シェアハウスに「非日常」はいらない?――ポスト・テラスハウス時代のシェアハウス

「オープンシェアハウス サクラ荘」を運営していますホリィ・センです。

この記事はブログリレー「 #新型コロナ時代のシェアハウス」の8日目の記事です。

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 プロレスラーの木村花さんが亡くなったことを受け、木村さんが出演していたリアリティ番組の「テラスハウス」の現シリーズが打ち切られることが決まった。

 木村さんが亡くなった背景には木村さんに対するSNS上での誹謗中傷が原因にあるとされている。しかし、テラスハウス上での木村さんの描かれ方には過剰な演出(要するにヤラセ)があったという指摘も当然あり、世間では「SNS上での誹謗中傷」の問題や、「リアリティショー出演者の安全」の問題などとして今後人々には記憶されていくことだろう。

 

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 ただ、この記事で問題としたいのはそれらではなく、「『シェアハウス』なるもののイメージダウン」の問題である。人々がシェアハウスを選択肢として選ぶかどうかは、このシェアハウスなるもののイメージが、大きく関わってくるだろう。

 言い換えれば、メディアにおいて「シェアハウス」がどのように表象されているかは、人々が実際にシェアハウスに住む、という選択に対して影響を与えることになる。実際、シェアハウスを運営するある知人は「『テラスハウス』を見てシェアハウスに憧れた」と言っていたほどである。シェアハウスについてなんら具体的なイメージを持っていない人が「テラスハウス」を通じてシェアハウスのイメージを形成するということは大いにありうることだろう。

 「テラスハウス」の打ち切りに至る一連の流れを通じて、もし「シェアハウス」がイメージダウンの危機に晒されているとするならば、「シェアハウス」側としてはどのようなイメージ戦略を展開すればよいのだろうか。

 

シェアハウスに「非日常」や「出会い」が求められる理由

 結論から言えば、シェアハウスは「非日常」や「出会い」をコンセプトにするのではなく、もっと「当たり前の日常生活」をコンセプトにすべきだと僕は思う。現状、「シェアハウス」は良くも悪くもコンセプチュアルなものが目立ちすぎている。

 その結果生じてくる問題については後に述べるとして、まず、シェアハウスはなぜ「非日常」や「出会い」をコンセプトにしてしまうのかを考えよう。思いつく理由は三つある。

 

 一つ目は先ほど述べたメディアでどのように表象されるかの問題である。「テラスハウス」もそうなのだが、シェアハウスは現実の少なさとは裏腹に、ドラマではしばしば見かける題材である。ある種の「憧れの生活」としてシェアハウスは描かれやすいがゆえに、それが現実にも影響を与えて「非日常」的なコンセプトが打ち出されるのだろう。

 

 二つ目に、シェアハウスの社会的機能の問題がある。僕の主観では、シェアハウスというのはモラトリアム期の若者が経験として住む「留学」のようなものとして扱われている側面があるように思う。あるいはあまりお金のない20代ぐらいの人が、それなりの水準の暮らしを実現する/お金をあまり使わずに暮らすためのものとしてシェアハウスは扱われる。

 つまり、お金ができたらシェアハウスからは出ていくし、あくまでも一時的な住まいとしてのシェアハウス、ということなのだろう。そうなると、人生の中で「シェアハウスに住む」経験を位置づけるならば、その経験には「成長」や「出会い」の機能がある、と捉えたくなってしまうのではないだろうか。

 いや、たしかにシェアハウスは「家族のオルタナティブ」として、すなわち「結婚ではないもう一つの選択肢」としてイメージされている側面もあるだろう。しかし、やはりあくまでも「オルタナティブ」であって、二級品として扱われているのが現状だろう。シェアハウスには「家族」のような、幸福な人生を約束してくれる強固な物語はない(もちろん、実際には家族を作ったからといって幸福な人生を送れるとは限らないのだが、「結婚して家族を作ることによって幸せになる」という「物語」は未だに多くの人に信じられているものであろう)。

 

 そして、シェアハウスが「非日常」や「出会い」をコンセプトにしてしまう三つ目の理由は、ミもフタもないことなのだが、そうでないと人が集まらないからだろう。上で述べた二つの理由とも関わっているが、シェアハウス生活に対して人々が持っているイメージは意外にも貧困なのではないか。「出会い」があり、修学旅行のごとく夜がな夜っぴて語り合う、などといったイメージ通りのことも場合によってはないわけではないのだが、実際にはもっともっと特筆すべきところのない“低温な”日常生活が待っている(と少なくとも僕は感じる)。そんな当たり前の日常生活にも大事なところもある、というのが今回言いたいことなのだが、なかなか言語化するのが難しい。

 

 考えてみれば、これは異性愛規範にどっぷり浸かりながら生活している人にとって、同居しているゲイカップルの生活があまり想像しにくい傾向があるのに似ているかもしれない。

 メディアで描かれる「恋愛」には非日常的なイメージばかりが先行しているとはいえ、異性愛カップルが送る日常生活はまだしも想像できる。それに対し、ゲイカップルの日常生活について想像すると、性的なことばかりがイメージされる、というのがよくある偏見ではないだろうか。

 そんなイメージの貧困さを払拭する意図もあってのことだろう、『ゲイカップルのワークライフバランス――男性同性愛者のパートナー関係・親密性・生活』という社会学の研究書がある。シェアハウスについてもこういう研究は必要だろう。

 

ゲイカップルのワークライフバランス―同性愛者のパートナー関係・親密性・生活
 

 

 ということで、世間の人々にとっては、当たり前の日常生活を肯定的にイメージすることが難しいからこそ、入居者を集めたいシェアハウスの事業者や運営者は、やや過剰に非日常的なものをコンセプトにしてしまう側面があるのではないだろうか(とはいえ僕はイメージで語っているので、シェアハウスの「広報戦略」については、実証的な調査をする必要があるだろう)。

 

 

「持続するシェアハウス」を作ろう

 そして、シェアハウスが「非日常」や「出会い」をコンセプトとしてしまうことの問題はなんなのか。それは、持続しないということである。実際、周囲の多くのシェアハウスは5年も生き残っていないように思う。

 たしかに、平田朋義さん(10年以上シェアハウスに住んでいるベテラン!)が言うように、「シェアハウスが崩壊する数よりも多くシェアハウスを作っていく」というメソッドでいけば理論上シェアハウスは増え続けるだろう。それは一理ある。ただ、それでは世間の(なにより大家さんの)シェアハウスに対するイメージは悪くなる一方なのではないか、という懸念がある。

 シェアハウスが崩壊する理由は住民が出ていくからなのだが、そもそも僕の経験からすると、今のところ一つのシェアハウスに長く住み続ける人は珍しいように思う。トラブルが起きることですぐに出ていってしまう人もいるのだが、明示的なトラブルがなかったとしても1年や2年で出ていくという人も多い(そこには恋人との関係や仕事などの、ライフコース上の理由が関係している)。

 

 そうなってくると、住民入れ替えや引越しは日常茶飯事である(そして新入居者がうまく確保できないと、崩壊してしまう)。住民自身がシェアハウスを運営している自主運営型のシェアハウスの場合、住民入れ替えのたびに大家さんに報告する必要が出てくるだろう。

 その際に、もしその都度めんどうな契約変更などをすることになってしまうと、コストが高いのが問題である(お金的な意味でも、「再契約」などということになれば礼金や不動産への手数料を払うことになってしまう)。住民と大家さんとの間の取引コストを下げるためには、大家さんのシェアハウス住民に対する「信頼」が必要になってくるだろう。となるとやはり、今後の日本社会において、大家さんの「シェアハウス」に対する信頼を勝ち取るためにも、世間のシェアハウスイメージの向上は重要な課題なのだと思う。

 

 そして何より、今後シェアハウスに住む人の立場に立ってみれば、1年や2年でシェアハウスを出ていく人だけでなく、もっと長い期間シェアハウスに住みたいという人は増えていくだろう(「結婚して家族を作る」という物語がどんどん機能不全になっている昨今においては、増えていけばよいと僕は思う)。長く住みたい人のニーズに応えるためには、短命で終わるシェアハウスをホッピングしていくという方針だけでは心もとない。もっと長命のシェアハウスもあってよいだろう。家の寿命は人の寿命よりも長いのだ。

 

都市的・躁鬱的コミュニケーションは疲れる

 「非日常」や「出会い」をコンセプトとしたシェアハウスは、シェアハウスに長く住みたいという人にとっては不向きである。疲れるからだ。二つに分けて説明しよう。

 

 第一に、コミュニケーションに疲れる。僕が前に住んでいたシェアハウスでは、1ヶ月半に1回ほどパーティを開き、頻繁に人が出入りする状態だったが、ずっとコミュニケーションをし続けるのは正直言って無理である。疲れるとスッと自分の部屋に帰るし、人がいてもなにかとTwitterを見ていた。そういえば、フロントラインというシェアハウスをやっている今井ホツマくんは、このようにリビングでコミュニケーションし続けると疲れきってしまう現象を「リビング病」と呼んでいた。

 

 このコミュニケーションへの疲れは、どこか都市的な人間関係を思わせる。都市の人ごみ、匿名的な雑踏の中で、人々は浮遊している。そして、人口が多い分多様な人間たちの中から、「この人」という人に狙いを定めて、一気に距離を詰める。

 都市ではそんな極限まで「遠い」ところから、極限まで「近い」ところまで一気にジャンプするようなコミュニケーションが横行しているように思う。それは、比喩的に言えば躁鬱的なコミュニケーションと言えるかもしれない。なんら無関係で文脈を共有していない状態の人に対して、一気に近づこうとするコミュニケーション。言わばナンパのようなものだ。そして、強いエネルギーを割いてコミュニケーションを取っていると、そのうち疲れ切ってしまう。たまに「人間関係リセット癖」があるという人に出会うが、それはおそらくそのようなコミュニケーションを取る人なのだろう。これでは関係は持続しない。

 

 

 シェアハウスにおいても同様だろう。シェアハウス(やゲストハウス)が東京にばかり存在しており、「都市」の論理で動いているのは、シェアハウスがあくまでも一時的な住居でしかないということを象徴しているように思う。

 

シェアハウスの中の大人の論理と子どもの論理

 第二に、人目を気にすることに疲れる。朝井リョウという作家の『何者』という小説は、「何者かになりたいが何者にもなれない」若者たちの自意識を描いた作品だが、描かれる舞台は実はシェアハウスである。就職活動を共にする仲間がシェアハウスをしているという設定なのだが、一緒に住みながらお互いの目を気にしているという、印象深い描写がある。

 

宅飲みなのに、きれいな食器しか出てこない。どうして割り箸や紙皿が出てこないのか。あのふたりはきっと、お互いに格好つけたまま一緒に暮らしてしまっている。男の方は部屋着のくせにチノパンにきれいなシャツ。格好悪いところをお互いに見せることができていない。一緒に暮らすって、そういうことじゃないと思う

 

 『何者』の終盤では、結局のところダサくてもカッコ悪くてもやっていくしかない、という方向性が提示される。それは、夢を追う東京の若者たちの気持ちをまさに代弁した内容なのだと思う。だが、僕としてはその「ダサい」「カッコ悪い」人間に対して「夢」へと駆り立てるのではなく、シェアハウスの中では肩肘張らずに「ダサい」ままで、「カッコ悪い」ままでいいんだということを肯定したいと思う。

 

何者(新潮文庫)

何者(新潮文庫)

 

朝井リョウ「何者」 2つのセリフが伝える若者の在るべき姿 | DO THE LION も参考にしました)

 

 広告に出てくるシェアハウスはしばしば「オシャレ」で洗練されている。SNS映えするような、見られていることを意識した空間。まさにここまで述べてきた「非日常」な演出だ。しかし、僕は「日常性」を、ハレとケで言うところのケを肯定したい。公の論理が私の論理を覆ってしまえば、心は休まらないだろう。僕はもっと「ズボラ」でいいと思う。家の中なのだから、誰にも見られていないところでほどほどに気が抜けないと困る。

 だからといって、全く人目を気にしなくていいかと言われたら、これもまた違うだろう。シェアハウスの中にもマナーはある。親しき仲にも礼儀あり。たとえば家事掃除。「大人同士」が住むものであるということは前提なのである。

 

 言うならば僕が思う(一つの)理想のシェアハウスは、半分は「大人」の論理で、残り半分は「子ども」の論理で回っているのだと思う。一緒に住んでいる人のため、みんなのために「大人」としてやるべきことはやる。相互扶助の精神だ。その場合おそらく、相手が何をしていようと、何を考えていようとあまり口出ししない、「信頼」してやっていくことが大事なのではないかと思う。

 しかし、すべての面で「大人」になってしまうと疲れるしどこかよそよそしい。だから残り半分、「子ども」になって外の目を気にせずに自分をオープンにする。その場合おそらく、自己開示をしながら自分の気持ちを語り、相手の気持ちも聞くことで、「安心」が得られることが大事なのではないかと思う。

 とはいえ、基本的にシェアハウスのメンバーは親や恋人やカウンセラーなどではない。(役割が明確には定まっていない)一人の人間である。だから、すべての面で「子ども」として依存してしまうのもまた破綻を招くだろう。生まれた家族との関係がうまくいかなかったからこそ、メンタルサポートの機能を期待してシェアハウスにやってくる人もいるように思う。それ自体は理解できることなのだが、半面にある「大人」としての関係がうまくいかないことで、その期待は裏切られる傾向にあるように思う(個人的には非常に歯がゆい思いである)。

 

新型コロナ時代のシェアハウスとは

 以上の話を踏まえたうえで最後に、「コロナ時代のシェアハウス」のあり方について考えを述べてこの記事を終わりにしよう。

 僕はコロナウィルスによって、まず不安を喚起された。統計データを見た今となってはそこまで不安ではないのだが、当初は不安もあった。また、コロナウィルスへの「(補償の不十分な)自粛要請」に対して苛立ちも覚えた。少なくとも精神に悪影響だったわけである。

 そんななかで、住民とはほんの少しではあるが、コロナウィルスの話をした。ふとした日常の他愛もない話である。しかし、どういうわけか気持ちが和らいでいくのを感じた。これはどういうことだろうか。

 

 思うにシェアハウスの良いところは、物理的に近い、ということである。共在co-existenceしているということである。それが、コミュニケーションのコストを劇的に下げるのである。

 「オンライン飲み会」や「ZOOM飲み会」などといったものが世間では語られるが、いったいどれほどの人がそれに参加できているのだろうか。普段からオンライン上で仲良く喋れる人がいる、恵まれた人ならば良いだろう。しかし、そうでない人は、あの匿名的な、都市的なコミュニケーションに、自分を奮い立たせて飛び込んでいくことになる。それはやっぱり疲れるのだ。自分がどう見られているかを気にしなければならないことも含めて。

 そして、飛び込んだら飛び込んだで、距離が近づきすぎてしまう危険性もある。SNSの発達によって、見なくていい側面まで見てしまい、見せなくていい側面まで見せてしまうという事態は起こりやすくなったように思う。このことは冒頭で述べたテラスハウスの悲劇と繋がっている。

 それに対して(日常生活を重視する)シェアハウスならば、半分は「大人」の論理で回っているがゆえに低温なままで、半分は「子ども」の論理で回っているがゆえに適切に甘えられる、というわけだ。

 新型コロナ時代の、そしてポスト・テラスハウス時代のシェアハウスにおいて、非日常=ハレではなく、当たり前の日常生活=ケを肯定する論理を紡いでいかなければならない理由はここにある。