ADHDについて哲学的に考えてみる――「注意欠如/過集中」を超えて

ADHD者の「注意欠如/過集中」

 ここ数年、「ADHDアイデンティティ」のようなものを考えている。いろいろ考えてきたことについてちょっとまとめてみたい。

 

 まずADHDの言葉通りの「注意欠如」、すなわち「注意が欠如し、集中力が持続しない」状態では長い文章を読んだり、長時間授業を聞いたり映像を観たりすることができない。

 

 そこで、ADHD者はしばしばTwitterのように長くない1ツイートで完結する情報を好んでしまうように思う。これは時代を遡れば、チャンネルを次々に変えていく“ザッピング”というテレビ視聴の方法をより洗練されたものだと考えられる(そもそもテレビのニュースなども“途中から”観れるように構成されている)。

 

 しかしADHD者には一方で、「過集中」という特徴も見られる。ある状況に没入し、それが“すべて”になり、外部がなくなるような状態だ。これにより、一部の才能の恵まれた者は短期的なかたちで優れた成果を上げる場合が見られる。

 

 この「注意欠如」と「過集中」との間の揺れを、個人のアイデンティティの問題に(ムリヤリ)繋げてみよう。

 

 まず、「注意欠如」という特徴から、長い時間をかけて紡がれる一元的な「物語」によって自己を確立させるよりも、社会の中で浮遊し多元的に所属することで複数の顔を使い分けるというアイデンティティ観になる。

 言い換えれば、「自分は何者なのか」を単一の原理や累積的な経験によって掘り下げていくのではなく、その場その場の関係や、そのときそのときの衝動によってなんとなく「自己」という像を結んでいくイメージになる。

 

 ただし「過集中」という特徴も加えて考えれば、「その場その場の関係や、そのときそのときの衝動」に強く没入することもある。この「過集中」にはしばしば強い快楽が伴い、「これこそが本当の自分だ」と思い込みたくなるように思う(しばしばADHD者が「好き」なものに過集中することがその傾向を強める)。

 

 以上の「注意欠如/過集中」によって生じてしまうADHDアイデンティティのあり方はどちらかと言えば受動的なものである。そこで、もっと主体的にADHD者が目指すべき自己について以下では考えてみる。先に言えば、三つ提示する。

 

 

「注意欠如/過集中」の認知行動療法的コントロール

 まず第一に、「過集中」時の自分を「本当の自己」だと思い込んでしまうことこそ、衝動に規定されている(すなわち、「衝動的に過集中した自己」を本当の自己だと思い込みたいという衝動、言わば“メタ衝動”である)ように思われる。そこで「過集中時の自己」については批判的に捉えて、「過集中」時の自分が「本当の自己」ではないとしてみよう。

 

 すると、目指されるべきなのは「注意欠如」と「過集中」との間で揺れることよる自己の断片化を、さらにメタ的に捉えるような自己のあり方ではないか。


 それは半ばランダムに生じてくる「衝動」を直接的にコントロールしようとするのではなく、「自分が衝動的になりうる」ということをあらかじめ考慮に入れた間接的なコントロールをする自己なのではないかと思う。

 実際近年、ADHD的な「症状」を認知行動療法的なアプローチで統御していく本がよく売られており、そのような自己を目指している人は多いのかもしれない。

 

 しかし、ヘタをすればこれはあくまで「生産性」を高めるための手段に過ぎない。言ってしまえば「仕事術」や「片付け術」などの自己啓発本もまた、ADHD的な症状を“治療”し、よき労働の主体を作り上げる装置なのだから(とはいえ、そのような自己啓発本の効用を全否定するつもりはない。絶対的な活動量を増やすことは必要だと思っている僕自身、認知行動療法的なアプローチを活用している)。

 

 

「注意欠如/過集中」から脱する「山ごもり」的戦略

 そこで、二つ目に目指すべきなのは、さまざまな場面で生じる「過集中」を束ねる何らかの概念を発見することで到達できるアイデンティティである。

 よくあるパターンとして、ADHD者は「多趣味」や「器用貧乏」というアイデンティティに至っているが、それは半ばランダムに生じる過集中を並列的に捉えたに過ぎない(「過ぎない」とはいえ、「多趣味」や「器用貧乏」というアイデンティティはしばしばADHD者を慰めているとも思う)。


 そこから一歩進めば、自己の持つ複数の趣味間の連関を“統合”的に捉えることも可能なはずである。優れた芸術家や研究者は自身の来歴に反省的に向き合うことで、一つの世界観を形成する。ここではADHD的な「注意欠如/過集中」の揺れから脱出し、一元的な物語が作り上げられていると見ることができるだろう。


 では、どうすれば「注意欠如/過集中」の揺れから脱することができるのか? ここでは、一つ目に示したような認知行動療法的・社会適応的なアプローチではなく、むしろ社会から離脱するアプローチが重要だと思われる。


 どういうことか説明しよう。先ほど例に出した“芸術家”や“研究者”はしばしば俗世間から離れた生活世界を作り上げている。そこには、世間からの要求に振り回されずに生きることができるという合理性がある。というのも、ADHD的な「症状」は社会生活の中で生じるものだからだ(社会が、SNSが、スマホが、我々の衝動を煽ってくる。そして同時に、その衝動を制御するように社会は要求する!)。

 

 よって、「注意欠如/過集中」の揺れから脱し、一つの統合されたアイデンティティを作り上げるためには、一度社会から離脱してじっくり考える・何かに取り組む(たとえば作品を作る、本を書く)ことが重要になってくる。これは言うなら「山ごもり」的戦略と言えるだろう。

 

 しかし、そのようなことを実際に達成することは難しい。私たちは社会に生きており、今もなお社会の煽動・要求に左右されているのだから。そこで、「注意欠如/過集中」の揺れから脱するのではなく、それらに内在するかたちで三つ目の方向性を示そう。

 

 

「注意欠如/過集中」における衝動を(ある意味で)肯定する

(この部分は『現代思想入門』をはじめ、千葉雅也さんの思想に強い影響を受けています)

 それは、冒頭で示した、“ザッピング”やTwitter的な情報摂取のあり方を肯定するような方向性である。しかしそれは、単に1ツイートで完結するような、小さな情報群を摂取していくということではない。また、1から始り10で終わるような、摂取に時間のかかる「物語」でもない。

 

 むしろ、ひとびとが自分の中にある生煮えの情報を(衝動的に!)次々に投下していく中で繋がり、それがどういうわけか何らかの創造性を生むようなあり方である。

 当然、生煮えの情報群はたくさんのいいねやリツイートを集めないので、“バズる”ことはない。しかし、Twitterにおける文脈が切り離された情報群が、文脈が切り離されているからこそセレンディピティを生むことはあるだろう。おそらく人口の少なかった2010年前後のTwitterでは、そういうことが起きていたはずである。

 

 ここからイメージされるアイデンティティはおそらく“統合”されたものではなく、断片化をある意味で肯定していくようなものだろう。それどころか「アイデンティティ」という言葉がそぐわない、理性よりも身体的な感覚やリズムが生み出す何かであろう。これもまた“衝動”と呼べるものかもしれないが、先述したような社会にコントロールされた衝動ではなく、むしろ非社会的な衝動であると思われる。

 「ADHD的な生き方」を肯定するとすれば、この意味での衝動を肯定しなければならないのではないだろうか。

インスタを始めない人生だった(完)

 

サークルクラッシュ」研究所の新歓期自分語り企画! ということで、今回は1分で読める感じでノンバーバルに自分を語ってくださいとのことです。

 

僕は写真撮るとかそういうのはからっきしです。それゆえか、今まで付き合ってきた人は写真好きが多かったですね。自分が持っていないものを持っている人を好きになりがち。

 

とはいえ、せっかくなのでちょっと愛用しているiPadの写真フォルダを開いてみて、自分が撮ったものを遡ってみましょう。

 

 

西野もゆたぼんも“革命家”なんだなあ。

 

 

 

 

露骨な“SDGs”に笑ってしまった。

 

 

 

 

変な自販機や変な飲み物に嬉しくなってしまう。あと、僕はかなりの甘党なので、甘ったるいやつも飲みます。

 

 

 

 

リングフィットアドベンチャーの設定、狂ってると思う。

 

 

 

 

“暫定”って。

 

 

 

 

友人の結婚式の引き出物はカタログギフトだったので「じゃがいも5kg」を選んだ。放置していたら芽が尋常じゃなく伸びていた(でも切り落とせば普通に食えた。じゃがバター美味かった)。

 

 

 

 

恋人と遠くに遊びに行くと、なんだかんだ少しはノリで個人的に写真を撮ってる。後から見返すとあまり良い写真ではない場合が多い。

この写真は松戸市立博物館行ったときの写真。「連盟よさらば! 我が代表堂々退場す」じゃないけど、明治〜戦後期ぐらいの新聞ってカッコイイな。

 

僕もスマホをメインにすればもっと写真撮るんだろうか。撮らないだろうなあ。

「自我がない」ではなく「習熟しないと欲求を持てない」だと気づいた話

 昨日、サークルクラッシュ同好会で「自我がない」というテーマで当事者研究をした。

 当事者研究とは、簡単に言えば、特定の生きづらさを抱えた当事者が自身のことについて研究して理解していく営みのことである。サークルクラッシュ同好会では「誰でも当事者研究」というかたちで、比較的多くの人が持ちがちな困りごとをテーマに設定してほぼ毎月開催している。

 「自我がない」というテーマに基づいて自分の困っていることや困った経験を考えてみると、自分のコンテンツの「開拓」のことについて思い至った。

 僕は兄の影響でオタクになったのだが、昔の作品などで好きなものはたいてい兄の影響だ。最近も周囲の人に勧められたコンテンツを消費していることが多い。コンテンツを自分で開拓することがなかなかない。

 強いて自分で開拓できているものを考えてみると、人文社会科学系の研究を始めてからは、その系統の学術書や新書、あるいは批評と呼ばれるジャンルなどについては(それでも主にTwitterAmazonなどを通じてだが)、開拓できるようになっている感じがある。

 言うならば、「ウィンドウショッピング」「ジャケ買い」的なことができないことへのコンプレックスがあるのである。

 これをもう少し抽象化して考えてみると、「手がかりがないと先に進めない」ということなのかもしれない。たとえば、会話において、一定の文脈が共有できている相手でなければ話題が出せない、「何を話していいか分からない」状態になりがちなことと同じ気がする。

 裏返して考えると、「手がかり」があれば先に進めるわけなので、比喩的に言えば、特定の分野に関する「地図」があればいいことになる。僕はたとえば、社会学学術書に関してはある程度の「地図」を持っているので、新しく社会学の本が発売したときに自分が読むべきかをある程度判断できるし、「社会学でこういう本ない?」と聞かれたときにそれなりの答えを返すことができる。

 自分にとっての「地図」がない分野に関してはそんなに気にすることないのかなあと、地図がある分野から着実に開拓していけばいいのかなあと、そういうことを考えた。

 

 ……と、ここまでは昨日考えていたことなのだが、今日になって「何か食べたいものある?」と聞かれて、ピンときた。

 この質問に対して、僕はいつも困るというか、「食べたいもの」はたいてい、ないのである。同様に「行きたい場所」を聞かれても困る。

 「〜を食べたい」「〜へ行きたい」は通常、上で論じた「コンテンツの開拓」のような仰々しいものではなく、もっと原始的な欲求のレベルにあるものだと思う。しかし、それすらも僕の頭には出てこない。

 ということはどうやら、僕の場合、通常「欲求」のレベルにあるとされているものでさえも、ある種の習熟をしないと持てない傾向にあるらしい。

 こうなってくると、話は「発達障害」的な話題に近づく。「みんなが自然にできていることを自分はできない」という悩みがずっとあるが、それは「コンテンツが開拓できない」「欲求が持てない」という、ここまで論じてきた悩みと同様の悩みだということになりそうだ。

 

 ちょうど「みんなが自然にできていることが自分はできない」現象が直近で2つ起きたので、そこから更に思考を進めてみよう。

 一つはラジオ体操について。最近、肩こり腰痛などが激しいので、ラジオ体操をやっている。あるとき、友人もラジオ体操をするというので、一緒にやってみた。

 すると、動きのおかしさを笑われた。どうおかしいのかを検討してみたところ、自分はラジオ体操において「どこの筋肉が伸びているか」を意識して身体を動かしているのではなく、ラジオ体操者の動きを外形的に真似て動いているだけだということが明らかになった。だから不自然だったのだ。となると、僕は子どものときから不自然な動きでラジオ体操をしていた、ということになろう。


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 二つ目に、髪の毛の洗い方について。昔から、髪の毛をシャンプーで洗うときに一回で泡立たないのが地味な悩みだった。特に汗をかいた日や、脂質の多いモノを食べた日はそうなりがちだった。シャンプーを2回使わざるを得ず、どうしたものかとずっと思っていた。

 しかし、美容師の洗髪などを体験しているうちに、非常に基礎的なことに気づいた。そもそもシャンプーで洗う前に、湯でかなり丁寧に洗っているということだ。

 「シャンプーで洗う前に湯でしっかり洗いましょう」という言葉は見聞きしていたし、理解しているつもりだったのだが、ちゃんと理解できていなかったことに気づいた。湯で単に長時間流すだけでなく、①髪を手できちんと梳きながら湯で流す、②頭皮を指の腹でこする、といった動作が必要らしい。やってみると一発で泡立つようになったのである。

 

 以上のように、僕の場合、自分ではできていると思っていても、実は十分にできていない、ということが日常生活の中にたくさんある。腹落ちしないものについては、1を聞いても1を知ることしかできないのだ。

 つまり、他の人にとっては「自然にできる」ものであったとしても、僕にとっては「上達」「習熟」を要するものだ、ということになるだろう。逆に言えば、「上達」「習熟」が必要なものだと認識してそれなりに努力してきた分野に関しては、人並みにはできていると思うし、人並み以上にできる分野もある。

 このように考えると、僕の場合、いわゆる「ゲーミフィケーション」が有効なのかもしれない。通常ゲームとして捉えられていないものを「ゲーム」として枠づけ直してみるという手法だ。

 実際僕は、コミュニケーションや人間関係を、ある部分では「ゲーム」のように捉えているところがある。「他人の好感度を上げるゲーム」と言うと美少女ゲームのようだが、たとえば「いかにベストなコミュニケーションに近づけるか」というゲームとして会話を捉えることがあり、それでうまくいっている部分はあるように思う。

 一部界隈で流行っている「ナンパ術」は、コミュニケーションや恋愛を「自然にはできない」からこそ、「ゲーム」のように「上達」「習熟」していくものとして枠づけて直している営みなのではないか(たとえば「レベル上げ」という表現はナンパ術の言説でよくみる気がする)。そんなことを考えさせられる。

 「ゲーミフィケーション」という考え方は2010年代前半には流行っていた気がするが、最近はそこまで聞かない気がする。しかし、日常生活のさまざまなことを「自然にはできない」僕にとっては、そのようにゲームのメタファーで物事を捉え返していくことが非常に有効なのかもしれない。それは、通常「誰もが自然に持つ欲求」として扱われているような原始的なレベルのものにおいてもそうなのかもしれない。そんなことを考えた。

声優を目指していたころの話――中二病回顧(懐古)録 その弐

 もう9年も前の話になる。僕は声優を目指していた。そのころの話を書こうと思う。
 しかし、その「前史」として、僕は既に「声優」的な文化に触れていた。遡れば16年前、僕が中2だったころの話から始まる。
 

ネット声優のころ

 僕はかつて、デスクトップパソコンにマイクを繋いで、YahooチャットSkypeなどを使って音声通話をするのにハマっていた。
 2005年、僕が中2のときのあるクラスの友人が「メッセンジャー」を使う文化を普及させ、別の同級生がYahooチャットの部屋で歌ったり演じたりしていたのだ。
 僕もその影響を受け、Yahooチャットの「声劇」(声だけでする演劇のこと)の部屋で演じたり、Sound Engineというソフトを使って自分のセリフを録音するのを楽しんでいた。
 さらに当時、兄の影響でRPGツクールを楽しんでいた僕は、FREEJIA(2004年に初公開)という作品を興味深く見ていた。容量が大きくなってしまうものの、.wavファイルで効果音としてセリフに音声をつけるのが新しかった。
 

 
 さらに言えば、僕は兄がプレイしていた美少女ゲームを後ろからよく見ていたのだが、古いゲームの場合には音声がついていなかった。
 ただその中でも、『シスタープリンセス』のゲーム(2001)はセリフの一つ一つに音声がついていて面白かった。当時の言葉で言えば、僕は「萌えた」のだった。
 もっと遡れば、スーパーファミコンの『ワンダープロジェクトJ』(1994)というゲームでは主人公のピーノの音声を日高のり子さんがやっており、スーファミのゲームにして声がついていることの感動があった。
 いずれにせよ、「ゲームに音声がつく」ということの感動がRPGツクールというアマチュアのレベルで得られるのは、僕にとって革命的だったのだ。
 
 当時、RPGツクールだけでなく、「ボイスドラマ」を作る文化が一部にあった(おそらく今もある)。台本に対して「声優」たちが音声を当てて、一つのドラマを作るというものだ。
 ボイスドラマを作りたい人が「ネット声優」を専用サイトで募集し、「オーディション」をしていた。そういう文化があったのだ。
 僕は「オーディション」にいくつか応募していて、たまに採用されていた。ただ、「ボイスドラマ」の大半は企画倒れになり、完成しないことが多かった。有償の作品を作るわけでもなかったので、どちらかというと社会性のない人たちが集う場だった。
 
 そんな文化圏に触れていた中で、僕は「ネット歌手」にもハマっていた(後の「歌い手」である)。先ほどのFREEJIAに出演していた1人がネット歌手もやっていたのだ。
 僕はその人の個人サイトを追いかけ、ブログを読み、しまいには中3のときにオフで会いまでした。憧れのような感覚だったように思う。
 その人の友人が作っていたRPGツクールのゲームもまた、フルボイスだった。僕はその人が作る新しい作品にて声優が募集されていたのを見て、応募してみることにしたのだった。
 そうして僕は「キングビースト」という悪役キャラを担当することとなった。2007年にリリースされたそのゲームの動画を見ると「ホリィ・セン」の名がクレジットされていることを確認することができる。
 

(これの8:20あたりを見ると、クレジットされている)
 

(実際に僕がキングビーストを演じている部分は1:10~あたり)
 
 (内容はどうあれ)演技するのは楽しかった。それで高校では演劇も始めたし、ネット上では「こえ部」というサイトで音声投稿を大学3回生ぐらいのときまで楽しんでいたのだった(「こえ部」は既に閉鎖。現在で言うSpoonみたいなサービス)。
 
 ただし、自分で演じるだけでなく、他人の演技を見る・聞くのも好きだった。
 それゆえ、アニメを“声優で”観ていたのである。次はこの話をしよう。
 

悠木碧さんのこと

 僕は大学1~3年生のころ(2010~2012)、悠木碧さんという声優にドハマりしていた。
 端的に言えば、それが決定的な理由となり、声優を目指すことにした。
 恥ずかしいから当時はあまり言っていなかったが、「お近づき」になりたかったのだと思う。「声優を知るためには声優の演技を知るべきだ」という建前上の理由もあったのだが。
 
 あまり語りすぎるとオタク早口語りになってしまうが、自分が悠木碧さんにハマることになった経緯も大まかに記すことにしよう。
 僕はまず、『紅』というアニメの九鳳院紫というキャラクターで悠木碧さんを知ることになる。2008年4月放送のアニメだったが、実際に観たのは2009年になってからだったと思う。
 当時の僕は高校演劇をやっていたから、「演技」というものについて考えるのが好きだった。そのため、声優の演技を注目するかたちでアニメを観ていた。
 いつものようにエンドロールやWikipediaで声優を確認し、「悠木碧」という名前は初めて見たので調べた。
 すると、悠木碧さんは高校生だということで、運営しているブログ(「苺マカロン生クリーム添え」という名前のブログだった)も高校生然としていた。
 Wikipediaの経歴を見ると子役だということで、「芸能人やアイドルがたまたま声優をやってみたってだけなのかな?」という印象だった。
 というのも当時、『きらりん☆レボリューション』という作品の主人公の声をモー娘の人がやるという例があったので、それと同じパターンなのかなと(「きらレボ」の方はお世辞にも上手いとは言えなかった)。
 しかし、悠木碧さんの演じる紫は、普通に味のあるロリキャラで、良い演技だった。
 
 そして2009年の1月期のアニメのキャストをチェックしてどのアニメを観るか吟味していたところ、『アキカン!』という作品で悠木碧の名を発見。動向を追いたいのもあり、僕は観ることにした。
 これがまたクソアニメだったのだが、悠木碧さんの演技は一味違った。ぶど子というロリキャラだったのだが、敢えて舌足らずな発音で演じていて、その舌足らずっぷりが、セリフを聞き取れないレベルなのだ。「ここまでやっていいのかこれ……」という感じで、非常に挑戦的な演技だと感じた。
 そして、アキカン!内の特番により、動いて喋っている悠木碧さんを初めて見ることになった。「なんか独特な服装だな」という印象。
 現場の男性が変態ばっかりだという福山さんのフリに対して、「え、でも変態って素敵だと思います」と真顔で返す悠木碧さん。
 当時高校生の僕は、このややズレた感じに惹かれた。今考えるとちょっとイタい人なのかもしれないが、悠木碧さんも当時高校生なので、まあ年相応と言えよう。

 
 そして、悠木碧さんは僕と同じ91・92年生まれの世代だった。
 同じ世代でこんなにも頑張っている人がいるんだということに感動し、追いかけることにしたのだった。
 2009年の10月期、『夢色パティシエール』と『あにゃまる探偵キルミンずぅ』という、二つの女児向けアニメが始まった。同時期のこの作品の二つとも悠木碧さんが主人公を演じていたのだ。
 僕は「おジャ魔女」にハマっていたことを除けばニチアサを観るタイプとかでもないので、あまり乗り気ではなかったのだが、観てみることにした。
 そして思いがけず、ハマってしまったのだ。
 
 「パティシエール」の方はりぼんで連載していた作品なのだが、トーナメント編になってからがまるでスポ根のようで面白かった。「キルミン」の方はマクロスなどで有名な河森正治監督の作品、ということでだいぶ特殊な作品なのだが、子どもの人間ドラマがしっかりと描かれている作品ですごく好みだった。
 そして、悠木碧である。両作品とも序盤は無難な演技に終始していたが、中盤あたりから光る演技がどんどん出てくる。「パティシエール」においては、他のキャラクターとの関係性や距離感がしっかり表現されており、ある種の色っぽさがあった。「キルミン」においては、文字にはならない「フィラー」や「息遣い」や「イントネーション」の部分で遊ぶことが多くなっていった。当時のアニメの感想において「悠木節」という言い方がなされており、言い得て妙だなと思った。
 いずれも長期の作品だったが、このように悠木碧さんのポテンシャルが最大限引き出されていった作品だったことも大きく、僕は未だに一番好きなアニメはと聞かれたら「キルミン」と答えてしまうのである。
 
 それまで声優は声優として、言わば「職人」として扱っていたのだが、悠木碧さんに関しては「疑似恋愛」をしてしまっていたのだと今にして思う。悠木碧さんの法政大学と神戸大学における学園祭イベント(2010年10月・11月)に行ったのをかわきりに、僕は悠木碧さんの出ているイベントにほぼ全て通うようになる。
 2011~2013年に関しては、ロクに金もないのに夜行バスで京都-東京間を年間10往復はしていたと思う。狂ってたな。
 
 結局オタク早口語りになってしまったが、そんなわけで僕は少しでも悠木碧さんの本質に近づこうと思い、声優を志すことにしたのである。
 

日ナレへの入所

 もう9年も前の話なので、隠す必要もないだろう。僕は日本ナレーション演技研究所という声優養成所の大阪校に毎週通っていた。
 入所金は20万、年間費用が10万だった。家族にも少し反対されたが、僕はもう止まれなかった。悠木碧さんのイベントに通いつつ日ナレのお金も払わなきゃいけないということで、費用も治験に行くなどして稼いだのは良い思い出である。
 日ナレに通い始めるにあたって、僕は新しくTwitterアカウントを作った(↓)。そこでは当初、毎週のレッスンの感想をつぶやき続けていた。クラスの人たちと徐々に馴染んでいくにつれて、ちょこちょこ交流のツイートなどもするようになったのだが。
 僕は声優になりたいと思うと同時に、どこか「見世物」を見にいくような気持ちもあったのだと思う。世間のイメージから考えても、声優になりたくて声優養成所に通う人というのは、半分ぐらいはイタい人、いわゆる「ワナビ」だろう。
 クラスの中にはどこかフワフワした雰囲気が漂い、「いやプロにはなれんだろ」とツッコみたくなる人が何人かいた。「声優が好きだから声優になりたい」というナイーブな気持ち。
 僕はそういう素朴さとは距離を置きたかった。でも、実際のところ僕自身もイタい人だったのだ。僕のイタさから距離を置きたいという自意識、それ自体がイタかった
 それでいて、周囲のノリについていきたい、仲良くしたいなどとも思っていたのである。実際とても魅力的な人も何人かいて、後で知ったことだがプロになった人も1人いる(ただし、みんな知っている有名な人とかではない)。
 
 日ナレは基礎科→本科→研修科と分かれており、基本的に入所時は基礎科から始まる。
 20人ほどのクラスで、1年間を同じ講師が担当する。
 そして年度末に進級試験(講師の評価による平常点も加味されるっぽい)があり、それが同時に事務所所属の試験にもなっている。進級は多くの人ができるが、事務所所属の門はとても狭い。

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 1クラスから1,2人ぐらい?二次試験に進めるだけで、そこから事務所所属までたどり着ける人は全クラス合わせても数人ぐらいのようだった。クラスが何個あるのかは知らないが、時間の分かれ方や講師の数、1講師が担当しているクラスの数を考えると、大阪だけでも30クラス、いやひょっとすると40クラスぐらいあったかもしれない。
 そうなると、1年で大阪校に入所する人は600~1000人程度ということになるだろうか。うーん、もっといるような気もするが、分からない。
 

日ナレでのレッスン

 気になるレッスンの内容についても書いておこう。レッスンは先生によって異なる。そして、その内容は「声優」というよりも演劇の教育である。実際に身体を動かしてキャラの動きを経験してみないと、動いているキャラに声をあてるのは難しい、という理屈からだ。
 
 1年目(2012年)に指導してくれた先生は和泉敬子先生だった。「えらい奥さん優しいなぁ」という音声が流れる「日本フルハップ」の関西ローカルCMに出ていた人で、そのCMは僕も見たことがあった。ナレーターや演劇の役者としても実績のある人のようだった。
 和泉先生は日本語のアクセントについてとてもしっかりと教えてくれるのが印象的だった。三省堂NHKが出しているアクセント辞典を購入することが義務づけられ、言葉のアクセントを都度確認するクセがついた。たしかにアクセントは関西人がつまずきやすい点である。アクセント辞典に書いてある細かいルールを理解するのも一苦労で、それもだいぶちゃんと教えてくれていた。
 ところで、和泉先生は「標準語」ではなく「共通語」という言葉を使っていた。「標準」という言葉の持つ権力性を意識しての言葉遣いだろう。
 
 いつもレッスンの最初にウォームアップのストレッチをするのだが、それも丁寧だった。和泉先生はそこそこ高齢でいらっしゃったが、身体がとても綺麗に動く人で、鍛えてらっしゃるのだなと思った。そういえば、「四股を踏む」ポーズで「ドレミの歌」を歌うやつは音痴の僕にはつらかったな。
 
 印象に残っているレッスンはいくつかある。
 国定忠治の「赤城の山も今宵を限り~」を演じるレッスンでは、僕が得意の(?)低音ボイスを存分に使ってみたところ、クラスの人には褒められた記憶がある。人は分かりやすい「イケボ」に弱いものである。
 『スーホの白い馬』の朗読では、読み方の工夫についての指示が面白かった。たとえば、馬が走るシーンでは跳ねるように読んでみたり、畳みかけるシーンではできるだけ間を詰めてみたり。
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 ただ、和泉先生のレッスンでは何より、日本語の発音の指導が丁寧だった。NHKの教本かなにかに従って口の開け方や舌の位置について丁寧に教わり、一人一人が発音できているかどうかを確認していた。たとえば舌をちゃんと動かすレッスンとして「ラダ レデ ロド、ザラ ゼレ ゾロ」と言う、などの訓練があった。この際、自分の舌の位置がどこにあるのかを意識するのが重要である。
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 その他にも、腹式呼吸のレッスン、複数人で笑いを繋いでいき他人のテンションを借りて自分もテンションを上げるようなインプロ的なレッスンや、相手との距離を測って声をかけるレッスン、設定を自分でしっかり考えてキャラクターを作りこむレッスンなど、様々なレッスンをやったことを覚えている。
 台本読みとしても、テキストの裏にどのようなサブテキスト(たとえば、キャラクターの欲求)があり、どのように変化していくのかを読み込んでおく必要があるという旨の話はとても本質的なことだと思った。
 
 そして、進級試験ではこんな課題が出ていた。当時の資料が保存してあったので載せよう(問題がありそうなら消します)。

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 なかなか抽象的な文章だった。
 深読みしてしまった僕は「竹竿を振り回す」という表現で本当に竹竿を振り回す動きをしたら負けのように思えた。
 たしか僕はこの文章を、赤子が初めて立ち上がることを象徴しているものとして読み取り、ハイハイから赤子が立ち上がっていく様を演技したのだった。
 五行目の擬音のところで、一度倒れ、それでも立ち上がっていく、そんな演出をつけた記憶がある。
 おそらく、クラスの同級生たちは普通に竹竿を振り回していたのではないだろうか……中二深読み解釈をしてしまった結果なのか、僕は基礎科をダブってしまうことになる。
 ちなみに当日課題でも読みにくい文章が渡されて、緊張していた僕は噛んでしまった記憶がある。
 基礎科をダブったことについて和泉先生に相談したのだが、おそらく多くの生徒を見てきたのだろう、定型的な返しをされたような気がする。そういえば、「京大行ってるのに声優など目指すのはもったいない」という旨のことも言われたな。
 せっかく入所金20万円払ったのに1年で辞めるのはもったいないだとか、まだ諦めきれないだとか、様々な気持ちがあって基礎科2年目も通うことにした(ちなみに同じクラスの仲が良かった人たちは本科に上がっていた)。
 
 2年目は根井保博先生だった。根井先生は熱血の演劇人という感じで、いかにも演劇人っぽい……という印象だった。
 いつだったか忘れたが、先輩としてのプライドとして、後輩には借金してでも奢る、みたいなことを言っていた気がする。あと、君たちがプロになったら奢る、ということも言っていた。
 
 外郎売という、演劇定番のレッスンがあるが、外郎売を読みながら身体を動かしたり何かを演じたりスピードを上げたりというレッスンは毎回やっていた。他にも口を大きく動かす「アオアオウイウイ」体操などもやっていた気がする。激しいレッスンが多めだった印象。
 根井先生のレッスンは和泉先生ほどバリエーション豊かなものではなく、一つの台本を何回かに分けてやることが多かった記憶がある(それでも1年間あるので、かなり様々なことをやったのだが)。

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 自分で読むものを作ってくる課題があり、ゲーテの詩を少し言いやすいように改変して載せたら「ゲーテを使うやつもいた」みたいな言及をしてくれた。ググって元ネタを確かめたのだろうか。根井さんは生徒1人1人に真剣に向き合ってくれている人だなと感じた。
 内容的にはいかにもオーソドックスな演劇らしい方法論が多かったので、あまり新鮮味はなかった気がする。僕は高校で演劇をやってきた経験や大学でなにかの公演に参加させてもらった経験を活かして全力で演じたものだった。根井先生は全力で演じることを褒めてくれたので嬉しかった。
 2年目でモチベーションが下がっていたし、クラスの人と仲良くなれなかったのもあってあまり覚えていないが、やるからには本気でやっていたと思う。当時の資料を真剣に見れば何か思い出せるかもしれないが、今回はやめておこう。
 根井先生は最後、「お前はいい役者になる」とハグしてくれたのを覚えている。みんなに対して「私の教えたことは全て忘れろ」という意味深なことも力強く言っていた。僕はちょっと泣いた。とにかく熱い人だった。
 
 進級試験は目立ったミスなく終えられた。ただ、事務所所属のための二次試験には声がかからなかったので、やはり自分はその程度なんだな、とは思った。おそらく、諏訪部順一さん風のアヤしい声のイケメンが呼ばれたのではないかと邪推している。彼は根井先生に一目置かれていたので。
 
 本科に上がれることにはなったものの、二次試験には進めなかったわけで、無理にお金を払ってまで通い続けるモチベーションが湧かなかった。たかだか10万円なので、無理すれば払えていたかもしれない。うん、3年目にあたる2014年は暇ではあったので、お金さえあれば通っていただろうな。
 ただ、2年目、すなわち2013年というのは、僕が現実に衝撃的な恋愛を経験した年でもあった。そのせいか悠木碧さんへの熱が徐々に冷めていっていた。悠木碧さんへの気持ちが「疑似恋愛」だったと気づいたのだった(ヤバい話だ)。そうして声優になることへの夢も緩やかに諦めていったのだと思う。
 仮に今、悠木碧さんになんらかのかたちで関わりたいなら、なにか自分の別の才能を活かして成り上がった方が早いだろうしな……
 
 

おわりに

 その後、僕はひょんな縁で2016年に京都学生演劇祭に役者として出るということがあった。審査員の方から磔刑の場面を演じたイエス役の男性はすぐにキャスティングしたいような逸材だ」と一定の評価をされたり、役者ドラフトという企画で2位指名をされたり、といったぐらいにはおいしい役どころを演じられた。
 まあでも芝居に専念して生きてきたわけでもないので、所詮はその程度というか、プロになるには全然甘いのである。
 そもそも僕は大学に入学してから、劇団に入るという選択肢を取れなかったのだ。中途半端にくすぶったものだけが残り、これぞワナビだなと思う。
 これからはせめて、演劇について知るための勉強ぐらいはしよう。そして演劇を観よう。僕はアカデミズムに進むにせよ、もうちょっとポップな仕事をするにせよ、物書きにはなりたいと思っている。物書きの道であれば、いつか「ワナビ」を卒業できるだろうか。

小峰ひずみ「平成転向論――鷲田清一をめぐって」(『群像』2021年12月号所収)の感想

 友人の小峰ひずみが群像の新人評論賞に応募していたことを聞いていたのだが、なんと入選していた!

 早速本屋に走り、買って読んでみたらこれがまた面白く、いろいろ考えさせられたので長めの感想を書いておこうと思った次第。

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書いてあることの僕なりの大まかな要約

 一般的に、Aのアクチュアリティを理解するためには、Aの本質的な特徴を抉り出しているA'からアプローチするのがよい。SEALDsには

戦後民主主義の担い手として理解されている

②自分の言葉で政治を語ろうとしている

という特徴がある。

 

①について、〈戦後〉を見定めるために〈戦前〉(ここでは柄谷に従い、1930年代と1990年代)の哲学者にアプローチされている
②について、「翻訳」の問題に苦闘する者にアプローチされている

 

 その結果、ナショナル(翻訳不可能)/インターナショナル(翻訳可能)という軸と、30年代/90年代という軸で、和辻哲郎、戸坂潤、柄谷行人鷲田清一という四角形が構成される。

 戦前から戦後へ(①)、「翻訳」において日本語(やまとことば)にこだわる(②)、というのは、いずれにせよ「転向」の問題系として捉えられるのだと。そこから、鷲田清一の、阪神淡路大震災以後の「転向」について捉え返されていく。

 

 やはり、A'(鷲田清一の転向)のアクチュアリティを理解するためには、A'ときわめて近いが微妙に異なる運命(if)を辿ったA''からアプローチするのがよい。
 さらなる補助線としてのA''に、先ほどの四角形の中心に位置すると言える、谷川雁が召喚される。

 細かい論理展開は省略するが、ともかく谷川雁マルクス主義の「組織語」を労働者にぶつけることを「刃」と比喩していた。これは、鷲田の「ことばはひとを支え、またひとを傷つける」という認識に合致している。

 

 ここから鷲田の「臨床哲学」実践が紐解かれていく。鷲田は何かの(哲学の)専門家であることを封印してなんらかの現場に入っていくことを当時の大学院生に要求した(「最大の被害者は、当時の大学院生だ」の箇所は正直めっちゃ笑った)。なお、これらの活動は現代でも哲学対話、哲学カフェ、当事者研究などのようなナラティヴ実践に継承されているようだ。

 

 鷲田が哲学のことばと対置しているのは「日常の言語」であり、もっと言えば「エッセイ」なのだと。
 この観点からSEALDsを見てみると、「政治の言葉」を「個人の言葉」で補おうとしたSEALDsのアクチュアリティが見えてくる(「民主主義ってなんだ? これだ!」が象徴的)。
 しかし、それゆえにSEALDsは政治に特化した党組織を作り上げる論理を持たず、「生活への回帰」をせざるを得なかったがゆえに、「非転向」を貫けなかった。

 

 それと対比して見ると、鷲田はたしかに「転向」していったのだが、哲学の言葉を捨てなかった点で「非転向」の側面があるのだと。哲学と現場との間の緊張関係を生きた。
 この哲学と現場との(SEALDsにおいては政治と日常生活との)間の距離を埋めるものとして、導入されているのが〈声〉という概念である。

“「反芻」を可能にするものこそ〈声〉である。「これが哲学か?」と問うことを通じて、「哲学ってなんだ?」と既存の哲学を再審する〈声〉だ。”(群像2021年12月号 397ページ)

 


感想(箇条書き)

・教科書などでもよく知られている鷲田清一が、こんなかたちで読まれるなんて! という素朴な感動があった。

 

谷川雁が出てくるところでの「言葉が人を支え、傷つける」という論点がきわめて面白い。これを「ケア」と呼ぶことも正当だと思う。「ケア」はどうしようもなく他者とべったりした状況で行われるものだし、被傷性を無痛化することはできないだろうから。個人的にはバトラーの『触発する言葉』という本のことを思い出した。バトラーの場合は「ヘイトスピーチ」と「ポルノグラフィ」の事例から言葉のパフォーマティビティを良きにつけ悪しきにつけ検討している。
逆に考えれば、谷川雁の「組織語」をぶつける、という戦略も非常によくわかる。ちょっと遠い例かもしれないが、企業家がマルクスを転用していったり、アドラー自己啓発の文脈で読まれたりするような面白さがある。数年前見学に行った児童福祉施設の代表の方がドラッカーに深い影響を受けているという話をしていて驚いたことを思い出した。
言うならば、「日常生活や現場に降りていく」だけでなく、「背伸び」として用いられた言葉が、ある種の日常性を帯びていくという理路も考えられるのではないかと。
いずれにせよ、ここはもっと展開されていくべき、面白い論点。

 

・SEALDsの人物たち一人ひとりの言葉や実践を追いかけているのがよい。僕自身、SEALDsのことはフワッとしか知らなかった。
学部生時代に児童養護施設に行っていたという諏訪原健の語りや、在日韓国人の子と新大久保を歩いていたときにヘイトスピーチのデモにぶつかって自分が何も言えなかったという溝井萌子の語りが引用されているが、これはたしかに日常生活に降りていき、他者についての想像を巡らせるケアの問題だなと。

 

・選考委員の山城さんも「非転向の細道を「〈声〉」というイメージで通り抜けるその理路は危うい」と言っていて、僕もそのとおりだと思った。ただ、上で引用したように「反芻」という部分が特に重要だと思った。臨床哲学的実践においても、「反芻」の部分を展開することは可能なのではないだろうか。

 

・というのも、僕自身、ふだんサークルの活動で「当事者研究」に親しんでいるので、特定の言葉について「反芻」することで咀嚼されていくといった事態におぼえがある。鷲田の臨床哲学について詳しくは知らなかったが、そこから繋がっていった(当事者研究、哲学対話、哲学カフェのような)実践を鑑みると、〈声〉のイメージは説得的だと感じた。

 

・そのほか、「詩」や「エッセイ」というイメージも出てくるが、どのように概念的に区別されているのかが詳しくは分からなかった。とはいえ、いずれも「身体性」に関わるイメージではあると思う。エッセイにおける身体性、そしてそれがどのように政治や哲学の言葉に接続されていくのか、という論点は気になるところだ。

サークルクラッシュ同好会からサクラ荘へ――ホリィ・センがコミュニティを作った理由の、簡単な軌跡

 この記事はサークルクラッシュ同好会 Advent Calendar 2021の5日目の記事です。

 

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 ホリィ・センこと僕は現在、「サクラ荘」というシェアハウス作りを目的としたサークルのようなものを運営している。僕自身も通称10号館の「あおい荘」に住んでいる。それぞれの家ごとに住人が賃貸契約を結ぶという不安定な運営ゆえに、既に閉鎖したものも多いが、名目上は左京区を中心に5軒存在している。

 僕がサクラ荘を始めたのは大学院に進学した2015年からのことだった。サクラ荘ができた当初は「サークラハウス」という名前だった。というのはあくまでも、僕が現在も運営を続けている「サークルクラッシュ同好会」(以下サー同と表記する)のメンバーが気軽に来ていいシェアハウス、として始める算段だったからだ。

 ということで、僕の大学生になってからの選択と、サー同の設立からサクラ荘の運営にまで至る自分語りをここに書き記しておこう。

 

サークルクラッシュ同好会の設立経緯とその変質

 サー同は、恋愛で人間関係が壊れる「サークルクラッシュ」現象をネタにしたサークルのつもりで2012年に立ち上げた。京大にはネタっぽいサークルを作っていい風潮があったからだ。しかし、「サークルクラッシュ」現象についてインターネット上で調べていくうちに、どうやらとても奥深い現象であり、学問的なテーマになりうることが分かってきた。

 僕自身、「何かしらの文脈がなければ会話を始めたり続けたりするのができず黙ってしまう」などといったコミュニケーションへの苦手意識を昔から抱えていた。また、自分が恋愛できないことへのコンプレックスも強かった(コンプレックスを感じている、ということを言うこと自体恥ずかしいことだと感じていた)。だからこそ、サークルクラッシュ現象に対して当事者性も感じた。

 1年目はただ会誌を作るだけしかやっていなかったが、2年目からはビラを貼ってTwitterも駆使して新歓を行い始めた。いつからかサー同はちゃんとしたサークルとしての形をなすようになり、人間関係上の生きづらさの悩みを相談し合う「自助グループ」的なコンセプトを持つようになった。それは今も大枠では変わっていない。

 実を言えば、サー同がそのように「自助グループ」的コンセプトを持つようになったことと、「サークラハウス」というシェアハウスを立ち上げようと思ったこと、そして結局はサクラ荘という別団体として独立させたことについては僕の中に一貫した論理がある。それについて語るために、僕が大学生活をどのように送ってきたか、というところにまで遡ってみるとしよう。

 

僕の大学生活

 2010年に京都大学理学部に入学した僕は、当初数学を専攻しようと思っていたのだが、すぐに挫折してしまった。計画性がなくステップバイステップで学んでいく姿勢がなかった僕は、いきなり杉浦の解析入門に手を出し、理解できずにチンプンカンプンになってしまったからだ。

 それでも、毎日数学に真剣に取り組む時間が数時間確保できていたら、なんとか理解し、微積や線形の授業にもついていけていたかもしれない。しかし、当時、それほど学問に真剣ではなく、むしろオタクとしてのアイデンティティが強かった僕はアニメを観ることや漫画を読むことに忙しかった。

 とはいえ、授業に出ていなかったというほどではない。ただ理系分野から逃げていた僕は、大学生らしく何を専攻するかを悩み、フラフラといろんな(主に文系の)一般教養の授業を受けていた。そして、ある日、同じクラスの奴らが休み時間にも数学の話を楽しそうにしていることに愕然とし、もう限界だと知ったとき、理学部を辞めた。総合人間学部に転学部を敢行し、どうにか成功した。二回生から三回生に上がる際の転学部だった。

 転学部先の指導教員は精神分析を専門とするS先生だったが、いろんな授業をかじるうちにマルクス主義ジェンダー論、社会構築主義の考え方にも馴染むようになっていた(マルクスへの傾倒についてはサークルの先輩だったHさんの影響もある)。その結果、自分自身のコミュニケーションへの苦手意識に対して、「この生きづらさは、僕自身の能力というよりも、社会に責任があるのではないか」という思考法を獲得していくようになる。

 既に「サークルクラッシュ」現象の魅力にどっぷり浸かっていた僕は、その思考法を活かしつつ、「サークルクラッシュ社会学――排除された人たちが流れ着くコミュニティ」という2万字を超える文章を卒論そっちのけで4回生のときに書き上げた。

 家族・地域・学校・職場などの旧来的な中間集団の包摂性が弱くなった現代において、コミュニケーションの苦手な人たちが「明るい人たち」の集団を避けて、どちらかと言えば「根暗」「陰キャ」「オタク」的な集団に集まってくる。そのような「暗い」人間たちの「濃縮」された集団が形成されるからこそ、その集団においてサークルクラッシュ的な現象が起きやすいのではないか、という論旨だった。

 卒論(カントとフロイトの幸福観/道徳観を比較する内容だった)の方もなんとかS先生に提出したものの、進路について深く考えていなかった僕は「臨床心理士」になるための大学院を受けたのだが落ち、「大学院浪人」の生活に突入した。その間、暇だった僕は京都や東京の様々なシェアハウスなどの特殊なコミュニティに出入りし、影響を受けることになる。

 浪人期間中、サー同に来ていた院生の方が僕の書き上げたサークルクラッシュについての文章を見て、「ホリィ君は社会学に向いているんじゃないか」と言って社会学の道に誘ってくれた。

 そうして2015年、僕はなんとか社会学の研究室の試験に合格し、本格的に社会学専攻の院生として「サークルクラッシュ」現象を研究し始めることになる。

 サー同において「自助グループ」的コンセプトがすんなり受け入れられたのは、このように僕自身の社会学への転向が大きかったように思う。生きづらさの問題を個人のメンタルヘルスの問題にするのではなく、社会的問題としても捉え返し、個々人が所属している環境の方を変えていこうというアプローチである(ただし、社会学をやってみて分かったが、そのような介入的なアプローチが社会学において主流というわけではないように思う)。

 それでは、僕が「サークラハウス」や「サクラ荘」に至ったキッカケはなんだったのか、ということを次に書こう。

 

「シェアハウス拡大」への道

 大学院浪人時代に特によく出入りしていたシェアハウスに「りべるたん」(池袋)という場所があった。そこでは左翼の(たまに右翼も)活動家がよく出入りしていた。

 そこに出入りするようになった経緯ははっきり言ってたまたまである。マルクスにかぶれていた僕はTwitterマルクスbotをフォローしていたのだが、そのマルクスbotがとあるアカウントをRTし始めた。そのアカウントは「神の声が聞こえる」といったようなツイートをしていた。後で分かったことだが、そのアカウントはマルクスbotの管理人だった。

 半分面白がりながらそのアカウントを追いかけていたところ、健常な生活を取り戻したらしいその管理人(Mさんとしよう)が京都に来ることが分かった。Mさんに会いに行ったところ、指定された場所もまたシェアハウスだったのである(彼らはシェアハウスというよりもオルタナティブスペースと名乗っていたが)。そこから僕とシェアハウスの繋がりが始まった。

 当時声優の追っかけでよく東京に行っていた僕に対して、「ここに泊まるとよい」とMさんが勧めてくれた場所が先述の「りべるたん」だったのだ。何が人生を左右するのか分からないものである。

 そして「りべるたん」で知り合った、かつて左翼活動家だったHという男と共に、京都でシェアハウス「サークラハウス」を始めた。その時点で僕は、活動家的な「拠点を持つ」という発想にも理解を示すようになっていたのである。

 ただ、サークルでシェアハウスを持とうと考えたのは、左翼の「アジト」的な発想だけでなく、京大の有名アウトドアサークル「ボヘミアン」がやっていた手法に影響を受けたからである。「ボヘミアン」もまたシェアハウスを借りて、「ボヘハウス」という溜まり場にしている。

 サー同の人が気軽に来ていい「サークラハウス」、ということで僕たちは図らずもサー同の会員たちをシェアハウスの活動へと引き込む「オルグ」をすることになった。サー同の新歓に来た新入生たちもシェアハウスに連れて行き、今もサクラ荘のメンバーを続けている者もいる。

 シェアハウスの運営経験があるHと話し合う中で、シェアハウスはサー同とは独立した社会運動の組織体になっていくべきだと考えるようになった。そうして「サクラ荘」ができた。左翼的な発想のみならず、家族社会学の議論にも触れていた僕は、シェアハウスという手段を通じて、一人暮らしや結婚といった制度を問い直す運動へと接続していったのだ。

 そのため、サー同ではどちらかと言えば「フリースペース」や「居場所」系の活動として“内部の人間関係”を大事していた僕も、サクラ荘では「拡大」路線を採用することになる。2年目には2軒、3年目には5軒と数を増やしていった。数を増やすことが「シェアハウス」を一人暮らしや家族に代わる選択肢にするための第一歩だと考えたからだ。

 

おわりに、最近のこと

 2018年ごろまでは勢いのあったサクラ荘だが、後継者が見いだせず、コロナによって活動を停滞させられている。一時期は7軒まで勢力を伸ばしたが、今は5軒になってしまった。

 メンバーたちも歳を取って、卒業したり社会人になったりしている。組織としてはもはや存在していないに等しく、ゆるやかなネットワークが残っているだけである。

 それでも僕は「シェアハウス」の可能性を諦めたくはない。このブログでも何回か「シェアハウス」について書いてはきたが、単に同じことを繰り返して組織を拡大していく路線には疲れてしまった(若い人にも響かない)ので、別のやり方でシェアハウスにハクをつける方法を模索中である。

 コロナ騒動はサー同の活動にも直撃し、オンライン化を余儀なくされた。オンラインのおかげで定着した会員もいて、それはそれでありがたいのだが、やはり対面時代を懐古してしまう。実際、このアドベントカレンダーを含めて停滞気味だし、オンラインの活動に限界を感じる。

 サクラ荘もサークルクラッシュ同好会も以前のような勢いがなくなった。ホリィ・センの明日はどっちだ。

 とはいえまあ、なんとかなるやろ。

簡単に人を「危険人物」扱いすべきではない

 Twitterの話で恐縮なのだが、「こんな危険人物がいて怖い思いをしました」系の話が拡散されては、みんなで糾弾する流れになるのが見てて違和感がある。

 たしかに、危険な人物に対してあらかじめ予防的に警戒しておく方が安心だし、危険なことをしそうな人がいたときに「この人は危険だ」と思って距離を取ったり、他の人にその危険性を呼びかけたりできるというメリットはあるのだろう。

 

 しかし、人を危険人物扱いすることには様々な問題がある。どうすべきかも含めて、5つに分けて説明しよう。

 

 

①安心を追い求めると不安が強まり、人を信頼できなくなる:

 そもそも人生には予期せぬ事態がある程度起きるものだ。自分の予想を超えた人間が現れることもあるだろう。それに対していちいちビクビクしていると「不安が不安を呼ぶ」事態になりかねず、無菌な場所でしか生きられなくなってしまう。

 集団や組織としても、一度危険人物を排除した実績ができてしまうと、その後もいとも簡単に排除という選択肢を採れるようになってしまいかねない。

 むしろ、どんな人間に遭遇したとしても大丈夫だ、という「信頼」の構えを作っておく方がよいと思う。あるいは恣意的に人を危険人物認定してしまわないように、「これをやるとさすがにアウトだ」と見たら分かるような(ある意味公平な)線引きを設定しておくべきだろう。

 

②「危険」の構築性:

 そもそもその人間がした行為がどの程度危険なことなのかということは、事後的に周囲の判断によって決まる側面がある。「危険な人物」であるとレッテルを貼ることこそがその人物を危険たらしめている側面があるだろう。

 よってその「危険判定」そのものが公平に運用されているかどうかを絶えず問い返すべきだろう。

 

③更生可能性、「危険人物」であることのアイデンティティ化:

 危険なことを引き起こしそうな人物も、学習次第で行動を変化しうる。「この人は危険人物だ」とあらかじめ規定してしまうと、その変化の可能性の芽を潰してしまうかもしれない。

 それどころか、「危険人物」だというレッテルをその人が内面化し、実際に危険なことをしでかすハードルが下がっていくこともありうるだろう。たとえば、その人が「危険人物」として排除された結果、その人の周りの人間もアウトローな人間ばかりになれば、実際にその人自身もその文化に染まっていく可能性がある。

 よって、人を簡単に危険人物として排除するのではなく、可能な限り、危険ではない行動を学習させる可能性を模索すべきだろう。

 

④危険な行動の状況依存性:

 ある人が実際に危険なことを引き起こすかは、場や状況にも依存する。たとえば、盗んでも誰にもバレないお金が置いてあったらそのお金を盗んでしまう人は多いだろう。

 よって、危険な行動をその人の性格のせいにするのではなく、場や状況が危険な行動を誘発してしまわないように、環境調整することも大事だろう。

 

⑤優生思想への批判:

 長い人生の中では「危険人物」を批判しているその人自身が、「危険人物」になりうる。あるいは、過去の選択や運次第では、すでに「危険人物」になっていたかもしれない。

 よって、「危険人物」をあらかじめ排除するような空気やシステムを作ってしまうと、単に不運なだけの人間を「劣った生」として排除することに繋がる。これは公平ではないのでできる限り避けるべきだろう。

 

 以上、5点の理由から、簡単に人を「危険人物」扱いすべきではないと僕は考えている。