『精神疾患言説の歴史社会学――「心の病」はなぜ流行するのか』(2013、佐藤雅浩)の簡単な感想

 

精神疾患言説の歴史社会学: 「心の病」はなぜ流行するのか

精神疾患言説の歴史社会学: 「心の病」はなぜ流行するのか

 

 

 情報量が多くて複雑な本だったので、要約はせずに自分が気になったところだけメモしておく。
 「神経衰弱」「ヒステリー」「ノイローゼ」などの「"流行"した心の病」が、新聞上でどのように使われているかの変遷を主に扱っていた。
 どういう条件があれば「心の病」がマスメディア上で流行し、どういう条件がなければ流行しないのかのパターンを分析していて、それは(方法論としては面白いが)メディア環境が変わりすぎるとちょっと無理があるなと感じた。むしろ共時的な言説の布置を丁寧に記述していく質的な分析の方が面白かった。


 一般的に言って、ある「時代」より前(例えば90年代以前、メディア環境で言えば「ネット」以前)に存在した歴史的なパターンみたいなものが、そのまま現代でも通用すると考えるのはちょっと難しいと思うし、現代でも通用すると言いたいのならば現代の状況に即した別の説明を加えることが必要なのだろうなと思った。

 

世間で使われる「病名」と医学的な「病名」のズレの問題

 読んでて強く思ったのは、同じ「病名」でもメディア上での人の名付けと臨床的な医者の診断は分けて考えなきゃヤバいなということ。とはいえ、医学の分野で当然論文や本を書く人はいるし、マスメディア上で医学的な用語を用いて発言する人は(医者や医学者に限らず)いる。有名人や犯罪の容疑者を新聞上で「診断」してしまう人すらいるぐらいだ。
 だから、広い意味での「病名の診断」を医学の側が独占することは不可能なんだろうなあと思った(通俗用語と専門用語がうまく区別されているのは感じるけど)。通俗的精神疾患用語(本で出てきたノイローゼもそうだし、最近で言えば、アダルト・チルドレンとかうつとか発達障害とか)でさえも「実在しない」とまで言うのは難しいと思う。その「心の病」は人々の実感としては「ある」のだから。
 ただ、医者にとってはその通俗的な用語を臨床的に使うには曖昧すぎるし、だから患者と齟齬が生じるんだろうなあ。本でも、新聞読者投稿欄の分析によって、患者側の自己診断の問題が議論されていた。
 その点で面白かったのがヒポコンドリー(心気症)の話で、「自分は病気なのではないか」みたいな過剰な心配やある種の自己診断が神経症的な気分や感覚を引き起こしてしまうという問題、つまり「病は気から」的な話。これがよくあることなのだとしたら、「病名」が流通すること自体とても危険なことになる。
 そう考えると、本の中で、「心の病」の流行の条件として「疾患の病因が不明確である」ということが析出されているのは興味深い。不明確であるがゆえに医者はその病名の扱いに困るのに、不明確であるがゆえに流行してしまうというジレンマがあるように思われる。

僕がシェアハウスに住むのをやめて彼女と同棲するに至った理由、今後の戦略

 ホリィ・センです。

 突然ですが、僕は今、恋人と同棲しています。僕は2015年の4月から今年のある時期まではシェアハウス「サクラ荘」に住み続けていました。だから「いつの間に」と思う方もいるかと思います。10/27(土)17時~の「ポスト・コミュニティスペース」についてのトークイベント

ホリィ・セン×松山孝法×植田元気「『ポスト・コミュニティスペース』を考える」

に先立ち、その経緯を今回は説明したいと思います。

 

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 なんで彼女と同棲しているのか、って聞かれたらそりゃ彼女のこと好きだから。

 「じゃあ今までシェアハウスやってきたのはなんだったの」という人もいるとは思う。

 あるいは、ある意味で好意的に解釈して「ホリィ・センだって一人の人間なんだし、"大人"になって"家族"を作り、"父"になろうとしているんだ」と言ってくれる人もいる。

 それは半分正解なんだけど、だからといって僕は別に「シェアハウス」を捨てたわけじゃない。それどころかむしろ、僕がこれから更に「シェアハウスの人」として邁進していくために必要なステップなのである。

 どういうことか、もうちょっと詳しく言おう。

 

 

サクラ荘での最初の1年で気づいたこと

  僕は2015年にシェアハウスに住み始めた当初、とにかく手探りでやってきた。何しろ、それまで僕は実家暮らしだった。勝手が分からなくていろいろと面倒だし、とりあえず大学の寮に入るとかもほんの少しだけ考えた。でもやっぱ、僕は自分でサークル(サークルクラッシュ同好会)を作った実績もあるわけだし、拠点もやっぱり自分で作ってみたかった。

 

 んで、実際しばらくは僕も右往左往した。家のリビングを外に開きながらも、個々人のプライベートというものは存在する。世間には「一人の時間を大切にしたい」という人もいるが、日々生きてたらそういう時間はけっこうあるものだし、無理に「一人の時間」を作る必要はないと僕は当時思っていた。でも、住人にとっては外から来た人間が深夜にワチャワチャやってるのはやはり迷惑だったような気もする。

 そして、何を目的にシェアハウスに住んでるのかもいまひとつはっきりしていなかった。とはいえ、外から人が来て、何かしら喋って、仲間が増えていく。そんな過程は楽しかった。一緒に住んでる(住んでた)人とはなんとなく絆ができていくし、そういうのも擬似家族感があって楽しかった。

 とりあえず1年住んでみて、考えた末にようやく方針が固まってきた。僕の出した結論としては、「シェアハウスに住むこと」、それそのものが重要だということだ。シェアハウスを拠点に何らかの活動をする団体は今までいくつも見てきた。でも、よく考えるとこの社会で問題なのは、「核家族」と「一人暮らし」という、形態そのものなんじゃないか、と。

 

核家族と一人暮らしの問題点、シェアハウスの重要性

  家庭環境の問題が原因で生きづらい、という人は僕は何人も見てきた。とりわけ、「毒親」と呼ばれる問題が目につくようになった。「毒親」という言葉を見ると、親の人格に問題があるように思えるし、実際そういうパターンもあるのかもしれないが、「毒親」という言葉で家庭環境の問題を片づけてしまうのは思考停止だとも思った。問題はやはり、環境にあるのではないか。

 考えてみれば、日本の子育ては母親に責任が押し付けられすぎである。核家族化が進行して以降、「ワンオペ育児」はますます進行している。共働き化が進む中で時間もなくなっていることだろう。離婚率は増加し、一人親も増えているという。そんな中で、まともに子育てができるのだろうか? 母親は「孤独」だからこそ、「毒親」になってしまうのではないか。

 もちろん、一人親の人間を否定する気はないし、一人親の子育てによって元気に育ってきた子どももたくさんいることだろう。しかし、子育ての負担の重さを考えれば、その負担は一人よりも二人、二人よりも三人、できれば多くの人が分担する方がリスクは小さい、と僕は考えている。もちろん、最終的な責任については、現実的には親などの誰かが背負うことになるべきであろう。

 

 核家族の問題が目につくようになって、一人暮らしにも問題があると思い始めた。僕は大学生をやっている間に、生活が荒廃していく一人暮らしの人間を何人も見てきた。実際、途中で大学に来なくなる人間というのも確実に一定割合存在する。無理もない、高校までの実家暮らしから「解放」され、突然一人暮らしに移行したのだから。羽を伸ばすはずが、気がつけば取返しのつかないところまできていた、ということもあるだろう。

 とはいえ、大学生はまだ親に守られている側面がある。家賃を親が払い、ある種「子ども部屋の延長」として大学生の一人暮らしが行われていることはよくあることだ。それは、「大学生」の期間が通常4年や6年で終わるからということもあるだろう。

 しかし、大学生以外にも目を向けてみれば、「一人暮らし」の問題は思ったより根深いのかもしれない。僕が気になったのはむしろ高齢者の孤独死の問題である。「無縁社会」という言葉が一時期流行し、NHKでも取材がなされたが、どうやら孤独死には男女差があるらしい。ある夫婦において、パートナーに先立たれた場合、妻はけっこう生き残るのに対して、夫はすぐ死んでしまうようだ。この「高齢者の」問題は僕らの未来の姿を表しているんじゃないか? 結婚をする人間が減り、離婚率も上昇している中で、どんどん「孤独」になっていく人間は増えていくだろう。「一人でも生きていける」という人間も確かにいるかもしれない。しかしおそらく、高齢者で起こっている「孤独死」のような問題が(とりわけ男性において)これから増えていくのではないか。

 

 核家族、一人暮らし。いずれにせよ、問題となるのは「孤独」である。そして、「結婚」という物語がどんどん機能しなくなってきていることがこの問題に拍車をかけている。だからこそ僕は「結婚によらない同居」としての、「シェアハウス」をもっと当たり前にしなきゃいけない、そういう使命を抱くようになった(論理的には「シェアハウス」以外にも孤独を解消する手段は考えられるが、今のところ最も賭けるに値する、と僕は考えている)。

 

2年目以降はシェアハウス増殖・後身育成へ

  話は長くなったが、そんなわけで、僕は「ただ単にシェアハウスをやる」というだけではダメだと思った。もちろん、主流の場所に馴染めない人が逃げ込んでくる「駆け込み寺」としてのコミュニティを作ることは大事なことだ。「駆け込み寺」はできるだけいっぱいあった方が社会としては健全だろう。しかし、どうやら「核家族と一人暮らし」、すなわち「家族」の問題は「駆け込み寺」だけではどうにもならない。

 だからこそ、僕はシェアハウスを増やす。とにかく「増やす」。そういう方針を立てた。しかし、これは僕一人ではできないことだ。また、周囲の人間を仲間にしてもまだまだ不十分だ。直接の仲間じゃない人間も勝手にシェアハウスを始めてくれる、そういうところまでいかなくては、日本における核家族と一人暮らしの圧倒的な支配を打ち崩すことはできない。

 こうして、1年住んだ後の僕は、後身を育成することを大事にし始めた。後輩たちが新たにシェアハウスを始めることは歓迎した。新たに家を借りるようにどんどん焚きつけた。しかし、そのシェアハウスを「自治」できるように、不用意に口出しはしなかった(トラブルの解決や空き部屋の補充には積極的に介入したが)。

 拡大路線を敷いたサクラ荘は徐々に増え、2年目には2軒目ができ、3年目には5軒になり、4年目の現在は7軒である。そこそこの成果だが、それでも僕はまだまだ足りないと思っている。今のところすべて京都にしかないというのも不満である。では、これからも数を増やしていくにはどうしたらいいのだろうか?

 

 そもそもサクラ荘は、単に友人をシェアハウスに誘うだけでなく、月1回程度のパーティなどによって外部の人間を積極的に巻き込むようにしている。そうして、気がついたら住人になっているという人がいる。それはこれからも続けていくべきだろう。しかし、「家」は外部に開くことができると同時に、個々人の住居でもある。必然的にプライベートが脅かされることの負担を背負うものがいることになる。2015年4月に始まったサクラ荘1号館もコミュニティとしてはそろそろすり減ってきてしまっていたのだ(実際、パーティが開かれても住人で参加する人は少ない、という状態が続いていた)。

 僕自身も、シェアハウスはどんどん増えるべきだと思うが何も全部が「オープン」になる必要はないと思っている。サクラ荘1号館は人を呼ぶために半ば無理に「オープン」を続けてきたが、今やその役目を終えつつあるのかもしれない。言わば普通のシェアハウスになりつつあるのだ。それはそれで、喜ばしいことである。

 一方、サクラ荘8号館にあたる「フロントライン」は最近、パーティを開き続けている(さっきからパーティパーティと言っていて、どんだけパーティピーポーなんだよと思われるむきもあるかもしれないが、実際のところはダラダラと飲み食いしながら喋っているだけがほとんどである。実態としては「交流会」や「懇親会」がせいぜいだろう)。

 フロントラインはとても広くてきれいで、良い家である。京都では最近民泊についての法律が改正(改悪?)され、ゲストハウスを運営していくことが厳しくなった。外国人向けの民泊として使われていた家が、このたびシェアハウス物件としてまわってきたのだ。10/27(土)の「ポスト・コミュニティスペース」についてのトークイベントの会場はこのフロントラインを選んだ。フロントラインが新たな時代のコミュニティを担っていく、その幕開けを象徴するイベントになれば幸いだ

 ともあれ、僕が3年間蒔いてきた種はどうやら実ったようだ。もちろん、これからも後進育成が必要だとは思っている。だが、ようやく僕は次に進むときがきたのだ。

 

住むのをやめたからこそできること

  確かに僕はサクラ荘の創始者だ。しかし、僕はいつまでも現場でリーダーをやるわけにはいかない。これから新たにリーダーになる人間が発掘されれば、僕は喜んで支援しよう。僕がやるべきことは人に直接指示を出すことではなくて、「場」を作ることである。言うならばプラットフォーマーである。

 そして、これから必要なのは、"サクラ荘以外のシェアハウス"を知ることだ。なぜなら、僕は社会学の研究者だからだ。一つの現場に留まるだけじゃなく、いろんな現場を比較する必要がある。そして、「シェアハウス」とは何なのか、「シェアハウス」はどのように人々の生活を変えるのか、そういったものを探求し、体型的に言語化する必要がある。理論として誰にでも活用できる「言葉」を僕はこれから作らねばならない。「サクラ荘」というローカルなものに留まらない、普遍的な言葉を。

 

 それは、今シェアハウスに住んでいない人にも「わかる」言葉のはずである。僕は今同棲している彼女とは、シェアハウスではないところで出会った。それゆえに、いわゆるシェアハウス的なものにそれほど「理解がある」というわけではない。そんな彼女にも「わかる」言葉でなくてはならないだろう。最後に、彼女の話をしてこの話を閉じようと思う。

 

:補足すると、彼女は社会における核家族の問題点やシェアハウスの重要性などを十分に理解している。ただ、彼女自身は「プライベートは大事だし、シェアハウスに住むのはちょっと……」という感覚を持っている、ということである。なお、この記事は彼女にも事前に読んでもらって掲載の承認を得ている。

 

 

彼女とのこと、これからのこと

  彼女とは、文学フリマ京都で出会った。急いでつけ加えると、彼女は文学フリマの常連、というわけではない。たまたま彼女の友人が文学フリマの主催者側だったために、誘われたということだったようだ。

 たまたまサークルクラッシュ同好会の出していた同人誌を手に取ってくれて、僕の文章を気に入ってくれたそうだ。彼女は「バックナンバーを購入したい」という連絡を僕によこしてくれて、たまたま近くに住んでいたので喫茶店で待ち合わせし、話してみたら意気投合した。ロマンティックで運命的な出会いだった。

 彼女はすごく賢い人だ。社会に流通している言葉を鵜呑みにすることなく、「あるあるネタ」としてメタ化する(なんと学部時代は社会学を専攻していたとのことだ)。人の振る舞いや世間のできごとの可笑しさを指摘し、皮肉ってみせる。「自覚」のない人間にはどこか辛辣でもある。

 彼女はすごく可愛い人だ。気丈な振る舞いで人に合わせることもできる中で、とても神経質なところがある。彼女は(僕の前では特に?)感情豊かで、コロコロと表情が変わる。笑った顔も可愛いが、困っている表情を見てもとても愛おしくなる。

 彼女はすごく面白い人だ。interestingだけでなくfunnyでもあると思う。おそらくサービス精神もあるのだろう、抜群の瞬発力で、メーターの振り切れたようなアクションをしてくれる。持ち前の皮肉さもあって、僕をとても自由な気持ちにしてくれる。僕が生きてきた中で、笑いのツボの合う人は本当に1人2人しかいなかったと思う。それも女性では1人もいなかった。彼女は僕にとって唯一の存在である。不謹慎なことでも笑い合える、そんな共犯関係を、死ぬまで続けたいと思う。

 

 そんな彼女と話し合ううちに、同棲しようということになった。考えてみれば、これはごくふつうのことだ。確かに、左翼の界隈には、恋人同士でシェアハウスに住み、シェアハウスで子どもを産み、シェアハウスで子どもを育てる、みたいな人もいる。

 しかし、子どもを産み育てるという人の中で、そんな共同体主義者はマイノリティであろう。僕が「研究者」として普遍的な言葉で語るということは、「他者」にも通じる言葉で語るということである。そんな僕が、「最初からシェアハウスで生活してくれる人としか付き合わない」という態度でどうする。恋人だから誰にも邪魔されず二人で一緒にいたい。自分の子どもだから知らない人には預けられない。何度も言うがこれは「ふつうのこと」だし、この「ふつう」を簡単に否定することはできないはずだ。もちろん、シェアハウス内での恋人関係を否定する気もない。

 

 彼女はある意味で「ふつう」の人間だと思う。おそらく僕にもどこか「ふつう」なところがあると思う。しかし、シェアハウスにとって「ふつう」は一種の「他者」であろう。もっと具体的に言うならば、多くの人にとって、「プライベート」であるということが「所有」するということが、恋愛や子育てにおいては不可欠に感じられるところがあるのである。それも、深く根差した感情のレベルで、である。

 僕はプライベートの感覚や所有の感覚をぶっ壊してやろうなんて思っちゃいない。彼女は物を共有しないし、プライベートを大切にする。それはそういうものだし、とても多くの人が共有している感覚だと思う。だからこそ、僕はそういう人から逃げるのではなく、対話しながら未来を作り上げていきたい。

 

結論

  僕が「シェアハウスに住むのをやめた」のはプラットフォーマーになり、研究者になるからである。

 僕が「彼女と同棲し始めた」のは彼女が好きだからであり、彼女という他者との未来を考えるためである。

 僕は彼女と結婚しようと思っている。未来のことはまだ分からないけど、もし彼女との間に子どもができたなら、僕は「子育て」を軸に新たな共同性を構築したいと考えている。なぜなら、子育ての負担を分担しなければ、また新たな悲劇を生むことになってしまうからだ。しかし、その具体的な形態は彼女抜きに決められることではない。

 僕は今、そういうことを考えている。

10/8『「男らしさ」の快楽――ポピュラー文化から見たその実態』読書会レジュメ

 西井開さん

twitter.com

が主催しているメイル・セクシュアリティーズ研究会において、10/8(月・祝)に『「男らしさ」の快楽――ポピュラー文化から見たその実態』の読書会が行われた。

 この本は大ざっぱに言えば、「男性学」に分類されるものである。しかし、(フェミニズム的な問題意識による)男性性の暴力性や加害性への反省を主題にしたものではないし、「男らしさの鎧」とも言われる男性特有の生きづらさを主題にしたものでもない。そうではなくて、フェミニズムから距離を置いた「男らしさ」のある種の”肯定的な”側面をポピュラーカルチャ―の調査から見出そうという本である。

 また、「男らしさ」なるものがどこか時代遅れになる中で、保守反動的に昔の「男らしさ」を復権しようというのでもない。この現代の文化・社会状況において「男らしさ」を肯定できるとすればいかにしてか、という問いに貫かれた本だと言える。

 私はこの本の第三章、第五章、第六章のレジュメ作成を担当した。この本をこれから読む人/読まずに情報を得ようとしている人などのために、せっかくなのでブログ上で公開しておく。ただし、第六章のまとめは少し雑なので、このレジュメだけ読んでも何言ってるか分からない気がする。

 

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第三章 部族化するおしゃれな男たち――女性的な語彙と「男らしさ」の担保

谷本奈穂[1]・西山哲郎[2]

 

[1]社会学者。1970年生。関西大学教授。ポピュラーカルチャーを雑誌や漫画などのメディアから分析するのをよくやってらっしゃるイメージ。『恋愛の社会学』と『美容整形と化粧の社会学』が有名。

[2]社会学者。1965年生。関西大学教授。谷本さんと同じく阪大出身で年齢も近いし、旧知の仲なのだろうか。調べたところスポーツ社会学が専門っぽい。この本でもよく触れられるブルデューについての論文も書いておられる。

 

1 「男らしさ」とおしゃれの微妙な距離

 ファッションは集団や自己に向けて自らを対象化させる装置にもなりうるため、ファッションはその人のアイデンティティの構築に強く結びついていると言われてきた。しかし、服装や髪型にあれこれと気を配ることは女性特有の振る舞いとみなされ、それを男性がした場合は「軽薄」「男らしくない」とみなされてきた。現在もそのイメージは根強く残っている。

 

 

2 男性の灰色化

服装の近代化

 おしゃれをする男が軽薄で女々しいというイメージは19世紀以降の「近代の慣習」だという。19世紀半ばのテイラード・スーツの登場以降、男性服は簡素化した(男性の灰色化)。

 

日本における服装の近代化

 西洋でも日本でも服装の華美/質素は性差ではなく身分差に左右されていた。しかし、明治時代になると、鹿鳴館(外国との社交場)の開設を機に、身分の高い女性は表を着飾って出歩くことを求められるようになったのに対し、男性は燕尾服やフロックコートなどのフォーマルウェアを着るようになった(身分差から性差へ)。

 日本の管理社会の中では、西洋のフォーマルウェアが持っていたダンディズムや遊びの性格は希釈され、西洋以上に「灰色化」したと言える。

 

勤勉に働きうる身体

 流行(モード)と言えば、女性のものとなり、男性は近代産業社会建設のための機械化兵士(サイボーグ)として選ばれたと言える。体を鍛えたり、働いたり稼いだりすること、すなわち「勤勉に働くこと」ができる身体を持つ男性こそ「男らしい」とみなされるようになった。

 

 

3 おしゃれな男

灰色化の拒否

 高度経済成長とそれに随伴する消費革命の展開〔70~80年代頃?〕によって「おしゃれ」を目指す男性が増えてきている。そのような男性の意識を考察するために、インタビューを実施する。

 「おしゃれ」であることの最低条件として、①本人がおしゃれ好き(服装や髪型に気を配る)である ②他者からおしゃれだと評価される を設定し、それらを満たすと思われる読者モデルやセミプロのモデルへのインタビューを実施した。

 彼らには「目立たない洋服を着てその他大勢に埋没すること」を嫌がる心性が見られた(Cさんが制服も私服も可能な高校を私服で通っていた語り)。

 

自分を生かすおしゃれ――女性的な語彙[3]

 おしゃれに関する意識やこだわりを尋ねたところ、「自分の中での決まり」「自分を生かすこと」といった、「自分」を意識している言葉が現れた。つまり、異性を中心とした他者ではなく、「自己」を意識し、自分の髪質に合うもの、身長が高くスリムな自分の身体に似合うものを着ようとする意識がある。

 また、「流行」や「同性」を意識しており、これらの身体観はある意味「女性的」である。というのは、著者らが行った2003~2005に大学生を対象としたアンケートでは、普段、身体に加工をするのはなぜかということを尋ねたが、「自分らしくあるため」「自己満足のため」「流行に乗り遅れないため」「同性から注目されたいから」という回答は、主に女性から得られたからである。一方、男性は女性に比べ「異性にもてたいから」という回答が多い(谷本 2008『美容整形と化粧の社会学』)。また、「自分の中にあるこだわり」を大切にし、「自分の特長を生かすこと」を心がけるという点で、谷本(2008)の美容整形経験者の女性へのインタビューとも共通している。

 よって、「おしゃれ=男らしくない」というイメージ通りであると、とりあえず主張できる。

 

化粧の拒否――「男らしさ」の担保

 しかし、他方で彼らには外見に関する「男らしさ」への強いこだわりもあるのではないか。具体的には、中高年女性が化粧や美容整形をすることを歓迎するのに対し、同性(特に友人)が美容整形や化粧をするとなると、「男がするものではない」という理由で否定的な目を向けたり、それをホモセクシュアルであるとみなしたりする。そうすることで自身の「男らしさ」(また、異性愛であるということ)を担保していると考えられる。

 

[3]本文中に「動機の語彙」という言葉が出てくるが、これはミルズというアメリカの社会学者の概念で、「動機」はいかにも個人の内面にあるように見えて、実は社会的なものであるということを示す概念。人は何かの行為の動機を問われると、集団や社会の規範に即した説明をしてしまう(例えば、「なぜ無断欠席したのか」と問われた際にどのように答えるかを考えてみればよいだろう)。

 

4 同質社会性――小集団化するジェンダー意識

 以上のような女性的とも言える身体意識と、男性的とも言える身体意識の両立はどのような社会背景から生じているのだろうか。

 

似たもの同士の友人関係

 日本の前期近代においても、大正時代の「モボ・モガ」や、昭和三十年代の「太陽族」や「みゆき族」など、「灰色化」に抵抗した小集団は存在していたが、彼らの卓越化戦略は、結局は購買能力の豊かさに還元できる。つまり社会階層のどこかに自分と他者を位置付けることで、社会の一員としてのアイデンティティ獲得を目指していた。

 それに対し、60年代後半のヒッピー文化に始まるサブカルチャーの発展は、水平的な差異化を狙いとするものだった。つまり、経済的貧富の差ではなく、ライフスタイルの違いによって、人々は自己の存在を主張するように変わってきた。そのような自己の差異化戦略は、80年代のバブル景気に乗って記号論〔差異=価値〕的な洗練を加えられた(分衆化[4])。

 「分衆」の観点からインタビューについて考えると、彼らの「友達がすることを止める」という発言は注目に値する。つまり、おしゃれな男性にとって、異性である女性が(場合によっては赤の他人である男性も)化粧や美容整形をしていいと考えながら、自分に近い存在である同性の友人には自らの持つジェンダー規範を遵守させようとする傾向がある。

 そして、「大切なもの」を聞いた際の語りから、彼らは同性の友人を非常に大切にしていることが分かる。また、その友人たちは彼らと同様「おしゃれ」な人たちである(「目立つ」、「おしゃれに無頓着な子はあまりいない」、「かっこいい系のグループ」、「DJ」、「ショップ店員」)。また、グループのメンバーが外見的に似た者に変化していくという語りも見られる。以上より、おしゃれな男性たちのグループは「分衆化」の徹底として形成された小集団だと言える。

 

部族から、働く身体へ、そして〈部族〉へ

 価値観が多元化した現代においては、近代以前の部族のような〈部族〉的小集団の一員として暮らすことが望まれるようになった。つまり、合理性を基盤として構築される会社や国家のような組織に代わり、アイデンティティの拠り所として美的センスやライフスタイルを同調できる集団が〈部族〉的な小集団として浮上するようになった(「世界の部族化」by ミッシェル・マフェゾリ)。

 近代以前の部族社会では、集団の将来が、外敵や自然の脅威に晒されていたのに対して、現代(または後期近代)では生活に対する脅威が内部的な「リスク」として抱え込まれる点に違いがある。そのため、団結の契機を失い「同質の者と共にいたいという願い」がせり出してくるのが現代社会である。

 「勤勉に働く身体」として「同質」になれた時代は終わり、普遍的な合理性に貫かれた社会建築の理想は、(局所的にのみ共有される)美学による生活のスタイル化の夢に取って代わられた。マフェゾリによれば、男性のおしゃれは個人主義ではなく、小集団快楽主義の表れである。そうして彼らは、同質の者と小集団をつくり、〈部族〉の象徴となるアイテムを身にまとうことで、かろうじて自己の意味の断片を拾い上げていくしかない。インタビューに見られた女性的な部分と男性的な部分は、この断片を拾い上げる作業(ブリコラージュ[5])の中で両立していると言える。

 これは同時代人に共通する生活状況である。そのため、今後、身体やジェンダーに関わる意識を考察する場合には、年齢や性別といった個人の属性に加えて、こうした〈部族〉的な小集団の布置状況を検討していく必要があるだろう。

 

[4]1985年に博報堂生活総合研究所編の「分衆の誕生」にて定義され、同年の新語に選ばれた語である。ある製品が普及し1世帯あたりの平均保有数が1以上になることをいう。たとえば自動車やテレビのように1世帯に1台だったものが1世帯に2台ないしは1人1台のように状況が変化することである(Wikipediaより)。

[5]構造主義の代表格である文化人類学レヴィ=ストロースの用語。「あり合わせ」という意味で、「エンジニアリング」と対比される。言うならば、西洋の人たちは物を合理的な設計図のパーツとしてしか捉えられないが、「未開」の部族の人たちは物を記号として捉え、柔軟に何にでも応用することができる。

 

 

第三章を受けての議論:

・社会階層は本当になくなったのか? 確かに、ブルデュー的な卓越化の議論(クラシック音楽が高尚、みたいな話)には批判がある(例えば、北田暁大東浩紀の「動物化」に触れつつ、アニメのような趣味領域では「高尚/低俗」のような軸での卓越化はほぼ働いていないということを『社会にとって趣味とは何か』で指摘している)。

 とはいえ、収入の格差はやはり厳然として存在するし、近年の「階層」はむしろ「コンプレックス」という形で現れているようにも思われる。コンプレックスの代表格として、まず身体的特徴(とりわけ顔や体型や身長や頭髪)とコミュニケーション(とりわけ性愛に関するもの)が挙げられるだろうし、「学歴」や「健康」などもコンプレックス産業になっている(もっとマイナーなのだと、「語学」とか「料理」とか「片付け」とか「家計」とか……本屋にコーナーがあるものはコンプレックス産業と間接的には繋がっているのではないかと私は邪推している)。

 男の選び方が三高(高収入・高身長・高学歴)から三低(低姿勢・定依存・低リスク)に変わったなどともいわれるが、ポジティヴなものを増やすのではなくてネガティヴなものをなくしていく方向性があるような気もする。しかし、それで得られるアイデンティティや連帯というのは「共通の敵」や「異質な者の排除」によるものになってしまうのではないか。本文でも「同質性」について書かれていたが、「おしゃれな男」の連帯は「非おしゃれな男」や「女性」の排除によって成り立っている側面もあるだろう(これもホモソーシャリティか。その連帯が加害性を持つかどうかがすごく重要だとは思うが)。

 

・「勤勉に働く身体」としての「男らしさ」が「普遍的な合理性に貫かれた社会建築」のための資源になっていたと考えるのは面白い。今や様々な〈部族〉で男性性や女性性が断片的な資源として用いられているのだとすれば、身体的な性別が男性や女性やそれ以外であったとしても、「男性性」/「女性性」/「セクシャルマイノリティ性」はそれぞれ、〈部族〉として断片的に(ハイブリッドな形式で)用いることが可能なのではないか。例えば、近年話題になった「ジェンダーレス男子」などはそれぞれを断片的に拾い上げているようにも思われる。

 

 

 

第五章 一人ぼっちでラグビーを――グローバル化ラグビー文化の実践

 河津孝宏[6]

 

[6]東京大学大学院学祭情報学府博士課程在学中(2009年情報)、WOWOW勤務。1971年生。著書に『彼女たちの「Sex and the City」――海外ドラマ視聴のエスノグラフィ』(せりか書房、2009)

 

1 グローバル化とスポーツ文化、そして男性性

 メディアで注目されてきたプロ野球と大相撲は退潮し、80年代後半からはF1、サッカー、バスケ、総合格闘技が表に出てきている。また、野球にしてもメジャーリーグがメディアに出てくるようになり、メディア資本の国際的な再編と共に、私たちが接しているメディアも国際化が起こっている。

 これは、グローバル化として、また、社会学者のギデンズの言葉で言えば、「脱埋め込み(特定の場所に根付いた対面的な社会関係や共同性から個人を引き剥がすこと)」[7]の進行と言える。ただし、グローバル化はローカルに積み上げられてきた伝統や制度を一掃してしまうのではなく、両者は錯綜しながら新たなスポーツ文化の実践のコンテクストを形成していく。

 また、多くのスポーツ文化に見られる男性間の連帯や共同性は、家父長制における男性優位性の確認・維持の装置となる「ホモソーシャリティ(男同士の絆)」[8]として指摘されてきた。しかし、グローバル化の中で、「体育会系」とも称される男性メンバー同士の閉鎖的な結束と連帯のあり方も相対化されることになる。

 この章ではラグビー者(プレーや観戦や語りを通じてラグビー文化に接する者)の経験を扱い、グローバル/ローカル双方のコンテクストの交差を読み取る。

 

[7]イギリスの社会学者ギデンズは近代化を

①時間と空間の分離(テレビで世界の様子が中継されたり、乗り物ですぐ遠くに行けたりなど)、

②脱埋め込みメカニズム(専門家システム(電車がどうやって動いてるか、法律がどうやって運用されているか等知らなくても使える)と象徴的通標(貨幣など))、

③制度的再帰性(「伝統」は疑われずにその伝統の元で行為はなされていた。しかし、今や制度は絶えずチェックされ改変され、その制度のもとでまた行為し、行為によって制度が変わり……という感じで「構造→行為→構造→……」のループが起こるということ)

の三つに整理している。

[8]英文学者セジウィックの用語。非性的な男同士の絆のこと。その成立にはしばしばホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー女性嫌悪)が伴うとされている。それはすなわち、性的な絆を私的領域に押し込め、互いが異性愛であることを確認し合うことによって、安心して公的な領域で非性的な絆を形成することができるということである。

 

 

2 日本のラグビーの熱狂と停滞

 ラグビーは名門大学や一流企業のイメージと結びつき、戦後日本社会の集団主義的な体制を表象する一面を有してきた。特に70年代末から90年代初頭に人気だった。

 80年代にはメディア表象としてラグビー文化が取り上げられ、まともに成立していた。そこでは、ラグビーによる男性たちの結束がウェットに描かれていた。しかし、著者によれば今ではその表象に違和感をおぼえるのだという。その違和感は、90年代中盤以降のラグビー文化のメディア上での退潮と同じ地平にあるという。

 

一九八〇年代の「大学生的」熱狂

 ラグビー慶應、京大、早稲田、明治などの大学チームによって牽引され、戦後の社会人チームの台頭を経て、70年代から80年代にかけてポピュラーになっていく。伝統的な早明戦は戦略的な意味での対立構図を提供してくれるため、大学生とOBを中心とした一大イベントとして人気を博していった。

 明大の元学生によれば、90年代初頭、早明戦で勝ったチームは新宿歌舞伎町のコマ劇場前を占領し、飲み会していたという。早稲田の名フルバックだった今泉清は、ペナルティ・ゴールを狙う際に大股で五歩ステップバックするルーティーンでおなじみだったが、観客がそのステップに合わせて「イチ、ニ、サン、シ、ゴー」と大コールするのが恒例だった。これは、学生たちの飲み会のコールと連続していた。

 

八〇年代/九〇年代の断層:コンテクストの開放

 スポーツ総合誌『Number』の表紙掲載回数を見ると、80年代はラグビー隆盛の年だったが、90年代になってF1やサッカーに取って代わられたことが分かる。また、ラグビー特集のタイトルを見ると、国内のみに焦点を当てたものから、国際舞台における日本ラグビーの位置付けを前提に構成されたものに推移していった。80年代のように国内のコンテクストに内在したままでは商品としての特集が成立しなくなっていったと言える。

 

ローカルな文脈からの離脱

 ここから80年代後半からのスポーツ文化のグローバル化が読み取れる。実際、ラグビーにおいても大学間対抗というローカルなコンテクストに留まらず、87年のワールドカップの開催を端緒にグローバル化が進展していった。大学ラグビー中心のアマチュアリズムから決別し、トップカテゴリーである社会人リーグの全国化とプロ化、つまり「世界標準」へのキャッチアップを目指すことになる。

 ギデンズ的な枠組みで言えば、プロ化という名のもとに場所の特殊性を消失させる「象徴的通標」に手を伸ばし、脱埋め込みプロセスが進んでいったと言える。

 

 

3 ラグビーをプレーする――ローカルな共同性の実践

 このような経緯を踏まえたうえで、「ラグビーを愛好すること」の今日的な実践の在り方に接近するため、プレー/観戦を問わず様々な形でラグビーに接したことのある人達へのフォーカス・インタビューを行った。

 

ラグビー部での日々――過酷さから連帯へ

 ラグビー部の活動の厳しさ、つらさが異口同音に語られ、また、拘束時間の長さと肉体的な負荷の高さゆえに、部員のラグビー外の活動や人間関係を制限しがちである。

 しかし、そんな過酷さにもかかわらずラグビーを続けられる理由は、メンバー間の連帯だという。ラグビー部のメンバーは、他の運動系クラブと比べても、その非日常性ゆえに外部からの「隔離」に近い状態に置かれやすい。そのため、部員たちは互いを扶助しあい、連帯や一体感を強めていく。

 

連帯の符丁としての男性性

 ラグビーでは卓越した個人技よりもチームとしての連携を保ち続ける献身的なプレー姿勢が要求される。その中でのプレーは必然的にある種の精神的高揚を伴い、攻撃性や荒々しさといった男性的なトーンを帯びたものになる。

 つまり、連帯や相手チームの対抗心などの集団的な性質から個人個人の男性性が発露されており、そこにはホモソーシャルな関係性の実践としてのラグビーがあると言える。

 

チーム内部での濃密な経験/外部との断絶

 語りによれば、青春期の生活における潜在的な空虚さに対して、「熱さ」と「濃さ」を注ぎ込んでくれる存在としてラグビーが選ばれている側面があるという。そして、そんなラグビーへの特別なコミットメントは指導者との人格的な結びつきと関係があるという。ラグビーに打ち込んできた選手を指導者は見守り、その言葉によって彼らのつらさに意味を与えるため、彼らは「救われる」経験をすることになる。

 しかし、以上のような濃密さゆえに、ラグビーの外部にいる者との経験の共有は難しく、温度差が生じてしまい、ラグビーに対するステレオタイプ的な表象(「痛い」、「つらい」など)を自分が引き受けることでお茶を濁すしかないという。それゆえ、ラグビーの濃密な経験はプレー共同体の内部に封じ込められることになる。

 

ローカルな共同性の実践

 ラグビーをプレーすることは、スポーツの実践であると同時に、チーム内で完結したローカルな関係性の実践でもある。

 しかし、学校制度と結びついた実践空間は期限つきで一回的なものである。特定の場所に根付いた関係性から離脱したコンテクストにおいてのラグビーの実践はどうあるのか。

 

 

4 ラグビーを観る――共同性からの離脱と競技性の消費

 プレーしなくなってからラグビー文化へのコミットメントを維持するには二つの条件がある。それは、ラグビーを巡るローカルな共同性(かつてのチームメイトとの縁やラグビー経験を共有する場)を維持することと、ラグビーという競技に関わり続ける(観戦する)ことである。

 

共同性の再構築

 ラグビー実践における共同性を維持した例として、47歳のインタビュイーのFは卒業後も草ラグビーでプレーを続け、大学時代の仲間と共にラグビー観戦を趣味として母校を応援し、国内のプロリーグである「トップリーグ」や日本代表の試合もカバーしていたという。Fの人間関係もラグビーを軸にして形成されている。

 しかし、これは希少な例だと言える。Fが30歳代だった90年代半ばまでは秩父宮か国立競技場で大きな試合が行われていた。グローバル化による「脱埋め込み」を受けずに東京で観戦を続けられたために、80年代と同質の共同性の中に居続けることができていると言える。

 

「脱埋め込み」後のラグビー観戦――グローバルで私的な実践

 一方、75年生まれのインタビュイーBに注目すると、Bは高校・大学のチームメイトと親交を続けているものの、観戦の経験を共有できる人がいないという。Bは海外のラグビー中継、特に南半球三ヵ国による国際大会に熱中し、サッカーも観ているために、国内ラグビーは後回しにされ、実際に観に行くことも少ないのだという。

 Bが大学を卒業してプレーの第一線から退いたのが90年代後半であり、ラグビーグローバル化が進んでいた時期であった。個人でアクセスできるコンテンツの範囲が広がり、本人にリテラシーがあれば限りなくマニアックなコンテンツに浸ることができる今日の環境において、メディア実践は個人化していく。オールブラックス好きが高じてニュージーランドへの短期留学まで果たしたBの個人的なコンテクストは他のラグビー者一般と直ちに共有できるものではない。ギデンズ的な枠組みで言えば、Bは率先して「脱埋め込み」に応じ、その後も何らかのローカルな共同性の中に「再埋め込み」されることもなく、自由で孤独な実践を続けている。

 

 

5 排他性と優越性なき「男」

 Bのラグビーやサッカー観戦の実践は、家庭においても共同性の外にある。このような共同性なき実践における実践者は、男でも女でもなく「私」であると言える。

 ラグビーにおいて発露する男性性が、メンバー間のホモソーシャルな連帯を維持し確認するための符丁ではある。しかし、著者のインタビューからは他者の姿が見えてこない。自らを「男」というカテゴリーに区分けするために必要な「男でない者」を、彼らは語りの中で分節化・対象化することはなかった。

 むしろ、大学ラグビー部の女子マネージャーAの語りは、彼女がプレーに参加できずともチームの強い連帯の中に組み込まれていることを示している。ここでは従来のスポーツ文化におけるジェンダー研究と違い、「男でない者」に対する優越性や排他性を前提としない「男らしさ」が見出される。ラグビー者は「仲間」であるために必要な限りで「男らしさ」を引き受けているのであって、決してその逆ではない。だからこそ、「仲間」の連帯から解かれたとき、つまりラグビー者がプレー空間の共同性から「脱埋め込み」を受けたとき、彼らはもはや「男」というカテゴリーから離脱して、「私」としてラグビー文化に関わっていく。

 

第五章を受けての議論:

・ローカルな共同性が「脱埋め込み」されていき、それに代わる「象徴的通標」がグローバルな関係性を作るという話は私自身の研究(ローカルな共同性が希薄な集団において起こるサークルクラッシュ)とも深く関わる論点なので、頷けるところがあった。ラグビーをプレーしなくなった人がどのようにラグビー文化と関わっているのかを追うというのはとてもユニークな研究。

 

・最後に「排他性と優越性なき男らしさ」という話が出てきたが、プレー空間の共同性から脱した後のBはやはり孤独だとは思うし、それでいいのだろうか。

 

・むしろ、プレーしていた時代の「男らしさ」はやはり排他性と優越性を伴うものだったのではないか。「脱埋め込み」後の推移から事後的にローカルな共同性を「排他的なものではなかった(だからこそ孤独になっているのだ)」と論じているようにも見えるが、そういう論理展開だとしたら、それはさすがにおかしいのでは。著者はラグビーの共同体を少し理想化しすぎではないか。

 かといって、「このローカルな共同性には、排他性と優越性がない!」と実証的に明らかにするのは相当難しいだろうなあ。

 

・「連帯することによって男らしさが発露され、その男らしさによってまた連帯が維持される」という論理だったと思うけど、「前提として男らしさが目的にあり、だからこそ連帯している」ということはないのだろうか。

 

第六章 「男らしさ」の装着――ホストクラブにおけるジェンダー・ディスプレイ

 木島由晶[9]

 

[9]社会学者。1975年生。桃山学院大学社会学部准教授。第三章の谷本さん・西山さんと同じく阪大出身なので何か繋がりがあったのだろうか。音楽やゲームなどのポピュラー文化に関する論文がある。共著では「なぜキャラクターに『萌える』のか――ポストモダンの文化社会学」(2008、『文化社会学の視座』所収)や「ゲームはどこまで恋愛できるか」(初版2011、第三版2017、『デジタルメディアの社会学』所収)

 

1 〈男〉を演じる

「男らしさ」の脱皮と獲得

 「男らしさ」は「鎧」であり、脱ぎ去るべきものであるという議論があるが、80年代には、「男らしさ」の獲得が謳われた時代もあった。「男はタフでなくては生きていけない。やさしくなくては生きていく資格がない」(フィリップ・マーロウ

 裏を返せば、「弱さを見せるな」ということである。しかし、やせ我慢の方が恥だと感じられたり、「女々しい」という印象に潜む性差別的な含みが看守されたりすれば、獲得すべきとされたその「鎧」は脱ぎ去るべきものに転じる。

 

指針なき時代の不安

 「男らしさ」が獲得や脱皮の対象となるのは、それが揺らいでいるからである。つまり、「男らしさ」は家父長制が失墜していく戦後史の動きを象徴している。世代論的には「新人類」世代が特にその失墜を切実に受け止めていたと言える。

 具体的には、「アッシー、メッシー、ミツグくん」が流行語となり、「弱い女」と「強い男」の関係性が転倒して報じられた際、『Hot Dog Press』のような若年男性向けのメディアは「どうすれば女性を攻略できるか」という特集を頻繁に組んだ。これは旧来の男らしさからの脱皮を促すものであると同時に、失われつつある男らしさを再獲得するための指南でもあり、両義性があった。

 しかし、今や脱皮や獲得の基準となるはずの「男らしさ」という観念そのものにも共通の了解を見出せなくなった。つまり、「いかに脱皮/獲得するか」ではなく「何を指針とするか」が切実な課題として表れてきたというのが新しい男性問題と言える。

 

「男らしさ」を演じる職業

 これは、本当に「男らしい」かどうか以上に、そう見えるかどうかが問われているがゆえに演技的な問題と言える。そこで今日的な「男らしさ」の演技を考えるにあたり、「ホスト」に注目する。その理由は二つ。

 一つ目は、ホストが「よき男性」として振る舞うことを期待される職業だからである。そこでは、〈男〉と〈女〉の関係がねじれた形で現れる。つまり、ホストクラブでは役割roleとしては男女の関係が反転し、女性が金で男性を「買う」のであり、ホストの支配権や決定権は客の側にある。一方で役柄characterとしては男女の関係が誇張され、女性が男性に金を「貢ぐ」という点で金銭的奉仕を客が少なからず楽しんでいる。いずれにせよホストが「よき男性」とみなされなければ、店にお金は支払われない(役割/役柄の区別については後述)。

 二つ目は、ホストクラブそのものに「男らしさ」の変化が示唆されているからである。というのは、90年代の前半頃から、歓楽街のホスト遊びは中年文化から青年文化にシフトした。ホスト以外でも「男の社交場」だった歓楽街がいかがわしさを失い、「マダムの社交場」だったホストクラブにも若い女性が気軽に立ち寄り始めた。

 著者は2001年にホストクラブで働いた経験をもとに、店を辞めて以降も梅田・新宿の歓楽街にあるホストクラブを中心に聞き取り調査を続け、①オーナーが二十歳代前半~三十歳代前半で、②店は90年代の後半以降に作られたものであり、③従業員も客もに十歳前後の青年層を中心としている店を調査した。その調査から、今日のホストがいかに「男らしさ」を演じているかを検討する。

 

 

2 上演舞台としてのホストクラブ

ゴッフマンのユニークネス

 分析の前に社会学者ゴッフマンの理論を整理する。ゴッフマンの着眼の特色を大きく三点抽出する。

①行為の中身(何をするか)よりも、外見(どう見えるか)に注目したこと。言い換えるなら、「役割-行為」ではなく、「役柄-表出」に力点が置かれる。〈男〉と〈女〉の関係に当てはめるならば、「男は仕事、女は家庭」という役割分業のありよう以上に、「男は堂々と、女は可愛らしく」といった挙動やしぐさが分析される。

 

②集団そのものよりも、それが立ち現れる背景に注目したこと。社会学では通常、関係性のあり方から集団を類別するが、ゴッフマンはむしろ、人と人とが居合わせる社会的場面の方こそを類別した。つまり、集団があるのではなく、いかにして集まりが形成されるのかに注目し、「出会い」encounter(人々が居合わせる曖昧で流動的な状況、雑踏におけるすれ違いなど)から「全制的施設」total institution(外部から厳格に隔離され、管理の行き届いた施設、精神病院や監獄など)までを分析の対象とした。

 

③そうした場面で他者の面前に表れる「私」の姿を、重層的に捉えたこと。複数の「私」を横に並べて把握する(会社ではよき社員、家庭ではよき父)のではなく、深さの層として把握する(本音と建前、素顔と仮面、など)

 

 ゴッフマンは社会学的な認識枠組みの図と地を反転させ、「秩序→対面相互作用場面」の矢印ではなく、対面相互作用場面から秩序が立ち上がってくる矢印を探求したと言える。

 

パフォーマンスと局域

 ゴッフマンの『行為と演技』は、劇場のパフォーマンスのように社会を分析する。場面を「劇場」に、そこにあるものを「舞台装置」に、そこにいる人々を「役者」や「共演者」や「観客」などに見立てる。

 パフォーマーたちが演じる「局域」regionは大きく三つに分離されやすいとゴッフマンは指摘する。①役柄がオーディエンスの眼前で成功裏に演じられる「表局域」、②オーディエンスから隔離されて役柄から降りる「裏局域」(舞台裏)、③そのどちらにも属さない「局域外」とに区別される。

 

自営する従業員

 ホストの仕事は①接客、②キャッチ、③営業に分かれる。①接客は店で客を楽しませること。②キャッチはホスト自身が街に繰り出し、行きかう女性に声をかけてつかまえること。③営業は客(または客候補)と店の外で親睦を深めること。

 

明けない仕事

 以上より、①は夜、③は昼、②は昼夜分かたず行われている。夜は従業員の役割、昼は自営業の役割を果たすと言ってよい。

 

ホスト社会の局域編成

 このように考えると、ゴッフマンの区別につけ加えて、夜の接客場面を「表局域」とするならば、昼の営業場面は「下位局域」と呼ぶことができる。「下位局域」は従業員の目からは見えないという点で、個人事業主としての「舞台裏」となるのである。

 彼らが演じる「男らしさ」の特徴を掴むには、店の外にも注目する必要がある。

 

 

3 ホストクラブのジェンダー・パフォーマンス

ホスト社会の競争原理

 ホストクラブは一種の駆け込み寺であり、広く門戸を開いている。その理由は二つある。一つは、慢性的に求人難だから(重労働)、もう一つは採用しても損をしないからである(歩合制)。

 ホストクラブで重要なのは結果であり、手段はどうあれ売上げればよい。売上至上主義は広告やトイレや厨房に掲載される「売上ランキング」にも表れている。そして、売上によって歩合給が上昇したり、出勤時間をフレックス制にできたり、豪華なマンションが貸し与えられたりする。また、職階も基本的に売上で決まる。この売上の競争は「面子」の競争であると言える。

 

生活世界の局域化

 ホストは売上を伸ばすために、〈男〉を磨く(自身の商品価値を高めるために外見に気を遣い、コミュニケーションの取り方を学ぶ)。また、営業の「舞台」を整える(人気の料理屋やアミューズメント施設をおさえておく、自宅を「営業用」に演出する)。そして、売れたら売れた分だけ身辺の演出にかけられる費用も増えていく。ここには、「誇示的消費」(ヴェブレン)の原理も見て取れる。稼いだ分だけ演出に注ぎ込むのは、彼自身がそう欲求しているからというよりも、ホスト社会の規範的な要求に従わざるを得ない部分が大きいと考えられる。

 ともあれ、身辺の演出に精を出せば出すほど、彼らの生活世界は「局域化」していく。つまり、「局域外」の領域がなくなっていくということだが、局域化が進行するほど、役柄であったはずのホストの「仮面」は、限りなく当人の「素顔」に近づく。外見と中身、演出と実像といった区別がつかなくなり、普段からホスト然とした佇まいが備わることになる。

 

面子でつながるバディ

 ホスト社会の競争原理は客にも作用している。彼女たちにとっても、自分と接するホストが売れるのは名誉であり、売れないのは恥であるという感覚を共有している。

 その理由は客とホストが中長期的に二者関係を築くからである。ほとんどのホストクラブに一度自分の担当に指名したホストを二度と変更できない「永久指名」の制度があり、ホストと客は互いの面子をかけて共闘する「バディ」の関係になると言える。

 そして、ホスト同士の売上競争と同型の構図が、一人の担当ホストを中心とした指名客同士の支払い競争において生じる。これもまた「誇示的消費」と言える。ホストの側も、「下位局域」において客一人ひとりに対して、「お前が一番」あるいは「特別」といった態度で接することを余儀なくされることになる。また、時間差で客に会うなどの工夫も行われることになる。

 

オブジェとしての男性性

 一ヶ月間の売上が決定する月末(締め日)において「舞台」は輝く(接客をするホストを支援するヘルプが入る例)。「ドンペリコール」では、客は単なるオーディエンスではなく、その場に見合う〈女〉として映るよう、パフォーマンスをする。客は昼に「尽くされる女」となるのに対し、夜は「貢ぐ女」として金銭的な奉仕に努めるが、従来の「尽くす女」と違うのは、通常の性別役割分業が男性を「陰」で支える役回りであるのに対して、彼女たちは店で奉仕し、店でその功績が大々的に賞賛される点にある。

 ゆえに担当ホストは、夜は「貢がれる男」としてふんぞり返っているようでいて、実は客の誇示的消費を満足させるオブジェのようなものである。

 

 

4 「男らしさ」のコーディネート

望まれる男性像の探知

 旧来的な男らしさとホストの演じ方では二つの違いがある。一つ目は、「男の美学」を持たないことである。北方謙三が述べるような、旧来的な「男らしい人間」は、「羅針盤」としての「男の理想」を内面にインプットし、自分のルールを押し通して生きるタイプであり、いわば「信念の人間」である(リースマンのいう内部指向型にあたる)。一方、ホストの演じ方は客のニーズに従い、相手の反応を敏感に察知する「レーダー」を研ぎ澄ませる「空気を読む」人間である(リースマンのいう他人指向型にあたる)。前者は「男の誇り」を守り抜くことに自尊心を持つのに対し、後者は「売上のランク」を守り抜くことに自尊心を持つ。

 

望まれる状況の探知

 二つ目の違いは、単一の役柄に固執しないことである。ホストはある種の感情労働と言えるが、葬儀屋などのように一貫しているわけではない、言わば「カメレオン型」の感情ワーカーである。

 

「男らしさ」の衣へ

 ホストは、一つの「私」を信じぬくことが困難になった今日における「男らしさ」の在り方を、ある部分で象徴している。彼らは「男らしさ」を無理に獲得しようとも、脱ぎ去ろうともしていない。「らしくある」とはどういうことかを悩まず、「形から入る」のであって、「らしさ」は後からついてくる。

 彼らにとっての「男らしさ」とは、必死で獲得/脱皮する「鎧」というよりは、なんとなく着脱する「衣」のようなものである。衣を着脱することに屈託がないのは、自分の望む〈男〉以上に、相手の望む〈男〉を演じようとするからである。

 ここには「男らしさ」を楽しむ、いわば「試着」を許す寛容さがある。ただしその快楽はむろん、状況に適切な役柄をどう「着こなす」かという不安と背中合わせの関係にある。いずれにせよ、今日の若年男性は「男らしさ」を上手にコーディネートしていかざるをえない。

 

第六章を受けての議論

・「着脱」ができる人ばっかりではないだろう。社会学の若者論では、一元的自己から多元的自己(あるいは、平野啓一郎の言う分人主義)へと変化しつつあるということが言われているが、それでも相当数「一元的自己観」を持った人間はいる。ホストの中にも、役柄間の葛藤や、役柄に「素の自分」が引っ張られることに苦しむ者はいるのではないか。

 

・男らしさというよりも、自分らしさ(アイデンティティ)の議論が中心だったように思う。強いて言うなら、女性のニーズを媒介して自分の〈男〉らしさを作り上げていくこと、また、その作り上げ方が主体的な”演技”であることが現代的なのかもしれない。

 

・(女性が持つ)オブジェとしての男性性という議論は面白かったが、旧来的な「オブジェとしての女性」が反転しただけのような気もする。

『当事者研究と専門知』読書会第一回(9/7)の個人的感想メモ

 

 友人のべとりんが『当事者研究と専門知』読書会を開くということで、面白そうなのでskype参加した。当事者活動を実際にやっている人とかも参加してて実りのある内容だった。以下、個人的な感想メモを記す。

 

1.平井秀幸「ハームリダクションのダークサイドに関する社会学的考察・序説」(『当事者研究と専門知』p119-131)の雑な要約

 ハームリダクション(以下HR)とは「合法・違法にかかわらず精神作用性のある薬物について、必ずしもその使用量は減ることはなくとも、その使用により生じる健康・社会・経済上の悪影響を減少させることを主たる目的とする政策・プログラム・実践である」とされている。

 

 薬物使用に関するHRは「犯罪モデル」にも「医療モデル」にも対立するものとして生まれたと考えられる。
 「犯罪モデル」では薬物使用を「乱用」と扱い、処罰によって解決する。
 「医療モデル」では薬物使用を「嗜癖」と扱い、治療によって解決する。
 それらに対し、HRのモデルでは薬物使用は単に「使用」というノーマルな行為であり、使用そのものを減らすのではなくて「健康・社会・経済上の悪影響(ハーム)」を減らす方向に持っていく。

 

 その例として「安全な注射」キャンペーンが挙げられる。そこでは、①「安全な注射技術」の伝達、②「注射器具の適切な廃棄」の教授、③「注射実践についての思慮と沈黙」の勧奨(むやみに薬物を使用していると発言したり、使用する姿を見せたりしないこと)といった実践が行われる。なお、「安全な注射」キャンペーンでは、薬物使用当事者をサービスの受け手だけでなく、キャンペーンを広める人としても扱う。

 

 しかし、このようなHRにはダークサイドがある。すなわち、「安全な薬物使用者」の像を示すことによって、それに従わない人は「リスキーな薬物使用者」とみなされてしまう。これにより、「リスキーな薬物使用」の方を選んだ人間は「自己責任」であるとして処罰・排除の対象となることが正当化されてしまう。また、「安全な薬物使用者」がそのキャンペーンを広める者として動員されることで、その処罰・排除はより苛烈なものになりうる。これらは「安全な/リスキーな薬物使用者」の分断統治と言える。
 また、問題の焦点が「薬物使用」ではなく「ハーム」に当たるため、薬物使用以外のリスキーな行為(性病予防のなされていない性行為や、不衛生なホームレスなど)も排除の対象になる恐れがある。

 

 そもそもHRにおける「ハーム」とは何だったのか。これまで述べてきたHRはHIV/AIDSやC型肝炎などの公衆衛生的なものをハームと定義した際に行われる、効果があるというエビデンスに基づいた政策である。つまり、HRは「寛容さ」や「薬物使用当事者の脱スティグマ」が第一義的な目的で行われているものではない。
 それに対して、「薬物使用当事者のQOL」にとってのハームを考えることができる。このハームを対象としたハームリダクションを〈HR〉とするならば、ダルクをはじめとした当事者活動はむしろ〈HR〉を志向してきたのではないか。ここでは、「減らすべきハーム」を定義するのはあくまで「個人」である。一方「ハームの減らし方(リダクション)」の方は、資源調達の困難さを考えれば、できる限り社会が担うべきであると考えられる。
 HRのダークサイドについて鑑みれば、〈HR〉への想像力を高めておく必要がある。そのヒントは日本の当事者活動にあるのではないか。

 


2.ホリィ・センの持った疑問

 「ハーム」は個人的なものとして扱い、「リダクション」は社会的にやっていくということが本当にできるのか?

 

 というのは、ハームとリダクションが分けがたく結びついているのではないかと考えられる。例えば、医療のモデルで考えてみると、「ハーム」の定義は「診断」であり、「リダクション」が「治療」にあたる。あるいは、「ハーム」が「問題」で「リダクション」が「解決」と考えてもいいかもしれない。
 このとき、「治療」や「解決」というゴールによって「診断」や「問題」が定義されてしまう可能性がある。HRの話に戻せば、「リダクション」を社会的なものと考えると、「ハーム」を個人的なものと捉えることが難しくなってしまうのではないか。逆に、個人的な「ハーム」に対して社会的な「リダクション」を当てはめるのは難しいのではないか。

 

3.この疑問に対して出た話

 「当事者研究」の文脈に引きつけて考えてみると、当事者の問題(ハーム)を定義する際にも当事者だけでやっているわけではない。語り合ったり、他人の言葉を借りたりしながら自分自身の問題を定義していく。つまり、個人的な「ハーム」を定義するためにもある種の「社会的なもの」は必要なのである。


 また、ベーシックインカムや、個人が行ける「居場所」がいっぱい社会に作られていくことは、「社会的な」リダクションの例なのではないか。

 

4.更にホリィ・センが考えたこと

 「個人」と「社会」は必ずしも対立概念として捉えられない。「個人」が使える選択肢、資源としての「社会」はむしろいろいろあった方が良い。その意味では公衆衛生型HRが想定する「社会」も、当事者型〈HR〉が想定する「社会」も、個人にとっての「選択肢」として現れてくるのであれば良いものな気がする。(ちょっと違う話だけど、国家がやるべきことは「基準」を定めることであって、「裁量」をすることではないという国家観を思い出した。ハイエクソ連社会主義の批判の文脈で言ってるらしいが……)

 

5.他に面白いと思った話


・公衆衛生型HRが批判されているけど、誰でも真似できる共通の枠組みがあって、効果のエビデンスもあるんならけっこう良いことなのではないか。むしろ、当事者型〈HR〉はすごく個人の力に頼ることになるし、形式化された枠組みもないし、危ういものなのではないか
(個人的な意見としては、「リスキーな当事者」がスティグマされることによって生じてしまう「罪悪感」と「孤立」を防ごう!という枠組みは共有できるのではないか、と思った)

 

・本で扱われているのは薬物使用だったけど、自傷行為とか性的逸脱とかアルコール依存とかでもHRの考え方は応用できる可能性がある。しかし、その対象によってHRの方法だけでなくHRを行う主体も変わってくるだろう

 

・日本とオランダでは対人観がそもそも全然違うよねという話。オランダで公衆衛生型HRが発達した(?)のは新自由主義的な対人観があったからではないか
(個人的な意見としては、日本はねじれた新自由主義のようなものがあると思う。マクロな社会政策としては新自由主義的だからこそあまり福祉が発達せず、HRも発達しなかったのではないか。しかし、ミクロな対人観としては新自由主義がそこまで浸透していないからこそ、ダルクのような〈HR〉の先駆的存在が発達したのではないか)

アンコール複借論争~ホリィ・セン×借金玉イベントに蘇る複素数太郎~

 予定されていた「複素数太郎借金玉イベント」が中止になりました。複素数太郎の代わりに僕、ホリィ・センが登壇することになりましたが、僕は複素数太郎借金玉イベントを開く意義が未だにあると思っています。
 この記事ではまず、複素数太郎がイベントから外されてしまった経緯を書きます。にもかかわらず複素数太郎が出している論点が重要であるがゆえに、複素数太郎が登壇しないとしてもやはり8月25日はその論点について議論すべきだということをその次に書きます。

 特に司会を担当していただく青識亜論さんにはこの記事をしっかり読んでいただけると助かります。

 

1.複素数太郎はいかにして外されたのか

 この件について僕は推測することしかできませんが、僕なりの見解を述べておきます。

 

1-1.「複素数太郎を外して代替イベントをやろう」という借金玉さんの提案

 8月4日の夜に僕が今井くん(

今井 ホツマ (@O_regalis) | Twitter

)と会っていたところ、借金玉さんと今井くんと僕との三人でLINE通話をしようということになりました。
 そこで借金玉さんは、複素数太郎借金玉イベントを中止して、僕と借金玉さんの代替イベントを開催しようという提案をしました。
金玉さんがその提案をした理由は僕の聞いた限りでは以下の四点にあるように思いました。


複素数太郎が、事業の立場に立たずにアカデミズムの立場に立ち、(事業の立場からすれば)「無理難題」を相手に要求しており、そこから建設的な議論は生まれないこと。
②また、継続をすること自体が困難を極める「当事者運動」(なぜなら、当事者自身の精神状態が不安定だったり、使える手段が制限されていたりするから)に対して、複素数太郎が当事者のメンタルへの配慮がない言い方をしていること。
複素数太郎がそのようなアカデミズムの立場であるにもかかわらず、複素数太郎が集めた観客のリストを見たところ、それらはアカデミックな人間(例えば学者)というわけではないこと。
④それどころか、集められた観客は複素数太郎の周囲の「リスク」のある人間であること。そのような「リスクのある」人間がイベント時に何か問題を起こした際には、責任を取りきれないということ。

 また、なぜ借金玉さんは、複素数太郎の周囲の人間に「リスク」があると考えているのかについて以下で述べます。
 あるとき、これ以上ツイッターに関わることに対して危険を感じたために、複素数太郎は死んだフリをしました(詳細は以下)

sutaro.hatenablog.jp
 その際に誰もそのことを借金玉さんには言わず、その際に誰か(借金玉さんによれば「真実烏」というアカウント)が「借金玉さんが殺人者である」というデマを借金玉さんの職場に「密告」したため、借金玉さんは仕事を失うことになったという事件があったようです。

 他にも理由はあるとは思いますが、とりあえずこの事件などが理由で「リスク」があると考えているようです。

 最終的に8月7日の今井くんのイベント告知で複素数太郎が外されていますが、その背景には借金玉さんからの提案があったということをここでは述べておきます。

 

1-2.それでも複素数太郎借金玉イベントをやるべきだった(と僕は思ってる)

 そして、僕自身はそれでもなお、8月25日に複素数太郎借金玉イベントを開催すべきだと思いましたのでその場ではそう言いました。
 僕からすれば複素数太郎の出した論点は重要であり、上記の①②もまさにその論点に関わるポイントなので、イベントで議論すべき内容だと感じたからです(後述の2-2を参照)。
 また、③についてはそもそもアカデミックな人間を複素数太郎がその場に呼ばなければならない必要を僕は感じません(どうしても専門家に見てもらいたいなら録音・録画などをすればいいのではないかと思いますし、複素数太郎=アカデミズム、借金玉さん=当事者事業という対立構造が明確に成立しているのかについては疑問が残ります)。しかも、複素数太郎は専門家を呼ぼうともしていました。
 ④については「リスクのある人間の排除」ということ自体がまさに議論されるべき内容だと感じています(後述の2-1参照)。「リスクのある人間の排除」の是非を問うべき議論の場で、あらかじめ「リスクのある人間の排除」をするのは「論点先取」的だと僕は感じています。

 しかも、仮にリスクのある人間をあらかじめ排除すべきだとしても、現在リスクのある人間を排除できているのかどうかは分かりません。「複素数太郎の周囲の人間ならばリスクがあり、そうでなければリスクがない」と考える理由が不明確です(「京都若者界隈」なるハイリスク群が押し寄せてくるとでも考えていたのでしょうか?)し、今回のイベントの観客募集方法でも、抽選になるのならば「複素数太郎の周囲の人間」や「リスクのある人間」は入りうるのでリスクが変化するようにはあまり思えません(観客のツイッターアカウントを一人一人見れば、ある程度「検閲」できるのかもしれませんが)。

 また、そもそも集められた観客のリストを登壇者の一方である借金玉さんのみが閲覧し、それを根拠にイベントの中止を提案したという経緯はいかがなものか、とも思っています。最終判断を下したのが今井くんだとしても、強権的に今井くんに責任を押しつけすぎなのではないでしょうか。

 

 それに、やはり観客が見たかったのは複素数太郎借金玉イベントだろうと僕は思います。僕と借金玉さんのイベントは、その後にやれば十分でしょう。複素数太郎のことを踏まえずに僕と借金玉さんトークイベントをやるならば、それは敢えて言うなら「事業主」同士のイベントになることでしょう。しかしその前に「事業の論理」への批判者である複素数太郎との論争を終えておくべきなのでは? と僕は未だに思っています。
 とはいえ複素数太郎が登壇できないならもう仕方ないということで、8月25日の「ホリィ・セン借金玉イベント」には登壇させていただくことにします。ただし、8月25日のイベントに少なくとも複素数太郎が観客として参加するという条件は呑んでもらいました。

 

 

2.8月25日に議論したい内容

 さて、僕はこれまでサークルやシェアハウスを運営してきましたし、そこには生きづらさを抱えた“当事者”と呼べる人もいるように思います(かく言う僕自身もコミュニケーションや恋愛がうまくいかないことへの“当事者”性があったからこそ「サークルクラッシュ同好会」を始めたのです)。
 だから、本来なら「当事者事業」の主として借金玉さんトークイベントをするのが妥当だとは考えています。しかし、1で述べたように複素数太郎が出した論点は未消化だと僕は考えています。だから敢えて複素数太郎の批判を引き継ぎ、「当事者事業」なるものへの批判者としての立場も持った上で今回のイベントに臨みたいと思います。それは結果的に「当事者事業」を考える上でも建設的な議論になるでしょう。
 ということで、「当事者事業」なるものへの批判者としての立場をできるだけ勉強してから8月25日のイベントには臨みたいと思いますが、とりあえず今のところ考えている主要な論点だけでも、先に書いておきたいと思います。

 

2-1.「事業としてできること」について

まず借金玉さんの主張に引きつけていえば、「事業主として当事者運動をやる際に、何を最低限担保すべきか」という論点です。借金玉さんは例えば「赤字を出さず、事業として回す」「利益と目的をバランスさせ、可能な限りの継続性を担保する」ということなどを述べていました。

 

(他にもいろいろ述べていましたが詳細は以下)

twitter.com



 そこで、ある当事者事業において、自傷行為オーバードーズを禁止するような規定がある場合について議論になっていました。
 これに対する複素数太郎の批判は、「禁止」という抑圧をスタートラインにして支援を始めるべきではないということです。また、具体的な支援ということになるのであれば、自傷オーバードーズをする人に対してその危険性を低め、徐々に遠ざけていくという支援を行うべきだということや、学術的・医療的なバックグラウンドを踏まえた上で支援を行うべきだということなどを述べています。

 

 

 

 

 

 

 一方で借金玉さんの主張は、この批判を受け入れると、先ほど述べた「最低限」を担保できなくなる、ということです。なぜなら、自傷行為オーバードーズを容認することになれば、事業として責任を取りきれない可能性があるからです。責任を取れないと事業は継続できません。

 この時点でまず、「何が最低限なのか」という論点については様々なことが言えます。言い換えれば、「当事者運動を継続しつつ、かつできるだけ抑圧的でない支援をするためにどのようにバランスを取れるのか」ということが論点になるでしょう。
 ここで、複素数太郎の述べていた「小さな労力」とは、「きっかけを与える」、すなわち、規約において抑圧的な文言を使わないという話を指すと思われます。ただし、話が現実の支援や対処のレベルに移ると「大きな労力」になってくるものと思われます。
 つまり、複素数太郎の立場ではまず、「A.自傷行為オーバードーズを禁止する規定を作らない」ことが重要なわけです。

 ただし、具体的な支援の話になってくると、「B.自傷オーバードーズをする人に対してその危険性を低め、徐々に遠ざけていくという支援を行う」「C.学術的・医療的なバックグラウンドを踏まえた上で支援を行う」べきだということ などが複素数太郎から挙げられています。

 一方借金玉さんの立場では、Bは事業主としてはできるレベルではないし、Cも「監修をつける」のレベルになると労力やお金がかかり、到底できるレベルではないということです(ただし、BとCについては複素数太郎は応答として提示しただけなので積極的に主張しているわけではありませんし、話題になっていた「メンヘラ芸」の話も複素数太郎が始めたものではありません。よって、実はそもそも複素数太郎と借金玉さんの間にそこまで対立はないように思われます)。

 

 また、借金玉さんの主張では、それが一つの事業である限りその事業の内部において「コンプライアンスを守る」ためには、ある種の禁止をしてもよいという立場だと思います(「外でやる人には文句はつけられない」ものの)。一方、複素数太郎の立場からすれば、そのような規約をあらかじめ設けることは「抑圧」や「暴力」といった言葉遣いになるでしょう(ただし、規約とは関係なく、実際に支援にする場面においてある種の禁止をすることまでは、複素数太郎は積極的に否定まではしていないように思います)。
 借金玉さんはこの話について、アカデミズムとしてそういう議論は成り立つし、「お友達」に接する分にはそうありたいが、一つの事業としてやるならば禁止することになるということになるということだと思います。

 

 しかし、――あくまで僕が思うにですが――可能な限り、一つの事業の中であっても先ほどのBやCのようなことをすべきだと思います。この点についても8月25日に議論したい内容です。

 参考までにざっくり言っておけば、僕自身もサークルクラッシュ同好会やサクラ荘の内部で自傷オーバードーズを「禁止」したことはありません。それは、たとえ「事業」をやっていたとしても、やはり抑圧的でない関係性を作ることが重要だと考えているからです。

 

 そしてこの話は1-1の④で述べた「リスクのある人間の排除」にも適用できる話でしょう。僕が思うに「リスクがある」とされた人間をあらかじめ排除することは、責任を取るための「事業の論理」だと思います。それ自体が間違っているわけではありませんが、「当事者事業」であればこそなおさら排除という「抑圧」には繊細になるべきでしょう。もちろん無際限に「来るもの拒まず」というわけにはいきませんが、できるだけ排除せずに継続できるような事業のあり方についてはまだ工夫のし甲斐があるように僕は思います。

 参考にまで言っておけば、複素数太郎の批判対象であったメンヘラ.jpは、途中で規定の文言を少し変えています。
 元々メンヘラ.jpに書かれていた文言は「病気や障害を「魅力」として扱うような、治療プロセスにとって有害なコンテンツも掲載できません」だったのに対して、現在では【メンヘラ.jpでは掲載できないコンテンツ】として「病気や障害を過度に「魅力」として扱うようなコンテンツ」が挙げられているという変更です。これは、病気や障害を「魅力」として扱うことへの権利とリスクとの間のバランスを踏まえ、「禁止」という抑圧をスタートラインにしない、ベターな文言の変更だと僕は考えています。すなわち、複素数太郎の批判に意義があるパターンの一例とも言えるでしょう。

 

 再度抽象的なレベルで言えば、どこまでが「アカデミズム」や「お友達」で、どこからが「事業」なのか、また「アカデミズムの論理」や「お友達の論理」がどこまで「事業の論理」に入ってきてもいいのか、という話が論点になるように思います。

 

2-2.「当事者事業」は批判をどこまで受け入れられるのか/無視できるのか

 そして、とても重要な論点として、当事者運動への批判はどうあるべきかという問題があると思います。
 1-1で述べたように借金玉さんの立場からすれば、複素数太郎の主張には問題があります。再度書くと、

①事業の立場に立たずにアカデミズムの立場に立ち、(事業の立場からすれば)「無理難題」を相手に要求しており、そこから建設的な議論は生まれない
②継続をすること自体が困難を極める「当事者運動」(なぜなら、当事者自身の精神状態が不安定だったり、使える手段が制限されていたりするから)に対して、複素数太郎が当事者のメンタルへの配慮がない言い方をしている(それにまともに取り合ってたら運動の継続しようがない)。

ということです。

 一方で①について、複素数太郎の批判は、実際に海外の当事者運動である「ニューロ・ダイバーシティ運動」が「障害者権利条約」のスローガン「私たち抜きに私たちのことを決めるな」に依拠している、ということを援用しています(2ツイートだけ貼りますが、細かい議論はリプライツリーを見てください)。

 

 

 つまり、当事者のニーズに沿った抑圧的でない支援をするということは「当事者運動」としても主流のことであり、アカデミズムの枠内に留まらない上に、「無理難題」ではない批判になっていると捉えることもできます。
 また、②について――これも僕個人の意見ですが――複素数太郎の主張内容だけ抽出し、敵対しない立場の人が、マイルドな言い方に変えさえすれば、批判として有効に機能するのではないかと思います(それが僕がブログ記事に書いた「「メンヘラ.jp」の意義と批判まとめ」でやろうとしたことです)。

 

 そして、先ほどの2-1の議論を踏まえるならば、おそらく借金玉さんの主張は「事業の外部においてはその批判はもっともだが、事業の内部においてはその事業なりのルールがあるのだから受け入れられない」ということでもあると思います。
 そこで、――僕が思うにですが――ある批判を当事者事業がどの程度受け入れるべきかは、「その批判を受け入れられる場」が社会にどの程度存在するかに依存するように思います。例えば、「よそ」に有力な「駆け込み寺」があるのならば、「よそに行ってくれ」というのは分からないのでもないです。しかし、有力な「よそ」がないのならば、「よそに行ってくれ」と言うのは「たらい回し」をしていることになります。
 仮にあらゆる批判を受け入れないのであれば、メンヘラ.jp内でも批判されていた「クラスジャパン」(引きこもり支援)ような事態になりかねません。

menhera.jp

 だからこそ、「どこまで当事者のニーズを優先できるのか」は議論すべき点だと思います。

 

 以上より、「当事者事業」はどこまでの批判なら受け入れられるのか、またどういう言い方の批判なら受け入れられるのかということは論点になると思います。


3.青識亜論さんへのお願いと僕がこれから読む本

 少し雑多でしたが、2で述べてきた論点について僕は議論したいと思っています。それは、1で述べた経緯から、僕は複素数太郎の代理人の立場としても登壇したいと考えているからです。司会を担当していただく青識亜論さんにはぜひとも、以上の論点を踏まえた上で進行していただければとお願いしたいです。

 また、2の論点を踏まえて8月25日までには勉強して、議論を組み立てた上で臨みたいと思います。少なくとも、『自傷行為の理解と援助―「故意に自分の健康を害する」若者たち』(松本俊彦)は、例として出てきた自傷行為オーバードーズをする人への接し方を考えるために読みます。
 他に読もうと思っている本としては、「当事者のニーズ」というのは何なのかという問題を考えるにあたって『当事者主権』(中西正司、上野千鶴子)が挙げられます。
また、アカデミズムが当事者事業にいかに介在すべきなのかという視点では『臨床心理学 増刊第10号-当事者研究と専門知』(熊谷晋一郎編)も読んでおきたいところです。
 他にもいくつかあたりをつけていますが、とりあえずこれぐらいにしておきます。

 

 各位、8月25日はよろしくお願いします。

男性多数の(≒ホモソーシャルな)集団における女性の困難~サークルクラッシュ同好会の人間関係を例に~

要約:

サークルクラッシュ同好会には「女子グループ」が苦手だった女性が集まりがち→彼女らは「男性多数の集団」に入っていく

もっと一般化すると、男性多数で女性を性的に消費する「ホモソーシャル」の構造が背景にはある。ホモソーシャル集団においては女性はあらかじめ排除されていて、入ってこれた女性たちも分断されてしまう。

ホモソーシャル集団は体育会系っぽいのだけじゃなくて、オタクっぽいのもある。つまり、女性に接するのに慣れていない男性たちの作るホモソーシャルもある。そこでの実態は体育会系とは異なるが、やはり女性は排除・分断されてしまう側面がある。

サークルクラッシュ同好会固有の問題もいろいろとあるので、そのへんもサー同の人は読んでくれると嬉しい。

 

読むのにかかる時間:14分ぐらい

 

サークルクラッシュ同好会内の女性同士は仲良くできるのか?」問題が話題になっていた。この問題はサークルクラッシュ同好会というローカルな集団に留まらない一般的な問題を含んでいるので文章化しておく。

 

話題になったのは要するにこういう問題だ。サークルクラッシュ同好会内の女性が男性からの承認を集める。あるいは具体的に男性からの承認を集めていないとしてもそう見える("あざとい"ように見える)。それゆえに、女性同士は同族嫌悪してしまい、仲良くできないのではないか。

 

「女子グループ」が苦手な女性が集まってくる

この問題について根本から考えていこう。そもそも、サークルクラッシュ同好会に集まってくるような人は(男性も含めて)どういう人なのだろうか。
これはあくまで僕の感覚に過ぎないが、僕が思うに集まってくる女性は「"女子グループ"が苦手な女性」である。例えば、同質性を重んずる中学生女子(発達心理学の語彙では「チャムグループ」と呼ばれる)はトイレにすら一緒に行く。「とりあえずみんな一緒に」についていけない女子はハブられてしまうのである。この「女子グループ」に違和感をおぼえて生きてきた女性がサークルクラッシュ同好会に入ってくる女性の大部分を占めていると僕は思う。
では「女子グループ」に違和感をおぼえて生きるとどうなるか。これはバリエーションがある。それこそ分かりやすく女子グループからハブられてきた人もいるように思う。あるいはなんとか同調してやり過ごしてきたものの、強く違和感はおぼえていたという人もいるように思う。いずれにせよ大学生に上がる頃には女子グループを離れ、「男性と喋っている方がラク」というところに辿り着きやすい。

 

「女子グループ」におけるノリ、男性の視線

この男性、すなわち女性にとっての異性の視線というのも重要である。中学生女子のグループでは、「好きな人は誰?」という恋愛的な「ノリ」によって会話が成立するという。誰々が好き、ということを宣言することによってそれを応援するような流れも成立する。仮に好きな人が明確にいなかったとしても、誰かが気になっているということを敢えて言う、というような戦略を取る人もいると聞く。
逆にこの「ノリ」を脅かすことは許されない。例えば、男子グループとの距離が近いことによって男子に好かれている(ように見える)女子。これは、女子グループからは「抜け駆け」として非難される。中学生女子にとっては同性を取るか異性を取るかはダブルバインドなのである。このダブルバインドを解決するためには、女子グループでの「誰々が好き」という宣言があって、女子グループ内での認証を経た上で、なのである。この認証のステップを抜きに男子と仲良くなってしまうと、「なにあの子、男子に色目使ってチョーシに乗っちゃってさ」となるわけだ。
いささか誇張した話だが、こういった「ノリ」についていけない女性は女子グループでの「認証」のステップを面倒に思う。「認証」のためにはそもそも女子グループで会話が成立しなければならない。同質性を重んじる女子グループでは「みんな一緒」であることを確認するコミュニケーションが重視される。そこでは個性を発揮してはいけないのだ。まず相槌を打って合わせる。「雑談か議論か」で言えば、圧倒的に「雑談」の側のコミュニケーションだ。「毛づくろいコミュニケーション」と言ってもよい。

 

「男性多数の集団」に入ってしまうメカニズム

こういったコミュニケーションを面倒に思い、男と喋っている方がラクになってしまうというところがある。結果、どちらかと言えば男子グループの方に入っていき、大学生になったときにそれが顕著になる。
あるいは実際にハブられてしまった女性の場合、女子グループから逃げた先にあるのは男子グループである。中高時代はうまく溶け込めなかったとしても、大学生になってしまえば集団はそれぞれ分立している。要するに「サークル」に入ってしまえば自分の居やすい場所を確保できるのである。ハブられてしまった女性はある種のトラウマ的な「女性不信」を抱えて男性多数の集団を訪れるのである。

以上より、女性が男性多数の集団に入っていくメカニズムの一部を考察した。つまり、まず第一に重要なことは「サークルクラッシュ同好会は男性多数の集団である」ということである。少なくとも男性中心の集団である。特に、サークルクラッシュ同好会において言えば、このような「"女子グループ"が苦手な女性」が特に多く集まっているように思う。

(21時追記:そのため、そもそも女性が苦手、という人が集団に集まっており、女性同士が仲良くできないという側面はあるだろう)

 

しかしもちろん、女性が男性多数の集団に入っていくメカニズムはこれだけではないし、男性多数の集団における女性は実際にはもっと多様である。単に男性多数だったり男性中心だったりする集団は他にもいくらでもあるのだ。サークルクラッシュ同好会固有の問題から離れた上で、もう少し解像度を上げて考えてみよう。

 

ホモソーシャル集団への女性の入りにくさ

男性多数・男性中心の集団でパッと思いつくのは体育会系の集団である。体育会系の集団では「男性性」なるもの「女性性」なるものが誇張された形で表れていることが多い。そこでの男性同士の強い関係(しかしホモセクシャルではない、と彼らは言うだろう)を指して「ホモソーシャル」とも呼ばれる。この構造は体育会系に限らず見られる。
ホモソーシャルな集団においては、女性はあらかじめ排除される。というのも、まずホモソーシャルな集団では、男性から女性に対して異性愛的な視線が向けられ、そういった性愛の話題(典型的には男同士の下ネタや男性内で女性を評価するような話題など)が挙がりやすいからだ。そして女性を話題にすることで男性たちが絆を強め合う。そこには女性が入りにくいだろうし、集団内の女性が直接的に異性愛的な視線に晒されることもままある。ひどい場合はそれが直接的なセクハラにまで繋がってしまうこともある。よって、そういった異性愛的な視線に耐えたり、うまくかわしたりできる女性しかその集団には入ることが難しい。

 

ホモソーシャル集団における女性の分断

更に、ホモソーシャルな集団においては女性同士が分断される。このような集団に入れる女性の多くは、

A:男性と趣味嗜好を共有し、同じ目線で会話できる「男のような女性」(いわゆる「名誉男性」)

か、

B:男性の視線を内面化し、性的に客体化された女性

の2パターンである。Aの女性とBの女性はそもそもタイプが違っていて相容れない場合が多い。そして、Bの女性たちの中でも分断が起こっている。Bの女性たちは男性からの承認を資源としており、同じように男性から承認を集める女性を「敵」として認識せざるを得ない側面がある。男性からの承認というパイの奪い合いが起こってしまうわけである。似ている立場であるからこそ嫌な側面(具体的には男性からの承認を集めるための行動)がよく見えてしまい、「同族嫌悪」をしてしまう……といったことが起こりうるだろう。
(また、Bの中には性に奔放な人もいる。性に奔放な女性はこの21世紀になってもなお(男性からも女性からも)軽視されてしまう側面がある。その理由は二点、①Bの女性たちからすると性に奔放な女性は「承認を得るためにズルをしている人」と映るから。また、②性に奔放な女性は軽視していいという文化が脈々と続いてしまっているから、である。性に奔放であることによるリスクというテーマは興味深いがこれ以上詳しくは延べない)


ともあれこのように、ホモソーシャルな集団では構造的に女性同士が分断されてしまう側面がある。ではサークルクラッシュ同好会がホモソーシャルな集団か、というところだが、これは部分的にはそのとおりだと思われる。しかし、そうは言い難い側面もある。

 

「オタク的ホモソーシャル」もある

ホモソーシャル」概念においては、男性がどれくらい女性と接するのに慣れているか、という側面が捨象されている。そのため、体育会系の集団に限らず、例えばオタクたちの集団も「ホモソーシャル」だと考えられる。男性たちが女性に対して異性愛的な視線を向けているという点では等価だからだ。

 

男性の女性に対する問題のある接し方

しかし、典型的なオタクたちの集団では三次元の性愛経験に乏しい人間が多い。そのため、女性への接し方が体育会系のソレとは異なってくる。体育会系の側、つまり、女性への接し方に慣れている男性たちのホモソーシャル集団(以下、「体育会系的ホモソーシャル集団」と表記する)の場合、男性の女性への問題ある態度は大きく二種類に分けられる。一つ目は「優しい態度」だ。男性たちは女性を獲得するために女性に対して露骨に優しい態度を取る。それだけならば女性にとってはまだ問題はないだろう。しかしもう一つの「消費」の態度が問題である。最初は優しかったものの、いざ集団になじみ始めると露骨に性の対象や下ネタの対象として扱われ始めるわけだ。そこでは女性は「消費」されている。
一方、女性と接するのに慣れていない男性たちのホモソーシャル集団(以下、「オタク的ホモソーシャル集団」と表記する)において、女性への問題ある態度はどうだろうか。問題ある態度が三種類ある。

一つ目は「距離をおく」だ。女性と接することに慣れていない際、そもそも話しかけることができなかったり、適切な話題が見つからなかったりといったことが起こってしまう。これでは女性は集団内で疎外感を覚えてしまうだろう。二つ目は「男性のように接する」である。女性と接するためのパターンが分からない男性は、男性の友人に接するかのように女性に接するのである。すると、男性の話題に対応できる女性のみが集団に居ることができる。三つ目は「ゴリ押し」である。集団内に女性がいると誰にでも告白する、という男性を見たことがないだろうか。女性に対して常にゴリ押しする男は一定数いる。しかし多くの場合女性に気持ち悪がられてしまい、相手にされない。しかし、うまく断れない気弱な女性は被害に遭ってしまうのである。これは、体育会系のところで説明した「消費」の態度と似ている。いずれにせよ女性はセクハラ的な被害を受けてしまうからだ。

 

オタク的ホモソーシャルに入っていける女性

以上から、オタク的ホモソーシャル集団においても、「どういう女性が入ってこれるか」という問いを考えてみよう。体育会系的ホモソーシャル集団と同様に、「A:男性と趣味嗜好を共有し、同じ目線で会話できる「男のような女性」(いわゆる「名誉男性」)」は多いだろう。ただし「趣味嗜好を共有」というのも、非常にゆるやかになってきている側面はある。例えば男性中心のオタク集団に「腐女子」や「女性のオタク」と呼ばれるような人たちが参入してくることは珍しいことではなくなった。そこには「男性の趣味嗜好」とは似て非なる何かが文化として根づく可能性がある(腐女子の例を出したように、オタクサークルにおいては典型的にはBL文化だろう。僕自身、オタクサークルにいたときに「女性向け」のジャンルで集団内の勢力を伸ばす人たちを目の当たりにしたことがある)。ただし女性がホモソーシャル集団で独自の地位を確立する例は体育会系の集団においても見られる。例えばスポーツ集団における「女子マネ」も、ある種のケアワーカーとして専門化すると、集団内で自立した地位を獲得するという話があるのだ(しかし、腐女子の例と違って、あくまで「ケア」という女性役割からは逃れていないかもしれない)。

このように、入っていける女性は体育会系的ホモソーシャルとオタク的ホモソーシャルホモソーシャル集団の中でも、男性が女性に接するのに慣れているか否か)で異なる。次に、「B:男性の視線を内面化し、性的に客体化された女性」の方はどうだろうか。「オタサーの姫」という言葉も話題になって久しいが、実はオタクサークルでも男性から女性として見られることをある種利用する人はいる。あるいは、利用しているという意識はなくとも、結果的にそれで得をしている人はいるだろう。もっとも、先ほど述べたように、男性からの承認は体育会系集団のソレとはだいぶ異なる。あくまで慣れていないなりの承認であり、その異様さゆえに男性たちは「囲い」だとか「騎士」だとか揶揄されてしまうのであろう。

 

オタク的ホモソーシャルでもやはり女性は分断される

このように「ホモソーシャルな集団に居やすい女性」のAとBという分類は、オタク的ホモソーシャル集団においては体育会系的ホモソーシャル集団とはだいぶ実態が異なるものの、根本的には同一であるように思われる。これによってやはり多くの女性は集団に入りにくく、あらかじめ排除されてしまう側面はある。また、集団に入ったとしても、女性同士が分断を被る(AとBは仲良くできず、B内では男性の承認のパイの奪い合いが起きる)。
説明が長くなったが、ホモソーシャルを「体育会系的ホモソーシャル」と「オタク的ホモソーシャル」に分類してみた。「オタク的ホモソーシャル」の概念を使えば、サークルクラッシュ同好会の状況をうまく説明できるかもしれない。実際、サークルクラッシュ同好会の男性たちで女性に接するのに慣れていない人は多いように思う(かく言う私がそのような問題意識でこのサークルを作ったのだから)。

 

ホモソーシャル集団における女性の分断の解決策

ここで、「サークルクラッシュ同好会内の女性同士は仲良くできるのか?」という問いに戻る前に、大急ぎで一応、これらの問題の解決策の例を急いでいくつか示しておこう。①男女の関係をただちに性愛関係として扱わないこと。男女間の友情が成立するポイントを作るのが良いだろう。例えば恋人のいる男女は恋人がいるがゆえに他の異性と「友だちどまり」にすることができる、という例がある(それで浮気に発展したら最悪だけど)。②男性の側は女性を性的に消費してばっかりでなく、ちゃんと一人の人間として接するポイントを作るべきだろう。性愛関係なく、普通に優しい人間になれば良いのではないか。③女性の側は敵視しなくていい女性を見つけること。利害がぶつかり合わないけどお互いに認め合える「ソウルメイト」的な存在が良いのではないか。 他にも単に集団内の女性を増やすだとか、性に奔放な人を過度に蔑視しないだとか、集団内でみだりに手を出さないだとか、いろいろ考えられるだろうが、とりあえずこんなもんで。

 

サークルクラッシュ同好会独自の問題(おまけ)

しかし、以上のホモソーシャルに関する考察をもってしてもなお「サークルクラッシュ同好会内の女性同士は仲良くできるのか?」という問いに対して決定的な答えを与えたとは言い難い。しかし、ホモソーシャルという男性多数の集団における一般的な問題が背景の一部にはあるということは示せたと思う。
よって残りの考察は一般化の難しい、サークルクラッシュ同好会独自の問題であり、おまけである。サークルクラッシュ同好会の人間にとって考えるヒントになりそうなものだけ箇条書きで示しておこう。

 

●女子グループに馴染めなかった女性は、ポジティブには「好きなものは好き!」という嗜好をはっきり持っている個性によって男性が多い集団を選ぶ。ネガティブには「女性からは承認を得られないので男性に頼ろう」と、承認を求めて男性が多い集団を選ぶ。これは「サークルクラッシャーは二種類いる。前者は天然型、後者は承認欲求型」という言説にちょうど対応しているようにも思われる。実際には両方の側面を持っている人も多い。サークルクラッシュ同好会に集まってくる女性からこういう要素を感じることもある。

 

サークルクラッシュ同好会に集まる人間は大まかに言って、男女問わず「たくさんの集団に入った末にサークルクラッシュ同好会にも入る」タイプか「他に居場所がないからサークルクラッシュ同好会にも来てみた」タイプに分けられるように思う。前者(多動系)はいろんなことに興味が向いてしまう多動的な人だと思うし、後者(居場所系)はサークルクラッシュ同好会のテーマ(居場所がない、恋愛関係のトラブル、など)に対して切実な人だと思う。両方の要素を持っている人もいる。

 

サークルクラッシュ同好会の女性がIT系に就職することが多い。ここから、おそらく女性的な役割(他人のサポートやケア、対人的な感情労働)が相対的に苦手だったりやりたくなかったりという人がけっこういるのではないかという話になった。ただし女性役割は拒否しても、女性として異性愛的に承認されることを放棄していない人は多いように見える。ちなみにさっきの「多動系/居場所系」の分類で言えば、IT系に就職する女性は多動系に寄っているように思う。

(21時追記:当事者から指摘を受けましたが、IT系においてもサポートやケア、対人的な感情労働はありますし、「IT系に行く人は女性的な役割が苦手」はさすがに根拠に乏しいかもです)

 

サークルクラッシュ同好会の男性は男らしさ規範から逃れたい/逃れている人が多い。「ジェンダーこじらせ」とでも形容できようか。第一に大きな勢力として、恋愛を男性内での競争と捉えてしまい、それにおいて敗北しているという自己認識を抱いている人たちがいる(非モテ系)。また、他にも例えば男性と接しているより女性と接している方がラクだとか、女装願望のある人だとか等々がいる。

 

最後は身内向けな文章でした。

「メンヘラ.jp」の意義と批判まとめ

要約:

1.メンヘラ.jpは「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」に対して、自己表現、承認、情報提供の場になっているので大事。しかもメンヘラ.jpでしか届かない人に届いてるのでは。

でも、三つ批判がある。

2.「メンヘラ」という「つながり」が悪い方向にいく危険性がある。具体的には当事者間のトラブルと、「メンヘラ」のアイデンティティ化・コンテンツ化の問題がある。メンヘラ.jpはそれぞれに対策してるっぽい。

3.メンヘラ.jpは治療を重視しており、治療文化に則っているので、強制的に治療に向かわせる圧力を生む危険性がある。そうならないように、メンヘラ.jpにはバランス感覚が求められる。治療ばかり強調しない、介入しすぎない、多様性を保つ、など。

4.メンヘラ.jpは支援者として信頼に足るのかどうか。やっちゃいけないことやっちゃってる。クラウドファンディングも騙されそうで怖い。誤ったら謝ろう。複数人の運営主体がいるのは良いこと。外部の批判もうまく受け入れられるといいのでは

 

目次:

1.メンヘラ.jpの功績(読むのにかかる時間:9分程度)

活動①:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の自己表現

活動②:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の承認

活動③:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」への情報提供

 

2.「メンヘラ」という「つながり」の危険性(読むのにかかる時間:5分程度)

リスク①:当事者間のトラブル

リスク②:「メンヘラ」のアイデンティティ化・コンテンツ化

 

3.治療文化に伴う優生学的思考(読むのにかかる時間:9分程度)

問題①:「治療(すべき)対象」というレッテルの一般化
問題②:強制的な治療=優生学

 

4.「支援者」としてのメンヘラ.jp(読むのにかかる時間:3分程度)

 

 

 

 この記事ではメンヘラ.jpのやってきた活動とその意義を「メンヘラ」に一家言ある者として紹介します。また、今後のメンヘラ.jpの発展を願い、敢えてメンヘラ.jpへの批判を紹介し、その対策についても考えます。ただし長いです。全部読むのに30分近くかかるかもしれないので、つまみ食いしてくださっても構いません。

 

1.メンヘラ.jpの功績

 メンヘラ.jpとは管理人のわかり手氏によれば、メンヘラ.jpとは「メンタルヘルスに問題を抱える当事者が集うオンラインコミュニティメディア」である。
 私個人はメンヘラ.jpを支持している。支持している理由はこのサイトが社会問題の解決に寄与し、これからも寄与していくと考えているからだ。具体的には「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」をより生きやすくしている。あるいは、わかり手氏の言葉を借りるなら「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の孤立の解消に寄与していると私は考えている。

 

 ただし、メンヘラ.jpの具体的な活動内容を紹介する前に急いで触れておくべきことがある。そもそもなぜ「メンヘラ」という言葉を使うのか?という疑問を持たれた方がいるかもしれない。これは、メンヘラ.jpに対して最もよくある批判だと思われる。「メンヘラ」という言葉を使うことによって、「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」がレッテルを貼られ、攻撃を受けてしまうという問題である。この問題について今回は詳しく扱わないが、私なりに回答しておこう。
 確かに「メンヘラ」という言葉はレッテル貼りとして用いられてきた歴史がある。特に、2006年頃から「メンヘラ」のイメージが「女性」と「境界性パーソナリティ障害」(当時の呼称は「境界性人格障害」)に結びつき始めたという背景がある。2005年頃からの「ヤンデレ」の流行もあり、「メンヘラ」という言葉は恋愛におけるコミュニケーションの特異性(例えば、恋人への過度の依存や、相手の愛情を試すためにわざと恋人を困らせる行動など)やリストカットなどの自傷行為等のイメージを喚起させるようになっていった。
 しかし、次で述べるメンヘラ.jpの活動などもあり、「メンヘラ」という言葉が単なるレッテル貼りとして使われることはこれから減っていくと私は期待している。「メンヘラ」という言葉はむしろ当事者が自身の問題を発見して、当事者たちがつながりを作り、情報を集めるための「フック」になっていくのではないか。特に、メンヘラ.jpの「メンヘラ」の定義は「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」であり、かなり多くの人を含む定義である。にもかかわらず、「これは自分のことだ」と思わせる力が「メンヘラ」という言葉にはあると私は考えている。
 似たような例として「オタク」という言葉について考えてみてほしい。「オタク」という言葉は東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の容疑者が「オタク」であったということからには強いマイナスイメージを持って迎えられ、90年代には「オタクバッシング」の時代があった。しかし、岡田斗司夫大塚英志などの活動から徐々にオタクを肯定的に捉えたり、オタクをアイデンティティとしたりするような方向性が生まれた。そして、2005年頃の「電車男」ブーム頃からオタクは一般に知られるようになり、もはや「オタク」という言葉に強いマイナスイメージは見られない。このように、「メンヘラ」という言葉のイメージも変化していく可能性がある。そこで私は「メンヘラ」という言葉が自身を知るための「フック」となることに期待し、そのような活動にコミットしているのである。この記事を書く理由の一つもそのためである。

 

 以上のことを踏まえた上で、メンヘラ.jpの活動を①②③の3点に分けて、具体的に説明しよう。

 

活動①:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の自己表現

 「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」は自己の問題を表現することを困難に思っている場合が多い。その理由は3点ある。以下ABCで説明する。

 

A.自身の「メンタルヘルスの問題」をうまく言語化できない

 自身のメンタルヘルスの問題を表現するためにはまず、言語化が必要になる。具体的には文章力や、自分の状態をうまく言葉で説明する力である。もっと根底には、自分がどういう状態にあるのかを気づくのが苦手な「鈍感」な人もいることだろう。
 文章が書けなくとも話し言葉でなら自分の問題について語れる、という人はいるだろうが、いずれにせよこういった表現能力がないために自分の問題をうまく表現できない人はいるだろう。
 なお、絵を描くなどの「芸術」分野にあたるものも一種の表現であり、「言語化」と同様に考えることができるが、今回は「言語化」に絞って議論する。

 

B.自己主張できない性格

 言語化する能力があったとしても、なかなか自己主張できないという人もいる。例えば、家庭で自分のわがままを強く叱られ、親の言うことに強く従わされてきた、という人がいるとしよう。そういう人は家庭以外の対人場面でもついつい自分の言いたいことを飲み込んでしまう、ということになりやすいだろう。これが表現できない理由の二つ目である。

 

C.「メンタルヘルスの問題」を話すことによって人間関係に問題が生じてしまう 

 また、言語化の能力があり、言いたいことも言えるとしよう。それでもなお、自身の「メンタルヘルスの問題」を人に話すことによって、その人に拒絶されるということはありうる。
 まずそもそも「メンタルヘルスの問題」によって具体的に人に迷惑をかけてしまって拒絶されるということは社会一般によく見られる現象である。そして、人はそのリスクを予期して、「メンタルヘルスに問題を抱えている」ということだけでその人を拒絶することもある。そのため、自分が「メンタルヘルスの問題」を抱えているということを隠して生活している人もいることだろう。このように、人間関係の問題を回避するために「メンタルヘルスの問題」を表現できない人もいる。

 

 以上ABC3点から、「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」が自己の問題を表現できなくなっていることがある。それに対して、メンヘラ.jpは「メンタルヘルスの問題」を自己表現する場を与えている。この場をうまく活用できる人にとっては、上記BCの問題は基本的には解決する。ただ、Aについては課題が残る。自己の問題をある程度言語化できればメンヘラ.jpの読者投稿を活用することはできるが、うまく言語化できない人には活用が難しい。とはいえ、少なくともBCについてはメンヘラ.jpは自己表現の問題を解決している。
 そして、メンタルヘルスの問題」を抱えた当事者が自己表現をすることは基本的には重要である。メンタルヘルスの問題」が不安やストレスなどに起因する問題であれば、そもそも表現すること自体によってそれらの問題を弱めることができる。また、多くの人は漠然とした不安やストレスよりも、明確な問題の方が耐えられるだろう。そして、病気や障害に限らずとも、そのような表現は自分自身を理解することに繋がりうる。
 そして、自己表現は他者に承認されるための取っかかりになる。このことを次に述べよう。

 

活動②:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の承認

 「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」は自身のメンタルヘルスが問題となっていると同時に、社会的な孤立も問題になっている場合が多い。というのも、メンタルヘルスの問題によってそもそも何かに参加したりコミュニケーションしたりするためのエネルギーがなかったり、他者との不和が生じてしまったりしがちだからである。
 しかしメンヘラ.jpによって、①で述べた自己表現が記事となり(メンヘラ.jpでは「体験談」や「コラム」というカテゴリーの記事になっている)、メンヘラ.jpの閲覧者は記事を読むことだろう。記事にコメントする人なども出てくるだろう。コメントなどがなかったとしても、記事を書いた人にとって「読まれている」という意識を持つことはできる。自己表現はそれ自体重要であるが、それが承認されること(つまり「聞いてくれる人」がいること)で、①で述べたようなメリットはより高まる。また、自己表現を繰り返すことで自分自身のことを説明することもだんだんうまくなっていくだろうから、それによって他者からの承認は得やすくなるだろう。
 また、読者の中には似たような問題を抱えた当事者も多いだろうから、当事者同士が承認し合うことにも繋がるだろう。記事の読み手の視点に立つと「同じことで悩んでいる人がいたんだ」という安心感に繋がる効果や、「なるほど、こういう考え方もあるのか」という自身の考えや状態をよりクリアにする効果が見込める。そして、似たような問題を抱えた当事者は問題を解決するためのヒントを持っている可能性がある。そのことを次に述べよう。
(一方、当事者同士の承認は、2.で述べる「メンヘラのコンテンツ化」問題に繋がってしまうリスクもあるので、それをメンヘラ.jpは回避しようとしている。そのことについては後に述べる)

 

活動③:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」への情報提供

 「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」の中には病院に通っている人も多いことだろう。しかし、病院に通うことが金銭的に困難だったり、そもそも病院で受けている治療に対する不信感があったり、病院で受けている治療だけでは自分の悩みが解決しなかったりということもあるだろう。
 メンヘラ.jpではこのような人たちのために、福祉制度や自助団体、支援者団体などの利用方法や様々なライフハックの記事が掲載されている。また、「お悩み相談」という悩みを投稿して、それに他者が答えるサービスがある。これによって、メンタルヘルスに問題を抱える当事者」個人がアクセスできる情報の限界を超えて情報を得ることができるだろう。また、似たような問題を抱えた当事者だからこそ分かる感覚というものもあるだろう。当事者ならではの悩みに対して、同じ目線からの回答を受けることで、問題解決のヒントが得られるかもしれない。
 なお、このように支援を届けるべきなのにもかかわらず支援が届かない人に支援を届けることを「アウトリーチ」という。アウト(外)にリーチ(届ける)ということだ。インターネット上でカジュアルに使われている「メンヘラ」概念は多くの人にとってアクセスしやすい。最初に述べたように、「メンヘラ」という言葉には「これは私のことだ」と思わせるだけのイメージ喚起力がある。そのため、メンヘラ.jpは病院の治療や福祉制度の支援を十分に受けているとは言えない人にまで届くという固有のメリットがある(もちろんそれでも当事者みんなに届くわけではないが、一部の人にであっても届けることは重要である)。この「アウトリーチ」は福祉の分野で主に用いられている言葉だが、福祉的な支援にとって「メンヘラ」という言葉を用いることには「アウトリーチ」としての意義があるのである。

 

 以上三つの活動より、メンヘラ.jpは「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」を生きやすくしている、非常に価値のあるものである。
 しかし、そんなメンヘラ.jpに対してはいくつかの批判がある。その一つは冒頭に紹介した「メンヘラ」というレッテルを貼ることへの問題だが、それ以外にも大きく三つの批判が存在する。これらの批判について検討することはメンヘラ.jpの今後の行く末を考える上で重要なことだと思われる。以下で一つずつ紹介する。

 


2.「メンヘラ」という「つながり」の危険性

 メンヘラ.jpでは、「孤立」が問題視されており、メンタルヘルスに問題を抱える当事者たちがより良い生活を歩むための「つながり作り」が目的とされている。確かにこれは重要なことである。
 しかし、ことメンタルヘルスに問題を抱える当事者たちにおいては、不用意に「つながり」を作ることにリスクが伴うこともある。そのリスクは大きく二つに分けられる。

 

リスク①:当事者間のトラブル

 一つ目のリスクは「当事者間のトラブル」である。メンタルヘルスに問題を抱える当事者たちは対人関係においても問題を抱えている傾向が強いと考えられる。よって、それらの当事者たちが「つながり」を作ってしまうと、結果的にトラブルに繋がってしまうことが通常よりも多いことが予想される。たとえ当事者の一方がトラブルを起こすような人ではなかったとしても、その人が別の当事者に対して過剰に気を使って無理をしてしまい、余計にメンタルヘルスの問題を悪化させるなどということもありうるだろう。
 また、これは同じ「メンヘラ」という言葉でメンタルヘルスに問題を抱える当事者たちを括っていることの弱点であると言えるかもしれない。当事者たちはそれぞれ事情が異なる他者に対して想像が及ばず(あるいは想像力を働かせる余裕もなく)、お互いに攻撃的になってしまうということはありうるだろう。仮に、お互いに事情が似ていたとしても「同族嫌悪」が起こる可能性はある。例えば、似た事情の相手に対しては「私にできたんだからあなたにもできるはず」といった考えが働きやすく、自分と同等の努力をできない人に対してキツく当たってしまうなどといった事態が考えられる。


 このようなリスクがあるものの、おそらくメンヘラ.jpはそのリスクを認識していると考えられる。というのも、メンヘラ.jpの提供しているサービスにおいては、当事者同士の個人的な繋がりを作ることを推奨しているわけではない。あくまでメンヘラ.jp上において、読者投稿やお悩み相談などを通じてコミュニケーションが取られるだけである。よって、以上のような当事者間のトラブルが起こるには、当事者が自発的に他の当事者と個人的繋がりを作る必要がある。メンヘラ.jpの存在がそのような個人的繋がりを促進している側面はあるかもしれないが、積極的に推奨されているわけではない。そのため、当事者間の対人関係におけるトラブルはメンヘラ.jpを通じては起こりにくいとは考えられる。むしろ、当事者と支援者とのつながりや、支援者を媒介とした当事者間のつながりといった、より安全なつながりが作られていると考えられる(ただし、この支援者も万能というわけではない。「支援者」の問題については4.で述べよう)。
 また、以上のリスクを回避するために、自他の境界をある程度明確に設定し、「付き合えない相手とは無理に付き合わない」という態度があると良いかもしれない。他人を介在させず自己肯定する、良い意味での「孤独」が必要なときもあるだろう。しかし、そのような態度を選択することが苦手で、ついつい他人に巻き込まれたり、他人を操作したりする人もいる。これは次の②の論点にも関わってくる。

 

リスク②:「メンヘラ」のアイデンティティ化・コンテンツ化

 二つ目のリスクは「メンヘラのアイデンティティ化・コンテンツ化」である。まず、「メンヘラ」当事者たちがつながりを作ることで、より「メンヘラ」としてのアイデンティティを強化し、それに依存してしまう可能性がある。それによって例えば、他の当事者の自傷行為を真似したり、「メンヘラ」という言葉のイメージに引っ張られて自身の状態をちゃんと把握できなかったり(素人判断で誤った病名を自分に当てはめるなど)、治療を放棄したりといったことが起こりうるだろう。メンタルヘルスの問題の治療を目的とした場合には、これらは治療を阻害することになる。また、治療を目的としなかったとしても、「メンヘラ」という言葉のパワーによって個人の行為の自由が奪われていること自体が問題だと言えるかもしれない。
 また、「メンヘラ」を強いアイデンティティにすると、それによって他人からの承認を得ようという動きも出てくる。それが「コンテンツ化」の問題である。メンタルヘルスの問題は場合によっては面白おかしく、魅力的に語ることができる。しかし、それが不幸自慢の形を取り、「誰が一番不幸なのか」という競争がエスカレートしていくこともある。自らをコンテンツ化するために自ら不幸になるといったことが起こるのである。この不幸が最終的に自殺にまで至るかどうかは分からないが、「メンヘラ」という分かりやすい「コンテンツ」としてのイメージをアイデンティティとしてしまうことで、より大きな問題を抱えることになってしまうことは十分にありうるだろう。


 このようなリスクを避けるためであろう、メンヘラ.jpでは「①標準的な医療措置を否定するようなコンテンツ ②自傷行為、自殺、犯罪などを過度に奨励するようなコンテンツ ③病気や障害を過度に「魅力」として扱うようなコンテンツ」の掲載を断っている。そして、③に関してはメンタルヘルスの問題を肯定的に評価するのではなく、「受け入れる」ことを推奨している。よって、「メンヘラ」のアイデンティティ化・コンテンツ化のリスクは抑えられている(ちなみに私見ではアイデンティティ化・コンテンツ化の問題は男女で現れ方が明確に異なるように感じるが、ここでは掘り下げない)。ただし、これらの文言に代表されるメンヘラ.jp全体の方針が更なる批判を生んでいる。それが次の批判である。

 

hyogokurumi.hatenablog.com

(2.はこの記事を参考にしました)

 

3.治療文化に伴う優生学的思考


 以下はこの記事

sutaro.hatenablog.jp

に基づいて批判を紹介する。必要なはずの論点が拾えていなかったり誤解があったりする場合は私の責任である(ので、その場合は私に指摘していただけると幸いです)。

 

 基本的に、メンヘラ.jpではメンタルヘルスに問題を抱える当事者の治療を推奨している。とりわけ、この「治療文化批判」が行われる以前においては、メンヘラ.jpで掲載を断っているものの③では「病気や障害を「魅力」として扱うような、治療プロセスにとって有害なコンテンツも掲載できません」という、やや強い文言が書かれていた。その他、掲載されている記事には治療を推奨するものがいくつも見られる。以上のことから先取りして書いておくと、メンヘラ.jpは治療文化に則っている。
 治療文化とは「精神疾患発達障害を正常からはみ出た状態とし、治療(すべき)対象とするようなイデオロギー」を指す。しかし、これだけだと何が問題なのか分からないので、記事にならい、治療対象とされる人の問題解決の方法について三つのアプローチを紹介する。これはメンヘラ.jpが対象とする「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」にも適用できるので適用して考えてみよう。なお、この三つのアプローチについては

岡田有司、2015、「発達障害生徒における学校不適応の理解と対応―特性論,適合論,構築論の視点から」

https://takachiho.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=86&item_no=1&page_id=13&block_id=21


が元となっている。

 

アプローチ①:特性論

 これは、メンタルヘルスの問題の原因が、当事者の特性にあると考えるものである。そして、その特性を変化させることによって問題解決するというアプローチである。つまり、基本的には当事者を治療することを指していると言っていいだろう。

 

アプローチ②:適合論
 これは、メンタルヘルスの問題の原因が、当事者を取り巻く環境にあると考えるものである。そして、その環境を変化させることによって環境を当事者に適合させるというアプローチである。これは具体的にはいろいろ考えられる。当事者の利用できる福祉制度や医療制度などを充実させたり、当事者にとって居心地の良い居場所を作ったり、周囲が当事者に気遣ったりといったところだろうか。

 

アプローチ③:構築論
 これは、メンタルヘルスの問題の原因が、社会全体の価値観やその集団の価値観や周囲の人間のコミュニケーションなどによって「問題」として構築されていることにあると考えるものである。そして、当時者を取り巻く人々の価値観を変化させることで「メンタルヘルスの問題」とされていたものはそもそも問題ではないというところに持っていくアプローチである。というよりもより正確に言えば、それが「問題」なのかどうかという定義は外から決められるものではなく、当事者が問題だと感じるかどうかにかかっているというところに持っていく。

 

 治療文化は以上の三つのアプローチの内、構築論に対立し、特性論(部分的には適合論)に依拠する。それゆえ、この治療文化の問題点は、根底に優生学的思想があることである。どういうことかというと、治療文化は「正常からはみ出た、治療(すべき)対象」を当事者の外の特権的な位置から設定し、強制的に治療=根絶の対象にしているということである。
 よって、メンヘラ.jpが治療文化に則っていることから以下二つの問題が生じる。

 

問題①:「治療(すべき)対象」というレッテルの一般化

 一つは「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」が「治療(すべき)対象」であるがゆえに強制的に「正常からはみ出た」存在にされてしまうということである。通常「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」や「メンヘラ」という言葉には、医師からの診断を受けたわけでもないので「治療(すべき)対象である」という意味合いはない。にもかかわらず、「メンヘラ」という言葉がその対象範囲を広げた上で、従来の単純なレッテル貼りの道具として以上に、強いレッテル(「治療」すべき病気や障害)として機能し、当事者が自己肯定感を失ってしまうという問題である。

 

問題②:強制的な治療=優生学

 もう一つの問題は、強制的な「治療」は優生学的なジェノサイドを帰結するということである。例えば、「治療を受けたい人が治療を受け、障害や病気がなくなる」というのならば良いだろう。しかし、実のところ障害や病気にはしばしばメリットが伴うことがある。古くから「疾病利得」という言葉もあるし、発達障害の人間が特定の能力に優れているというパターンや、特定のパーソナリティ障害の人が魅力的なコミュニケーションをとるといったことはよく見られることである。いや、そもそも外から見て理由も分からないのが本人にとってはこの病気・障害が自分の人生や世界観にとってかけがえのない重要なものなのだと主張する場合もあるだろう。よって「治療を受けたくない人」も存在するのである。そのような人の障害や病気を外からの強制的な介入によって根絶することは許されない、という問題である。


 以上の二つの問題は、メンヘラ.jpの活動に再考を促す非常に根本的なものだと思われる。メンヘラ.jpとしてはこれらの問題をどのように避ければいいのだろうか。以下、メンヘラ.jpの立場に立って考えてみよう。結論から言えば、適度なバランス感覚を持って「程度」を定めることが必要だと思われる。具体的には以下①②③④の4つの「程度」について検討しよう。

 

程度①:「治療」を強調する程度

 まず、性急な治療だけが唯一の解答ではないということは言えるだろう。例えば、ADHDの治療に用いられているコンサータストラテラといった薬があるが、それを用いると創造性が失われてしまうために使わないようにしている、ということをADHDの当事者から聞いたことがある。薬による治療が必ずしも良いというわけではないようだ。これは一つの例だが、メンヘラ.jpにとっては治療以外の選択肢や「そのままでもいい」的な言説をある程度提示することが重要だろう。それによって、「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」=「メンヘラ」への苛烈なレッテル貼りは防げる側面があるだろうし、治療がジェノサイドにまで行き着くことを防げるだろう。
 (なお、批判とは直接関係ないが、治療以外の選択肢を提示することは、医療の権力を相対化できるというメリットもある。現代日本において、医療の権力が強いことによって問題が生じている側面は無視できない。例えば、製薬会社で開発された薬が存在するがゆえに特定の病気を「流行」させて、その薬を使える機会を増やす、といったことが起きている可能性が考えられる)

 

程度②:介入の程度

 先ほど「治療を受けたくない人」も存在するということを述べた。この選択を尊重することはリベラリズムという政治思想における「愚行権」を尊重することに当たるだろう(「愚行」という言葉を用いること自体がそもそもおこがましいのだが)。一方で、自身がどのような行動をとれば幸福に繋がるかということを自身では判断できない者もいる(典型的には精神疾患を抱えた人や小さな子どもが挙げられる)。そこで治療を勧めるなどの一定の介入が必要になってくる。メンヘラ.jpに掲載できないものを挙げた文言はその介入の一例である。介入がなければ、「メンヘラのコンテンツ化・アイデンティティ化」という自ら不幸を招く結果が目に見えているからだ。
 よって例えば、基本的には「よりよい選択肢」をメンヘラ.jpの側が提示するが、最終的に選ぶ権利は当事者の側にある、選択を強制はしない、という程度に抑えておくのが穏当なように思われる。しかし、どうしても強制せざるを得ない場面が出てきたり、強制していないつもりでも当事者には強制のように映ったり、といった問題はありうるだろう。更に、いったい何が「不幸」なのか、何が「よりよい選択肢」なのか、それを判断する権利がメンヘラ.jpの側にあるのか、それを推し進めるとやっぱり優生学なのではないかという問題がつきまとう。そこでメンヘラ.jpという「支援者」が信頼に値するのかという論点は重要になってくるだろう。これについては4.で述べる。

 

程度③:影響力の程度

 メンヘラ.jpは大きな影響力を持つようになってきたが、今のところその影響力は「メンタルヘルスに問題を抱えた当事者」の一部に対してのものに留まっているだろう。しかし、このまま影響力が拡大していくと、それこそメンヘラ.jpの提示する「治療」が当事者にとって絶対的なものとして映ってしまう可能性はある。また、メンヘラ.jpのサービスが肌に合わない当事者がいることも想像できる。そういう人たちの「他の選択肢」は確保する必要があるだろう。
 そこでメンヘラ.jpにできることは、影響力を限定的なものに抑えるというよりかは、メンヘラ.jpの方から他の選択肢を提示するということだと思われる。その意味で、全国の自助グループ、支援者団体等のデータベースを作るというクラウドファンディングには強い意義があるだろう。このデータベースにおいてはメンヘラ.jpが持っているバイアスがかかっておらず、多様性を確保できているかどうかのチェックが今後必要になってくる。私もそのチェックには協力したい。

 

程度④:「メンヘラ」定義の程度

 メンヘラ.jpにおいては「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」=「メンヘラ」と定義されていると見てよいだろう。この定義は運用次第ではかなり広範囲の人を含めることができてしまう。それによって、レッテル貼りが横行したり、逆に「自分はメンヘラではない」という反発があったりといった問題が想定できる。メンヘラ.jpにおいては「みんなメンヘラでみんなしんどいんだ、だから無理しなくていい」ということが語られているように私には見える。この語りには人を安心させる効果もあるだろうが、「みんなメンヘラ」によって個別の問題が見えなくなっている側面はあるかもしれない。これは、2.のリスク②:「メンヘラ」のアイデンティティ化・コンテンツ化で述べたような、「メンヘラ」という言葉のイメージに引っ張られて自身の状態をちゃんと把握できなくなってしまうという問題でもある。
 よって、「みんなメンヘラ」にも再考が必要な可能性がある。例えば「メンヘラ」を程度問題や状態として捉えて考えてみるだとか、同じ「メンヘラ」でも個別の症状やジェンダーによって異なる捉え方をしてみるだとか、多様性・個別性の確保が「メンヘラ」の定義には求められるだろう。

 

 以上四つの「程度」について、メンヘラ.jpにはバランス感覚が求められると私は考える。それではメンヘラ.jpがそのようなバランス感覚を持った存在なのかどうか、これが最後の批判である。

 

4.「支援者」としてのメンヘラ.jp

 メンヘラ.jpが「支援者」として信頼に値するかどうか。これは根本的に難しい問題である。というのも、1.の活動③:「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」への情報提供 で述べたように、メンヘラ.jpにはアウトリーチ機能(支援が届きにくい人に届く機能)があると私は考えている。つまり、活動が「まとも」すぎるとやってこない人も、良い意味で「怪しい」からこそやってくるということがありうるのである。そこでは「メンヘラ」という言葉に対する偏見のようなものも逆用されている。
 実際、メンヘラ.jpの「まとも」ではない部分として、運営主体もまた「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」であるということが挙げられる。しかし、だからこそ当事者が共感を持ってメンヘラ.jpを利用する、そういったこともきっと起きていることであろう。
 「メンタルヘルスに問題を抱える当事者」であるかどうかは措くとしても、実際にわかり手氏がTwitter上で決して看過できない攻撃をされたりしたりしているのを私は目撃している。Twitter上で執拗に攻撃されることによって反撃したくなる気持ちは分かる。しかし、その中には恣意的で問題のある(ように私には見える)線引きを行って、攻撃している例があった。これでは、メンヘラ.jpが「支援者」としてバランス感覚を持って、適切な線引きをしていけるかどうかには一抹の不安を覚えてしまう。
 また、クラウドファンディングに関してもお金の集め方への不信から、でき上がっていくデータベースも「騙されやすい人達の情報集」になってしまうという批判もある。

hyogokurumi.hatenablog.com


これは確かに一理ある批判である。


 しかし、1.で述べたようなメンヘラ.jpの功績はこれらの問題を上回る価値があると私は考えている。そこで、メンヘラ.jpの活動の中止を求めるのではなく、メンヘラ.jpがこれらの問題をどのように回避できるかをやはり考えたいと思う。
 まず、支援者として「まとも」かどうかという問題だが、どんなに「まとも」な人間であっても誤りは犯してしまうものだろう。問題は、その誤りを謝れるかどうか、反省できるかどうかだと私は考えている。まず、自分で自分の間違いを認め、謝罪ができるということ、それがメンヘラ.jpの運営には求められるように思う。
 しかし、何が「間違い」なのかといったことすら自分一人ではなかなか判断できないだろう。また、一度してしまった過ちや攻撃による傷つきは取り返しがつかない部分があるかもしれない。だからこそ事前にそういった誤るリスクを減らす努力もまた必要である。そこで、メンヘラ.jpの運営事情を見てみると、どうやら複数の主体によって運営されているらしい。わかり手氏に管理運営が一極集中するという事態は避けられているようだ。メンヘラ.jp内部において良い意味で批判的にメンヘラ.jpを運営し、慎重にリスクを避けられる人間がいることに期待している。
 また、外部の人間も批判的に機能する可能性はある。今回私は3つほどの批判を紹介したが、外部からの批判が良い意味で機能することで、問題が生じるのを慎重に避け、かつ、メンヘラ.jpにしかできないことを最大限やっていけると良いと思う。私は個人的にはメンヘラ.jpの活動を応援している。問題があるときはちゃんと問題を指摘したいが、建設的な批判者としてメンヘラ.jpの活動を見守っていきたい。