※この記事は、サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー14日目の記事です。13日目はjocojocochijocoさんの「」でした。
3年前に描いた記事で「中二病」を回顧(懐古)するぞ!と意気込んだのですが、全然書いてませんでした。せっかくのアドベントカレンダーの自分語りの機会なので、書こうと思います。③の「ボクっ娘萌えから男の娘、ショタを通り、関係性萌え(カプ厨)へ」ってやつです。
僕は三男です。長男のオタク趣味を間近で見て育ってきました。今日書きます「二次元趣味」の多くは兄に影響を受けたものです。記事中の画像は全部Google画像検索で拾ってきたやつです(ヤバいかも)。
妹
三男なうえで、妹がいない。妹という存在に対して憧れを感じた。中学校の頃、妹がいる男に嫉妬した。自然と身近に異性がいる環境が羨ましかったのだと思う。
妹というものを単なる属性として見たときに、僕はカードキャプターさくらの主人公さくらと、兄の桃矢との関係性が好きだった。桃矢は妹のさくらを常にからかい続けるが、根っこのところでは妹思いである。「うちの妹に何しやがる!」、すごく言ってみたいセリフだった。
「おにいちゃん」という呼び名は、血の繋がっていない関係性に対しても擬似的に用いられる。『マギ』で有名な作者の大高忍が描いていた『すもももももも』では「いろは」というキャラがその意味で萌えた。主人公の犬塚孝士のヘタレうじうじっぷりがたまらない作品だ。『マギ』のアリババのポジションのキャラを主人公がやっている感じである。『ダイの大冒険』で言えばポップである。
ボクっ娘
妹と言えば、12人の妹が攻略対象のギャルゲーの「シスタープリンセス」というものがあった。みんな魅力的な妹たちなのだが、僕は衛というキャラに惹かれた。衛は「ボクっ娘」という属性を持っている。スポーツ少女であり、冬の寒い中「あにぃ」と朝にランニングをするイベントが印象的だった。「見て見てあにぃ! 吐いた息が真っ白だよ!」 無邪気だ。
ところで、シスプリのゲーム版は12人の妹に対し、それぞれ「血縁END」「非血縁END」がある。ストーリー次第で血の繋がりがあったりなかったりするのは狂ってると思う。
『みなみけ』で有名な桜場コハルはかつて『今日の5の2』という作品を描いていた。たまにリアルタッチになるシュールなギャグが笑える作品なのだが、普通に萌える。とりわけ、平川ナツミというボクっ娘キャラがたまらなかった。単行本が2003年なのに2008年にアニメ化してテンションが上がった。平川ナツミを阿澄佳奈が演じていたのもマジで最強だった。
ところで、『みなみけ』のカナと藤岡の関係もすごく好きだな。桜場コハル先生は良い仕事をする。カナを井上麻里奈が演じていたのも完璧だった。
ボクっ娘と言えば、「うぐぅ」が口癖のたい焼き好きの少女、月宮あゆだが、萌え属性全部乗せだなあと思う。海外でたい焼きが流行るのも納得だ。Kanonを京アニが再アニメ化したときは狂喜乱舞した。
しかし、僕が今までの人生で最も萌えたキャラは『魔導物語』『ぷよぷよ』シリーズのアルル・ナジャである。そもそものキャラデザインが神がかっているし、シリーズによって冷たい大人な性格だったり無邪気だったりの(意図せざる)二面性が良い。後に僕は「関係性萌え」に至るわけだが、それについては後に述べる。
男の娘
ボクっ娘は沼だったのだが、そんななかで高校生のときに兄の部屋でふと読んでみた作品に心奪われた。やぶうち優の『少女少年』である。タイトルのとおり(?)、小学生の男の子が「男の娘」としてアイドルデビューする作品が描かれている。これが「小学五年生」とかに掲載されていたと思うと、性癖が歪むと思う。2012~16年に少女少年リバイバル的に連載されていた『ドーリィ♪カノン』も本当に神だった。
大学で漫画読みサークルに入ると「おちんちんが生えている」ということを非常に重視する先輩がいて、男の娘成分が割と補充されていた。『プラナスガール』はそこで出会った作品だった。扇情的な男の娘によって巻き込まれヤレヤレ系主人公が堕ちていく様は気持ちが良い。
当時、ついにはショタでもいいんじゃないかという気持ちも湧いてきていたが(『ムシブギョー』という作品の主人公をショタとして読んでいた)、結局おねショタが好きだっただけかもしれない。つくづく僕はヘテロセクシャルである。
関係性萌え(カプ厨)
2013年頃、リアルで恋愛し始めた影響もあったのか、関係性萌えというか、僕はすっかりヘテロ恋愛カプ(カップル)厨になっていた。印象に残っている作品はまず『ラブロマ』だろうか。すっかり人気作家であるとよ田みのるの出世作だが、男の子がいちいちまっすぐ正直に気持ちを伝える(近年の言葉で言えば「アスペルガー」的、と言える)というのが斬新な作品だ。
カプ厨という意味では高津カリノの『WORKING!!』も好きだった。作者のサイトで連載されていた『ブタイウラ』もそうなのだが、ある友人は高津カリノの作品を「みんなリア充になっていくからニヤニヤできる」と評していた。同感である。
ぷよぷよシリーズではシェゾ×アルルが捗りまくった。僕は一時期コミケに行くたびにシェアル同人誌を買い込んでいた。コミケのぷよぷよ島は小さいが、質が高いものも多い。シェゾの有名な「お前が欲しい」(「もとい、おまえの魔力が欲しいだけだ」)という迷ゼリフの考証(?)もずいぶんと進んでいる。
僕は不器用な恋愛や「照れて赤面する」というのが好きなのだと思う。その意味で、ジュブナイル的な幼い恋も大好きなので、小学生たちや中学生たちを描いた作品なども大好物である(だから、やぶうち優の作品も好きだったんだと思う)。とはいえ、恋愛を描いた作品は挙げだすとキリがない。
二次元恋愛を三次元恋愛へ投影
このように二次元に萌え萌えだった僕は、それを現実へと転写してしまったのだと思う。その大きなキッカケの一つは「セカイ系」やモノローグの多い「泣きゲー」というジャンルである。
架け橋となった作品を挙げていこう。無論、新海誠作品やイリヤの空、最終兵器彼女といったセカイ系の王道は原作はだいたい履修済みである。しかし、僕に圧倒的な影響を与えたのはおそらくkeyの作品である。
先ほどKanonの月宮あゆを挙げたが、key作品は傷や障害を持ったキャラクターを主人公が「フラットに受け入れる」という構図になっている。シナリオライターの麻枝准の自己投影(?)である主人公たちはクセの強いヒロインたちを「おちょくり」ながらも受け入れていく。ヤレヤレ系主人公とは別の意味でヒロインたちの可笑しさを楽しんでいると言えるだろう。
あるいは、傷や障害を持ったキャラクターだからこそ主人公(=プレイヤーのオタクくんの投影先)を受け入れてくれるのだという錯覚を生む。それでいてエロゲーというジャンルの構造上、選択肢を間違えるとBAD ENDによって主人公(=オタクくん)は「無力感」を覚えることになる。「ダメな俺」という自己陶酔的マゾヒズムを刺激するのだ。しかもkey作品は「ケータイ小説かよ」というぐらい人が死ぬ。選択肢を間違えると死んでしまい、「マモレナカッタ……」となってしまうわけだ。しかし、正しい選択肢を選ぶと「奇跡」が起こりTRUE ENDを迎える。この落差によって、「ダメな俺」が感情移入することもできるし、「ダメな俺」を救済してくれもするのである。
しかし、key作品に限らず、エロゲにどっぷり浸かったせいで三次元でも「変な人」を好きになりがちな人は僕以外にもいないのだろうか。情報求ム。
二次元に描かれた(奥深い)愛のかたち
ヒロインに対して「ダメな俺でも受け入れてくれる」という聖母性を見出してしまうことは一つの(政治的には正しくない)ゴールではある。僕がたびたび「メンヘラが好き」と公言してきた理由の一つはそこにある。
しかし、そこから更に先へと僕を進めてくれる、強度のある作品もいくつかあった。最後にそれらを紹介しよう。僕を二次元から脱却させ、三次元の対人関係を豊かにしてくれたのも、おそらくこの作品たちである。
まず、やはりkeyの主要メンバーが所属していたTacticsで作られた『ONE~輝く季節へ~』を挙げたい。この作品のメインヒロインである長森瑞佳の「聖母性」について(そして逆に浮き彫りになる主人公の自分勝手さについて)、かつてサークルクラッシュ同好会会誌第四号で述べたことがある。僕が別に所属している漫トロピーというサークルのブログでも同じ箇所を転載して記事を書いた。
しかし、敢えて言えば、瑞佳の本当の魅力はここから更に先にある。『ONE』という作品は、正しい選択肢を選ばないと主人公の浩平が世界からどんどん稀薄になっていき、「えいえんのせかい」に旅立ってしまうという設定になっている。それは過去に妹を失ったことによるトラウマ、また、その際に(おそらく浩平が妄想で生み出した少女である)「みずか」と交わした盟約が理由、という設定になっている。
「みずか」はそもそも長森瑞佳をモデルとして作られた。純粋な「聖母」のようでいて、実はその二面性が示唆されていると言えるだろう。「みずか」の冷たい視線は僕(=プレイヤー)を射抜いてくる。
そして、瑞佳ルートには一つの謎がある。浩平と瑞佳が待ち合わせをした際に、瑞佳がいつまで経っても来ず、降ってきた雨のせいで浩平は風邪を引いてしまうというエピソードがある。
設定に沿って単純に考えればこれは、「えいえんのせかい」の作用によって瑞佳が浩平のことを(一時的に)忘れてしまったと解釈できる。しかし、トゥルールートに入っている場合にはヒロインだけは浩平のことを忘れないはずなのである。実際、他のヒロインたちも(正しい選択肢を選んでいれば)浩平を忘れることはない(なかったはず)。なぜ瑞佳だけが浩平のことを忘れてしまったのか?
この問いに答えがあるわけではない。しかし、一つ言えることは、このエピソードこそがエロゲヒロインの聖母性に対して、異化効果をもたらしているということだ。このエピソードをどう解釈するかについては様々に考察できるが、少なくともこのエピソードこそが瑞佳ルートに深みを持たせ、瑞佳というヒロインにどこか冷たさと同時にミステリアスな魅力をもたらしている。
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同じエロゲでも「ヤンデレ」という属性を有名にしたNavelの『SHUFFLE!』という作品がある。SHUFFLE!のアニメの「空鍋」のエピソードは視聴者に衝撃を与えた。
楓は幼い頃に事故で両親を亡くしているという設定である。実際には、両親が旅行に行った際に楓が両親を呼び戻したせいで自動車が事故に遭い両親が亡くなったのだが、楓がその罪悪感に押し潰されないよう、幼馴染である稟は「自分が両親を呼び戻したせいで両親は死んだ」という嘘をつく。それ以来、稟は楓に恨まれ、嫌がらせをされながら生活をすることになる。
それでも稟は罪を被り続ける。楓が生きる気力を失わないように、恨まれることも厭わない。そうして、結果的に楓は(本当は自分が両親の死の原因になったという)真実に気づくことになる。楓は今まで稟にしてきた攻撃のことを反省し、逆に稟に対して「尽くす」ようになる。言わば、負債を返す形で稟に尽くしているのである。この設定を「ヤンデレ」と解釈するのは個人的には間違っていないと思う。アニメスタッフはよくやってくれた。
それはともかく、僕が感動したのは、稟の「ヒロイックな自己犠牲」である。現実にはなかなかあり得ないような設定ではあるし、自分が恨まれるように仕向けることが本当に楓の癒しになるのかは疑問符がつくが、このような(恨まれることを選ぶという)形の愛がありうるのか、と目からウロコが落ちた。
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ギャルゲ原作ではあるが全く違う内容のオリジナルアニメに『true tears』という作品がある。昼ドラ的手法をアニメの世界に持ち込んだ岡田磨里の出世作の一つでもある。
『true tears』には三人のヒロインが出てくるが、乃絵というヒロインがこれまた変なヒロインである。ニワトリを餌付けしていたかと思えば、主人公:眞一郎をニワトリと同一視してニワトリの餌を与え始める。
眞一郎はヤレヤレ系主人公とは違う。乃絵の奇妙な行動に驚きつつも、乃絵に対して(乃絵の独特な言語に寄り添う形で)真剣に向き合っていく。そして、こっそり趣味として描いている絵本を乃絵だけに見せるなかで、二人の関係を築いていく。
ニワトリになぞらえられた眞一郎であるが、乃絵は「飛べる/飛べない」という比喩で眞一郎に示唆を与える存在になる。「眞一郎、あなたは飛べるの」と。
さすがに長くなってきたのでもう詳しくは書かないが、自分の恋心を諦めて、相手を「飛べる」ようにする、そういう愛もあるんだなあと思う。何度も観たい作品である。
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この記事を書く前に僕は『NHKにようこそ!』のアニメを何年ぶりかに観た。心が震えた。ここまで実存に刺さってくるアニメが今の時代にありうるだろうか? いや、俺TUEEや異世界転生モノが人気を博してしまっているこの時代には、こんな作品が出てくることはありえないだろう。
ネットの一部界隈では『NHKにようこそ!』のヒロイン:中原岬が「ダメな俺を救ってくれる天使・聖母」のように扱われているようだが、それは一面的すぎるのではないかと思う。
あるいは、「中原岬になりたい系女子」は、「ナジャになりたい系女子」、つまり純朴な男の前に現れるミステリアスで魅惑的な女になりたい人とどう違うんだよ、という話である(何の話だ)。
中原岬は、ひきこもりの佐藤くんを「ダメ人間」、それも「自分よりもダメな人間」だと見下すことによってある種の安心感を得ながらコミュニケーションを展開する。岬に振り回されることで結果的に気持ちが楽になっていく佐藤くんの視点において、岬ちゃんはある種の「天使」なのかもしれない(実際、岬ちゃんは佐藤くんがどれだけヤバくても佐藤くんを受け入れるのだから)。
しかし、それはイコール、岬ちゃんが天使であるということではない。岬ちゃん自身、周囲との噛み合わなさを抱えた結果、その生きづらさを佐藤くんに投影している。つまり、佐藤くんを救うことによって自分を救おうとしている。これは典型的なメサイアコンプレックスの構造である。
あるいは、自分が「天使」の役割を引き受けることに陶酔している、とさえ言えるかもしれない。これが男女逆なら暴力性は明らかなのだが、女性から男性への矢印であることによって、岬ちゃんの側の暴力性はあまり見えにくくなっているようにも思う。
佐藤くんと岬ちゃんの関係性がどんどんギクシャクしていくことからも分かるように、佐藤くんも徐々に岬ちゃん自身の問題を理解していくのである。岬ちゃんだって葛藤を抱えた人間であるのだと。「救い-救われる」関係はそう簡単には成立しない。
その諦観をお互いに受け入れたうえで、それでもなお、「きっと大丈夫だよ」とゆるやかに関係を続けていく。そして、生き延びていく。これが『NHKにようこそ!』が導き出した答えなんじゃないかと僕は思う。
僕が『NHKにようこそ!』の原作を読んだのは中学生のときだが、大学生になり、サークルクラッシュ同好会を始めてからようやく、三次元で「NHKにようこそ!」的世界を目の当たりにした。『NHKにようこそ!』は紛うことなき“リアル”だった。それは佐藤-岬の関係に限らず、先輩や山崎、自己啓発セミナーや自殺オフ会の描写においてもそうである。
佐藤-岬的関係の一例を挙げるならば、Skype掲示板である。Skype掲示板では、親代わりが欲しい中高生の女子と、青春を取り戻したい20代半ば以降の男性が奇妙にもマッチングしている。中高生の女子は天使の役割を引き受けながら男性の青春を「取り戻させてあげる」のだ。一方、20代半ば以降の男性は年上として中高生の女子に対して「大人の余裕」を見せる(本当に余裕なのだろうか?)。
やがて彼ら彼女らはその関係の「異常さ」に気づくかもしれない。中高生から見ると「大人と付き合っている」というのはカッコよく見える側面もあるのかもしれないが、20代以上から見れば中高生と付き合っているというのは普通に「ヤバい奴」である。
この関係を、グロテスクで幼稚な関係だと笑い飛ばせるだろうか? 否、これは僕に言わせれば「社会問題」である。もちろん、18歳未満との性行為は犯罪なのだが、お互いがお互いの(自分と相手の)抱えている「後ろめたいニーズ」について理解してしまいながらも、それでもなんとなく共生していく。そういう愛もあるんじゃないだろうか
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次は15日目、saraさんの「世界一 可愛い子に 生まれたかった」です。