DULL-COLORED POP 福島三部作 の感想

 9800円も払って観たので感想ぐらい書いとかないとコスパ悪いなと思ったので書いとく。9月2日に大阪で観ました。当然ネタバレ満載です。

 

 

 

第一部『1961年:夜に昇る太陽』

 これが一番面白かった。田舎に原発を誘致する際の裏話みたいなのをこんなに面白く描けるのはスゴい。

 田舎から東大に行った長男が、家を継がないために「もう故郷には帰らない」と告げる話。おっかない爺さんの怒号が良い。「立身出生」「末は博士か大臣か」という言葉がまだリアリティを持っていた時代の話だった。

 最終的には双葉町が、福島が、東京という「中心」に搾取される「周縁」として描かれる。さながら植民地と宗主国のように、その決定には権力性がある。東京電力がカネにモノを言わせ、「原発双葉町や福島の未来がかかっている」という甘言に惑わされていいのか、みたいな話。「東北は地震が少ないから安全」って発言も面白いね。

 でも、原発を素晴らしいものとして語る言葉には説得力があるのがまた面白い。各所の関係者がひっそりと双葉町に入り、主人公の実家での密会で酒を飲み交わし、交渉がなされるわけだけど、なんともリアリティがある。スクリーンに映し出されるディティールも良い(当時の時代背景や、当時の関係者の証言など。関係者の証言はフィクションか?)。

 想い人?を田舎に置いて東京へと往く主人公は、まるで「木綿のハンカチーフ」みたいだ。やはり、みんなの期待を背負いながら東京に行くと。

 

第二部『1986年:メビウスの輪

 基本的には会話劇。それもディベートのような。原発反対派となった第一部の主人公の弟が、汚職で辞任した町長の代わりに、(原発の危険を分かっているがゆえの)原発推進派として町長選に出るという話。

 危険であるがゆえに稼動する際の安全対策をしっかりするのだ、というねじれた論理をこれでもかというぐらい見せてくれる。しまいにはチェルノブイリの事故に対して、危険性をレトリカルに隠蔽する「日本の原発は安全です」という言葉。

 飼われていた犬が「死者の声」や「人間だからこそ固有に存在する『責任』」を語るというのは面白い構造。別にハイデガーとか言わなくてもいいとは思ったけど。観客は2011年の原発事故を知っているわけなので、「責任」は過去への遡及的なものではなく、未来へと連綿と受け継がれる責任として意識させられる。

 あとやはり、第一部からの繋がりで言えば、双葉町の産業が原発に依存しきってしまっているという話は面白い。「原発の安全対策」はこれから更に産業を活性化させるためのネタだというロジックも喜劇的だ。

 最後に子どもが生まれる、というところで終わるのが素晴らしかった。原発のリスクの「計算不能性」が最後には取り沙汰されるんだけど(ベックの言う「新しいリスク」というやつだろう)、子どももまた「計算不能」な希望(あるいはリスク)だよなと。最近流行り(?)の反出生主義なんかのことを思いつつ。第一部の顛末が生んだ原発という子どももまた、事故が起こってからでは「生まれてくることを望まれなかった子ども」になってしまうのだろうか。

 

第三部『2011年:語られたがる言葉たち』

 はるかぜちゃんこと春名風花さんが出ていてびっくりした。役もアテ書きみたいな感じで、福島の「真実」を伝えることによって炎上する女子高生の役だった(ちょっと紋切り型すぎやしないかとも思った)。お得意の泣き芸も見れて得した気分だった。

 内容的には「マスメディアの報道倫理」みたいな話。近年の質的調査系の社会学者たちも「聞き取られなかったマイノリティの声」を聞こうとしているし、個人的にはあまり新鮮味のない題材だった。

 まあ放射能の濃度がどうとか、農業への風評被害とか、避難する人間たちの意識の差とか、そういうよく言われる話はきちんと拾われてるわけだけども。問題はそれらの紋切り型を超えて、「演劇」というメディアならば何を拾い上げられるのか、だと思う。この作品は脚本・演出の方が自分で取材して聞き取ったものだということが紹介には書かれているけども、そうだとしても「演劇」である必要があまりよく分からないなと思った。視聴率主義=資本主義の問題の批判とかしてもなあ。演劇だってメディアなんだし、じゃあ演劇だったら何が見えて、何が見えないのか、そういう反省性に開かれていることをもうちょっと期待した。

 第二部に引き続き「死者の声」も出てくるんだけど、むしろ「語られたがる言葉たち」は死者の声の方なんじゃないかと思った。震災によって死んでいった人たちが語れなかった言葉を辿っていく、そういう作業こそ演劇にできそうなものだが。