「シェアハウス」に対するイメージの偏りについて

 この記事は

adventar.org

の23日目の記事です。

 

シェアハウス関連の自己紹介

 京都で「オープンシェアハウス サクラ荘」という団体の代表をしているホリィ・センと申します。28歳です。現在シェアハウスは6軒ほど運営しています。

 運営といっても、全部大家さんから賃貸しているだけですし、借りる人もそれぞれの家の代表がやっている感じです。

 じゃあサクラ荘って何をやっているのかっていうと、月1で集まって会議をして、「サクラ荘グループ」全体としてどうしていくかというのを決めている感じです。サークルみたいな感じですね。

 会議で決まったことを元に、パーティを開いたりイベントを開いたりサクラ荘メンバーたちで交流したり、という感じです。

 サクラ荘にはコンセプトがあります。それは、「日本にシェアハウスを根付かせる」「そのために、シェアハウスを増殖させる」ということです。シェアハウスを通じた社会運動です。シェアハウスで世界を(まずは日本を)変えようとしています。

 

「ライフコースとシェアハウス」という問題設定

 というのも、今の日本では“まともな”ライフコースを送るのが難しくなってきているからです。

 1990年代前半ぐらいまでは、学校でちゃんと勉強して、良い会社に入って/良い人と結婚して、家庭を営み、子どもを育てていくというコースがうまくいく人が多かったと思います。しかし、そのコースに乗れない人がどんどん増えてきています。箇条書きするならこんな感じでしょう。

 

  • 正規雇用が広がり、お金を稼ぐのが難しい
  • 未婚化・晩婚化でそもそも家族を作れない
  • 家族の維持も難しい(離婚の増加)
  • お金や時間がなくて子育てにリソースをうまく割けない
  • そのくせ、家事・育児・介護に対する社会的な要求水準は高いままである
  • 家事・育児・介護は未だに「母親」に押しつけられがち

 

 こういった問題の帰結として、僕はとりわけ「孤独」の問題と、「子育て環境の悪化」の問題がヤバいと思っています。もっと言えば、「非モテ」問題や「毒親」問題がヤバいと思っています。

 ヤバいので「シェアハウス」で「結婚以外の同居」を推し進めれば問題解決するんじゃね? と思ってとりあえずシェアハウスを広める活動をやっています。ここ4年ぐらいシェアハウス増殖活動をやってきました。

 しかし、サクラ荘は年齢層がめっちゃ限られてます。18~35歳ぐらいですが、20代半ばに集中しています。いわゆる「若者」ですね。

 “まともな”ライフコースをざっくり、出生学校就職結婚子育て老後 だと考えると、僕らのシェアハウスは結局、学校就職結婚の間にしか入れていない、ということになります(なお、仕事についても、フルタイムの人はあんまりいないです)。

 

「シェアハウス」は若者がやるもの?

 シェアハウスは海外暮らしや寮暮らし、ドラマやテラスハウスなどの影響で広がってきた感じです。だからそもそも「若者文化」なのです。

 ライフコース全体から見ても「一時的な経験」として見られがちで、シェアハウスに住むことを「留学」みたいな感じで捉えている人も多いと思います。実際問題、シェアハウスに住んだ経験でいろいろ得られるものはあったと僕も思っています。人によっては合わなくて割とすぐに退去していくんですが。すぐに退去できるのがむしろ魅力なわけです。

 しかし、「“まともな”ライフコースを送るのが難しくなってきている」という問題意識からすると、シェアハウスを若者専用にしてしまうのはもったいないんじゃないか、となってくるわけです。

 実際に、共同保育をするシングルマザーのシェアハウスや、就活や企業活動を軸に集まるシェアハウス、高齢者が寄り集まっているシェアハウス、あるいは子育て世代も高齢者も混ざった多世代居住(コレクティブハウスといいます)のような実践が一部では行われています。

 本当はシェアハウスにはいろいろポテンシャルがあるんだと思います。しかし、「シェアハウス」という言葉のイメージはそれを裏切ります。

 不動産屋主導で広まっているシェアハウスは「オシャレなライフスタイル」のようなものが中心だと思いますし、世間では「シェアハウス」と聞くと若者的な生活がイメージされるでしょう。

 

もっとたくさんの・様々なシェアハウスを

 僕は様々なシェアハウス実践者と話してきましたが、単なる「若者」のイメージに回収されない人は実のところたくさんいます。シェアハウスに住んでいる人は明るい人も多いですが、ある意味「暗い」というか、人間同士の関係についてとても深く考えたうえでシェアハウスに生活し続けている人も割といます。

 ライフコースの視点で見れば、たしかに結婚してシェアハウスを抜けていく人もたくさんいますが、その一方で離婚した後にシェアハウスに住んでいる、みたいな人も割とよく見かけます。「“まともな”ライフコースを送るのが難しくなった」という問題に対するセーフティネットのような機能を果たしている側面があるわけです。

 「シェアハウス」の「若者」的イメージはこれからも根強く残っていくでしょう。しかしシェアハウスはもっと長いスパンで人生を捉えたときに、若者以外にも必要なものになっていくと思います。僕はその準備の作業をやっていきたい。

 28歳の僕は「若者」ではなくなっていく。具体的には「次の世代」について考えるときです。そういう気持ちを大事にしたいので、5年後ぐらいには里親になることも検討しています。

 僕が年齢を重ねると共に、「シェアハウス」もまた若者以外へと開かれたものにしたいと思っています。だからこそ、これからも僕はシェアハウスを拡大していきますし、個性豊かなシェアハウス実践者たちのことを応援しています。

 これからもよろしくお願いします。

ぼくの「二次元」時代ーー中二病回顧(懐古)録 その壱

※この記事は、サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー14日目の記事です。13日目はjocojocochijocoさんの「」でした。

 

holysen.hatenablog.com

 3年前に描いた記事で「中二病」を回顧(懐古)するぞ!と意気込んだのですが、全然書いてませんでした。せっかくのアドベントカレンダーの自分語りの機会なので、書こうと思います。③の「ボクっ娘萌えから男の娘、ショタを通り、関係性萌え(カプ厨)へ」ってやつです。

 僕は三男です。長男のオタク趣味を間近で見て育ってきました。今日書きます「二次元趣味」の多くは兄に影響を受けたものです。記事中の画像は全部Google画像検索で拾ってきたやつです(ヤバいかも)。

 

  三男なうえで、妹がいない。妹という存在に対して憧れを感じた。中学校の頃、妹がいる男に嫉妬した。自然と身近に異性がいる環境が羨ましかったのだと思う。

 妹というものを単なる属性として見たときに、僕はカードキャプターさくらの主人公さくらと、兄の桃矢との関係性が好きだった。桃矢は妹のさくらを常にからかい続けるが、根っこのところでは妹思いである。「うちの妹に何しやがる!」、すごく言ってみたいセリフだった。

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最高の兄妹

 

 「おにいちゃん」という呼び名は、血の繋がっていない関係性に対しても擬似的に用いられる。『マギ』で有名な作者の大高忍が描いていた『すもももももも』では「いろは」というキャラがその意味で萌えた。主人公の犬塚孝士のヘタレうじうじっぷりがたまらない作品だ。『マギ』のアリババのポジションのキャラを主人公がやっている感じである。『ダイの大冒険』で言えばポップである。

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かわいい(けど、実はメッチャ強い)

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うじうじしててもハートは燃えてるんです

 

ボクっ娘

 妹と言えば、12人の妹が攻略対象のギャルゲーの「シスタープリンセス」というものがあった。みんな魅力的な妹たちなのだが、僕は衛というキャラに惹かれた。衛は「ボクっ娘」という属性を持っている。スポーツ少女であり、冬の寒い中「あにぃ」と朝にランニングをするイベントが印象的だった。「見て見てあにぃ! 吐いた息が真っ白だよ!」 無邪気だ。

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萌える……

 ところで、シスプリのゲーム版は12人の妹に対し、それぞれ「血縁END」「非血縁END」がある。ストーリー次第で血の繋がりがあったりなかったりするのは狂ってると思う。

 

  『みなみけ』で有名な桜場コハルはかつて『今日の5の2』という作品を描いていた。たまにリアルタッチになるシュールなギャグが笑える作品なのだが、普通に萌える。とりわけ、平川ナツミというボクっ娘キャラがたまらなかった。単行本が2003年なのに2008年にアニメ化してテンションが上がった。平川ナツミを阿澄佳奈が演じていたのもマジで最強だった。

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目がキラキラしてる子かわいい

 ところで、『みなみけ』のカナと藤岡の関係もすごく好きだな。桜場コハル先生は良い仕事をする。カナを井上麻里奈が演じていたのも完璧だった。

 

 ボクっ娘と言えば、「うぐぅ」が口癖のたい焼き好きの少女、月宮あゆだが、萌え属性全部乗せだなあと思う。海外でたい焼きが流行るのも納得だ。Kanon京アニが再アニメ化したときは狂喜乱舞した。

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いたる絵は神

 

 しかし、僕が今までの人生で最も萌えたキャラは『魔導物語』『ぷよぷよ』シリーズのアルル・ナジャである。そもそものキャラデザインが神がかっているし、シリーズによって冷たい大人な性格だったり無邪気だったりの(意図せざる)二面性が良い。後に僕は「関係性萌え」に至るわけだが、それについては後に述べる。

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神デザイン

 

 

男の娘

 ボクっ娘は沼だったのだが、そんななかで高校生のときに兄の部屋でふと読んでみた作品に心奪われた。やぶうち優の『少女少年』である。タイトルのとおり(?)、小学生の男の子が「男の娘」としてアイドルデビューする作品が描かれている。これが「小学五年生」とかに掲載されていたと思うと、性癖が歪むと思う。2012~16年に少女少年リバイバル的に連載されていた『ドーリィ♪カノン』も本当に神だった。

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全員男

 

 大学で漫画読みサークルに入ると「おちんちんが生えている」ということを非常に重視する先輩がいて、男の娘成分が割と補充されていた。『プラナスガール』はそこで出会った作品だった。扇情的な男の娘によって巻き込まれヤレヤレ系主人公が堕ちていく様は気持ちが良い。

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やっぱ好きなんすねぇ

 

 当時、ついにはショタでもいいんじゃないかという気持ちも湧いてきていたが(『ムシブギョー』という作品の主人公をショタとして読んでいた)、結局おねショタが好きだっただけかもしれない。つくづく僕はヘテロセクシャルである。

 

関係性萌え(カプ厨)

 2013年頃、リアルで恋愛し始めた影響もあったのか、関係性萌えというか、僕はすっかりヘテロ恋愛カプ(カップル)厨になっていた。印象に残っている作品はまず『ラブロマ』だろうか。すっかり人気作家であるとよ田みのる出世作だが、男の子がいちいちまっすぐ正直に気持ちを伝える(近年の言葉で言えば「アスペルガー」的、と言える)というのが斬新な作品だ。

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やさしい世界

 

 カプ厨という意味では高津カリノの『WORKING!!』も好きだった。作者のサイトで連載されていた『ブタイウラ』もそうなのだが、ある友人は高津カリノの作品を「みんなリア充になっていくからニヤニヤできる」と評していた。同感である。

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カップル二組

 

 ぷよぷよシリーズではシェゾ×アルルが捗りまくった。僕は一時期コミケに行くたびにシェアル同人誌を買い込んでいた。コミケぷよぷよ島は小さいが、質が高いものも多い。シェゾの有名な「お前が欲しい」(「もとい、おまえの魔力が欲しいだけだ」)という迷ゼリフの考証(?)もずいぶんと進んでいる。

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ヘンタイ

 

 僕は不器用な恋愛や「照れて赤面する」というのが好きなのだと思う。その意味で、ジュブナイル的な幼い恋も大好きなので、小学生たちや中学生たちを描いた作品なども大好物である(だから、やぶうち優の作品も好きだったんだと思う)。とはいえ、恋愛を描いた作品は挙げだすとキリがない。

 

 

二次元恋愛を三次元恋愛へ投影

 このように二次元に萌え萌えだった僕は、それを現実へと転写してしまったのだと思う。その大きなキッカケの一つは「セカイ系」やモノローグの多い「泣きゲー」というジャンルである。

 架け橋となった作品を挙げていこう。無論、新海誠作品やイリヤの空最終兵器彼女といったセカイ系の王道は原作はだいたい履修済みである。しかし、僕に圧倒的な影響を与えたのはおそらくkeyの作品である。

 先ほどKanon月宮あゆを挙げたが、key作品は傷や障害を持ったキャラクターを主人公が「フラットに受け入れる」という構図になっている。シナリオライター麻枝准の自己投影(?)である主人公たちはクセの強いヒロインたちを「おちょくり」ながらも受け入れていく。ヤレヤレ系主人公とは別の意味でヒロインたちの可笑しさを楽しんでいると言えるだろう。

 

 あるいは、傷や障害を持ったキャラクターだからこそ主人公(=プレイヤーのオタクくんの投影先)を受け入れてくれるのだという錯覚を生む。それでいてエロゲーというジャンルの構造上、選択肢を間違えるとBAD ENDによって主人公(=オタクくん)は「無力感」を覚えることになる。「ダメな俺」という自己陶酔的マゾヒズムを刺激するのだ。しかもkey作品はケータイ小説かよ」というぐらい人が死ぬ。選択肢を間違えると死んでしまい、「マモレナカッタ……」となってしまうわけだ。しかし、正しい選択肢を選ぶと「奇跡」が起こりTRUE ENDを迎える。この落差によって、「ダメな俺」が感情移入することもできるし、「ダメな俺」を救済してくれもするのである。

 しかし、key作品に限らず、エロゲにどっぷり浸かったせいで三次元でも「変な人」を好きになりがちな人は僕以外にもいないのだろうか。情報求ム。

 

二次元に描かれた(奥深い)愛のかたち

  ヒロインに対して「ダメな俺でも受け入れてくれる」という聖母性を見出してしまうことは一つの(政治的には正しくない)ゴールではある。僕がたびたび「メンヘラが好き」と公言してきた理由の一つはそこにある。

 しかし、そこから更に先へと僕を進めてくれる、強度のある作品もいくつかあった。最後にそれらを紹介しよう。僕を二次元から脱却させ、三次元の対人関係を豊かにしてくれたのも、おそらくこの作品たちである。

 まず、やはりkeyの主要メンバーが所属していたTacticsで作られた『ONE~輝く季節へ~』を挙げたい。この作品のメインヒロインである長森瑞佳の「聖母性」について(そして逆に浮き彫りになる主人公の自分勝手さについて)、かつてサークルクラッシュ同好会会誌第四号で述べたことがある。僕が別に所属している漫トロピーというサークルのブログでも同じ箇所を転載して記事を書いた。

mantropy.hatenablog.com

 

 しかし、敢えて言えば、瑞佳の本当の魅力はここから更に先にある。『ONE』という作品は、正しい選択肢を選ばないと主人公の浩平が世界からどんどん稀薄になっていき、「えいえんのせかい」に旅立ってしまうという設定になっている。それは過去に妹を失ったことによるトラウマ、また、その際に(おそらく浩平が妄想で生み出した少女である)「みずか」と交わした盟約が理由、という設定になっている。

 「みずか」はそもそも長森瑞佳をモデルとして作られた。純粋な「聖母」のようでいて、実はその二面性が示唆されていると言えるだろう。「みずか」の冷たい視線は僕(=プレイヤー)を射抜いてくる。

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ポタクくん「ぽれは…ぽれは…」

 そして、瑞佳ルートには一つの謎がある。浩平と瑞佳が待ち合わせをした際に、瑞佳がいつまで経っても来ず、降ってきた雨のせいで浩平は風邪を引いてしまうというエピソードがある。

 設定に沿って単純に考えればこれは、「えいえんのせかい」の作用によって瑞佳が浩平のことを(一時的に)忘れてしまったと解釈できる。しかし、トゥルールートに入っている場合にはヒロインだけは浩平のことを忘れないはずなのである。実際、他のヒロインたちも(正しい選択肢を選んでいれば)浩平を忘れることはない(なかったはず)。なぜ瑞佳だけが浩平のことを忘れてしまったのか?

 この問いに答えがあるわけではない。しかし、一つ言えることは、このエピソードこそがエロゲヒロインの聖母性に対して、異化効果をもたらしているということだ。このエピソードをどう解釈するかについては様々に考察できるが、少なくともこのエピソードこそが瑞佳ルートに深みを持たせ、瑞佳というヒロインにどこか冷たさと同時にミステリアスな魅力をもたらしている。

 

***

 

 同じエロゲでも「ヤンデレ」という属性を有名にしたNavelの『SHUFFLE!』という作品がある。SHUFFLE!のアニメの「空鍋」のエピソードは視聴者に衝撃を与えた。

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精神を病んだ挙句、主人公:稟(りん)の帰りを待ちながら空の鍋を混ぜるヒロイン:楓。

 楓は幼い頃に事故で両親を亡くしているという設定である。実際には、両親が旅行に行った際に楓が両親を呼び戻したせいで自動車が事故に遭い両親が亡くなったのだが、楓がその罪悪感に押し潰されないよう、幼馴染である稟は「自分が両親を呼び戻したせいで両親は死んだ」という嘘をつく。それ以来、稟は楓に恨まれ、嫌がらせをされながら生活をすることになる。

 それでも稟は罪を被り続ける。楓が生きる気力を失わないように、恨まれることも厭わない。そうして、結果的に楓は(本当は自分が両親の死の原因になったという)真実に気づくことになる。楓は今まで稟にしてきた攻撃のことを反省し、逆に稟に対して「尽くす」ようになる。言わば、負債を返す形で稟に尽くしているのである。この設定を「ヤンデレ」と解釈するのは個人的には間違っていないと思う。アニメスタッフはよくやってくれた。

 それはともかく、僕が感動したのは、稟の「ヒロイックな自己犠牲」である。現実にはなかなかあり得ないような設定ではあるし、自分が恨まれるように仕向けることが本当に楓の癒しになるのかは疑問符がつくが、このような(恨まれることを選ぶという)形の愛がありうるのか、と目からウロコが落ちた。

 

***

 

 ギャルゲ原作ではあるが全く違う内容のオリジナルアニメに『true tears』という作品がある。昼ドラ的手法をアニメの世界に持ち込んだ岡田磨里の出世作の一つでもある。

 『true tears』には三人のヒロインが出てくるが、乃絵というヒロインがこれまた変なヒロインである。ニワトリを餌付けしていたかと思えば、主人公:眞一郎をニワトリと同一視してニワトリの餌を与え始める。

 眞一郎はヤレヤレ系主人公とは違う。乃絵の奇妙な行動に驚きつつも、乃絵に対して(乃絵の独特な言語に寄り添う形で)真剣に向き合っていく。そして、こっそり趣味として描いている絵本を乃絵だけに見せるなかで、二人の関係を築いていく。

 ニワトリになぞらえられた眞一郎であるが、乃絵は「飛べる/飛べない」という比喩で眞一郎に示唆を与える存在になる。「眞一郎、あなたは飛べるの」と。

 さすがに長くなってきたのでもう詳しくは書かないが、自分の恋心を諦めて、相手を「飛べる」ようにする、そういう愛もあるんだなあと思う。何度も観たい作品である。

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天使

 

***

 

 この記事を書く前に僕は『NHKにようこそ!』のアニメを何年ぶりかに観た。心が震えた。ここまで実存に刺さってくるアニメが今の時代にありうるだろうか? いや、俺TUEEや異世界転生モノが人気を博してしまっているこの時代には、こんな作品が出てくることはありえないだろう。

 ネットの一部界隈では『NHKにようこそ!』のヒロイン:中原岬が「ダメな俺を救ってくれる天使・聖母」のように扱われているようだが、それは一面的すぎるのではないかと思う。

 あるいは、「中原岬になりたい系女子」は、「ナジャになりたい系女子」、つまり純朴な男の前に現れるミステリアスで魅惑的な女になりたい人とどう違うんだよ、という話である(何の話だ)。

 中原岬は、ひきこもりの佐藤くんを「ダメ人間」、それも「自分よりもダメな人間」だと見下すことによってある種の安心感を得ながらコミュニケーションを展開する。岬に振り回されることで結果的に気持ちが楽になっていく佐藤くんの視点において、岬ちゃんはある種の「天使」なのかもしれない(実際、岬ちゃんは佐藤くんがどれだけヤバくても佐藤くんを受け入れるのだから)。

 しかし、それはイコール、岬ちゃんが天使であるということではない。岬ちゃん自身、周囲との噛み合わなさを抱えた結果、その生きづらさを佐藤くんに投影している。つまり、佐藤くんを救うことによって自分を救おうとしている。これは典型的なメサイアコンプレックスの構造である。

 あるいは、自分が「天使」の役割を引き受けることに陶酔している、とさえ言えるかもしれない。これが男女逆なら暴力性は明らかなのだが、女性から男性への矢印であることによって、岬ちゃんの側の暴力性はあまり見えにくくなっているようにも思う。

 佐藤くんと岬ちゃんの関係性がどんどんギクシャクしていくことからも分かるように、佐藤くんも徐々に岬ちゃん自身の問題を理解していくのである。岬ちゃんだって葛藤を抱えた人間であるのだと。「救い-救われる」関係はそう簡単には成立しない

 その諦観をお互いに受け入れたうえで、それでもなお、「きっと大丈夫だよ」とゆるやかに関係を続けていく。そして、生き延びていく。これが『NHKにようこそ!』が導き出した答えなんじゃないかと僕は思う。

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 僕が『NHKにようこそ!』の原作を読んだのは中学生のときだが、大学生になり、サークルクラッシュ同好会を始めてからようやく、三次元でNHKにようこそ!」的世界を目の当たりにした。『NHKにようこそ!』は紛うことなき“リアル”だった。それは佐藤-岬の関係に限らず、先輩や山崎、自己啓発セミナーや自殺オフ会の描写においてもそうである。

 佐藤-岬的関係の一例を挙げるならば、Skype掲示板である。Skype掲示板では、親代わりが欲しい中高生の女子と、青春を取り戻したい20代半ば以降の男性が奇妙にもマッチングしている。中高生の女子は天使の役割を引き受けながら男性の青春を「取り戻させてあげる」のだ。一方、20代半ば以降の男性は年上として中高生の女子に対して「大人の余裕」を見せる(本当に余裕なのだろうか?)。

 やがて彼ら彼女らはその関係の「異常さ」に気づくかもしれない。中高生から見ると「大人と付き合っている」というのはカッコよく見える側面もあるのかもしれないが、20代以上から見れば中高生と付き合っているというのは普通に「ヤバい奴」である。

 この関係を、グロテスクで幼稚な関係だと笑い飛ばせるだろうか? 否、これは僕に言わせれば「社会問題」である。もちろん、18歳未満との性行為は犯罪なのだが、お互いがお互いの(自分と相手の)抱えている「後ろめたいニーズ」について理解してしまいながらも、それでもなんとなく共生していく。そういう愛もあるんじゃないだろうか

 

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次は15日目、saraさんの「世界一 可愛い子に 生まれたかった」です。

サークルクラッシュ同好会運営マニュアル

 有力なサークル創設者たちが立て続けにサークル設立のための「教科書」を発表している。書かれている内容は具体的な経験に基づいているのもあり、非常に実践的で役に立つ内容が多い。

 

handaitoilet.wp.xdomain.jp

 

kurfla.hatenablog.com

 

handaitoilet.wp.xdomain.jp

 

 僕も3年前(2016年11月)にサークルクラッシュ同好会会誌第五号で「サークルクラッシュ同好会運営マニュアル」というものを書いた。せっかくなので便乗して貼っておこうと思う(表記を少しだけ修正しました)。

 今読むと、単純に自分がやってきたこととやりたいことを書いているだけだなあという感じだった。

 

サークルクラッシュ同好会運営マニュアル(2016年11月19日発行 サークルクラッシュ同好会会誌 Vol.5所収)

 

 サークルクラッシュ同好会を作って今や五年目になる。最初はネタのつもりでやっていたものが、思えば大きくなったものだ。しかし、その歩みも今や停滞ぎみである。
 その一方で、「サークルクラッシュ同好会関東支部」が今年の初め頃に結成された。「サークルクラッシュ同好会」という一団体に過ぎなかったものが、ある種のミームサークルクラッシュ同好会》として広がっていく。そんな兆しも見え始めているのかもしれない。
 そこで、今回は《サークルクラッシュ同好会》現象の火を絶やさないため、「運営マニュアル」を書く。これを読んだ人が、一人でも《サークルクラッシュ同好会》を始めてくれるならば、望外の喜びである。なお、《サークルクラッシュ同好会》の発展のモデルケースとして、 最後の章では2012年に結成した「サークルクラッシュ同好会」がどういう歴史を歩んできたのかも記しておこう。


一、活動目的

サークルクラッシュ同好会って何してるんですか?」と聞かれることがよくある。その答えは、
サークルクラッシュ同好会は、ネタサークルであり、メタサークルであり、ベタサークルである」というものだ(以下、「サークルクラッシュ同好会」は基本的に「サー同」と略します)。
 具体的には、

 

ネタサークル

 イベントサークル。 「他のサークルをクラッシュする」だとか、「サークルクラッシュ同好会自体もサークルであるという矛盾」だとか、そういうものを活かしながらネタ的な活動をして楽しむ。ネット上のメディアなどでも注目を集めて宣伝効果を狙う。最後の仕上げとして自身のサークルをクラッシユし、有終の美を飾る。

 

メタサークル

 まじめな研究サークル。恋愛やコミュニケーション、ジェンダー、コミュニティなど、目の前にある人間関係の問題をテーマにしているので、それらの問題を俯瞰的な(メタ的な)視点から研究する。研究成果をホームページ上や会誌上で発表する。

 

ベタサークル

 居場所・自助グループとしてのサークル。他の集団になじめなかったり、人問関係や恋愛やコミュニケーションがうまくいかなったりといった「居場所がない」問題に解決する一種の安全基地としてサークルが存在する。一方で、メタ的な研究によって得られた知見も活かしつつ、それぞれが抱えた悩みなどに対して、話し合ったりトレーニングすることで、社会への適応などを目指す。

 

 

二、活動内容

 活動目的の「ネタ・メタ・べタ」で述べたように、基本的にはイ ベント/研究/居場所または自助が活動内容の三本柱になってくる。 その上で、まずメタ・べタの活動として、「『普段触れられない新しいもの』に触れること」が具体的な活動内容になってくる。
 その触れる対象は①人、②場所、③知識の三つに分類できる。
以下、その例を箇条書きで列挙する。

 

①人

 普段触れられない新しいものに触れるのに手っ取り早いのは人と交流することだ。交流は、「今すでに内部にいる人との交流」と「外部 の人との交流」とに分けて考えられる。

 

●内部の人との交流
・飲み会やカラオケなどの普通の交流
アンゲーム人狼、その他ボードゲームなどのコミュニケーションゲーム
インプロビゼーション(即興劇)ゃアイスブレイキングなどのワークショップ
当事者研究会(詳しくはググってください)
・悩みを相談し合う(自助グループ的活動)
・「愚痴」か「失敗談」か「恋バナ」を各自持ち寄って、一人一つ披露する会

 

●外部の人との交流
サークルクラッシュを体験した人や見た人から話を聞く。インタビューなどをしても面白い
・具体的に会ってみたい人の名前を出して呼んでみる。
 メンバーの交友関係の中で、面白いと思う人を呼べばいいかもしれない。


②場所

 行ったことがない場所に行ってみたい、でも一人で行くのは怖い、という人は多いと思われる。メンバーの中でその場所について詳しい人がいれば、その人に連れて行ってもらう「ツアー形式」で楽しむことができる。特殊な場所は調査して分析してみても面白いだろう。ただし、「怖いもの見たさ」で行くことによって現地の人に迷惑をかけてはいけない。礼儀をわきまえておくこと。

・映画館などの比較的ハードルの低い場所
文学フリマコミケなどの即売会
・アングラ寄りのイベント(例えば「メンヘラ展」)
・クラブなど、一人では行きづらいリア充的イベント
・ストリップショーなど、一人では行きづらい性的なもの
・オフ会
・宗教団体
・シェアハウス
・その他、特殊な地域や施設やコミュニティ

 

③知識

 サー同は心理学、社会学など、人文社会科学系の学問に強い人が一定数集まってくる傾向がある。また、恋愛ゃコミュニケーションなどについても一家言ある人は多い。普段自分の触れない分野について詳しい人から話を聞くのは楽しいものだ。



●読書会
・コミュニケーションスキルについての本などを読み、実際にお互いに実践しながら学んでみる。マナー、プレゼンテーション、「雑談力」、アサーションレジリエンス、カウンセリング、インタビュー、ディベート、演劇など
・自助活動として、自己啓発書や新書、自伝、漫画などで、ゆるい読書会をする(参加者で感想を共有するのが重要)
・堅い学術書を少しずつ読んでいく
・ネットに挙がってる論文やブログなどの文章を読む(Skype等でもできる)
・過去のサー同会誌を読む

 

●発表
・何かしらのテーマで誰かが発表をする(例えば、定例会では「フェミニズム」について発表・勉強会が開かれたことがある)
・3分講演会をする。各自が自分の好きな分野について、3分間のプレゼンをする。互いの興味分野を知ることができる

 

●映画鑑賞会
・恋愛などに関する映画を鑑賞し、感想を言い合う会

―――


 以上は、比較的受動的で、内部で閉じた活動だ。しかし、サー同は外部に対して開かれた団休であることが望ましい。
 以下では能動的に外部に働きかけていく活動を述べる。ここでネタサークルとしての性質が活きてくる。

 

④自分たちで新しい企画を生み出す

 サービスの受け手になるだけではなく、自分たちが送り手になることで得られるものもあるはずだ。また、メンバーで協力してーつのものを運営することは、団体の結束感を高める効果もあるだろう。

 

●ベタにできそうなもの
・会誌を発行する(既に関西・関東は合同でやっている)
・女装/男装会や、オタサーの姫/クラッシャーコスプレ会を開く
・大学生向けの合コンを企画する
・サークルの人間関係に関するお悩み相談メールを受け付け、回答をネット上に公開したり、コンサルティングしたりする
・男女の恋愛などに詳しい人を呼び、講演会を開く

 

●ネタとしては
・「自己啓発セミナー」を開く
・サー同内でサークルクラッシャーを養成し他のサークルに送り込んでクラッシュする。クラッシュによって得られたデータはフィールドワーク資料として研究に活かされる
↑クラッシャられを養成して送り込んでクラッシュされてもよい

 


 以上の活動は、月1回や月2回、あるいは余力があれば週1回集まる「定例会」ができるとやりやすい。一応付け加えておくと、定例会では毎回のように新しい人が来ていたため、「毎回、自己紹介をちゃんとやること」と「新しい人が来ていたら常連の会員はその人に配慮してちゃんとコミュニケーションを取ること(“歓迎”をすること)」とを重視してきた。

 


三、Webの整備・人の集め方・定例会の場所の決め方

 今の時代、サークルを運営するならばWebの整備は欠かせない。ネタサークルとして外部発信するサー同としてはなおさらだ。具体的に必要になってくるものはだいたい次のものだろう。今の時代、もはやメーリングリストは古いのかもしれないが。

 

●メーリソグリスト
●LINEグループ
●公式メールアドレス
●公式ツイッターアカウント
●公式ブログ
●その他SNS への登録(ガクサー、つなげーとなど)

 

 次に、人の集め方について。「サークルクラッシュ」を扱っているので、大学を拠点にするのが理想的だ。どこかの大学を拠点にしつつ、 ツイッター上などで宣伝することで人を集めると良いだろう。ただし、メンバーは必ずしも大学生に限定する必要はない。社会人も参加できる方が多様性が出て良いだろう。
 また、活動内容で述べたようなイベントや定例会がある。それらも 外部に開き、日付や場所をツイッターなどで告知すると更に新たな人が入ってきやすくなるだろう。
 もし、大学内でビラを撤いたり新歓ができるならば、それはぜひ活用すべきだ。面白いビラを作り、面白い新歓をすることもまたネタサークル活動としての一環である。


 次に場所の決め方について。大学を拠点に活動するのならば、その大学で教室などを借りられると理想的である。もし、そういう場所がない場合、公民館などを借りるのが次善だろう。人が少ない場合は、誰かの家やファミレスなどを使ってもいいかもしれない。いずれにせよ「定例会」として定期的に開くことが組織の存続には重要である。

 

四、サークルクラッシュ同好会のあゆみ

 最後に、実際に私が作った「サークルクラッシュ同好会」がどのように活動してきたか、「年表」のようなものを記しておこうと思う。思えばうまくいかないこともいっぱいあったし、今もそこまでうまくいってないのかもしれない。しかし、だからこそ今後の《サークルクラッシュ同好会》の発展のためにも、一度これまでの歩みを振り返っておこう

 

サークルクラッシュ同好会年表
●2012年
2月 「自分はサークルクラッシャーだった」と語る女性が@holysenのTL上に現れる
3月 サークルクラッシュ同好会結成。ツイッターアカウント開設
4月 新歓ビラロードでビラ配り「サークルクラッシュにご注意ください!」と啓発
新歓期に3、4人が入会
5月 ホームページ開設
11月 会誌第一号を京都大学11月祭(NF)で頒布。シェアハウス界隈や幸福の科学の人から寄稿いただいた
12月 第一号をコミックマーケット83(C83)で頒布

 

●2013年
4月 新歓。10人以上が入会。
5月 初の定例会。徐々に自助グループ的な色合いを帯びていく
サークルクラッシュ同好会関東支部結成
8月 関東支部、初の定例会
10月 関東支部、崩壊(クラッシュ)
11月 会誌第二号を京都精華大学キノフェア2、第十七回文学フリマ、NFで頒布。
12月 第二号をC85で頒布

 

●2014年
4月 新歓。「面白法人カヤック」の「学生新歓コンテスト」に出場。「サークルコンサルティング」、「ダミーサークル」などの奇抜な新歓戦略を展開
5月 定例会で「サークラ人狼」を実施
6月 定例会で「アイスブレーキング」、「映画『モテキ』鑑賞会」を実施。「服を買いに行く会」実施。ブログ開設
7月 定例会で「ジェンダー論勉強会」を実施
8月 会誌2.5号をC86で頒布
9月 2.5号を第二回文学フリマ大阪で頒布
サークラ合宿」実施。和歌山の白浜へ
11月 2.5号をキノフェア3で頒布
会誌第三号をNF、第十九回文学フリマで頒布。NFで「ビンタ屋」実施
12月 定例会で「女装会」を実施
12月 第三号をC87で頒布

 

●2015年
2月 「映画『愛のむきだし』鑑賞会」を実施
4月 オープンシェアハウス「サクラ荘」開始(当初は「サークラハウス」という名称だった)。
5月 「面白法人カヤック」の「第2回学生新歓コンテスト」に出場。新歓にて「自己啓発セミナー」を実施。実際の中身は「誰でも当事者研究会」。以後、定例会でも頻繁に「誰でも当事者研究会」が開かれる
「ゴッフマン『行為と演技』読書会」開始(途中でポシャる)
6月 定例会でコミュニケーションゲーム「アンゲーム」を実施
7月 「精神分析読書会」実施
8月 会誌3.5号をC88で頒布
9月 「サークラ百物語」実施。会誌3.5号を第三回文学フリマ大阪で頒布
11月 3.5号をキノフェア4で頒布。会誌第四号をNFで頒布。「ビンタ屋」実施
12月 第四号をC89で頒布。

 

●2016年
2月 サークルクラッシュ同好会関東支部結成(2013年のものとは別物)
3月 「代々木忠監督のAV作品鑑賞会」を実施。関東支部で「インプロ・ワークショップ(即興劇)」実施
4月 新歓。「意識高い系サークルの新歓に潜入する会」実施。関東支部フロイト読書会」開始(8月に終了)。
5月 「自己啓発セミナー」を実施(二年目)。第四号を第二十二回文学フリマ東京で頒布
「映画『愛の渦』、『恋の渦』、『恋の罪』」連続鑑賞会実施(3週に分けて)
6月 「映画『桐島、部活辞めるってよ』」鑑賞会実施。関東支部で「ゲーム会」実施
7月 「服を買いに行く会」実施。
「偏ったブログをぱらぱら読む会」実施:ぱぷりこ氏の「妖怪男ウォッチ」を読む
8月 「第一回ゆるふわ読書会」実施:『セックス神話解体新書』を読む
幸福の科学大学オープンキャンパスに行く会」 「天理市に行く会」
9月 「バーベキュー」実施。「第二回ゆるふわ読書会」実施:『孤独と不安のレッスン』を読む。「Skype読書会」開始(ほぼ週一で開かれ、10月末に停止)。関東支部で「服を買いに行く会」実施
10月 「サイゼリヤ飲み会」実施。「オタサーの姫コレクション」実施。関東支部で「ハロウィンを楽しむ」実施

 

次のサークルクラッシュ同好会を作るのは君だ!
(完)

DULL-COLORED POP 福島三部作 の感想

 9800円も払って観たので感想ぐらい書いとかないとコスパ悪いなと思ったので書いとく。9月2日に大阪で観ました。当然ネタバレ満載です。

 

 

 

第一部『1961年:夜に昇る太陽』

 これが一番面白かった。田舎に原発を誘致する際の裏話みたいなのをこんなに面白く描けるのはスゴい。

 田舎から東大に行った長男が、家を継がないために「もう故郷には帰らない」と告げる話。おっかない爺さんの怒号が良い。「立身出生」「末は博士か大臣か」という言葉がまだリアリティを持っていた時代の話だった。

 最終的には双葉町が、福島が、東京という「中心」に搾取される「周縁」として描かれる。さながら植民地と宗主国のように、その決定には権力性がある。東京電力がカネにモノを言わせ、「原発双葉町や福島の未来がかかっている」という甘言に惑わされていいのか、みたいな話。「東北は地震が少ないから安全」って発言も面白いね。

 でも、原発を素晴らしいものとして語る言葉には説得力があるのがまた面白い。各所の関係者がひっそりと双葉町に入り、主人公の実家での密会で酒を飲み交わし、交渉がなされるわけだけど、なんともリアリティがある。スクリーンに映し出されるディティールも良い(当時の時代背景や、当時の関係者の証言など。関係者の証言はフィクションか?)。

 想い人?を田舎に置いて東京へと往く主人公は、まるで「木綿のハンカチーフ」みたいだ。やはり、みんなの期待を背負いながら東京に行くと。

 

第二部『1986年:メビウスの輪

 基本的には会話劇。それもディベートのような。原発反対派となった第一部の主人公の弟が、汚職で辞任した町長の代わりに、(原発の危険を分かっているがゆえの)原発推進派として町長選に出るという話。

 危険であるがゆえに稼動する際の安全対策をしっかりするのだ、というねじれた論理をこれでもかというぐらい見せてくれる。しまいにはチェルノブイリの事故に対して、危険性をレトリカルに隠蔽する「日本の原発は安全です」という言葉。

 飼われていた犬が「死者の声」や「人間だからこそ固有に存在する『責任』」を語るというのは面白い構造。別にハイデガーとか言わなくてもいいとは思ったけど。観客は2011年の原発事故を知っているわけなので、「責任」は過去への遡及的なものではなく、未来へと連綿と受け継がれる責任として意識させられる。

 あとやはり、第一部からの繋がりで言えば、双葉町の産業が原発に依存しきってしまっているという話は面白い。「原発の安全対策」はこれから更に産業を活性化させるためのネタだというロジックも喜劇的だ。

 最後に子どもが生まれる、というところで終わるのが素晴らしかった。原発のリスクの「計算不能性」が最後には取り沙汰されるんだけど(ベックの言う「新しいリスク」というやつだろう)、子どももまた「計算不能」な希望(あるいはリスク)だよなと。最近流行り(?)の反出生主義なんかのことを思いつつ。第一部の顛末が生んだ原発という子どももまた、事故が起こってからでは「生まれてくることを望まれなかった子ども」になってしまうのだろうか。

 

第三部『2011年:語られたがる言葉たち』

 はるかぜちゃんこと春名風花さんが出ていてびっくりした。役もアテ書きみたいな感じで、福島の「真実」を伝えることによって炎上する女子高生の役だった(ちょっと紋切り型すぎやしないかとも思った)。お得意の泣き芸も見れて得した気分だった。

 内容的には「マスメディアの報道倫理」みたいな話。近年の質的調査系の社会学者たちも「聞き取られなかったマイノリティの声」を聞こうとしているし、個人的にはあまり新鮮味のない題材だった。

 まあ放射能の濃度がどうとか、農業への風評被害とか、避難する人間たちの意識の差とか、そういうよく言われる話はきちんと拾われてるわけだけども。問題はそれらの紋切り型を超えて、「演劇」というメディアならば何を拾い上げられるのか、だと思う。この作品は脚本・演出の方が自分で取材して聞き取ったものだということが紹介には書かれているけども、そうだとしても「演劇」である必要があまりよく分からないなと思った。視聴率主義=資本主義の問題の批判とかしてもなあ。演劇だってメディアなんだし、じゃあ演劇だったら何が見えて、何が見えないのか、そういう反省性に開かれていることをもうちょっと期待した。

 第二部に引き続き「死者の声」も出てくるんだけど、むしろ「語られたがる言葉たち」は死者の声の方なんじゃないかと思った。震災によって死んでいった人たちが語れなかった言葉を辿っていく、そういう作業こそ演劇にできそうなものだが。

『猫で人魚を釣る話』という漫画がめっちゃいいので読んでほしい

 漫画のレビューです。

 

 2015年に月刊スピリッツを読んでいたところ、「スネるの法則」という読みきり漫画が載っていた。

 とにかく言語センスが独特だった。それでいて読みにくいわけでもなく、奇妙なバランスを保った不思議な作品だった。作者の名前を見ると、「菅原亮きん」と書かれていて、これまたおかしな名前だなあと。

 

 頭の片隅にこの名前が刻まれていたところで2018年、『猫で人魚を釣る話』という菅原亮きん先生の連載が始まった。

 これが、面白かった。

 

 作品の内容はいたってシンプル。不器用なお医者さんが白血病の患者に恋をするという王道の作品である。シンプルな筋道なのもあって、このたび全3巻でコンパクトに完結した。

 しかし、王道であるがゆえに、表現技法において作者のセンスが光る。構図、コマ割り、ページの使い方、擬音など、非常にユニークなつくりになっている(詳しくは漫画を見てほしい)。手数が多くて芸が細かいし、読んでて飽きない。

 言語の表現も単なるフキダシだけには留まらない。携帯電話の画面で会話がなされたり、詩が挿入されたりとバラエティ豊かだ。そして、やっぱり言語センスが独特で面白い。

 

 もし、他の漫画家の作品にたとえるとするならば、とよ田みのる先生の漫画に似ているかもしれない。なお、とよ田先生は『ラブロマ』→『友達100人できるかな』→『タケヲちゃん物怪録』→『金剛寺さんは面倒臭い』と最近の作品になるにつれて表現のダイナミックさが増し、どんどん先鋭化していっている感じがある。

 菅原先生も基本的にはダイナミックな表現でバラエティに富んでいる。とよ田先生とテイストは違うものの、大まかなタイプとしては似ているのではないだろうか。

 

  概要としてはそんな感じだが、以下ではネタバレ込みで感想を書く。

  

猫で人魚を釣る話 (1) (ビッグコミックス)

猫で人魚を釣る話 (1) (ビッグコミックス)

 

 

猫で人魚を釣る話 (2) (ビッグコミックス)

猫で人魚を釣る話 (2) (ビッグコミックス)

 

  

猫で人魚を釣る話(3) (ビッグコミックス)

猫で人魚を釣る話(3) (ビッグコミックス)

 

  

 

 

***

 

 

キャラクターたちについて

 まず、キャラクター作りが上手い。医者である主人公の四月一日正直(わたぬき まさなお)は「病人を診ずして病気を診よ。」という座右の銘を持っている。端々からにじみ出る不器用さ、融通の利かなさが恋愛モノにおいては良いアクセントになっている。

 ただし、その不器用さから内面の葛藤に苦しむような「こじらせ」モノではない。基本的に主人公の性格はまっすぐで、立ちはだかる問題に対して実直な答えを出していく。それこそ、とよ田みのる先生の『ラブロマ』のようだ。2巻で主人公が毎日ヒロインの家に通うという(ヘタするとストーカーじみた)場面があるが、そこにイヤらしさが感じられない。

 話としては、主人公の不器用さがどんどんほぐれていくという構成になっている。もちろんヒロインポジションにいる吉祥てらのある意味で奔放なキャラクター性がそうさせた面はあるが、てらも過去の父親の死と飼い猫の死という問題を背負っている。

 だからむしろ二人を導いたのは春樹という猫である。タイトルの通り、猫がキューピッドのポジションになっている。話の展開や、主人公自身の(隠された)感情への気づきは猫を介して起こる。このあたりも上手い。まあ、作者は明らかに猫が好きなのだろう。経験に基づいたリアリティを作品世界に持ってこれたのだと思う。

 他にもてらの幼馴染の獣医さんや主人公の病院の師長さん、フィットネスのインストラクターといったキャラクターが登場するが、とにかく悪人がいない。みんな根っこのところではサッパリスッキリした人たちで、自分の主張をはっきり言える人たちだ。

 

作品全体として

 要するに「自由」なのである。読者が自由の感覚をおぼえる作品になっていると思う。もちろん「葛藤」を描くことが重要な作品もあるだろうが、この作品では(葛藤がないわけではないが)、自由になっていく過程が基本線である。

 ウジウジ悩む過程に紙幅を割かずにテンポ良く進んでいく話は、全3巻に綺麗にまとまっている(3巻の巻末には作者の読みきりが2本載っているぐらいで、実質的には2.6巻分ぐらいで本編は終わっている)。

 全3巻の構成としても、1巻の終わり(6話)に主人公が「好き」だと告白するのがきていて、2巻の終わり(12話)にはてらが自身の主人公への気持ちを確信していくまでが丁寧に描かれている。そして3巻でクライマックスへ。よく練られた月刊連載だなあ。

 

その他個別のこと

 その2巻の終わり(12話)でてらが自宅で主人公と携帯を通じてやりとりしながらモノローグするシーンはすごく良くて感動した。

 最後3巻の14話、15話、最終話はまさにヤマだと思うんだけど、見事だった。14話は涙する主人公のシーンで僕も泣いた。クソ真面目に生きてきた人間が抑圧していた衝動に向き合うってシーンはいいですね。

 15話のベッドが飛んでいく演出もヘタするとサムくなってしまいかねないと思うんだけど、これがまた良かった。上に書いた「自由」の感覚がまさに感じられるシーンだった。

 最終話の終わり方もこれ以上ないぐらい良かった。自由に描いているようでいて、かなり収まりの良い作品だった。

  

 

***

 

 

 僕は漫トロピーというサークルで毎年漫画ランキングを作っているのだが、2018年の個人ランキングでは(11月時点で)この作品を1位にした。

 最後まで読んで、自分の目に狂いはなかったなと思った。とても好きな作品なので、みなさんもぜひ読んでください。

 

ヒズミくんに対する印象操作への批判と、ヒズミシェアハウスへの賛意

ヒズミ(TwitterIDは@make_me_sad)という友人がいる。

僕はかつて、彼と一緒にシェアハウスで住んでいた。彼はあるときシェアハウスから出ていき、その後に自身のシェアハウスを作った。

その彼がインターネット上で強い悪意に晒されているため、この記事を書くことにした。

インターネット上の誹謗中傷に対しては「スルー」することもひとつの有力な手段ではあるが、事実とは異なる情報が広められ、ヒズミくん自身が深く傷ついているのを放置する方がデメリットが大きいと考えた。

そこで、スルーするのではなく、この記事を書くことによってヒズミくんについての歪められた情報を正しておきたい。

 

先に結論を書いておくと、正気正気(しょうきまさき)(TwitterIDは@masaki_sanity)という人がヒズミくんについての、事実の歪められた情報を軽率に広めている。その情報は非常にセンシティブであり、そのためにヒズミくんは深く傷ついている(ように僕には見える)。そのような広め方をすることは非常に問題があると僕は思う。

よって、正気正気氏は、その情報の拡散を止め、発言内容を撤回し、ヒズミくんに対して謝罪すべきだと僕は思う。

正気正気氏からヒズミくんへの個人的な怨恨等があることは想像されるが、そうだとしても、撤回し謝罪すべきであることに変わりはない。

 

*** 

 

ヒズミくんについて拡散されている情報について、身近にいた僕が知っている限りでの本当の情報を以下に書く(僕がヒズミくんやAさんとの関わりから見たり聞いたりした話である)。

 

①僕(ホリィ・セン)が住んでいたシェアハウスにある女性(Aさんとしよう)がいた。Aさんは僕から見て、精神的に病んでいた。自傷行為オーバードーズ、自殺企図も何度かしていた。彼女の中でそれらを止めるのは難しかったようである。病院にも通っていたが、なかなか快方には向かわなかった

 

②あるときAさんはヒズミくんと知り合い、付き合い始め、シェアハウス内でヒズミくんと共に生活を始めた。何か月か後、ヒズミくんとAさんは二人で家を出ていき、同棲を始めた。

しかし、関係は2人きりで閉じてしまい、難しい関係性だったようである。たとえば、Aさんが関係の悪かった親に対してよく嘘をついていたのを僕は見ている。彼との関係においても、その「虚言癖」のようなものが逆に彼との関係を難しくしていたようだ

③ヒズミくんはAさんのことを家賃の分は養うという約束で暮らしていたが、バイトをしても自由に使えるお金が少ないことに不満を抱いたAさんは、風俗で働く、とヒズミくんに言った

 

④ただでさえ関係が閉じてしんどい状態だったのに加えて、ヒズミくん自身の性嫌悪的な性格もあったのだろう。ヒズミくんは耐えられずに、止めても聞かないAさんを止めるために殴ってしまった。しかし、そこですぐに彼はAさんと共に警察署に行き、警察に相談している。彼自身、暴力を問題視しているからだ。結果、継続的に暴力が振るわれたわけではなかった

 

⑤しかし、そのことも一因となったのか、Aさんは家から失踪し、一人暮らしを始めた。そして、一人暮らし中にAさんは自殺した。ヒズミくんはこのことに後悔をしているし、ヒズミくんが立場の弱い人間に対してまともに暴力を振るったのは、これ以外では聞いたことがない

 

***

 

以上のことを、正気正気氏が誰からどのように聞いたのかは知らない。しかし、正気正気氏は「ヒズミは彼女にDVをして、そのことが死なせたことの遠因になった」と触れ回っているようである(少なくとも1人に対してこのような言い方をしていることを確認した)。

 

これはきわめて問題のある印象操作だと思う。確かに、彼がAさんに対して手を出してしまったことは彼自身認めるように事実である。そのことにはもちろん罪がある。

しかし、彼は継続的に暴力を振るったわけでも、強制的に逃げ道を与えなかったわけでもない。これを「DV」と一言で片づけるのはいかがなものか。

 

閉じた二者関係や日々の生活でストレスが溜まり、自身の彼女が風俗で働くと言って聞かない、そのような立場に立たされたときに、はたして殴らないことを選択できるだろうか(誰も助けてくれない育児において、赤子に対して暴力を振るってしまいそうになる親のことを考えてみてもいいかもしれない)。

もちろん殴らないという人もいるだろうが、ヒズミくんの置かれた状況を鑑みずに一方的にヒズミくんを非難するのはおかしいだろう。

 

そして、その暴力が死なせたことの遠因となったというのであれば、Aさんがどういう人物だったのか、彼とAさんとの関係がどういうものであったのか、Aさんがいかなる事情から自殺に至ったのかといった情報がせめて必要だろう。そういったことも鑑みずにヒズミくんを「人殺し」かのように読める情報を広めるのはきわめて悪質なことだと僕は考える。

 

そして、上で述べた経緯を鑑みると、必ずしもヒズミくんがAさんを殴ったことが彼女の死の原因とは言い難いように思われる。どうすれば彼女は死なずに済んだのか、究極的には僕にも分からないところである。

 

以上より、「ヒズミは彼女にDVをして、そのことが死なせたことの遠因になった」というのは事実を歪めた情報である。正気正気氏は、このような情報の拡散を止め、発言内容を撤回し、ヒズミくんに対して謝罪すべきだと僕は考える。

 

***

 

僕自身、身近な大事な友人の自殺を契機に、二度と同じことが起こってほしくないと思い「メサコン」(メサイア・コンプレックス、救世主になりたいコンプレックス)活動、要するに生きづらい人を支援する活動を始めた。その活動によって実際のところ人を助けられているのかどうか、評価することは難しい。

とはいえ、助けてほしいというサインを出している人間を助けるために、できる範囲でその手助けをする、ということを僕はあまり間違っていないと思っている。そういう活動をうまいことやっていく人間が一人でも多く増えればよいと僕は思っている。

ヒズミくんがシェアハウスによって、そのような活動をおこなっていることに僕は敬意を表したいし、今後もその活動が続く限りで応援・手助けしていこうと思っている。

だからこそ、そのヒズミくんに対して正当な批判ではなく、彼を陥れるような印象操作が行われていることに対しては厳しく批判しなければならないと感じた。

 

この批判は正気正気氏に対するものだけではない。正当な批判、たとえば、ヒズミくんの活動の改善や修正を目的とするような批判ならまだしも、そうでない「批判もどき」によってヒズミくんを傷つけることは端的に間違っているし、卑劣でダサいとも思う。

この「批判もどき」がどれだけ行われたとしても、ヒズミくんは聞く耳を持つ必要がないと思う。

メンヘラ当事者研究会関西第3回~居場所があるってどういうこと?~ レポート

ホリィ・センです。7月14日(日)のお昼に、京都でメンヘラ当事者研究会関西をおこないました。記憶が鮮明なうちにレポートしておこうと思います。

 

テーマは「居場所があるってどういうこと?」ということで、今までに自分にとっての居場所と言える場所があったかどうかを話していくところから始まりました。

 

「場に応じて自分を出す」ということについて

序盤では、「自分が出せる」ということが居場所の条件として主に語られていたように思います。その意味で、ある種の「寛容さ」を集団に求めるという人は複数いました。

しかし、どこかの場所Aでは出せている自分が、他の場所Bでは出せない、という人もいました。過激だと思われるのではないか、逸脱していると思われるのではないか、ここの集団には合わない話ではないか、などの理由から出さない話があるのだとか。

そのように「棲み分け」をするというのも一つのやり方で、それぞれに「居場所感」を感じることができる人もいるようです(Twitterのアカウント使い分けの話も出ていました)。ただし、場所によって自分のキャラクターや性格なども変わってしまったり、「合わせている感」があると居場所感を感じられなかったり、という話も出ていました。

棲み分けも可能な一方で、違う場所で出していた自分を他の場所でも出したい、という欲求を覚えるという人もいました。しかし、そうなってくると、各集団ごとの相容れない部分が問題になってきます。ある集団では、自分たちと「違う」存在である人々を軽視する場合がどうしても生じてきます(例えば、京大のようなアカデミック(だと思われている)場が、別の集団からは軽視される、など)。

その他の例では、家族に対して自分が出せるか、というところでつまずいている人がいるようでした。子どもにとって親は世代の違いもあり、どうしても異質性を持ってしまうというところでしょうか。

また、初対面の人が多すぎるといちいち関係を作っていかなきゃいけないのがしんどいという話や、あまりにいつもと同じ人ばかりだと外の風が入ってこない、などの話も出ていました。

いずれにせよ、異質性や多様性がありすぎると「居場所」感を持ちにくくなる一方、寛容さがなさすぎるのも問題だ、というジレンマが起こっていると考えられます。

では、どういうところが違うと居場所感がなくなるのか、逆にどういうところが同じでさえあれば居場所感を担保できるのかという問いが立つのかな、という話が出ていました。

 

帰属意識とサードプレイス

集団ごとの「棲み分け」とは別の考え方として、自分がはっきりと帰属意識を持って居れる集団、自分のアイデンティティを担保してくれるような集団を求めているのだという話もありました。その場合、「サークル」や「コミュニティ」のような、たまに出入りしたり自由に抜けたりするような集団では限界があるのではないか、という話にもなってきます。

そこで、キーワードとして「ファーストプレイス/セカンドプレイス/サードプレイス」という言葉が出てきました。ざっくり言えば、ファーストプレイスとは家庭のこと、セカンドプレイスとは学校や職場のこと、サードプレイスとはそれ以外のサークルやコミュニティなどを指すのだと思います。

歳を重ねる中で、ファーストプレイスを充実させる(結婚して家族を作る)ことや、セカンドプレイスを充実させる(会社への帰属意識を持った「会社人」になる)ことが社会から要請されることがあります。しかしそのプレッシャーにもかかわらず、家族を作ったり会社に馴染んだりできない人はどうすればいいのか、歳を重ねていくうちに「無」になっていく、という話が出ていました。

そこで、ファーストプレイス人間(「マイホームを持つ」、みたいな感じでしょうか)やセカンドプレイス人間(「社会人」という感じでしょうか)に対して、サードプレイス人間は成り立つのか、という問いについても検討されていました。あるいは、サードプレイスがファーストプレイスのように強固な場になりうる(帰属意識を持てる場になる)ことはありうるのか、ということも話されていました。

 

「いる」ことの可能性

そもそも居場所に入ること自体が苦手だという話もありました。自己主張が苦手で、特に何かをするわけでもなくそこにいるだけの人は、そのコミュニティに苦手意識を持っているのではないか、と。

アサーション(自己主張)トレーニングができるような場を設けるという案も出ていました。ただ、そもそも何かをしていなければそこに居てはいけない、ものなのでしょうか。

僕自身も会を主催する側として、何もせずにいるだけの人を見ると、あまり楽しめていないのではないか、手持ち無沙汰にさせてしまっているのではないか、と不安になってしまうことがあります。

しかし、その観点からすると「いる」ことに価値を見出している人の話は面白かったです。例えば、自己主張が苦手な人だけの集まり、というのもありうるはずです。みんなが「いる」だけ、ということもありうるのではないかと。また、そこにいるだけで「思い出の共有」はできるし、何か他の人が話していることを「吸収(インプット)」することはできるし、「雰囲気を楽しむ」だけもできるかもしれないのだと。

そのあたりの話を聞いて、僕自身がまさに「いる」だけというのを苦手としているのだなということを感じました。例えば僕は「ライブ」が苦手です。何をしていればいいのか分からないし、「ノる」こともできないからです。どこに身を置いておけばいいのか分からないがゆえに「居心地の悪さ」を感じることになります。「雰囲気を楽しむ」方法を僕も身につけたいなと思いました。

 

アンケート

Q1:全体の満足度

Q3:司会役の進行は快適だったか

Q5:テーマが話したいこと/知りたいことに合っていたか

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ア:初めのレジュメ説明の内容は理解できた

イ:話しやすい雰囲気だった

ウ:話すことを強制されていると感じた

エ:何を話せばいいのか分からなくて戸惑った

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オ:他の人の言葉に傷ついたことがあった

カ:言いたくないことを話してしまったことがあった

キ:(カで「はい」を選んだ人のみ)話したことを後悔している

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会計報告

収入 金額 合計
参加費 △9000 9000
     
支出    
会場費 ▼0 9000
印刷費 ▼0 9000
雑費 ▼600 8400
     
事務手当 ▼2100 6300
司会手当 ▼2100 4200
     
残金   13950

 

事務(会の日程決め&ツイプラ作り、レポートを書く)や司会(当日の運営・司会)をやってくれる人を募集しています。

来月こそホワイトボード買うぞ。

 

 

ホリィ・セン