ねほりんぱほりんサークルクラッシャー回を読み解く(後編)

前回ねほりんぱほりんで語られていたことから読み取れる背景を分析しました。しかし、そこには「語られていなかった」ことがいくつもありました。

 

 まず第一に、番組では「あのサークルにおいて、なぜサヤカさんは7人と関係を持つことになってしまったのか」、そこが掘り下げられていないのです。

 

 というのも、サークルクラッシュという現象が成立するためには、クラッシャーという要素だけではダメ。クラッシュが起こるような特殊な集団であるという要素と、クラッシュされる側の人間クラッシャられ)という要素がほぼ不可欠です。その三要素が揃うからこそクラッシュするのです。


 そのセンで考えていくと、まず、サヤカさんが所属していた集団はどのような集団だったのでしょうか?

 

 

クラッシュする集団とは?

 番組によるとサヤカさんはスポーツのサークルに属していたようです。スポーツ系の集団というと、文化系とは逆で、それなりにイケてる人たち、要は異性と接する経験も豊富な人たちが集まっているのではないかとも思われます。

 しかし、YOUさんの「モテる人は(サヤカさんを)食わないね」やサヤカさんの「名門男子校出身者は百発百中」「ちょうどいいアンパイなところにいって打率は高める」という発言もあったように、基本的には女性と接する経験のあまりなかった人を恋愛対象にしてきたのではないかとも考えられます。また、「仲直り飲み会」のあとに乱闘になったことにより、メンバーの半分ぐらいが辞めたということも分かっています。


 このあたりの情報から考えると、集団の構成員はどれくらいの数だったのか、男女比はどうなっていたのかといった基本情報はほしいものです。また、もっと言えばどれくらい恋愛が発生していたのかや、集まりや飲み会の頻度なども掘り下げるとより立体的に見えてくるでしょう。

 

クラッシャられは何者なのか?

 そして必要なのはクラッシャられの情報です。番組ではクラッシャられ代表として番組スタッフが出てきました。「女装させられたときに近づいた顔が忘れられない」というのは確かに見事なクラッシャられエピソードだと思います。しかし、はたしてサヤカさんにクラッシャられた彼らもいわゆるクラッシャられだったのでしょうか。ニルヴァーナのロックTなどを着て心のより所にしがちな文化系男と、酒の席とはいえ血を流すまで殴り合うケンカをする男は同じだと言えるのでしょうか。
 むしろ、サヤカさんの所属サークルからは文化系ではなく、ホモソーシャルな雰囲気(女性蔑視を通じて男性同士が絆を作る、例えば下ネタを言い合ってる男子校ノリのようなイメージ)も感じられます。というのも、サヤカさんの次の証言があるからです。「「サヤカちゃん被害者の会」みたいなのがあって被害を受けた男性たちが私の愚痴を言い合う飲み会みたいなのが開催されてて「あいつ寝相悪いよね〜」みたいな話をしてた」。これはサヤカさんをモノとして消費することを通じて男性同士が繋がっていたようにも解釈できます。

 実際、集団内の男性たち(A~Fたち)はどんな男で、サークルはどのような絆を形成する集団だったのでしょうか。これは番組の情報だけではいまひとつ分からないところです。

 

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集団における公私混同

 何より集団・クラッシャられの情報の不在によって決定的に分からなくなっているのは、「なぜサヤカさんが同じ集団内で7人も関係を持ったのか」ということです。

 例えば、集団の中でサヤカさんについての情報がある程度共有されていたのであれば、サヤカさんに対して熱を上げる男性が7人も簡単に出てくるとは思えません。また、たとえ乱闘騒ぎがあったとしても、なぜ当事者でないメンバーの半分も辞めるのでしょうか。

 これについては、キャプテンであるA君がC君を出場停止にしたという話が重要です。つまり、A君は自身の嫉妬という私的な事情によって、C君の試合という公的な物事に影響を与えたのです。これはまさに「公私混同」です。キャプテンという最も「公的」でなければならない立場の人間が、スキャンダラスな形で私的な事情を持ち込んでしまった以上、他の構成員が失望して辞めてしまうのは仕方のないことでしょう。
 この「公私混同」はサヤカさんが複数人と関係を持っているということについても言えます。サヤカさんが持つ人間関係が「公」の光に晒される、すなわち最初から筒抜けなのであれば、サヤカさんも私的な肉体関係を持つことはできなかったでしょう。また逆に、サヤカさんの持つ関係がずっと「私」の闇に隠されたままならば問題にはなりません。しかし、性的関係が独占欲や嫉妬に結びつく以上、「私」の闇は「公」の光に照らされる危険性は常にあります。公私混同にこそサークルクラッシュはあるのです。

 

サヤカさんの構築する人間関係のパターン

 しかしこれだけでは「なぜサヤカさんが同じ集団内で7人も関係を持ったのか」という問いへの答えとしては不十分でしょう。このような事態について理解するには、やはりサヤカさん自身について掘り下げなければなりません。例えばサヤカさんの作る人間関係の全体像(過去の人間関係も含む)を見ていくべきでしょう。しかし、番組からはそれがあまり見えてこない。かろうじて見えるのは例えば、高校時代に付き合っていた男との別れをキッカケとした、クラッシャられ男たちに対する釣り師としての態度と、大学卒業後に出会って結婚した相手に対する「運命の人だ!」という感覚でしょう。
 ここから、サヤカさんには他者を「一人の人間として見る」態度が欠落していたという仮説が立ちます。他者をモテポイントを稼ぐための材料として見たとしても、「運命の人」として見たとしても、いずれにせよサヤカさんは自分本位のフィルターを通して映る相手を捉えているのです。そう考えると、高校時代までの周囲に対する「自分って何もないな」という劣等感や、スポーツでの全日本3位という成績における「上に2人いるからダメ」という評価もまた、自分本位なバイアスに囚われてしまった見方と解釈できます。


 サヤカさんが実際に他者を「一人の人間として見る」態度を持っていなかったかどうかは分かりません。しかしもし、おそらくサヤカさんの家族との関係や同性との友人関係、あるいは異性との友人関係などを詳しく掘り下げていれば、そのあたりの理解も深まっていたでしょう。例えば、女性との友人関係がうまくいかなかったからこそ男性と関係を持たざるを得なかった、というパターンがありうるでしょう。

 

サヤカさんの心理

 もし、サヤカさんの過去、すなわち家族との関係や友人関係なども詳しく見ていったとしたら、サヤカさんの心理的な面も分かることでしょう。サヤカさんが「何者かになりたい」という自己不全感を抱えていたのは番組の通りですが、その他にも(それと関連した)特異な性格特性が見出せたかもしれません。例えば、「あいうえお」の「あ」は「あっ!アイス食べたい」と「突然先の読めないこと言う」というものでした。これは意図的にやっている部分もあるのでしょうが、サヤカさん自身の衝動性(言わば、「今ここ」にある快楽を重視してしまい、先のことを考えることができないという特性)を表しているのかもしれません。
 複数人と性的関係を持っていた私の友人がリスク回避のために「ワンコミュニティ・ワンセックス」を提唱していたのを思い出しますが、実際、同じサークル内で7人と関係を持つのはあまりにもリスキーです。サヤカさんが先のことを考えずにそういった行動を取ってしまった原因を探るならば、もう少しサヤカさんの過去を通じて性格特性を明らかにすることも必要だったでしょう。

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"もう一人の"サヤカさん

 もちろん、サヤカさんは「元サークルクラッシャー」として「現在から見た自身の過去」を解釈して語っています。そのため、何らかのバイアスがかかっていることは否めないでしょう。だからこそ、夫との離婚も経験したサヤカさんからすれば、むしろ大学サークル時代の人に対して、「ちゃんと関係つくろうみたいに働きかけてくれた人に対してかなり雑な扱いをしてたからバチ当たった」という見方にもなるわけです。
 私もまた、番組を通して読み取れるサヤカさん像を、情報を補いながら再構成してきました。しかし、補う情報次第ではまったく違うサヤカさん像もありうるわけです。


 例えば、サヤカさんは男たちを手玉に取る悪女のようにイメージできます。しかしその一方で、本当は男たちにいいように性的に消費され、性的に迫られれば断れない状態だったのかもしれません。実際、サヤカさんは「告白されないようになんとかこうヘビの生殺しみたいな状態にしとく」と言いながら、7人の内の3人とは付き合い、1人とは「サブ彼」なわけで、結局男から押し切られてる部分もあると解釈できます。もしかすると、そういう事態から逃れられずに精神的に病んでいったあげく、大学卒業後に結婚した男も、自分本位にサヤカさんを利用するモラハラ男だった……のかもしれません。とはいえ、何らかの取捨選択を経たサヤカさんの物語(番組)からそのことは積極的には読み取れないわけですが。ねほりんぱほりんの感想ツイートを見ていても、「この人は精神的には安定しているんだな」と解釈している人がちらほらいました。


 あるいは私の仮説に反して、もっと「まともな」人なのかもしれません。番組の性質上「悪女」として描かれる方が「おいしい」わけです。実際にはサヤカさんの中ではごく普通に男性に接していたにもかかわらず、クラッシャられ男たちが勝手に勘違いして惚れ、男の方が公私混同して人間関係をグチャグチャにし始めた……のかもしれません。


 このように、ねほりんぱほりんはあくまでサヤカさんの視点で過去に経験したことを、現在のサヤカさんが語り、それを番組として構成し、視聴者が解釈する、という何重にもフィルターのかかった物語に過ぎません。言わば伝言ゲームです。それが間違ってるとか悪いと言っているわけではなく、常に別の解釈にも開かれているということを意識しながら見るべきだということです。さもなければ、サークルクラッシュという貴重な現象も、安易なレッテルによって理解されかねません(もちろん、「サークルクラッシュ」と名付けることもまたレッテルなわけですが)

 

類型を知ることの大切さ

 このように、サークルクラッシュの事例が常に別の解釈にも開かれているということを意識するために、「サークルクラッシャーの類型」を知っておくのは大事かもしれません。実際、私が知っている中でもサークルクラッシャーには4つほど類型があります。

 

①いわゆる悪女やビッチと言われるような複数の人間と関係を持つタイプ。背景にはおそらく承認欲求がある。(承認欲求タイプ)

②恋人を乗り換えるのが早く、同じ集団内でとっかえひっかえするタイプ。おそらく衝動的に恋愛をし、熱しやすく冷めやすい。(衝動恋愛タイプ)

③好かれたくない相手にも好かれてしまうが、強く自己主張するのが苦手などの理由で断れないタイプ。恋愛感情を向けられていることに半ば自覚的だが、ついつい拒否できない。アサーション苦手タイプ)

④異性との距離感は近いが、そもそも本人が恋愛関係だとは思ってないタイプ。「男っぽいサバサバ系」(FtXなどの性別違和を持った人)やロリータ系ファッションなど、女性性を無にするか過剰にすることによって男女関係を拒否する傾向。(男女関係拒否タイプ)

 

 必ずしもこの4つの類型が正しいわけではありませんし、複数同時に満たす場合もあります。しかし、例えばこの類型で考えると、類型④の人は相手を男/女というカテゴリーで捉えることをせず、人間として接するがゆえに異性との距離感が近くなってしまう(友人として接しようとしているのに恋愛感情を持たれる)ということがあります。これは上で述べたサヤカさん像には見られない傾向です。サヤカさんとは逆に、④の人は他者を「一人の人間として見る」傾向が強いわけです(だからこそクラッシュするのですが)。

 しかも、④の場合はおそらく、クラッシャられの側が相手のことを鑑みずに自分の感情で突っ走らないことにはクラッシュまでは到達しません。逆に、クラッシャられの側がしっかりしていれば「相手のことが大切だからこそ、ガチ恋はしない」という訓練されたアイドルファンのような態度を示し、平和が保たれるというパターンもあります。つまり、類型を知っていればこのような複雑な事象を理解することもできる、ということです。

 細かい余談ですが、こう考えると「サークルクラッシャーの類型」という言い方は不適切なところがあります。サークルクラッシュはクラッシャーだけで成立するものではなく、集団・クラッシャー・クラッシャられの三要素が複雑に絡み合わないと成立しません。「クラッシャーの類型」としてしまうと、単に女性を分類して消費するだけになってしまう恐れがあります。ということで、サークルクラッシュという「現象」に4つほど類型があると考えるのがより正確でしょう。

 

 まとめると、サークルクラッシュの事例を理解したいのであれば、集団のまじめさとか人数とか男女比とか情報の風通しとか友人関係とか知っといた方がいいし、クラッシャられのことも知っといた方がいいし、クラッシャー本人の過去も考慮に入れた方がいいし、他のクラッシュパターンと比較して考えた方がいいよ、ってことです。そうすることで、クラッシャーやクラッシャられになっちゃうような人に対して偏見を持たなくて済むし、その人の話を「ちゃんと聞く」ことができるのだと思います。

 

 そのあたりをちゃんと掘り下げた具体的なパターンを知りたい方は、ぜひ以下の私の書いたSPAの記事を読んでください。あと2パターンぐらい書いた方がいいんだろうなって思うけど。

 

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ねほりんぱほりんサークルクラッシャー回を読み解く(前編)

とうとうNHKで「サークルクラッシャー」が取り上げられましたね。サークルクラッシュ同好会を運営し、啓発活動(?)を続けてきた自分としては嬉しい限りです。


サークルクラッシャー」という言葉がどのような経緯で生まれたかについては

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で書きました。2005年に宇野常寛さんたちが生み出した言葉です。当時、電車男を発端に「非モテ」が話題になり、その文脈で「サークルクラッシャーに引っかかる」ということが盛り上がったわけです。


概念として定着し始めると、それじゃあこの「現実」の社会において「サークルクラッシャー」ってどういうものなんだっていうことが気になってくるでしょう。ただでさえ都市伝説のごとく語られてきたわけですから。

僕が2012年にサークルクラッシュ同好会を立ち上げて、2014年に「オタサーの姫」という言葉が作られたということを踏まえても、「サークルクラッシャー」がある種の都市伝説として語られる状況は変わりません。今回「ねほりんぱほりん」で取り上げられたのも、題材として適切だったからでしょう。

 

「悪女」としてのサークルクラッシャー

こう考えると、番組の最初で「悪女」のような言葉を使ってゴシップ的に扱いつつも、ゲストとして現れたサヤカさんにもある程度の事情があったのだということを掘り下げていき、現在では反省しており人生に苦悩しているというところで〆たのは一定の評価ができるでしょう。「サークルクラッシャー」というと、どうしてもその人自身の持つ悪意や責任にスポットがあたり、単なるゴシップとして終わってしまいます。酷い場合は「ビッチ」などと言われ、いわゆる「女叩き」に堕してしまいます。

 

「被害者」としてのサークルクラッシャー

しかし、今回の番組では(サークルクラッシャーのあいうえおなど、笑えるテクニックも挟みつつ)、「何者かになりたい」ということをキーワードにサヤカさんの内面を掘り下げていったわけです。これによって、サークルクラッシャーは「加害者」であると同時に、実はある種の「被害者」であるということが示されています。僕に言わせれば、社会全体から見てサークルクラッシャーもクラッシャられてしまう男たちも、事情を理解され(できれば支援され)るべき対象なわけです。

 

サークルクラッシュから見た女性の人生

そして、番組の後半では「仕事で自己実現したいと同時に母・妻であることの困難」という現代社会の問題にサヤカさんも苦しんでいるということが判明します。特に興味深いのは、子育てに関して「夫が助けてくれなかった」一方で、「男を釣っていた時代は何も言わなくても相手が助けてくれた」という対比です。夫に関して「運命を感じる相手だった」と述べていたことも考え合わせると、高学歴で自己実現志向の現代らしい女性であっても、どうしても旧来的な「強い男性」に魅力を感じてしまうという問題があるのです。逆に言えば、大学サークル時代の「クラッシャられ」の男たちには「運命」を感じないわけです。おそらく一時的な安心を与えることはできても、刺激が足りないのでしょう。


つまり、恋愛においては旧来的な男女観が根強く、ライフコース(キャリア)においては「女性の社会進出」といった自己実現が称揚されるという矛盾があるわけです。このような「欲張り」な志向は、番組の途中に出てきたエリコさんの円グラフ(彼氏以外の男でリスクヘッジをするやつ)にも見出せるでしょう。


広い視点で見るならばサークルクラッシュという現象は、「子どもを産み育てたい・強い男に魅力を感じる」といった旧来の価値観を温存したままで、「自由恋愛市場」と「仕事」という二つの社会に女性が進出したことにおける矛盾を示しているとも言えなくもないでしょう(この問題を解決するための方策はいろいろあるでしょうが、それは割愛します)。

 

 

このように、ねほりんぱほりんは「サークルクラッシャー」を掘り下げたものとしてはなかなか良い点をついているように思います。しかし、決定的に分からなかった点もいくつかあります。サヤカさんはなぜ同じ集団内で7人も関係を持ったのか、その集団はどのような集団だったのか、男女比はどうだったのか、恋愛以外での交友関係はどうなっていたのか。そして、「サークルクラッシャー」とはサヤカさんのような例が代表的なのか。このような問い、すなわちねほりんぱほりんが語らなかったこと」を後編では見ていきます

 

続く

たまたま金沢に行った際に、展示「インストール インストール RE: / 主体性の輪郭」に行った感想

10月の最初の方、たまたま誘われて金沢に行っていた。それで「インストール インストール RE: / 主体性の輪郭」という展示に行ってきた。

 

展示している主のNanageo/さんのホームページに展示の感じや情報(ステイトメントとか)が載っている→ http://naganeo.com

 

だいたい以下のような内容だった。

 

①人間のアイデンティティについて考えさせられるような不思議な展示
心の哲学」系の思考実験で提起されるような問いを心理学風の質問紙で問う
③質問紙をもとにNaganeoさんが録音しながらカウンセリングする
④カウンセリングを終えた人の写真を撮って加工したもの、質問紙、録音されたテープを「被験者」として展示

 

被験者の僕。アイロニカルだと言われた。


僕は心の哲学も心理学も好きなので、こういう学問をパロディした内容はたまらない。カウンセリングを対面ではなく90度の角度でやるとかも良いパロディ。


心の哲学とかで提起されている問いを僕はある程度知ってしまっているので、けっこうメタ的な視点から回答してしまったなぁ。そういうのをかじっていない人からはこれらの内容がどう映ったのかが気になる。他の人の質問紙も見れるんだけど、それぞれに個性が見られてなかなか面白かった。
しかしまあ、学問オタクへの道を進みつつある僕にとっては、こういう学問を援用するタイプの芸術はもっと増えてほしいなあと思うのでした。

 

それにしても、カウンセリングをNaganeo/さんのようなハンサムな人にやってもらうのはドキドキした。Naganeo/さんは質問紙の問いについて「答えはない」ということを強調していた。それは複数の学問がコラージュされたこの展示においては、あたかも学問分野間の調停しきれない対立を表しているように(僕には)見えた。

 

人文社会科学と自然科学(いわゆる文系・理系)の間には人間の捉え方にミゾがある。人文社会科学の中でもいろんな対立がある(社会学をやっている僕としては、「あなたはどこにいますか?」というような問いに対して「周りとの関係」というような答えがあり、ついついマルをつけてしまった)。
しかし、それぞれの学問分野disciplineのレンズを通して見る「わたし」(主体性)は、展示のタイトルにもあるように輪郭のような形で浮かび上がってくるだろう。統一された全体ではなく、ぼんやりと。学問というレンズだけでなく、芸術というレンズ、展示というレンズ、質問紙というレンズ、カウンセリングというレンズ、録音テープというレンズ、写真というレンズ、あるいは展示に来た人々それぞれが持っているレンズを通して。

京大生必見! 2017年NF統一テーマに隠された真実

2017年の京大11月祭(NF)統一テーマが発表された。以下である。


戦争に加担した大学から平和を希求する大学へ
軍事研究するヒマがあったら、みんなで肩組んで騒ごうぜ!

 

このテーマについての批判が相次いでいる。主張内容の薄さもさながら、左翼的な臭いも感じさせる。
それに、やけに長いテーマで二行に分かれていて歯切れが悪い。もちろん私もこのテーマに違和感を覚えずにはいられなかった。しかし、実はこの違和感には理由がある。私はこのテーマに隠されたメッセージに気づいてしまった。

 

まず、このやけに長いテーマの省略されている文字を補うとこうだ。


戦争に加担した大学から平和を希求する大学へ(告ぐ)
軍事研究するヒマがあったら、みんなで肩組んで騒ごうぜ!


ということだ。これは「戦争に加担した大学」から「平和を希求する大学」へのメッセージなのだ。では「戦争に加担した大学」、「平和を希求する大学」とは何のことか?


大学の知(アカデミズム)が戦争において重要な役割を果たすことはしばしばある。ここでこのテーマが「NF」のテーマだということを思い出してほしい。


NFとは何の略か? November Festival? いや、違う。これはその「超人思想」をナチスドイツに利用された、フリードリヒ・ニーチェ(Nietzsche Friedrich)のことを指しているのだ。

 

ここまで言えば「戦争に加担した大学」の意味は明らかだろう。このNF統一テーマは、戦争に加担した大学(の知)から、腑抜けた「平和を希求する大学」へのメッセージなのだ(当然のことながら、マルティン・ハイデガーが1933年にナチスへの共感を示した「ドイツ大学の自己主張」も背景にある)。

 

 


では、メッセージの内容は何をしめしているのか? 先ほどの分析から考えて明らかなように「みんなで肩組んで騒ごうぜ」というのは言うまでもなく全体主義を示している


腕がなく“肩を組めない”“みんな”に入れない者は積極的に排除していこうという姿勢だ。NF統一テーマの“統一”とは、そういうことであり、「NF」がナチズム・ファシズムをも意味していることもまた明らかである

 

しかし、それでは「軍事研究するヒマがあったら」というのはどういうことだろう? ヘゲモニーを握って「統一」を成すためにはむしろ軍事力が必要ではないのか?

いや、違うのだ。忘れてはならないのはこれは大学へのメッセージであるということだ。


軍事研究という「政府による・理論主導の・上から押し付けられた」ものではなく、“みんなで肩組んで騒ぐ”。つまり、「個人個人による・直接行動の・草の根の」力を、大学(の知)に求めているのだ。

アカデミズムが大衆から遊離する中で「国家」という幻想を取り戻す。そのために行われる「NF」の3つ目の意味はNationalism Fantasyである。

 

NF統一テーマは微温的な左翼による戦争反対のメッセージではない。むしろ戦争のために大衆を、大学を蜂起させるプロパガンダなのだ。

もはや「シェアハウス」ではないものに向けて――「駆け込み寺」から「家族」へ

この文章は僕の運営しているオープンシェアハウス・サクラ荘の季刊誌「季刊サクラ荘」第二号に寄稿した文章です

 

 ホリィ・センです。この文章ではこれまで日本で行われてきたシェアハウス的実践の歴史を軽く振り返り、過去の教訓に学ぶことで、僕がサクラ荘によって目指す新しいシェアハウスの展望について述べます。それは人々の根本的な家族観を変え、「自由」や「責任」といったものの意味を問うものになるはずだ、という話です。かなり雑な話なので、まずは大ざっぱに読んでくれると幸いです。

 

シェアハウスムーヴメントの歴史?

 偉そうに語れるほど知識があるわけではないが、「シェアハウスムーヴメント」的なものはどうやら2000年代から盛んになっている。例えば1999年に「ルームシェアジャパン」というサイトがオープンし、サイト運営をしていた秋祐樹は2002年に『ルームシェアする生活』を出版している。また、一時滞在し、外国人との交流などもできる「ゲストハウス」もそのあたりから盛り上がっていった。更に、スウェーデンなどが発祥の多世帯・多世代居住の「コレクティブハウス」が、日本では福祉施設を起点として「コレクティブハウスかんかん森」として2003年に始まり、今も続いている。

 

シェアハウスのコミュニティ的展開

 そしてここからが重要なのだが、おそらく2000年代後半頃より、シェアハウスをコミュニティ的に開く方向性のものが増えた。いくつか話題になっているものを挙げると、2008年、異なるジャンルのクリエーターのコミュニケーションスペースとして始まった「渋家」(シブハウス)(創始者:齋藤桂太)。同年、趣味趣向の合うギークプログラマーなどでシェアハウスするという「ギークハウス」(創始者:pha)。「現代の駆け込み寺シェアハウス」として2013年に始まった「リバ邸」(創始者家入一真)。また、住居や個人事務所などのプライベートな空間を限定的に開放する「住み開き」が2009年頃にアサダワタルによって提唱され、2012年にはそれをまとめた書籍が出版されている。以上に述べた中で「渋家」は渋谷だが、それ以外のものは全国的に展開されているようだ。

 

 我々サクラ荘の周りでも、重要な場所はいくつかある。特に影響を受けた京都のスペースとして、アカデミックスペースとして2011年に始まった学森舎、何でもできる「オルタナティヴスペース」として2010年に始まったFactory Kyotoの二つを挙げよう。個人的には、学生自治の運動の流れで2012・13年頃に始まり、今も池袋にある「りべるたん」からも学んだことは多い。

 

 いずれにせよ重要なのは、2008年の渋家あたりをかわきりに、シェアハウスが外へとコミュニティ的に展開している点である。結果、コミュニティとして外に開かれたシェアハウスには大学生か、余暇の時間が比較的あるタイプの社会人が主に集まるようになった。

 

 そこではおそらく「高校・大学を出てそのまま会社員になっていく」という「当たり前のライフコース」に疑問を持った人たちが集まっている。家入も言うように「駆け込み寺」としての側面が強いのだろう(アサダの「住み開き」はそのような「若者」の活動に限った話ではないように思うが)。

 

「駆け込み寺」の問題点Ⅰ:思春期・モラトリアムの延長

 しかし、そこには問題がある。確かに、それぞれのスペースに集まる人間のタイプは多様であるとは思う。しかし、いささか攻撃的な言い方になってしまうが、駆け込み寺ではどうしても「思春期」や「モラトリアム」の延長になってしまうという問題点がある。それでは「スペースを続ける」ことが難しく、「普通に就職した大人」から見れば「大人になれよ」と言いたくもなるだろう。たしかアサダが「スペースを10年続けるだけでも大したもの」という旨のことを言っていたのを聞いたことがある。

 

 実際、就職しないままそのようなスペースを続けるのは難しく、就職したらしたで企業によって場所がバラバラになってしまう。家に居る時間も短くなるだろう(その点、ギークハウスのプログラマーなどはシェアハウスと相性がいい労働形態なのかも?)。

 

 また、おそらく社会的信用を得るのが難しい。事実としてこれまでのシェアハウスは、騒音でご近所に怒られ、賃貸契約を切られてなくなっていったというパターンが多い。騒音は確かに問題だが、ご近所の人からしても「大人になれないダメな若者」として映っているのではないか。日本ではそもそもシェア向きの間取りの家が少ないのだが、シェアハウスを始めるような人たちに社会的信用がないのか、「シェア可能」の物件も少ない。

 

「駆け込み寺」の問題点Ⅱ:逸脱者の集まり

 「駆け込み寺」の問題としてもう一つ言えるのは、社会に適応できなかった逸脱者が集まりやすいということだ。もちろん、逸脱者同士だからこそ連帯できるというメリットはある。僕自身の問題関心に引き付けて言えば、家族や学校に居場所がなかった人たちや、いわゆる「メンヘラ」の逃げ場としてシェアハウスが機能している側面はある。僕自身、その機能に期待してシェアハウスを始めたところは大きい。

 

 しかし、社会に適応できなかった人はどうしても人付き合いや組織や集団の運営が苦手な傾向が強い。結果として、人間関係やメンタルヘルスに気を取られて組織が存続できないことになりかねない。僕自身の関心(サークルクラッシュ)から言えば、そういった人たちは男女の問題もこじらせやすいように思う。

 

シェアハウスは「駆け込み寺」のままでいいのか否か

 「駆け込み寺」としてのシェアハウス、確かにそのようなセーフティネットがたくさん存在することは重要である。しかし、上に挙げた二つの問題点が絡み合い、どうしても存続することが難しくなってしまう。

 おそらく存続するための方向性は二つある。一つは問題Ⅰの思春期・モラトリアムの延長をそのまま仕事にしてしまうというものだ(ギークハウスは仕事によってお金が回っているだろうし、例えば「SEKAI NO OWARI」なんかはシェアハウスをしているらしいが、メジャーデビューできるぐらいならばシェアハウスを続けられるのだろう)。

 

 もう一つの方向性は問題Ⅱの「逸脱者の集まり」の方を仕事にしてしまうというものだ。どういうことかというと、逸脱者を雑多に集めるのではなく、「ケア対象」として特定の対象に絞り、福祉施設にしてしまうということだ。だいぶかけ離れた例になるが、高齢者のグループホームや、児童養護施設などはそのような成り立ち方をしているように思う。シェアハウスではないが、(身体・精神)障害者などの場合は「デイケア」という通い型のリハビリ施設がそれにあたるだろうか。こういった福祉施設は国や地方自治体からお金が出ることで回っているだろうし、立派な仕事と言える。

 

 しかし、これら二つの方向性になった途端に「駆け込み寺」の良さがなくなってしまうように思う。おそらく想定されるのは、メジャーなアーティスト集団や福祉施設になると、曖昧に逸脱してしまった人間が来にくくなってしまうだろうという事態だ。

 

 つまり、シェアハウスコミュニティに誰でも来ることができる、そんな「気軽さ」が失われてしまうのが問題だと僕は考えている。「駆け込み寺」の問題点をうまいこと武器に変えたはいいが、産湯と共に赤子まで流してしまっているのだ。すなわち、シェアハウスが存続しにくい草の根的活動である、それゆえに家庭や学校で居場所がない逸脱者も親近感をおぼえ、フラッと気軽に駆け込めるというジレンマがあるのではないだろうか。それが「仕事」になってしまうと、どうもよそよそしいものに感じられてしまう。言い換えれば、個々人が抱える私的な問題を公的な場所によってカバーするのには限界があるということだ。では、「公的」なものになると失われてしまう「気軽さ」や「親近感」を保ちながらも、コミュニティを存続させていくにはどうすればいいのだろうか?

 

核家族・一人暮らしに続くもう一つの選択肢

 唐突に聞こえるかもしれないが、そんな「気軽さ」を推し進めていくと「誰でも来ることができる」よりも「誰でも始めることができる」ことがより重要になるのではないかと僕は思う。というのも、今のところ日本において「シェアハウス」は駆け込み寺か、あるいは周縁的なものでしかない。圧倒的大多数を占める居住形態は核家族と一人暮らしなのである。

 

 しかし、地域の繋がりが衰退していることも合わせて考えれば、核家族と一人暮らしは個人主義化の産物である。離婚率の上昇などもあり、どうしても孤立し、居場所を得られない子どもが増えている。そんな子どもが社会に適応できないまま「若者」になったときに、「駆け込み寺」としてのシェアハウスにやってくるのではないか。実際、そういう人は周りにいる。

 

 それなら最初からその子どもはシェアハウスにいればよかったのではないだろうか。いくつかの家族研究を読んだ雑感だが、子どもが居場所を得ることを阻害するリスク要因としては、夫婦仲が悪い、夫婦間・親子間の暴力、支配的である、恐怖を覚える、愛情が得られない、放置される、親の無理解、といったものがある。また、一人親の場合は、複数の役割を一人の親が担わなければならないがゆえに、様々な問題が生じるようだ。しかし、密室的な環境でなければ暴力や支配は起こりにくいだろう。複数人の養育者がいれば、役割分担もできるだろう。

 

 話が遠いところにまで飛躍してしまったが、そんなわけで僕はシェアハウス、すなわち「他人と一緒に暮らす」ということが当たり前の社会を目指すべきだと考える。シェアハウスのメリットは季刊誌のこれまでの文章でも述べてきた通りであるが、それを多くの人が享受すべきだと考えるし、シェアハウスは実は子育てにも向いているんじゃないかということだ。

 

 そしてそこまでいくとそれはもはや「シェアハウス」とは呼べないのではないか。複数の世帯が同居する「コレクティブハウジング」のような形態も既に行われているが、例えば、夫婦関係に加えて一人だけ居候がいるような状態なども想像できる。それらを包括するにふさわしい名前を、僕は「家族」以外には知らない。「家族」にこだわることは保守的だという声もあるだろうが、子を産み育てるような親密な関係について果たして新たな言葉を作る必要があるのだろうか。「シェアハウス」に未来はあるのだろうか。今後の趨勢を注意深く見守っていきたいところである。

 

目の前の人を助けるために

 ところで、以上は先ほどの問いの答えになっている。すなわち、「気軽さ」や「親近感」を保ちながらも、コミュニティを存続させていくためには、誰でもコミュニティを始められるようになればいいのだ。

 どういうことかというと、まず、いくら居場所がなくて苦しんでいる人がいたからといって、誰でも助けられるわけではない。キャパシティの問題もあるわけで、おそらくほとんどの人にとって助けられるのはせいぜい身近な数人だけである。助けるべき人間が増えすぎると、それこそキャパシティオーバーでコミュニティが存続できなくなってしまう。だから身近な1人2人を助ければいいのだ。コミュニティを始めることによって。

 そう、「他人と一緒に暮らす」ということが当たり前になった社会においては、「一緒に住む」という手段によって目の前の人を助けることが容易になるのだ。つまり、目の前にいる「親近感」のある友人のための駆け込み寺を誰もが作ることができるようになる。これには「結婚」ほどの制約はないし、結婚と同じく金銭面でも精神面でもサポートできる。しかも関係を二人で閉じる必要がない。三人いても四人いてもいいのだ。

 

 ところで、これはメジャーデビューしたバンドのシェアハウスや福祉施設のように、「仕事」として「公的」になってしまったものには気軽に入れないという話をした。実はコミュニティにはもう一つ気軽に入れなくなる理由がある。それは「内輪感」だ。あるコミュニティに「内輪感」を感じた外の人は、疎外感をおぼえてしまう。しかし、誤解を恐れず言えば、それはそれでいいのだ。内輪にいる人は楽しいのだから。「他人と一緒に暮らす」ことが当たり前になり、誰もが駆け込み寺を作れるようになれば、誰もが何かしらの内輪に入ることができる。そうやって棲み分けていればキモチワルい内輪感があってもいい。

 

 そして楽観的な言い方になるが、内輪ならばそれぞれが自分のためにコミュニティを存続していくのだから、それが自分のためになり続ける限りで存続するだろう。存続しなくなったならそれが自分にとって必要なくなったということであり、自分の選択と関係ないところで強制的に居場所が失われるということは少なくなるだろう。言い換えれば「自治」が行われるということだ。

 

 もちろん、「誰もが何かしらの内輪に入る」など、以上に述べたことは理想論であり、現実には不可能だろう。しかし、少なくともその社会に近づくことはできる。

 

「親」として責任を負うこと、自由の意味

 これまでの内容をまとめよう。僕の主張を具体的に言えば、現代のシェアハウスが主に「駆け込み寺」としてしか機能していないのに対して、僕らはシェアハウスを増やすことによって「他人と一緒に暮らす」「他人と一緒に子育てをする」という価値観を日本に根付かせたいということだった。そしてその副産物として「駆け込み寺」一つ一つの負担が減り、身近な内輪だけの小さなものが乱立する。だからこそそれぞれに自治性が付与され、そのような棲み分けによって「駆け込み寺」は隅々まで行き渡っていく。

 

 そして、最後にこれから主張することは抽象的な話だ。それは、「自由」という名の責任逃れに流されることなく、周りの人に助けられながらも目の前の人を助けることで責任を分け合う、そんな社会を目指したいという内容だ。

 

 さて、僕らは何をもって自由でいられるのだろうか。僕はシェアハウスを始めてから、当人の自由を尊重することと、当人の意思決定の過程に介入することとの間で揺れることが多くなった。リベラリズムパターナリズムのせめぎ合いだ。僕はそもそも絶対的に信じられる思想なんてなかなかないと思っているし、人それぞれの考え方を尊重することの方がむしろ大事だと思っている、リベラル寄りの人間だ。その根本は今も変わってはいないし、そのおかげで人に好かれるところもけっこうある。

 

 しかし、僕が「シェアハウスを増やす運動」をするにあたってはそんなヌルいことは言っていられない。シェアハウス、「他人と一緒に暮らす」ということを日本社会の構造に根付かせる、そういう気持ちで僕はやっている。それは大げさに言えばノブレスオブリージュ(高貴なる者に伴う義務)であり、啓蒙活動だと思っている。

 

 そしてそれは象徴的にも実質的にも僕が「親」になることだ。他人と一緒に暮らしつつの子育てをやろうと言っているのだから、まず僕自身が親となって実践せねばなるまい。そして、これからの世代も真似できるロールモデルを作るのだ。では、敢えて問おう。こんなにも傲慢な僕のやり方は、人々の自由を無視した、押しつけがましいものだろうか? そうかもしれない。しかし、僕はシェアハウスで暮らす中で、無責任な「自由」には限界があると感じるようになった。むしろ一定の拘束や制約が原初にあって、そこで初めて生まれる自由こそが真の自由なのではないか。その拘束・制約を大胆に言い換えれば「責任」になると僕は思う。なるほど、この社会に生きるためには責任が伴う。それは権利と義務が表裏一体だという倫理的な話だ。一方で、一定の責任を負うことは心理的にも「自由」の感覚をもたらすように思う。

 

 そこで、僕はまず僕自身の「自由」のために社会に対しても自分の子どもに対しても、「親」として責任を取る立場になろう。そして、今の社会を生きている人たちも、これから生まれてくる子どもたちもまた「親」になってほしい。それはすなわち助けつつ助けられる、そんな相互扶助システムの中の主体としての責任を負ってほしいということだ。

 

 「自己責任論」という名の責任のなすりつけ合いが横行する現代において、駆け込み寺に駆け込むことで、一時的に重すぎる責任を免除されることには一定の価値がある。しかしその上で、他人から押し付けられたものではない、自分で負うべき責任を負うことによって、真の自由を得てほしいのだ。

10日間の瞑想合宿に行ってきました

10日間のヴィパッサナー瞑想合宿に行ってきました。
ヴィパッサナーというのは「客観的に観察する」ぐらいの意味です。
何を客観的に観察するかっていうと自分の呼吸と身体の感覚です。

 

具体的な瞑想法は適切な指導者しか教えちゃいけないっぽいので割愛しますが、意外にもすごく実践的で具体的な指導でした。

 

ちなみに、そもそも何のために呼吸と身体感覚を観察するのかをざっくり説明すると、

  1. 人間はあらゆる物事に「渇望」や「嫌悪」(あるいはどちらでもないもの)といった反応をしてしまう(この反応を「サンカーラ」と呼んでいました)。反応をし続けてしまう限りサンカーラは絶えず増え続けてしまうのだと。
  2. そしてサンカーラは身体に2つの形で現れる。1つは呼吸の変化という分かりやすい形で。もう1つは生化学的な、極めて微妙な反応として。
  3. しかし、万物は無常。そのような感覚は現れるものの必ず消えていく(そのことは「アニッチャ」と呼んでいました)。
  4. このアニッチャを理解した上で、あらゆる感覚に対して反応せず(渇望や嫌悪を抱くような評価をせずに)「平静に観察する」ことができるようになれば、サンカーラも増えなくなる
  5. ということで、呼吸と身体感覚を平静に観察する訓練をすることによって、渇望や嫌悪に振り回されないようにしよう。また、サンカーラを増えなくして、最終的には解脱を目指そう

という流れです。めっちゃ仏教ですね。とはいえ特定の宗教を信じる必要はありませんし、仏教徒以外の人も広く受け入れられています。結局のところ、瞑想法という実践をひたすら広めている場所なわけですから、洗脳のようなものはありません。

 

最初はしんどかった

1日あたり10時間程度の瞑想の時間があり、空き時間も本を読んだり携帯を見たりしてはいけない。人と喋ってすらいけないという強い制約の下で行われます。瞑想中「1時間体勢を変えてはいけない」という時間もあり本当に「修行」という感じでした。

 

一日目や二日目は正直「帰りたい……」ってなりました。しかし、終わってみればとても良い経験でした。強い制約の下でしか得られないものもありますし、何より瞑想中に平静さを保つためには余計な情報は入れない方がいいわけです(実際、それだけ情報が制限されていてもなお、瞑想中はよくいろんなことが頭に浮かんできて平静さが乱されました。心とはおしゃべりなものです)。

 

瞑想してどうなるか 

10日間あるので、日々瞑想の内容はステップアップしていきます。そして僕自身、どんどん瞑想ができるようになっていきました。「うまくできるようになる」のを渇望するのは良くないのですが、自分がレベルアップしていく感覚は楽しいものでした。
そして、瞑想を続けていると感覚も鋭くなっていきます。五感が鋭くもなるのですが、特に自分の身体の状態に気づけるようになります。例えば僕は姿勢がとても悪いのですが、自分の身体を深く見つめることでどこがどう悪いのか分かりました(肩甲骨が前に出すぎている、など)。そろそろ整体にでも行こうかなと思いました。

 

10日間が終わると日常に帰るわけですが、日々の瞑想は日課にしようと思いました。また、瞑想だけじゃなくて日々自分の感覚に気付いているということが究極的には重要です。
例えば、怒りや不安の感情・思考がふと生じたとしても、自分の呼吸や身体を見つめることでそれらはゆっくりと確実におさまっていくでしょう。そういう感情や思考が生じる前に、普段から自分の感覚(歩いているときの足の裏の感覚や、食べているときの味覚などなど)を意識することでこれは鍛え続けられます。
これは思考や感情から逃避するのではなくて、それらが生じていても「評価をしない、ただ観察する」というものです。瞑想によって得られるものはいろいろありますが、僕としてはそれを続けていきたいところです。

 

元々はマインドフルネスという精神医療で注目されている治療法の元としてヴィパッサナー瞑想に行ったキッカケの一つでした。ヴィパッサナー瞑想を通してマインドフルネスへの理解も深まりましたし、今後更に深く掘り下げていきたいところです。


サイトはこちらです。お金もタダですし、みなさんも気軽に行ってみてください。人生が良い方向に変わる可能性がけっこうあると思いますし、オススメです↓

ヴィパッサナー瞑想: 日本

サークルクラッシュ同好会の会長をやめます

 ホリィ・センです。突然ですがそろそろサークルクラッシュ同好会の会長を辞めて、誰かに引き継ぎたいです。
 2012年4月からこの団体を始めてずっと会長を名乗ってきましたが、もう年齢的にはアラサーです。最近18,19歳の人とまともに会話できなくなったのを感じています。
 僕はサークラ同好会を作り、この5年半会長をやってきて十分に利益をむさぼりました。会長をやっていたおかげで人間(特に女性)と話す機会が格段に増えましたし、あんなにコンプレックスだったコミュニケーションや恋愛もできるようになりました。組織のトップに立つみたいなことも肌感覚で分かるようになりました。
 だから、僕がずっとそれをやってるのは勿体ないと感じます。下の世代に「会長をやることのメリット」を享受してもらいたいと思います↓

 

会長になるとこんなメリットがあるよ:

  • 立場上、新しく入ってくる人と仲良くなれる
  • 立場を活かしていろいろできる
  • 人を率いるスキルが身につく
  • たぶん自信もつく
  • 履歴書に書ける(書けない)

等々。

 

 僕個人の話だけでなく、団体としてもそうあるべきだと思います。サークルクラッシュ同好会の活動のためのシステムはだいたい整いましたし、だからこそ関東支部も活動できています。だから引き継いでも大丈夫でしょう。
 むしろいつまでも僕が会長をやっていると、せっかくの「サークルクラッシュ同好会」も、ホリィ・センの職人芸と化してしまいます。僕はこの概念を誰にでも使えるものにしたい。本当は関西と関東だけじゃなくて、日本中にあってもいいぐらいの普遍性があるものだと思っています。

 

ちなみに、僕が会長を辞めるといっても、一気に全部の仕事をやらなくなるわけじゃなくて、後を継ぐ人のサポートはしばらくやります。例会にも普通に行きます。役職的には「摂政」とか「名誉会長」とかになるでしょう。勘違いなきよう。

 

以下は会員向けなので、参考程度に見ていただければ。初めてこの記事を読んで興味持った人はご連絡ください。京都と東京で活動やってますので。

 

サークルクラッシュ同好会のだいたいの歴史

高校時代目立った行動するのが好きだった(一年中半袖で過ごすとか、バレンタインデーに学年全部の机にチロルチョコ置くとか、毎年クリスマスに水浴びて動画撮るとか、生徒会長やるとか)

大学入ってからも目立つことをやりたかったが特にアイディアもなかったので2年間くすぶる(主に漫画読みサークル漫トロピーに入り浸ったり声優の悠木碧の追っかけをしたりしてた)

3回生になった2012年4月、サークルクラッシュ同好会を立ち上げる。1,2回生のときのサークル経験を活かして、まずはTwitterアカウントを作り、会誌を作るところを目標に始める。4月に現れた1回生に「ホームページを作ってほしい」と言ったら作ってくれたので、それを原型にいろいろネタをする

サークルクラッシュの研究については手探りだったので、「サークルクラッシュ」等のワードで検索したり、特殊なコミュニティに出入りしたりしてみる(かねどーさんのオフ会、シェアハウス、幸福の科学など)

京大11月祭(通称NF)で会誌Vol.1を出す。Factory Kyotoの松山孝法さん、学森舎の植田元気さん、幸福の科学学生支部の馬場さん、サークルの先輩だったひでシスさんに寄稿してもらい、なんとか形に

2013年(2年目)。真面目に(ネタ性の高い)ビラを貼って新歓をやる。「サークルクラッシュにご注意ください!」と叫ぶパフォーマンスも実は2012年からやっていたが、2013年からはより本格的に。Twitter等を経由して入会する人も増え、一気に大所帯に

メンヘラ神を名乗る女性からメールがきて、関東支部も発足(すぐクラッシュしたけど)

このあたりからいろんな問題を抱えた人が集まり(むしろ主体的に集め)がちになり、ネタサークルだけでなく、自助グループサークルとしての色彩も出てくる。各人の人間関係や精神的な問題を解決することや、サークル内での交流も重視するように



いろいろあったものの、会誌も豪華になり(椿井ませりさんとまりうむさんにはいつも感謝しています)、サークルとして形になっていく。定期的に新歓、例会、NF、即売会(コミケや文フリ)をやるようになり、いろんな恒例行事が増えていく(合宿やったりとかビンタ屋やったりとか服を買う会やったりとか、突発イベントも増えていった)


会長としてやってきたことと、これからどうするか

●新歓、月二回の例会(場所取りも)、会誌の原稿集め、11月祭(申込と当日)、即売会(申込と当日)等のルーティーン、あと会計
これまでかなりの割合をホリィ・センがやってた気がしますが、さすがにいくつかの役職に分割すべき。会誌編集も既に卒業したませりさんに頼り続けるのはヤバい

 

●例会時の司会とか何か問題が起こったときの事後処理とか、度胸やバランス感覚の要るやつ
新会長、よろしくお願いします

 

●例会で何やるか等の企画
みんなでやりましょう