合っているとのことだった。僕ははっきりと別れてしまっていたようだ。焼き鳥屋かどこかへ行った気がする。メンヘラ神の彼氏はバンギャの男版みたいな見た目の奴で、誰かから「でも顔的にはもっともっさりしたのが好きなんでしょ」みたいなことを言われていた気がする。彼女も肯定していた。

 

11月6日(水)、夜行バスで関西に帰ってくる。メンヘラ神と電話すると「昨日のことを覚えてない」と言われる。マイスリー前向性健忘だ。(この電話はもっと前の電話だったかもしれないが記憶が曖昧だ)
メンヘラ神によってサークルクラッシュ同好会関東支部の崩壊がネタにされていた。ラリっている状態特有の誤字が目立っていた。僕は関東支部の今後の進退についていろいろと考えをTwitter上で述べていた。

 

11月7日(木)、関東支部の崩壊について僕もネタツイをした。

 

11月8日(金)、関東支部だった人から怒りのリプライがきて応戦していた。メンヘラ神は鍵垢で「ホリィ、ディベートみたいなやり方をしてもしょうがないよ」というようなことを言っていた。メンヘラ神と僕はディベート甲子園出身者だった(ちなみに8月にはディベート甲子園の会場でも彼女と会っていた)。
その日の夜、メンヘラ神からメールがきた。「ありがとうございました」とだけ書かれていた。僕は彼女のことが心配だったが、自殺未遂自体はこれまでも何度もしてきたし、携帯の電池も切れそうだったし、メールを返すだけに留めておいた。あのとき電話の充電がちゃんとあればよかったなと今でも思う。

 

11月9日(土)、メンヘラ神のツイートが途絶えた。僕は心配だったが、9割方大丈夫だろうと思っていた。

 

 

11月10日(日)、でも、大丈夫じゃなかった。心配をした友人がメンヘラ神の住んでいるところの近くの警察署に電話をして、自殺を確かめたのだ。僕は激しく動揺した。冗談を言っているのかと思った。僕自身も警察署に電話をして確認した。電話口で亡くなっているということを告げられた。

 

 

世界が変わってしまったのだ。

 


その後のこと

 僕は激しく泣いた。力が入らなかった。メンヘラ神が死んでしまったと、友人に話し、先輩に話し、親に話した。メンヘラ神のことを知っている人にこのことを伝えなきゃいけないという思いでいろんな人にDMをしたり電話をかけたりした。本当は僕は話し相手が欲しかったのだと思う。苦しくて苦しくて、何日かは思い出し泣きする日を繰り返した。


 彼女の実家は沖縄だったし、そもそも葬式に行ってもしょうがないと思った。彼女と親しかった人は葬式に行ったので、彼女の亡骸の様子などを聞いた。死化粧は綺麗すぎて、違う顔のようだったというようなことを言っていた。飛び降りて、顔だってまともな状態では残っていないはずなのだからと。


 『メンヘラリティ・スカイ』の共同代表であったはるしにゃんもメンヘラ神のことをブログに書いていた。僕に「ありがとうございました」というメールを送ってきた翌日の朝、メンヘラ神ははるしにゃんに電話をかけていたようだ。それでも結局どうしようもなくて飛び降りたようだ。はるしにゃんのブログによればメンヘラ神ははるしにゃんに「ずっと好きでした」と言ったそうだ。はるしにゃんは話を盛りがちな人間なので実際どうだったのかは分からないが、メンヘラ神ははるしにゃんを選んだのだな、とどこか負けた気分にもなった。


 そして、はるしにゃんももうこの世にいない。はるしにゃんもまた、メンヘラの間ではカリスマ的な存在だったし、メンヘラ神はそういうところに憧れていたのだろうと思う。メンヘラ神についてやそれらのことは他にもいろいろ書けるが、もうこれぐらいにしておこう。

 


 ともかく、メンヘラ神の死は受け入れがたい事実だった。人間が大切な対象を失ったとき、それを受け入れていく過程を「喪の過程」という。僕にとっての「喪の過程」はまずはとにかく話すことだった。メンヘラ神の死についていろんな人に話した。先輩に勧められて大学のカウンセリングルームに行ったし、普段そんな話をしない人に対しても「大切な人が自殺してしまった」という話をした。迷惑だったかもしれないが、そうするしかなかったところがある。


 そして、不謹慎だと言われるかもしれないが、4年も経ったのだからはっきり言っておく。「僕は彼女の死から何を学んだのか」ということ、また「彼女の死にはいかなる必然性があったのか」という物語を考えることが僕にとっての喪の過程だ。それが彼女の死を受け入れ、彼女の死を無駄にはしないことだと思う。これはあくまで僕にとっての問題だし、他の人には他の人の答えがあると思う。


それからとこれから

 この2013年があって、僕の生き方は変わっていきました。生きづらい人が生きやすい世の中にしたい。人を助けたい。そういう執着が生まれました。それは「メサコン」と呼ばれる、ある種危険なことなのかもしれません。自分の生き方を押し付けて人の生き方までも支配してしまわないように注意すべきだとは思います。しかし僕は第二、第三のメンヘラ神をできるだけ生みたくないのです。目の前にいる人たちが死なないようにしたいのです。僕のサークルクラッシュ同好会は、僕のシェアハウス運動は、僕とあなたとの対話は、そのためにあるのです。

 

 

 メンヘラ神のことを語ってしまうとどうしても自分語りになってしまいます。どうしても恋愛的な気分でメンヘラ神のことを語ってしまいます。そういうのが申し訳なくて、長らく書けないでいました。でも、彼女の死によってできていった繋がりもたくさんあります。おかしな言い方になりますが、僕はそこにある意味では「感謝」したいです。「死せる孔明生ける仲達を走らす」、ということでしょう。僕はそうすることでしか、彼女の死を贖えないのです。

 

 

 みなさんは彼女の真似をしないでください。彼女だって南条あや中島らも大槻ケンヂなどの影響を受けたサブカル女でした。そこにリアルはないんです。死んだらどうしようもないんです。この世に彼女が生きていたら、あんな出来事もこんな出来事も笑って話し合えたらと思うと、本当に悲しいです。

 

 なんだか、うまく書けなくてごめんね。アドベントカレンダー、次はSIlloiくんです。