差別性を指摘するだけで終わらないことの意義、あるいは「第三者」になることの意義(「トーンポリシング」批判)

 (言及元は

【大炎上】note社が運営するcakesでホームレス差別をする投稿が受賞し内容の非道さから大炎上 - Togetter を参照)

 

 

 (言及元は

人生無理バー運営、発達障害男性(複数)が問題を起こしたため、「全ての発達障害男性」を出禁にしてしまう - Togetter を参照)

 

 

 

 

 といったツイートをした。しかし、この話には一つ問題点がある。それは、どこまでが「直接の被害者」であり、どこからが直接の被害者ではないのかという線引きが難しいという問題だ。それどころか、あらゆる者が被害者なのではないかとすら言える。

 実際、何気なく行われる差別的表現は、その差別が「当たり前」のものであるという規範を作り上げてしまう。その規範は原理的にはあらゆる人間に対して被害をもたらしうるのである。ゆえに、差別的表現についてはあらゆる者が「被害者」であると言えなくはない。

 よって、あらゆる人間がある種の当事者性を以って、差別的表現には疑義を呈するべきだ、といったこの考え方は一度は通るべきだとは思う。


 しかし、それでもなお僕が「直接被害を受けていない者」「第三者」と呼んでいるのは誰なのか? ということを以下で説明しよう。


 「トーンポリシング」という、告発における「言い方」の問題を云々することで、告発における感情をなかったことにしたり、告発の内容を無効化したりしてしまう問題を指した言葉がある。この言葉について考えるために、まず、告発における「言い方」を気にするという課題()と、告発における感情や内容を十全に表現するという課題()という2つの課題があるとしよう。

 このが同時に達成するだけの余裕がない人において、の課題が優先させられてしまうせいで、が遂行できなくなってしまうことがありうる。この限りにおいて、このトーンポリシングという言葉は正当だと思う。

 しかし、を余裕をもって同時に達成できるうえに、同時達成することによって社会の改善に寄与できる立場にある人間もいる。そういう立場にある人間がをサボるのはよろしくないんじゃないか、ということが僕の主張だ。

 をサボるせいで、結果的に加害行為の問題点を加害者自身に気づかせたり、差別的な規範を改善したりするためのチャンスを失ってしまいかねない。

 より具体的に言おう。加害者から謝罪の言質を引き出せたとして、加害者は「イヤイヤ、渋々」謝っているだけかもしれない。人間は非難を受けるとむしろ防衛的になってしまって、自分の考え方を柔軟に変化させることを拒んでしまう傾向にあるからだ。

 また、差別的な規範を改善するためには、マスメディアやネットメディアの環境下において、適切に情報が流通しなくてはならない。今までに行われてきた議論の蓄積を集めたり、問題を理解するために新しい視点を提供したり、問題点をまとめたりする必要があるだろう。ここでもまた、強い言葉による差別者への非難は、差別者の防衛的態度を招く可能性が高いように思われる。

 以上のような場合には、加害者に対する言葉遣いや、差別的規範を改善するための表現を「トーンポリシング」してもいいんじゃないかと思う。改めて繰り返せば、上記のの課題を余裕をもって同時達成できる人間はの課題をサボらずに遂行すべきだということだ。

 

※ただし、Twitterのような「アテンション(注意)の自由市場」において、注意を引きがちなのは差別的規範をストレートに改善するものよりも、「パワーワード」であるように思う。ここには、人間が「言い方」を工夫するだけではどうにもならない、Twitterの「アーキテクチャ」的な側面もありそうだ

 

 ツイートの中で僕は便宜上、加害者と優しく対話を試みたり、意識的に「第三者」の立場に立ったりしうるのは、「直接被害を受けていない人」であるという線引きをした。これはすなわち、直接被害を受けて「傷ついた」人に対して、加害者と対話したり「言い方」について努力したりするよう求めるのは酷であるし、求めるべきではないということを意味していた。

 しかし、むしろ本質的には、上記のの課題を同時達成できるような人、一般的に言えば、「加害者を傷つけないように加害者とやり取りしたり、世間から拒絶されたり情報流通を混乱させたりしないように差別的表現を批判したりを、できるだけの余裕がある人」こそが、加害者と優しく対話を試みたり、第三者の立場に立ったりできるのではないか、ということが言いたかった。

 

 この余裕の有無はどのように線引きできるのか? という問題は新たに生じるが、ここでは論じない。

 粗い表現でざっくり言ってしまえば、自分の行為の結果を冷静に比較考量できる人間は、「加害者叩き」に走って加害者の「更正」の道を絶つのではなく、加害者をも包摂しうるようなシステムを目指すべきだ、と僕は主張する。

 一方、「差別的な規範を改善するためにどう発信すべきか」に関しては、僕もはっきりとした答えがない。情報の正確性や整理された議論みたいなものを目指すのは一つだろうが、情報流通においては「分かりやすさ」や「キャッチーさ」も時には求められるかもしれない。しかし、「分かりやすさ」のせいでむしろ差別的規範が温存されてしまっては元も子もない。