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「センスのある奴」を殺したい

要約:漫トロピーってサークルで漫画を勧め合っているんだけど、「センス」が問われる。自分の「好き」な作品がみんなが「良い」と思う作品と一致しない。
自分の好きな作品はオタクでもサブカルでもない中途半端なものだ。
一般化して言うと、センスと近い問題に「教養」や「常識」といった問題がある。「教養」はだいたい知識なので、後からでもなんとかなる。「常識」は知識と感覚の間の「身体知」みたいなところあるけど、いちおう常識が大事な理由が明確なのでまだ身に付けやすい。でも「センス」を身に付けるのはめっちゃ難しい。だって「Aは良くてBは悪い」っていう美的な判断をする必然性がないんだもの。「たまたまそうなっている」だけなんだもの。
だから「センス」は社会的構築物。そしてセンスがない人を不当に差別するのはクソ。社会的構築物とは言え、ルールはルールだから、それを変えるためにはひとまず従っていかなきゃならんので、誰か僕がセンスを得るために助けてください。

 

京大漫トロピーと「ランキング」

 僕は大学にもう6年間もいるのですが、京大漫トロピーという「漫画を読むサークル」に所属しています。いわゆる「漫研」と違うのは、描くのではなく読むのが専門だというところです。読むのに特化しているだけあって「評論」要素が強く、毎年漫画を評論する会誌を発行しています。
 その会誌の中で、毎年「漫画ランキング」を作っています。その年に「動きがあった」漫画のランキング1位から30位までを作り、全員分集計して総合ランキングを作ります。まあ「動きがあった」と言ってもその年に始まった漫画を入れるパターンが一番多いように思います。
 その「ランキング」を作ることに顕著なのですが、漫トロピーの活動はある種の「啓蒙」にあります。「ワンピース」や「進撃の巨人」のような誰もが知っている漫画ではなく、「あまり世間には知られていないけども実は素晴らしい漫画や漫画家」を発掘する、そんなコンセプトが含まれています。
 誤解を恐れずに大胆に言い換えると、それは「漫画通だけが知っているセンスの良い漫画」をオススメするということでもあります。漫トロピーの中では実際、ランキングに限らず漫画を読む「センス」を競い合うような文化があります。例えばある作品を評論するときにしばしば「読めてる/読めてない」という話をすることがあります。皮相な読み方をしている人に「ちゃんと読めてる???」と煽ることもあります。

 

良い漫画/悪い漫画?

 同様に、ランキングを作るということは何かしら「良い漫画」と「悪い漫画」とを決めるということでもあると思います。なぜなら、はっきりと複数人のランキングを総合することによって順位が決まってしまうわけですから。一人のランキングを見れば「好き/嫌い」で順位が決まっていることもよくありますが、総合してみると単なる好き嫌いを超えた「良い/悪い」になっているようにも感じます。

 僕は漫トロピーで計6回ランキングを作る中で、この「好き/嫌い」と「良い/悪い」との葛藤を常にしてきました。つまり、単純に自分の好きな漫画を30作品並べるだけだったらそれは独り善がりで、そこに公共性がないということです。単に自分が好きな漫画だけではなくて、「他人に勧める価値のある」漫画もあるなと僕は感じています。だからランキングを作る際には、必ずしも上位に1年間で好きだった漫画を入れるわけではありません。「好き」と「良い」(勧める価値がある)とが両立した漫画を入れることもあります(もちろん「好き」だけで入れる漫画もいっぱいありますが)。

 この「好き/嫌い」と「良い/悪い」の二本の軸が混ざり合い、結果的に1位から30位という一本の軸ランキングを作るということがまさに「センスの競い合い」になってしまうのだと僕は感じています(もちろん、これは僕のランキングの作り方であって、他の漫トロ会員がどう考えているかは知りませんが、共感してくれる人もいるかと思います)

 

 「良い/悪い」という表現をしてしまうと、あたかも客観的な「センスが良い/悪い」というものがあるかのようですが、実際には社会的な合意によって(ランキングの場合は多数決で)「センス」なるものが作り出されているに過ぎません。漫トロピーにはランキング作成の前に自分の推したい漫画をうまく他人のランキングに紛れ込ませる、「政治」をする人もいます(ひどい場合はもはや「ゴリ推し」とも言えるでしょう)。これも一つの合意形成のやり方でしょう。

 

 しかし、ランキング作成の過程が客観的なものでないとしたら、「好き」と「良い」との境界線はどこにあるのでしょうか? 実は同じなんじゃないでしょうか。声のデカい人が「好き」なものが「良い」になるような権力が働いているのではないでしょうか。
僕はこの事態を自覚する前から、こんなことを言っていました↓

 

 2012年なので漫トロピー3年目のツイートですね。「政治」によって自分の私的な「好き/嫌い」を公的な「センスが良い/悪い」にしようとしている過程が伺えます。これは漫トロピーの一部にそういう「政治」的な文化があったということなんじゃないかなと思います(あるいは勝手に僕がうがった読み取り方をしているだけかもしれませんが)

 

「好き」と「良い」は一致するか~ホリィ・センの場合

 しかし、実際のところどうでしょうか。僕が「好き」だけじゃなくて「良い」(勧めたい)にも配慮した漫画ですが、例えば、2010年に1位にした『バニラスパイダー』(阿部洋一)や、2013年に4位にした『MAMA』(売野機子)、2015年に2位にした『つまさきおとしと私』(ツナミノユウ)ですが全体では30位前後や50位前後にしかきませんでした。

 一方、2012年に2位にした『人間仮免中』(卯月妙子)、9位にした『変身のニュース』(宮崎夏次系)は全体でも1位2位でした。

 また、2013年に7位にした『宇宙怪人みずきちゃん』(たばよう)や2014年に3位にした『レストー夫人』(三島芳治)、6位にした『満月エンドロール』(野村宗弘)は全体では10位前後でそこそこの順位でした。

 上記の漫画は全部「好き」だけじゃなく「良い」とも思った漫画なのですが、その「良い」が全体と合致しないことも多かったのです。もちろん、そもそも読んでない人が多い漫画はランキング上位にはきませんし、どの漫画が人気か空気を読んでみれば、「これはそんなに上位にはこないだろう」とか「これは上位にくるだろう」という予測は"ある程度は"つきます。しかし、僕にはやはり完全には分かりません。

 

「好き」と「良い」が一致する人々

 そして、そもそもそのような「好き」と「良い」とを区別するような配慮をする以前から、「好き」と「良い」が一致している人もいるように感じます。「好き」を強引に「良い」に変えるような「政治」をしている人もいるとは言いましたが、「政治」をしなくても最初から「好き」と「良い」が合致しているような人もいるのです(例えば、そういう人が上位に挙げた漫画は、全体ランキングでも上位にきたり、漫トロピー外の世間でもその漫画がちゃんと評価されたりする)

 例えば僕は漫画の神様と言われる手塚治虫の漫画が苦手で、とても読めたものではないと思っているのですが(そもそもそんなに読んでないけど)、そういう人は手塚治虫の漫画など、世間で高い評価を受けている漫画を好んで読むことができます(そもそも僕は古い漫画が苦手なんです。萩尾望都とか川原泉とか藤子不二雄とか頑張って読んでみても、ただただしんどいだけです)

 あるいは「サブカル」と言われる漫画を例に挙げてもいいかもしれません。近年流行りのサブカル系漫画家、めっちゃテキトーに挙げると例えば高野文子今日マチ子、西村ツチカ、市川春子田中相ふみふみこ九井諒子、宮崎夏次系、模造クリスタル、panpanyaとかでしょうか。挙げた中には僕が好きな漫画家もいますが、僕からすると全然理解できない漫画を描く人もいます。

 もっとマイルドに流行ってるのだと浅野いにおとかになるでしょうし、もっとディープに流行ってるのだとガロ、アックス系になるのでしょうか。
 いろいろ例を挙げましたが、そういう漫画の「良さ」を理解できるかどうかは世間的にはいわゆる「センス」だという話になります。しかし、「センス」ってなんなんでしょうか?

 

オタクとサブカル

 「センス」ってなんなんだ? という問題提起をしておいて、話はちょっと変わりますが、もはや死語となってしまった「萌え」という言葉があります。しかし、今の漫画・アニメ・ゲーム等のオタク界隈を見渡してみて、世間で「萌える」作品は何かということを考えると、僕の偏見では、ラブライブアイマスガルパン、そしていわゆる「日常系」(きらら系とも言える)なんじゃないかなぁと思います(女性向けだとヘタリアとかタイバニとかFreeとか、より分かりやすい流行がある気がする。今は「おそ松くん」が圧倒的に流行っているようですがそれはさておき)
 で、これらは「流行ってる」わけです。かなりの多数派が好んでいて、お金を落としているわけです。でも実は僕はこれも理解できないんです。ラブライブアイマスガルパン、「日常系」、どれもハマれませんでした。たぶん男性キャラが出てこなくて女性キャラしか出てこない系が無理なんだと思います。
 ところで、先ほど挙げた「サブカル」という言葉は「オタク」との対義語であることもあります。つまり、オタクが志向する「萌え」は即物的で低俗な感じがする一方で、サブカルは何か意味ありげで高尚な感じがします(あくまで感じです)。この対比から、サブカルの人は「センスの良さ」によって俗物的なオタクから差異化することで自意識を保っていると言えるかもしれません。
 しかし、数や売り上げだけで見るとたぶんオタク側の方が優勢です。数が多い方がセンスが良い、というわけでもないのです。

 

理解できないことの劣等感

 「オタク」と「サブカル」とを対比的に語りました。が、しかし僕はどっちもあまり理解できないのです。好きになるとしたら、流行ってなどいない中途半端なものばかりなのです(むしろkeyのエロゲだったりセカイ系作品だったりが好きなので、ゼロ年代的な時代遅れの感覚なのだと思います。ちなみにロボットアニメとかSFとかも弱いです)


 僕はこのような「理解できなさ」に劣等感があります。人とコミュニケーションが取りたいのに、「流行っている」ものが好きになれません。それは、「流行っているから好きになれない」というあまのじゃくではなくて、ただただ本当に「良さが分からない」のです。これが「センスがない」ということなのでしょうか?

ここまで長々と、漫トロピーや漫画内部の話、そして少しだけ一般化してオタクやサブカルの話をしてきました。しかし、それらも相当狭い界隈の話だということは皆さんもお分かりだと思います。この話を一般化します。

 

 

教養コンプレックス

 「センス」の問題について述べる前に近い話として「教養」についての問題について述べます。

 例えば、僕は教養がないのを恥じています。京都大学に入学してからというもの、上記のオタク的な教養だけでなく、文学、学問(特に人文社会科学)、音楽、文化(特に演劇とか)に対する教養がなさすぎて恥じています。しかも昔から読書の習慣がなかったために、そういった教養を今から得るのにも苦労しています。周囲の京大生は大学入学以前からそういった教養に得ている人間が多いのです。

 例えば、僕は新鮮な驚きを得ています。漠然と理学部で入学し数学をやろうとしていたものの、授業を受けてみると精神分析や心理学、哲学やジェンダー論、社会学などに惹かれ、転学部しました。周りの京大生は授業が面白くないと言いますが、僕にとっては大学の授業は新鮮な驚きに溢れた楽しいものです。

 これらは別の言い方をすれば「文化資本」の差と言えるでしょう。育ちの良さとかいうやつです。僕はよく僕以外の家族全員が高卒であることを「自慢げに卑下」しますが、生育環境においてさまざまな文化に触れられなかったことを半分恨んでいます。ただ、残りの半分では生育環境に感謝しています。人間はおそらく、親から押し付けられた文化や、「そこにあるのが当たり前」の文化を深く追究しようとすることが少ないからです。僕は人文社会科学に大学生になってから触れたからこそ、新鮮な驚きを以って好きになり、それを研究しようという強い力があるのだと思います(だから今は社会学を専攻しています)。

 このように、僕の中では「教養」はある程度決着のついた問題です。もちろん教養コンプレックスは常に持ち続けるでしょうが、それがあったからこそ今、社会学を専攻して研究することができているのだと思います。だからこれは良かったのだ、と思っています。

 「教養」は大部分は「知識」の問題です。しかし、ここまで述べてきた「センス」は「感覚」の問題のようにも思えます。「センス」について考える前に、おそらくその中間ぐらいにある「常識」(英語ではコモンセンス)について考えてみます。

 

常識という身体知

 常識が問題になるときを回想してみると、例えば、僕は父親にさんざ「そんなん常識やろ」と、無知やマナーのなってなさをなじられてきました。父親からすれば当たり前に理解できることが僕にはどういうわけか理解できなかったわけです。

 例えば、ある人に店員に対する態度がそっけないことと、水を他人の分まで入れないことを咎められたことがありました。僕は店員は他人なのだから愛想を良くする必要はなかったし、水を入れるペースは個人の自由なのだから本人に任せるのが普通だと思っていましたが、いずれもできれば印象が良くなってコミュニケーションが円滑になることを考えると、やった方がいいことだと思い改めるようになりました。

 この他にも、挨拶ができることなどはいわゆる「常識」に含まれるでしょう。
しかし、その「常識」はどうすれば知ることができるのでしょうか。挨拶はある程度学校が教えてくれるでしょうが、水を他人の分まで入れるなんてことは学校が教えてくれるわけではありません。僕は「コミュニケーションや恋愛を学校は教えてくれない」ということを以前に書きましたが、だからこそ差がつきやすいのだと思います。やはりこれもまた生育環境の問題になります。「マナーをちゃんと教える家庭の子どもはマナーがいい」、そういうレベルの話だということはまず言えます。

 ただ、これだけだと「教養」と同じです。「常識」においてはもう一つポイントがあります。それは「知っている」ことと「できる」ことの間に大きな壁があることがある、ということです。例えば、僕が小中学生のときに、狭い机と椅子の間を同級生の女子が通ったとき「ごめんなさい」と言っていました。それはもはや無意識に言っているように感じました。「身体化」された知識だということです。それに対して僕なんかは、挨拶を自然にできないことがあります。「今は挨拶をする場面だ」という意識を持って初めて挨拶をする、なんてことが珍しくありません。前者の女子が自動的に挨拶をしているのに対して、僕は意識しないとできないことがある、というわけです。

 この女子と僕との間の差異はなぜ生じたのでしょうか? 確かに、一つには家庭環境もあるかもしれません。しかし、僕の実感では「ありがとう」や「ごめんなさい」を言うことの必要性は親から何度も教わってきました。ここに大きな差はないように思います。
おそらく僕が思うに生得的な差、つまり才能の差もあるんじゃないかということです。挨拶をすべき場面になったら自動的に挨拶ができるような身体知を得るのが上手い人と、それが下手な人。その差なのかなと。

 しかし、このような「常識」もまた、一度知ってしまえばなんとか訓練して身に付けることはできる範囲のものだと思います。実際僕はこの約3年間、主にサークルクラッシュ同好会の活動を通じてコミュニケーションに関する研究や訓練を重ねてきました。そのため、それなりに上手くコミュニケーションができるようになったという自負はあります。

 さて、問題なのは「センス」です。

 

必然性のないセンス

 オタクについて語っているところで、「良さが分からない」という話をしました。これがまず問題になります。一般化すれば、美的センスの問題です。例えば絵を見たり音楽を聴いたりしても、「なんとなく好き」ぐらいはあります。しかし、その法則性が僕にはよく分かりません。しかも、世間には「上手い絵」と「下手な絵」や、「良い音楽」と「悪い音楽」があるというのですから困りました。そりゃあ、子どもが描いた絵と絵の上手い大人が描いた絵だったら明らかに大人が描いた絵の方が綺麗だなというのはなんとなく分かります。しかし、一定以上上手い人同士の絵の違いなんて僕には分かりません。音楽なども同様です。

 その他、僕は人間と直接関わるものやコミュニケーション以外には興味がなかなか持てないという話をしたことがあります↓

holysen.hatenablog.com


 ツイッターのプロフィールに書いていますが、具体的には自然物や生物や人工物(自然、風景、動物、建築、絵など)、旅行、食べ物、酒、タバコ、コーヒー、ペット、ミステリ小説、小説等における風景描写などに興味をなかなか持てません。というのもやはり「良さが分からない」からです。食べ物なんかでも好き嫌いはあるにはあるし、どういう系統が好きでどういう系統が嫌いかも分かるんですが、細かい違いが分かりません。一定以上おいしいと思ったらほぼ同じになってしまいます。

 あといくつか例を挙げます。例えば顔の良し悪しが僕にはあまり分かりません。極端な話、茶髪の女子大生を見るとみんな顔が同じに見えます。例えば「好みのタイプの顔」も明確にはありません。髪が短い人も髪が長い人も好きです。同性でカッコイイと思う人もバラバラですし、芸能人で顔が良いとされている人の顔を見ても、何が良いのかピンときません。僕が「ブス」という言葉が使えない理由はこれもあります(もちろん差別的だからというのが大前提ですが)。

 ここまでの例だと「言葉以外の感覚」が僕には分からないようにも思われますが、実は「文章の上手い下手」も僕にはあまりよく分かりません。分かりにくい文章と分かりやすい文章との違いはある程度分かると思いますが、文学的・詩的センスみたいなものがよくわからんのです。文学作品を好む人の間で「好きな/嫌いな文体」が話題になることがありますが、そもそも僕には違いが分からないことも多いですし、分かったとしても好きとか嫌いとかがよく分からないのです。

 

 このようなセンスがないことによって、劣等感をおぼえることがあるのは一つ問題ですが、何より実際に困ることが多いというのが一番の問題です。

 具体的には衣食住の問題で困ります。衣食住は人間が文化的な生活を送る上で基本的なものです。そのため、まず第一に重要になるのは機能性でしょう。衣においては体温調節や身体の防御の機能、食においては栄養摂取の機能、住においては温度調節、利便性等々。これに関してはよく分かりますし何の問題もありません。問題なのはそこに「美」が介在してくることです。
例えば、服装によってモテたりモテなかったり、キモがられたりするわけです。料理や食べ物によって強くコミュニケーションが促進されたり感覚が共有できたりして、人と人との距離が近づく大きなキッカケになるわけです。住んでいる場所の美しさもまた、服装と同様に人間自身の評価と直結するわけです。

 僕はこの約3年間でコミュニケーションは身に付いた気がしますが、この衣食住の美的判断はからっきしダメです。確かに、サークラお姉さんサークルクラッシュ同好会のご意見番の一人。現在はOG)の助けを借りて服を買ってみたり、実家を出て自炊することでオムライスが作れるようになったり、洗い物や洗濯やゴミ出しみたいな家事が普通にできるようになったといった成長はあります(以前の僕からしたら"圧倒的成長"だと思う)。これからも徐々に身に付いていくところはあるでしょう。しかし、そもそも根本的にセンスが絶望的なのです。服の似合う似合わないとか合わせ方とかがやっぱり分かりません。少ないご飯をでかすぎるお茶碗に盛ったり、朝のシリアルをみそ汁を飲む和食器に入れたりしたら呆れられました。何も僕は奇をてらってこういうことをしているんじゃないんです。本当に良いことと悪いことの区別がつかないんです。ちなみに僕は「ダサい」という言葉をなかなか使わないのですが、その理由は自分の美的判断に自信がないからです。

 

①なぜこのようなセンスが僕にはないのでしょうか?

②このようなセンスはこれから身に付けることができるのでしょうか?

③そしてこのようなセンスのない人はどのように生きていけばよいのでしょうか?

 この三つの問いに以下で答えます。

 

ホリィ・センの服装について(①の解答)

 まず、なぜ僕にセンスがないのかという問題ですが、これもやはり「常識」のときと同じ解答になるでしょう。生育環境と才能です。まず生育環境から語りましょう。恥ずかしながらずっと母親に服を買ってもらって、家事も全部やってもらっていた身としては、そのようなセンスを身に付ける機会がありませんでした。最近になってそういう機会がようやくやってきた、ということです。
 もちろん、買おうと思えば服は買えただろうし、料理もやろうと思えば実家でもやれるという反論はできます。しかし、必要性がない以上やらないですし、服に関しては自意識の問題も介在してきます。幸い「男は仕事、女は家事」のような古いジェンダー規範を内面化しているわけではないのでその影響はないのですが、「オシャレをしようとする自分」にたまらなく耐えられなかったのです。例えば何か服を自分の好みで買ってみて着てみたとして、それを他人に笑われるのを想像すると死にたくなります。要するに自分のセンスに自信がないんです。失敗して笑われるのが怖いんです。
 そうして僕は服装について頑張らない自分を合理化しました。僕は高校生のとき、学校では一年中半袖カッターシャツ、一年中タンクトップ半ズボンというのを通していました。今にして思うとこれは「服装」問題からの逃避だったのです。そういうキャラを作ることによって服装について考えなくて済んでいた、それがとても楽だったのです。言い換えれば「オシャレ」がすっぱいブドウになっていたのです。

 

 そして、才能についてです。最近になってようやく服を買える環境が整い、自意識の問題もだいぶ解決しました。でもやっぱり先ほど述べたようにセンスがありません。これはもちろん、経験が足りないということもあるでしょう。しかし、よくよく考えてみると様々な人が服を着て街中を歩いているわけです。センスのある人が人々を意識的に観察すれば、服装における良い悪いはそのうち分かってくるように思います。ファッション雑誌に載っているスタイルの良い悪いもおそらく分かるはずです。

 そこには才能の問題も絡んでいると僕は思います(センスがない自分を正当化するためにそう思いたいだけかもしれません)。では、生得的な才能のない人はセンスを身に付けることができないのでしょうか? 二つ目の問いです。

 

経験を積むことの可能性(②の解答)

 身に付けることができない、とまでは思いません。「常識」について述べたところで、意識的に訓練することで挨拶もできるようになるという話をしました。これはセンスについても当てはまると思います。しかし問題なのは先ほども述べたように「必然性」がないことです。なぜAはセンスが良くて、Bはセンスが悪いのか、それが分からないのです。「常識」の場合は論理的に理解できることばかりなのでまだしもなんとかなります。しかし、センスの方は論理的に理解することが困難なのです。

 こう言うと、発達障害の問題にも関わってくるように思います。ある発達障害においては、挨拶を身に付けることが難しい人もいるようです。だから「常識」の面で苦労するわけです。また、顔の区別をつけたり、色の区別をつけたりするのが苦手な人もいるようです。そういう人が美的センスを身に付けることはかなり難しいでしょう。

 とはいえ、僕はおそらく発達障害ではありません(少なくとも重度なものではないでしょう)ので、可能性に恵まれているように思います。思い返してみれば、僕は演劇をやったり、その枠組みでアニメを観たりしている中で「演技」の良し悪しは分かるようになった気がします。声の強弱高低緩急や動きのキレ、共演相手の掛け合いが噛み合っているかなど、判断するための軸がちゃんとあります。これは僕が長い間「演技」に触れてきた賜物でしょう。

 だから、身に付くスピードは遅いかもしれませんが、相応の経験を積むことによって身に付きうるのだと思います。そこでポイントとなるのはちゃんと必然性を理解するということです。センスの良い人は「なんとなく」で分かるらしいのですが、僕にはそれが無理です。だから、ちゃんと理由を確かめるようにしています。よくよく突き詰めてみると、「必然性があってそうなっている」ものは世界にはたくさんあります。もちろん理由がなく「たまたまそうなっている」ものもたくさんあると思います。そのときは「そういうものなんだ」と受け入れるしかないので、パターンを覚えることが必要になってくるでしょう。

 

美という社会的構築物

 そもそもなぜ、理由なく「たまたまそうなっている」ものがあるのでしょうか? ここで理解の助けになるのが「本質主義構築主義」という考え方だと思います。例えば顔の良し悪しを語るときに、目の大きさや鼻の高さ、輪郭や肌の色など、様々な観点があります。しかし、目が大きい方がいいのか小さい方がいいのか、鼻は高いほうがいいのか低い方がいいのか、輪郭はゴツゴツした方がいいのか細い方がいいのか、肌は黒い方がいいのか白い方がいいのかなどは国や文化によって異なります。

 つまり、本質的に「美しい」とされているものがあるわけではなくて、ただただ「こういう顔が美しいですよ」という社会的な合意が存在するだけです。それが文化として沈殿し、いつしか「当たり前」になったわけです。だから、同じ国や地域であっても時代が変われば美しい顔が変化することもあります(よく言うのは平安時代に美しいとされた女性の顔は、いわゆる「おかめ」のような顔だという話。現代とは著しく異なる)

 つまりこれらはたまたま社会的に構築されたものなのです。もちろん、本質的な美も少しは存在するのでしょうが(例えば、「黄金比」や「機能美」、進化心理学的な話によって説明されるもの)、大きなウェイトを占めているのは社会的構築物だと思います。

 

センスのない人への差別と責任(③の解答)

 ここまで語った上で三つ目の問いに移りましょう。センスのない人はどのように生きていけばいいのかという話です。まず僕が声を大にして言いたいことは、センスがないことによる不当な差別をすることはいけない、ということです。不当な差別とはなんでしょうか。抽象的に言えば、僕は「責任のない人間に責任を押しつけること」がその代表例だと思っています。例えば、発達障害によって生じる問題については本人に責任がある範囲は少ないでしょう。発達障害に限らず、「できない人間」に対して「それは甘えだ」というような自己責任論、シバキ主義を僕は嫌っています。

 社会学の世界においても、「障害」という日本語は英語ではimpairmentとdisabilityに分かれるという議論があります。障害は障害者に内在的な障害(impairment)であるというよりも、外部の社会の側が何かをできなく(disableに)しているというものです。バリアフリー化がわかりやすい例ですが、社会の工夫次第で、障害は障害ではなくなるわけです。この考え方においては責任は本人にあるのではなく、社会にあるわけです。

 もっと具体的な話をしましょう。人間には得意不得意があります。勉強が得意な人もいれば、絵を描くのが得意な人、スポーツが得意な人、またこれまで述べてきたような「常識」がスムーズに身に付けられる人や、衣食住における美的センスのある人もいます。

 これらはたまたま得意なだけです。しかし、その「得意なもの」のそれぞれは、社会生活と深く関係しているものもあれば、ほとんど関係していないものもあります。思うに「リア充」が「オタク」を差別するようなよくある構造は、別の言い方をすれば「たまたま得意なものが社会適合的だった人」が「たまたま得意なものが社会適合的ではなかった人」を差別しているということだと思います。人間のリソースは限られていますから、何を得意になるかは選ぶしかないように思います。

 しかも子どものうちはしばしば「自分で選べる」のではなく、たまたま親や環境によって決められてしまうものです。そこには、人生を左右する大事な決定が、責任能力のない子どもの内に行われてしまうという問題があるのです。それによってたまたま社会不適合になってしまった人を差別する(責任を押しつける)ことはおかしいと思います。なぜなら、その選択には責任がないからです。

 

できることとできないこと、環境決定論

 ここまで他人に対する差別の問題について語りましたが、「自分がどのように生きていくか」はまた別の次元の問題です。「できないことをできるようになるために自分をシバいて成長できるよう頑張る」のか、「無理にできないことをやろうとはせずに、得意なことだけをやって生きていく」のかは微妙な問題だと思います。
 例えば、恋愛をしない人がいたとして、その人は恋愛をそもそもする気がないのか、それとも「したいのにもかかわらずできない」のかどっちなのかによって大きく問題は変わってくるように思います。そもそもする気がないんであれば、する必要はないと僕は思います。確かに全員が恋愛をせず、結婚をせず、子どもを生まないということになれば人類は滅亡するので問題はあるかもしれませんが、少ない個人の選択としては自由が認められるべきでしょう。

 「したいのにもかかわらずできない」人については「できるようになる」方が本人の幸福にとってはおそらく良い場合が多いでしょう。だから「成長できるように頑張る」という選択肢が良いとは思うのですが、ここで勘違いしない方がいいと思うのは「頑張る」の意味です。恋愛するために何かしら決心をしたところで、本当にその決心の通りに動けるのでしょうか? 恋愛を勉強に置き換えてみたら分かりやすいかもしれません。「勉強したいけどできない」という人が勉強しようという強い意志だけで勉強できるでしょうか? 僕はなかなかできないと思います。これは僕の人間観なのですが、人間はそんなに強いものではありません。自分の好きなこと以外をやるのは苦痛なんです。そこで重要になるのは「意志」ではなく「環境」です。具体的には、物理的な環境だけでなく、周囲の人間関係も含めた環境を構築することが大事だと僕は考えます。このような「環境決定論」的な考え方についてはまた別の記事で述べたいと思います。

 

社会を変えるための社会への順応

 社会構築主義について述べると、「社会に責任があって、自分には責任がない。だから自分は頑張らなくていいんだ」と述べていると勘違いされるのではないかと恐れます。そういうわけではありません。僕らは社会というゲームに既に投げ込まれてしまっています。だからひとまずはそのルールに従うしかありません。しかし、そのルールは変わりうるし、変えられうるということが社会構築主義から得られる学びです。

 漫トロピーの2011年ランキングで『バード ~最凶雀士VS天才魔術師~』という漫画が全体ランキング1位になりましたが、これは漫トロピー内でもかなり多くの人が予想していなかった展開でした。「センスのある人」が常に勝利するわけではありません。なぜなら、その「センス」は社会的に構築されたものなのですから、今センスのある人が、10年後にはセンスのない人になりうるわけです。

 だから、僕は自分や自分が好きな人が生きやすくなるように社会を変えたい。変えられると信じています。しかし、社会を変えるためには多くの人から認められなければなりません。ということはやはり既存のルールにおける「センス」が重要になってくるわけです。「センスのない人でも生きられるような社会を作るために、センスを身に付けなければならない」というのは逆説的ですが、どうしようもない事実だと思います。だから僕はセンスを身に付けたいです。

 しかし、先ほども述べたようにこれは僕自身の意志だけではどうにもなりません。環境の力を借ります。周りの人間の力を借ります。他力本願です。どうか僕を服屋に連れていってください。何が良くて何が悪いのかを教えてください。僕がセンスを得るための行動できるように、興味を喚起してください。お願いします。

 

*追記

 「差別」って言葉を使ったらこわい人から「どういう意味でその言葉を使っているんだ」みたいなツッコみを受けました。正直、後になって見返すと「差別」って言葉はあんまり適切じゃない気がしてきました。「差別」は「同等の扱いをすべきなのにもかかわらず、異なる扱いをすること」だと定義できると思うんですが、僕の主張は「能力の異なる人間に同等の水準を求めるのは酷だから、能力に応じた異なる扱いをすべきだ」ということなんで、むしろ「区別しろ」って言ってます。だから「差別」って言葉にはあまりそぐわないですね。センスのない人への「攻撃」とか「バッシング」とかに読み替えていただいた方が多分分かりやすいです。

 まあ、言いたかったことは「人が社会に適合できるかどうかは基本的に本人の選択の問題ではないので、社会に適合できないことの責任は薄い。だからそれに対するバッシングはみんなやめようね」ということです。