ADHDについて哲学的に考えてみる――「注意欠如/過集中」を超えて

ADHD者の「注意欠如/過集中」

 ここ数年、「ADHDアイデンティティ」のようなものを考えている。いろいろ考えてきたことについてちょっとまとめてみたい。

 

 まずADHDの言葉通りの「注意欠如」、すなわち「注意が欠如し、集中力が持続しない」状態では長い文章を読んだり、長時間授業を聞いたり映像を観たりすることができない。

 

 そこで、ADHD者はしばしばTwitterのように長くない1ツイートで完結する情報を好んでしまうように思う。これは時代を遡れば、チャンネルを次々に変えていく“ザッピング”というテレビ視聴の方法をより洗練されたものだと考えられる(そもそもテレビのニュースなども“途中から”観れるように構成されている)。

 

 しかしADHD者には一方で、「過集中」という特徴も見られる。ある状況に没入し、それが“すべて”になり、外部がなくなるような状態だ。これにより、一部の才能の恵まれた者は短期的なかたちで優れた成果を上げる場合が見られる。

 

 この「注意欠如」と「過集中」との間の揺れを、個人のアイデンティティの問題に(ムリヤリ)繋げてみよう。

 

 まず、「注意欠如」という特徴から、長い時間をかけて紡がれる一元的な「物語」によって自己を確立させるよりも、社会の中で浮遊し多元的に所属することで複数の顔を使い分けるというアイデンティティ観になる。

 言い換えれば、「自分は何者なのか」を単一の原理や累積的な経験によって掘り下げていくのではなく、その場その場の関係や、そのときそのときの衝動によってなんとなく「自己」という像を結んでいくイメージになる。

 

 ただし「過集中」という特徴も加えて考えれば、「その場その場の関係や、そのときそのときの衝動」に強く没入することもある。この「過集中」にはしばしば強い快楽が伴い、「これこそが本当の自分だ」と思い込みたくなるように思う(しばしばADHD者が「好き」なものに過集中することがその傾向を強める)。

 

 以上の「注意欠如/過集中」によって生じてしまうADHDアイデンティティのあり方はどちらかと言えば受動的なものである。そこで、もっと主体的にADHD者が目指すべき自己について以下では考えてみる。先に言えば、三つ提示する。

 

 

「注意欠如/過集中」の認知行動療法的コントロール

 まず第一に、「過集中」時の自分を「本当の自己」だと思い込んでしまうことこそ、衝動に規定されている(すなわち、「衝動的に過集中した自己」を本当の自己だと思い込みたいという衝動、言わば“メタ衝動”である)ように思われる。そこで「過集中時の自己」については批判的に捉えて、「過集中」時の自分が「本当の自己」ではないとしてみよう。

 

 すると、目指されるべきなのは「注意欠如」と「過集中」との間で揺れることよる自己の断片化を、さらにメタ的に捉えるような自己のあり方ではないか。


 それは半ばランダムに生じてくる「衝動」を直接的にコントロールしようとするのではなく、「自分が衝動的になりうる」ということをあらかじめ考慮に入れた間接的なコントロールをする自己なのではないかと思う。

 実際近年、ADHD的な「症状」を認知行動療法的なアプローチで統御していく本がよく売られており、そのような自己を目指している人は多いのかもしれない。

 

 しかし、ヘタをすればこれはあくまで「生産性」を高めるための手段に過ぎない。言ってしまえば「仕事術」や「片付け術」などの自己啓発本もまた、ADHD的な症状を“治療”し、よき労働の主体を作り上げる装置なのだから(とはいえ、そのような自己啓発本の効用を全否定するつもりはない。絶対的な活動量を増やすことは必要だと思っている僕自身、認知行動療法的なアプローチを活用している)。

 

 

「注意欠如/過集中」から脱する「山ごもり」的戦略

 そこで、二つ目に目指すべきなのは、さまざまな場面で生じる「過集中」を束ねる何らかの概念を発見することで到達できるアイデンティティである。

 よくあるパターンとして、ADHD者は「多趣味」や「器用貧乏」というアイデンティティに至っているが、それは半ばランダムに生じる過集中を並列的に捉えたに過ぎない(「過ぎない」とはいえ、「多趣味」や「器用貧乏」というアイデンティティはしばしばADHD者を慰めているとも思う)。


 そこから一歩進めば、自己の持つ複数の趣味間の連関を“統合”的に捉えることも可能なはずである。優れた芸術家や研究者は自身の来歴に反省的に向き合うことで、一つの世界観を形成する。ここではADHD的な「注意欠如/過集中」の揺れから脱出し、一元的な物語が作り上げられていると見ることができるだろう。


 では、どうすれば「注意欠如/過集中」の揺れから脱することができるのか? ここでは、一つ目に示したような認知行動療法的・社会適応的なアプローチではなく、むしろ社会から離脱するアプローチが重要だと思われる。


 どういうことか説明しよう。先ほど例に出した“芸術家”や“研究者”はしばしば俗世間から離れた生活世界を作り上げている。そこには、世間からの要求に振り回されずに生きることができるという合理性がある。というのも、ADHD的な「症状」は社会生活の中で生じるものだからだ(社会が、SNSが、スマホが、我々の衝動を煽ってくる。そして同時に、その衝動を制御するように社会は要求する!)。

 

 よって、「注意欠如/過集中」の揺れから脱し、一つの統合されたアイデンティティを作り上げるためには、一度社会から離脱してじっくり考える・何かに取り組む(たとえば作品を作る、本を書く)ことが重要になってくる。これは言うなら「山ごもり」的戦略と言えるだろう。

 

 しかし、そのようなことを実際に達成することは難しい。私たちは社会に生きており、今もなお社会の煽動・要求に左右されているのだから。そこで、「注意欠如/過集中」の揺れから脱するのではなく、それらに内在するかたちで三つ目の方向性を示そう。

 

 

「注意欠如/過集中」における衝動を(ある意味で)肯定する

(この部分は『現代思想入門』をはじめ、千葉雅也さんの思想に強い影響を受けています)

 それは、冒頭で示した、“ザッピング”やTwitter的な情報摂取のあり方を肯定するような方向性である。しかしそれは、単に1ツイートで完結するような、小さな情報群を摂取していくということではない。また、1から始り10で終わるような、摂取に時間のかかる「物語」でもない。

 

 むしろ、ひとびとが自分の中にある生煮えの情報を(衝動的に!)次々に投下していく中で繋がり、それがどういうわけか何らかの創造性を生むようなあり方である。

 当然、生煮えの情報群はたくさんのいいねやリツイートを集めないので、“バズる”ことはない。しかし、Twitterにおける文脈が切り離された情報群が、文脈が切り離されているからこそセレンディピティを生むことはあるだろう。おそらく人口の少なかった2010年前後のTwitterでは、そういうことが起きていたはずである。

 

 ここからイメージされるアイデンティティはおそらく“統合”されたものではなく、断片化をある意味で肯定していくようなものだろう。それどころか「アイデンティティ」という言葉がそぐわない、理性よりも身体的な感覚やリズムが生み出す何かであろう。これもまた“衝動”と呼べるものかもしれないが、先述したような社会にコントロールされた衝動ではなく、むしろ非社会的な衝動であると思われる。

 「ADHD的な生き方」を肯定するとすれば、この意味での衝動を肯定しなければならないのではないだろうか。